2008/10/07 (10/09 より分かりやすく書き換え) (10/09 Atsuko Lenarz さんのコメント)
皆さん、こんにちは。

「正平協・大阪大会」報告の第五回です。
谷大二さいたま教区司教の「憲法20条」に関する講演について、ご発言に従って、私が異論を持つ箇所、また私自身が明確な異論を展開できなくても疑問に思う箇所を、順を追って記します。今日はその第1回です。

予めお含み頂きたいのは、司教ご発言は私が文字起ししたのですが、聞き取りにくい部分、全く聞き取れない部分がありました。又、聞き取れたもので誤読があるかも知れません。
昨日、谷司教様宛に、ご発言校正のお願いを、資料を添えてお送りしました。言葉は、一言で全体の意味が逆転します。折角のことですから正確な言葉を元に検討したいものです。司教様のご返事をお待ちしています。
というようなことで、これからの私の文章は、変更があり得ます。その際は変更の原因となる元発言の訂正に併せて、お分かり頂けるように更新致します。

[谷司教発言(1)]
政教分離というのは政治と宗教を分けなければいけない、いうような誤解を持っている現実が非常に多い。例えば聖書にそう書いてあるって言われたことがあるんですね。カエサルっていうかね、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に、ってことが書いてある。皇帝、政治のことは政治に任せなさい、神様のことは教会に任せなさい、まあそういう感じで捉えている人たちが多い訳ですね。
ところが政教分離というのは近世になって生まれてきた考え方であって、もともとキリスト教の考え方には無かったですね。
現にあのヴァチカン市国っていう小さな国がありますよね。そこなんかでは完全に政教一致、パパ様が、教皇がすべて裁治権を持っている。まあヨーロッパ中心に、特にアメリカで出来上がって来たものである政教分離という考え方を、憲法の条文にも明確に書いてあるように、国家が特定の宗教と宗教と結びついてはいけないと。特定の宗教団体と結びついてはいけないという考え方なんですね。

「政教分離」というのは、政治が宗教に関与してはならぬということで、宗教の政治関与を否定したものではない、否、宗教はむしろ積極的に政治へ関与していかなければならない、というのが、谷司教のみならず「正平協」の立場ですね。

私には先ずこの理屈が、さっぱり分からないのです。
二者の関係において、片方が関与して片方は関与していない、それはどんな状況ですかね?
宗教者が政治について如何なる言動をしても、政治は知らんぷりしていよ、ということですか? つまり、政治は自分たちを無視しろと?
相手が反応すれば、政治の宗教への関与だと騒ぐんでしょう?
だったら「宗教家」が政治に関わっていく意味が無いんじゃないですか? 「政治家」の反応を予め封じているのですから。

言っていることは、自分たちは好きに騒ぐけれど、相手はそれに応じるな、自分たちを無視せよ、ということです。
そして正に、その通りの活動をしているのです。言い放しの自己満足です。

(マタイ 22-21)
彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

この箇所について谷司教は、“政治と宗教を分けなければいけない”の意味であると誤解してはいけない、宗教が政治に関わることを禁じたものではない、政教分離というのは、「近世になって生まれてきた考え方であって、もともとキリスト教の考え方には無かった」、というのです。その証拠に『ヴァチカン市国』は、完全な政教一致ではないかと。

ヴァチカン市国を一般の生活国家と並べるのは随分飛躍があると思います。
故・濱尾枢機卿はヴァチカン市国のパスポートと、日本国のパスポート、両方をお持ちでした。いわば二重国籍でした。教皇の統治下のみに属していませんでした。教皇そのものがドイツ国籍をお持ちです。ヴァチカン市国の成り立ちを少しでも調べれば、この市国が通常の「国家」とは別物であることが分かります。全く違うものを例えとして出すのは、誤魔化しか、単に無知です。

「政教分離というのは、もともとキリスト教の考え方には無かった」というのも、だからどうなのかと考えてみると、不思議な言葉です。
谷司教の発言に従えば、例に引かれたヴァチカン市国は現に完全な“政教一致”なのですから、今もなお政教分離の考えは、キリスト教には無いのです。
そうすると谷司教たちの「憲法20条」、政教分離を守れとの運動は、キリスト教の教えに関係ないことになります。
教理に関係ないことを宗教家が政治家に向かって語っても、政治家は反論できないことになります。そのような「特権」は誰が与えたのでしょうか。ことあるごとに「福音に従って」とおっしゃるけれど、教えにない福音というのも面妖です。

政教分離は、政治が宗教に関わってはならぬので、宗教は政治に関わる権利がある、等という訳の分からぬことを論理づけようとするから、自家撞着に陥るのです。


[マタイ 22-21]を引用したカトリックの文献でもっとも権威あるものに、現教皇ベネディクトXVI世の回勅『神は愛』があります。
私が谷司教に聖書の文言を語るなどとんでもない僭越ですから、教皇様に語って頂きます。

【教皇ベネディクトXVI世回勅】
『神は愛』

28-a (p.53-56)
社会と国家を公正なしかたで秩序づけることは、政治がなすべき中心的な務めです。かつてアウグスチヌスが述べたとおり、正義に従って統治されない国家は大盗賊団にすぎません(*)。キリスト教にとって根本的なのは、皇帝に属するものと神に属するものの区別です(マタイ22・21参照)。すなわち、教会と国家の区別、あるいは、第二バチカン公会議が述べたように、地上の諸現実の自律です(**)。国家は宗教を強制してはなりません。また、国家は信教の自由と、さまざまな宗教の信者の平和的共存を保障しなければなりません。キリスト教信仰の社会的な表現である教会は、自主権を有するとともに、自らの信仰に基づいて共同体を形成します。国家はこの共同体を認めなければなりません。教会と国家は区別されますが、にもかかわらず、両者はつねに相互に関係しています。

