2008/10/09
皆さん、こんにちは。

「正平協・大阪大会」報告の第六回です。
今回は谷司教の非常に興味ある発言を検討します。
ただ残念なことに肝心な場所で聞き取れない部分があり、谷司教にお願いしている校正の、ご返信があることを願っています。

[谷司教発言(2)]
そしてその生きていく上には、私たちの基本的な人権、というか権利、人として生きていく尊厳ですね、そういったものを神様から私たちに与えられているものだ。国家から与えられているものではなくて、人間、存在しているそのことによって、当然私たちに神様から与えられたものです。その神様が与えられたものを、個人や団体、国家が奪うことは出来ない。
もしそれを奪おうとする時、奪おうとする者がいれば、私たちはそれを、神様から頂いたものだから、許すことはできない。
人権や命、平和、人間らしく生きていくこと、このことはもしそれが侵害されるような事態があれば、私たちはそれを守るために戦っていかなければならない。
教会の本来の使命として、そういうその人権、命、平和、この為に戦っていくという本来の使命がある。(******)
だから、神のものは神に、神様から与えられたものは誰も奪うことができないという信念のもとに、イエス様が(******)られた(******)だと思います。
そういう主旨を、本来の意味を、もうちょっと振り返って、人間の命や人権を守るために、例え教会が政治の問題であろうと拘わっていかなければならないということですね。
政教分離というのは、政治と宗教、宗教者を分けるということではなくて、特定の宗教団体と国家の係わりを限定しているものであるということを、認識として取り組んでいかなければならないと思っています。

ここでのポイントは、
「人権や命、平和、人間らしく生きていくこと、このことはもしそれが侵害されるような事態があれば、私たちはそれを守るために戦っていかなければならない」
というところですね。非常に勇ましいご発言でした。

「人権や命、平和、人間らしく生きていくこと」の侵害は、最たるものに他国よりの侵害があるでしょう。
今も世界の各地で起こっていることです。それに対して、「戦っていく」とおっしゃるのです。
「戦っていく」ということの具体的な形は分かりませんが、少なくとも、「人権や命、平和、人間らしく生きていくこと」の為の戦いである訳です。素手で戦えますかね? 言葉を、具体的なイメージのもとで使っておられるのでしょうか。

この点は、松浦悟郎補佐司教と際立った違いがあります。
松浦司教は、9月13日の個人的な討論で、
「イエス様は、無抵抗にすべてを受け入れ、十字架にかかられた」
と話されました。私の、「それは、もし他国から攻められたら、日本国民に、無抵抗に、死を、もしくは隷従を受け入れよ、ということですか?」との問いに、
「そうです。それがなければ何のための信仰ですか。」
とはっきりと答えられました。私に若干の感動があったことを、隠さず申し上げます。松浦司教は、例え殺されても、奴隷にされても、無抵抗に受け容れよ、とおっしゃるのです。
谷司教は、そうでなく、生命・人権を守る為には、戦え、とおっしゃる。憲法9条を絶対平和主義とすれば(私はそう思いませんが)松浦司教が正しいでしょう。

松浦司教は、9月13日におっしゃったことを、本質的なことですから、もっと前面に出して語ればいいと思います。
ものごとは、宗教家であるならば特に、突き詰めて、論理的に考え、語らなければなりません。
そして「憲法」でいうならば、
[第三章 国民の権利及び義務]
第10条〜40条は、廃止されなければならないでしょうね。何故ならばこれらはすべて、保持するには時に武力行使を必然とするものです。死や隷従、奴隷になることを受け容れる国家に、「憲法第三章」の保証はできません。

最近出た曽野綾子さんと結城了悟神父の対談、『愛のために死ねますか』を、昨日読了しました。

この中に、曽野さんの興味ある発言があります。

「日本人の完全非武装の平和論が、もし徹底的に戦わないと言うのなら、私はもちろんそれに同調します。でも、それには、上陸されて、あらゆる暴虐が行われ、圧倒的に支配がなされてもいいという覚悟が必要です。」(p.103)
「武器を持つことを止める時、死ぬ覚悟が要ります。平和のために抵抗しない、これを死ぬ覚悟で唱えることは、大賛成です。」(p.108)

さあ、司教様方はどの程度の覚悟でおっしゃっているのでしょうか。
非武装・無抵抗、絶対平和を第一義とするには、それゆえに「憲法改正」が必要である、というような思考に繋がるでしょうか?

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