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大山巌元帥銅像
東京都千代田区北の丸公園内に、大山巌(おおやまいわお)元帥の銅像があります。
大東亜戦争直後、多くの軍人の銅像が撤去される中、大山巌元帥の銅像だけは撤去をまぬがれたのです。
なぜかというと、日本を統治したマッカーサー自身が、自室に大山巌元帥の肖像画を飾るほどの大山ファンだったからなのだそうです。
今日は、マッカーサーが心酔した大山元帥について書いてみようと思います。
大山巌は、1842年、薩摩藩の鹿児島城下の生まれです。
父の大山彦八は、西郷隆盛の父の弟で、大山家に養子に入った人物です。つまり西郷隆盛と大山巌は、従兄同士の関係にあたります。
大山巌は、6歳から、薩摩の郷中と呼ばれる青少年団に入ります。
大山よりも15歳年上の西郷隆盛は、郷中のリーダーでもあり、兄でもあり、父でもあった。
大山は、この郷中教育の中で、卑怯を嫌い、死を覚悟してことに臨む潔さを学び、リーダーのあるべき姿は、西郷隆盛から学んだといいます。
32歳になった大山巌は、明治政府から下野した西郷を復帰させるために渡航先のヨーロッパから急きょ帰国します。
3年ぶりに鹿児島に戻った大山は、その足で西郷隆盛のもとを訪れ、新政府に戻ってほしいと必死に説得しますが、西郷は応じない。
ならば、西郷を守るために命を捨てようと、大山巌は、西郷に、行動を共にさせてほしいと頼みます。
大山の申し出に対し、西郷は、
「おはんは、これからの日本に必要な人材じゃ。東京におって、天皇陛下のお役にば、たたにゃなりもうさん。おいの役にはたたんでも、よか」と答えます。
それでも西郷と行動を伴にしたい大山は、重ねて
「おいの命ば、兄さぁにお預けしもす」
そう言うと、西郷は急に立ち上がり、
「ならん!、断じてならん! 帰れっ! 東京に帰れっ!」と怒鳴った。
西郷は、滅多なことでは人を叱りつけることがなかったといいます。
その西郷が怒鳴った。
大山は、西郷の怒声の中に、西郷の悲壮な決意を感じ取ったといいます。
不平武士たちの側に身を置き、彼らと運命を共にする。彼らと共に死ぬ。誕生したばかりの政府を守るにはこれしかない。西郷の明治政府への「ご奉公」であった。
その「ご奉公」に、西郷は大山を巻き込みたくなかった。
その気持ちが、大山には痛いほどわかる。
大山は、西郷のもとを去り、実家にも寄らず、東京へ帰った。
これが今生の別れになると思うと、大山は涙があふれて止まらなかったといいます。
1877年、西南戦争が起こります。
明治新政府への不満武士たちが西郷を擁立して暴発した。
大山は軍人です。
戦場にあっては、味方である政府軍の勝利に全力を尽くさなければならない。
半年以上にわたる激戦の末、西郷が立て籠もった城山への攻撃のときがきた。
非情にも、その任が大山巌に下った。
早朝4時に始まった攻撃は、明け方には大勢が決まった。
西郷隆盛、自刃。
遺体が浄光寺に運ばれた。
大山は、西郷夫人に弔慰金を渡そうとしたが、突き返される。
巌の姉は、泣きながら、「なぜ西郷を殺したかっ!」と巌を責め立てた。
胸が張り裂けそうな辛い立場だった。
巌は、いっさい弁解をしなかった。
理解してもらえるとも思わなかった。
「兄さぁだけが、わかってくれれば、それでいい」
西郷の新政府への「ご奉公」を見届けるのだ。
そんな思いだけが、彼の心をぎりぎりで支えたといいます。
西南戦争の翌年、明治天皇が北陸・東海地方を巡幸されたとき、大山巌は、その同行を命じられます。
天皇が大山に語り始めた。
「わたしは、西郷に育てられた。
いま、西郷は『賊』の汚名を着せられ、さぞ悔しかろうと思う。
わたしも悔しい。
西郷亡きあと、わたしはその方を、西郷の身代わりと思うぞ」
大山は、感激で身が震えたといいます。
「もったいないお言葉でございます。全身全霊を陛下に捧げる所存ございます」と答えるのがやっとだった。
西郷を失って以来、大山は元気を失っていた。何をするにも、気合いが入らなかった。
このときの陛下のお言葉で、西郷亡きあとの自分の生き方が見えてきた。
「自分は、兄さぁの代わりになろう」