正義はすべての政治の目的であると同時に、その本質的な基準でもあります。政治は、公共の規則を制定するための技術にすぎないものではありません。政治の起源と目的は正義にあります。それゆえ政治は倫理的な性格をもっています。国家は、どうすれば正義を今ここで実現することができるかという問いに直面しなければなりません。しかし、この問いはさらに根源的な問いを前提します。すなわち、正義とは何かという問いです。これは実践理性の問題です。しかし、理性を正しく働かせるために、わたしたちはたえず理性を浄めなければなりません。理性は、権力と特定の利益の誘惑によって、倫理的な盲目に陥る危険につねにさらされているからです。

ここで政治と信仰が出会います。信仰が、その本性上、生きた神との出会いであることは間違いありません。この出会いは、理性の領域を超えた新しい地平を開きます。信仰はまた、理性そのものを浄める力でもあります。信仰は、神の視点から考えることにより、理性をその盲点から解放し、そこから理性がいっそう完全なものとなるのを助けます。信仰によって、理性はいっそう効果的なしかたで働き、また、その対象をいっそうはっきりと見ることができるようになります。これがカトリック教会の社会教説の目指すところです。カトリック教会の社会教説は、教会の権力を国家に及ぼすことを決して意図していません。ましてそれは、同じ信仰を持たない人に、信仰に基づく考え方や生き方を強制しようとするものでもありません。カトリック教会の社会教説は、ただ、理性を浄めるための助けとなり、今ここで正義を認め、実現するための役に立つことを望むにすぎません。

教会の社会教説の議論は、理性と自然法に基づいて、つまり、すべての人間の本性に従ったことがらに基づいて行われます。教会の社会教説は、教会の務めが、この教説を政治的な意味で実行することではないことをわきまえています。むしろ教会が望むのは、政治生活における良心の教育を助けることです。また、正義が本来何を求めるかをいっそうよく見極め、たとえ個人的な利害状況との葛藤を招いても、進んで正義の要求するところに従って行動するよう促すことです。各人が当然与えられるべきものを与えられるような、公正な社会と国家の秩序を築くことは、あらゆる世代の人があらためて取り組むべき根本的な課題です。これは政治的な課題であって、教会が直接果たすべき務めではありません。しかしながら、それは人間がなすべきもっとも重要な課題でもあります。ですから教会には、理性の浄めと倫理教育を通じて、正義の要求の理解とその政治的実現のために、特別なしかたで貢献する義務があるのです。
教会は、できるかぎり公正な社会を実現するための政治闘争を自ら行なうことはできませんし、行なうべきでもありません。
教会が国家に取って代わることはできませんし、取って代わるべきでもありません。しかしながら、同時に教会は、正義のための戦いを傍観していることはできませんし、傍観するべきでもありません(※)。教会は理性に基づく議論を行ない、また、霊的な力を呼び覚まさなければなりません。こうした霊的な力なしに正義が勝利し、栄えることはできません。なぜなら、正義は犠牲を要求するからです。公正な社会を実現すべきなのは政治であって、教会ではありません。しかし、人々の心の目を開き、善が求めることを実現したいと望ませることを通じて正義を促進することに、教会は心から関心を寄せるのです。

* 聖アウグスチヌス 『神の国』
** 『現代世界憲章』36

(マタイ22・21)
彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

 

29 (p.57-59)
こうしてわたしたちは、国家や社会の公正な秩序を築くための努力と、組織的に行われる愛の活動との関係を、教会生活の中で、もっと正確に述べることができます。すでに示したとおり、公正な社会構造を作ることは、教会が直接果たすべき務めではなく、政治の世界に属することがらです。政治は、理性を自律的に行使すべき領域です。ここでの教会の使命は間接的なしかたで果たされます。すなわち、教会は理性を浄め、道徳的な力を目覚めさせるために役立つことを求められています。この道徳的な力なしには、公正な社会構造を作ることも、それらを長期的に有効なものとすることもできないからです。

これに対して、直接に社会の公正な秩序を築くことを、自己固有の使命としているのは、信徒です。信徒は国家の市民として、個人の能力に応じて公共生活に参加するよう求められています。ですから信徒は、「組織的にまた制度的に共通善を促進することを目的としている経済、社会、法律、行政、文化上の多様な分野(21)への参加を放棄することはできません。それゆえ信徒の使命は、社会生活の正当な自律性を尊重し、それぞれの能力に応じて他の市民と協力し、自らの責任を果たすことを一通じて、社会生活を正しいしかたで形づくることです(22)。教会による愛のわざの特定の表現を国家の活動と混同することはできないにせよ、信徒の生活全体を―したがって「社会愛」(23)として行われる信徒の政治活動を動かす力とならなければならないのが愛であることは変わりません。
他方、教会の愛のわざのための組織も、教会固有の活動(opus proprium)です。こうした活動において、教会は他の組織の協力者として働くのではなく、主体的に直接の責任において活動し、教会の性格に即したことを行います。教会が、信者の組織的活動として愛のわざを行うことを免除されることはありえません。また、個々のキリスト信者が隣人愛を実践する必要がないような状況もありえません。なぜなら、人はつねに、正義だけでなく愛を必要としていますし、これからも必要とし続けるからです。


(21) 教皇ヨハネ・パウロ二世シノドス後の使徒的勧告『信徒の召命と使命』1988.12.30
(22) 教皇庁教理省「教理に関する覚え書き―カトリック信者の政治参加に関するいくつかの問題について」2002.11.24
(23) 『カトリック教会のカテキズム』1939



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【参考資料】 ラッツィンガー枢機卿、ヨーロッパ文化の危機を語る

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