西郷の人生を生きればいいのだ。大山の目からは、熱い涙がとめどなく流れつづけたといいます。
1894年、日清戦争勃発。
第二軍の司令官となった大山は、出陣に際し、
「敵国民であろうとも、仁愛をもって接すべし」と訓示した。
訓示を述べる大山の姿に、「勇者は義に篤くなければならん」と常々語っていた西郷隆盛の姿を見たものは少なくなかったといいます。
敵兵からも称賛された日本軍の規律正しさは、後々の世まで語り草になっている。
1904年、日露戦争勃発。
満州軍司令官として着任した大山巌の存在感は、圧倒的だったといいます。
大山巌の許可を得た作戦ならば、絶対に勝てる!。
そう思わせる、力、人徳が、大山にはあった。
「この戦争は、大山巌で決まる」と語ったのは、参謀次長の児玉源太郎です。
陸軍の勝利は、この二人の二人三脚で決まった。
大山は、児玉の作戦を全面的に信頼し、任せ切った。
任せた以上、口だししない。
そして結果については、全面的に自分が責任を取る。大山は、このスタイルを貫きます。
秋山好古少将率いる騎兵第一旅団が、ロシア軍に包囲されたという報告が司令室に飛び込んできた。
秋山旅団が崩れれば、全軍が分断される。
司令部に戦慄が走った。
情報が錯綜。児玉源太郎の怒声が飛ぶ。
ただごとではない空気が、大山の部屋にも伝わってきた。
大山は、このとき「おいが指揮を執るしかない」、そう思ったといいます。
しかし・・・・
とっさに思った。
「もし、兄さぁ(西郷)だったら、どうするだろうか」
そう思い返したとたん、大山は軍服を脱ぎ、わざと寝仕度をして、眠そうな眼でドアを開けた。
そして、とぼけた調子で、
「はぁー、なんじゃ、にぎやかじゃのぉ」
みんなあっけにとられて、寝まき姿の大山に目を向けた。
「さっきから、大砲の音がしちょりますが、今日はどこぞでいくさでもやってござるのか?」
大山の間の抜けた声に、ひとりが笑った。
それが引き金となって、司令部の全員が笑いだした。
司令部に漂っていた緊張感が一気に和らぎ、冷静さが戻り、状況把握が的確になされるようになった。
大山巌流統率の真髄であったといいます。
大山巌
日露戦争のあと、大山を総理大臣にという動きもあったが、大山はこれを固辞。
大山は、家人に対しても、部下に対しても、およそ威張るところがなかったといいます。
人の悪口もいわない。
私心なく、海のように広い心を持ち、誰に対しても謙虚な大山の姿は、西郷隆盛を彷彿させたそうです。
愛妻家で子煩悩も、大山の特徴のひとつ。
仕事を終えると、より道をせずに、まっすぐに家族のもとに帰る。
芸者遊びを好まず、家族と過ごすときを大切にした人でもあったそうです。
1916年、愛妻に看取られながら、大山巌は、74年の生涯を終えます。
危篤状態で、意識朦朧の中、大山はしきりに「兄さぁ」とうわごとを言っていたそうです。
妻の捨松は、「やっと西郷さんと会えたのね」、夫にそう語りかけた。
■参照:大山巌
http://www.ifsa.jp/index.php?oyamaisao
大山元帥をご紹介させていただきました。
ポイントが3つあります。
(1) 青年を育てた郷中
明治維新で薩摩藩が果たした役割の大きさについては、論を待たないと思います。
その薩摩で、もっとも大きな力となったものが、郷中だといわれています。
郷中というのは、いわば青年団です。
その青年団で育てられた西郷隆盛や大久保利通、大山巌などは、頭で考える理屈や論理よりも、人と人との情のつながりこそが、大きな力となることを知っていた。
現代日本では、なぜか「理屈」が先行します。
階級闘争主義に染まった人々は、どういうわけか「上が命令したら、下は言うことを聞く」と思っている。
ところが実際には、上が命令したら、下は「なに言ってやがんだ」と反発している。面従腹背。うわべはいう事を聞いていると見せかけても、内心では反発している。
当然です。上の命令、下の意識は、常に階級闘争にある。
郷中においては、なによりもまず、情の交流が優先した。
だから「言わなくてもわかる」・・・そんな精神文化が熟成された。
かつて、日本人のサラリーマンが、他社のサラリーマンと交流するとき、あるいは上司と部下が交流するとき、必ず、一緒に飲もうぜ、実家はどこだい? あぁ、そこなら知ってるよ。角にタバコ屋があって、あそこの婆さん元気かな。。。等々の会話が重ねられ、いつの間にか、人と人との間に、深い上の交流が生まれていた。
一見、無駄に見える、そんな心の交流が、日本人が何かを成し遂げる上でものすごく重要な要素となっていた。
(2) 西郷と戦った大山巌
大山巌と西郷隆盛は、従兄弟同士の関係にあった。
そして大山にとって、西郷は、人生最大の師匠であり、最も尊敬する、いわば彼にとっての神のような存在でもあった。
その西郷と、大山巌は、敵味方に別れて西南戦争を戦います。
戦いながらも、西郷は、日本の未来を大山に託した。
大山は、それに応え、全力をあげて西郷を倒した。
西南戦争で、激戦区となった熊本城界隈には、いまでも、すさまじい銃弾の跡の残る民家が残っています。
そして、銃の弾と弾が、正面衝突しているものも、多数発見されている。
銃弾と銃弾が激突する・・・西南戦争は、それほどまでにすさまじい戦いだった。
いまの人なら、いまの週刊誌や新聞、テレビなら、尊敬する西郷に戦いを挑んだ大山巌は、バカとしか言われないのではないか?
未来を託したといいながら、生まれて間もない明治政府の確立を願って敵となった西郷の心など、おそらくいまどきのメディアの記者には理解不能なのではないか?
大山巌が、敵の大将である西郷を討つなど、やれ内通するのではないか、やれ裏切り行為なのではないかなど、頭でっかちな評論ばかりが重ねられて、メディアは、兵士たちの不信や不安をあおるのではないか?
そういう、わけしり顔の白面居士が、どれだけ日本の社会を破壊しているか。どれだけ日本の心を壊しているか。
(3) 寝巻き姿の大山巌
日露戦争の奉天での激戦の最中、秋山好古の苦戦の報告を受け、伝令の情報も錯綜する中で、現地作戦本部は、怒号渦巻く混乱状態になった。
そのとき、現れた大山巌は、寝巻き姿で・・・という話をご紹介しました。
これがもし現代なら、どうなっていたでしょう。
寝巻き姿の上官を見た作戦参謀たちは、階級闘争主義者的発想ならば、なんなんだこの爺い!くらいにしか思わなかったかもしれない。
児玉源太郎以下の参謀たちが、大山巌の寝巻き姿を見たとき、パッと明るい気持ちになれたのも、参謀たちに安心感が広がったのも、彼ら全員に深い信頼関係が熟成されていたからなのではないかと思うのです。
だから、誰も「なんだ、この爺ぃ、すっこんでろっ!」などという反応にはならなかった。
寝巻き姿の大山巌を見て、大山の心を惻隠し、冷静さを欠いていた自分たちを恥じた。
彼らが笑ったのは、大山の寝巻き姿が面白かったからではない。
冷静さを欠いた自分たちの姿に、気が付き、それを恥じたから、笑った。
そこにいまどきの新聞記者あたりがいたら、こいつらいったいなにをやってんだ、くらいに思ったかもしれない。
しかし、冷静さを欠いたことに気が付き、それを恥じ、冷静さを取り戻した作戦本部は、この直後から、的確な判断と指揮を行い、結果、秋山部隊は大活躍をとげ、数十倍の兵力をもつロシア陸戦隊との戦いに打ち勝ってしまう。
ロシア陸戦隊は、あのナポレオンを倒した軍隊です。当時、世界最強とされた。
大山巌の物語の中に、日本の相互信頼主義のもつ、強さ、そしていまにはびこる階級闘争主義の程度の低さを感じていただけたら、ねずきちは、うれしく思うのです。
この世は、どこまで行っても、人と人との世の中です。
階級闘争だかなんだか知らないが、人と争い、人を批判し、人を非難する前に、人を信頼し、信頼される自分になり、信頼される人として成長してゆく。
それが日本人の生き方というものなのではないでしょうか。
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君が代
ここで、男の子たちは生き方を先輩たちから教わった。
戦後も「青年団」はあったようですが、私の周辺には、もうありません。農村が元気を失ったこと、都会に人口が集中しているが、連帯がないことが、その原因だと思います。
大山元帥を育てたのは「郷中」です。
そして、戦後の日本に大山元帥が誕生できない理由も、こういう青少年の教育の仕組みを失ったところにあると思います。
日本人が日本人らしく生きられなくなっています。
さまざまな得体のしれない犯罪、親殺し子殺しを聞くたびに「はつらつとした日本人らしい氣」が廻らなくなっているのが、原因だと思います。
今も、何か居心地が悪い感じをみんな受けていると思います。
理由もなく「我が国の総理大臣を日夜貶めるマスコミ」も、正しい日本人の感覚では邪です。
けれど、今、それに扇動されているのは「小泉自民党」の非情・無情・冷酷へのNOなのだと、私は信じたいと思います。
だから、遅くなっても、マスコミへの壮大なNOが、近く発動すると、信じたいです。
日本人の集団無意識に、ある日、火がつく。と。
大山元帥の再来を乞うても、果たせない現代ですが、現代には現代の国の守り方があると思います。
鍵は「女性」かなあと思うのです。
国造りの最初の卑弥呼。
三韓征伐の神功皇后。
律令国家完成時の持統天皇。
鎮護国家の象徴光明皇后。
鎌倉武士の時代を開いた北条政子。
江戸時代の基礎を作った春日の局。
案外、日本は女性にも助けられています。
今なら皇后陛下のお姿に、どれだけの国民が息を吹き返しているか。
豊かさに甘え、律することを怠けた結果の今日です。
この豊かさをもたらして下さった先人たちの足跡を知ることから、始めるのは、大変意義のあることだと思います。
だって、大山元帥のことも、東郷元帥もですけど、私達、教えられないままに知らないままに年をとってしまいましたから。
都市近郊の農村でもワカイシュウが組織され、村の祭りを取り仕切る。長老は村役となり祭りを裏から支える。ワカイシュウは血気盛んでエネルギーを発散させ、神を祀り収穫を喜ぶ。男女の出会いもあった。いや今でもある。若者は自治を学び、責任の果たし方を知る。一部の農村にはまだ残っています。見ていると、障害を持っている人も居たり、引っ込み思案の人が居たり、それはもうバラエティに富んでいる。でもどんな人も排除しないで助け合ってきた。そんな社会がついこの間まで日本中にありました。
ねずきちさんが取り上げてくださる、なんとなく知っている人物や事象、ああこういうことだったのね、といつも眼からうろこ、状態。
まえにかぐやひめさんがこのブログを出版したらと提案されていました。一つ一つの事柄は、沢山の本の中に埋まっていますが、一つの価値観でまとめるという作業はまだ無いと思うので、実現できればいいなと思います。
小学校に上がると、父が美しい話とか偉人物語とか、伝記物語を沢山買ってくれて、夢中になって読みました。世の中には偉い人が沢山いるんだなと子ども心に感動しました。「相互信頼」をキーワードでブログに収められた、沢山の美しい話をまとめ、大人版伝記物語にするといいかな、なんて勝手に思っています。ネットに縁の無い人たちにも発信したいと願っています。
500年前桂庵玄樹なる明で7年間修行され、帰国後応仁乱で京都へ帰ることが出来なかった高僧が居られました。島津忠昌公が鹿児島に招聘され、朱子学と桂庵点と言われる漢文の訓読法を開発され薩摩藩に大変な功績を残されました。
郷中教育・薩藩校造士館の教育目標が「格物至知 誠意正心 修身斉家治国平天下」つまり朱子学の原点だったようです。以後薩摩の若者は朱子学か陽明学を徹底して学んでいました。
幕末斉彬公の弟久光公が実権をもち、京都で寺田屋騒動を通して、薩摩藩は脱藩を絶対許さず、藩として統一した行動を取るように徹底しました。薩摩藩の統一した行動が中心で各藩からの脱藩志士たちとで明治維新が成功したと思います。
新政府になり西郷さんは数回帰郷いたします、その理由が役人達の不正行為が許せぬ事情もあったようですし、造士館出身の優秀な者達も「先憂後楽」朱子学の精神に悖る事に苛立ち、多くの優秀な若者が帰郷いたしました。
西南の役に参加した多くが純粋な気持ちの持ち主で、「我に義在り・・・」で出陣し約6500名戦死しました。しかし大山巌、西郷従道等新政府下で活躍したした人物も多々あります。つまり幕末に生きた薩摩藩の人間は朱子学を修めた人物だったのです。
なお、今年の秋、福島県の劇団ぴいひゃららが西郷従道や大山夫人捨松を主題にした演劇を鹿児島で公演されるそうです。うれしい限りです。
7月15日のTBS「みのもんたの朝ズバッ!」で選挙について偏向報道があったので、
『偏向報道にはスポンサー問合せ』にてスポンサー情報を更新いたしました。
TBS系朝400〜昼1200
http://www23.atwiki.jp/inquiry_003/pages/24.html
スポンサー問合せにご協力ください。
自民党道連は14日、民主党の鳩山由紀夫代表の虚偽献金疑惑を追及する
プロジェクトチーム(PT)を設置した。自民・公明両党の本部のPTに同調し、
道9区(胆振・日高管内)にある鳩山代表の政治団体の資金を調査。
16日には室蘭市の鳩山代表の事務所を視察する予定。
【経済・政治の掲示板】
http://www.aixin.jp/axbbs/kzsj/kzsj_ind.cgi
【政治・経済タイトル一覧】はこちらをクリックして下さい。
【置きビラの掲示板】
http://www.aixin.jp/axbbs/kzsj/kzsjb.cgi
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>人と争い、人を批判し、人を非難する前に、人を信頼し、信頼される自分になり、信頼される人として成長してゆく。
それが自分の幸せにも直結するのに、日本人自身がすっかり忘れてしまっているから、支那や朝鮮、また民主党や創価学会などがはびこってしまっているのでしょう。
戦後、掛け違えられたボタンはいつになったら直るのでしょうか。
取り返しの付く間に直ってもらいたいです。
和治大宮法科大学院大学教授)は10日、岐阜県庁の裏金を巡る日本テレビの
報道番組「真相報道バンキシャ!」の誤報問題について、経緯を明らかにする
検証番組を作るよう勧告し、「誤報が起こる体制が社内にあった」との見解を出
す方針を明らかにした。
組織犯罪者は被害者が蒙った被害の大きさや、巨額損害金額の補償問題など
に鑑み、組織犯罪者の人権剥奪の上、厳罰に処するべきであり、TBSの場合
は「みのもんた」は相変わらずニュース・キャスターの仕事に就いていて、不二
家偽装ニュースでハゲタカ軍団に会社を乗っ取られた不二家や閉店に追い込
まれた多くの販売店への責任を取っていない。日テレの場合は偽装・捏造報道
を続けている。
このような報道会社の組織犯罪はその影響力や世論の信用破戒などを考慮し
て放送法違反の理由で、放送局の認可を取り消すべきである。
国民の排斥運動が起こる前に適切に処置すべきである。
【マスコミ隠蔽の掲示板】
http://www.aixin.jp/axbbs/kzsj/kzsj4.cgi
【マスコミ隠蔽のタイトル一覧】はこちらをクリックして下さい。
最近いつも読ませていただいています。
大山巌のような話を、中・高の歴史教科書に載せれば、歴史がグッと近づくのでしょうね。私たちにとって、このように模範となる先人が歴史上沢山いて、日本人であることを誇りを思う教育こそ必要ですね。
せっかくなので『日本人の意識構造』(会田雄次著)の
「日本的日本人」の章からone more episodeです。
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同じときの、もう一つのエピソードである。
大山大詔は、激戦を続けつつあった野砲部隊の後方に現れた。若い指揮将校は供覧したように、命令を与え続けている。大将は彼をさしまねいた。十大命令かと不動の姿勢をとった彼に、総司令官が聞いた。「大筒というのは上に向けるほど、遠くへ飛ぶでごわすかな」若い将校が何て答えたかは知らない。
「この大切なときに馬鹿ものめ」と、どならなかったことは、確かである。落ち着いた、怜悧な男であったなら、児玉総参謀長のように、はっきり自覚してかどうかは判らぬが、ともかく大山対象のこの言葉が今までアガリきっていた自分に三斗の冷水をあびせ、衝撃的に冷静にひきもどす作用があったことを悟ったであろう。
(中略)
晩年の話である。大正三年三月十日の陸軍記念日にお孫さんが問うた。「おじいさん、総司令官と言うものは、どんな心がけで戦をするのですか」
七十三歳の老将軍は、いたずらっこのように微笑して答えた。「うーん。死っちょっても知らんふりをすることよ」(立野信之『新名将言行録』五)・オヤマカチャリンリンとして有名になった大山元帥の数々の奇行は、このような考えの上に成立していたのである。 (引用了)
すみません、どのトピに返信すればいいか分からなくってしまい、このトピに返信させて頂きます。
>民主主義とは、国民の大半が無知なら母国が消滅するイデオロギーだったのですね<
↑
同感です!最近思うのですが、憲法に記載されている「主権在民」という個所は、改定した方が良いと思います。
左翼や反日知識人・マスコミは大騒ぎするでしょうが、日本は国柄を守らなければなりません。すなわち『国体』です。日本という国は昔から、天皇と国民との間で、相互信頼関係に基づいた国であり、その相互信頼関係が何千年と連綿と続いてきたのです。それがいささかでも揺らいだ時期などあったでしょうか? あの未曾有の悲劇=第二次世界大戦の終結時でも、天皇陛下に対する国民の熱い信頼と尊敬は、微動だにしなかった。
むしろ日本という国は、天皇という国民の安寧を祈る『国家元首』を戴き、主権は『国』にある!という明治憲法の方が、はるかに日本の国柄にふさわしいと思います。
そしてそれを日本人は、2千年以上も継承し『国体』として守ってきました。それが最もリスクが少なく、安定した世の中を築けるという、日本人の賢い『知恵』だったのではないでしょうか?
日本国憲法の「国民主権」というのは、天皇と国民を分断するGHQの「政治的意図=悪辣な謀略」以外の何ものでも無いと思います。
それにLayさん、ご存知でしたか?アメリカは、「国民主権」という厄介な代物を日本国憲法に押し付けましたが、自分達の合衆国憲法に「国民主権」を入れていなのです!!デモクラシーの暴徒に対する警戒心からですって!!!「国民主権」という“暴徒の危険”を常にはらんでいるこの言葉は、逆に「有害無益」という意見もあるほどです。
一君万民=天皇の下に万民はみな平等!日本には天皇の下にすべての国民が平等という思想があり、有史以来天皇と国民が対立したことなどありません。この天皇と国民の一体感こそが、日本社会の源泉であることにGHQは気づいていたに違いありません。
だからこそ、「明治憲法は天皇主権だった」というデマを使い、「日本国憲法は、天皇が独占していた主権を取り上げ、国民に開放した」等という神話=デマ・捏造を作り上げた。
私は日本国の“主権”は、天皇陛下でも国民でもなく、天皇陛下と国民の結合体、共同体である『日本国』にあるとすれば良いのだと思います。
>日本人が日本人を信じられなくてどうしますか? 少なくとも、中国・ロシア・北朝鮮・アメリカなどよりは随分マシだと思いませんか?!<
↑
本当に同感です!!私いつも思うんですが、100億万歩譲って、日本軍が悪かったとしましょう、でも日本人自身が“それ”をあげつらって、日本人自身を罵って、糾弾したところで、一体何の得があるんですか? いったいどういう風に、日本の国益や名誉を守れるんですか?!と私は、反日知識人・マスコミ連中に反対に聞きたいですね。
ねずきちさん、トピと違うコメントをしてしまって、本当に申し訳ございませんでした。m(__)m…。
今般の敗戦の痛手から立ち直り憲法を自分たちのものにするには、何年かかるかわかりませんが、しなければならないことだと思います。
2700年に及ぶ歴史の中での初めての敗戦でした。それも、300万の同胞をむごたらしく殺されました。気持ちが立ち直ることも、そのとき、揺らいだ恐怖と憤りと悲しみの揺れから立ち直るにも、時間がかかります。
でも、そろそろ、あの戦を総括して、その意味を知り、日本は何のために戦い、何を得、何を失ったか、何をとりもどさなければならないかを、日本人ひとりひとりの心に据えなければなりません。
私は、「できる」と、思います。
いったん緩急あらば、義勇公に奉じ・・・このくだりが、教育勅語ではいちばんアレルギーを起こさせる場所だと思います。
でも、阪神淡路大震災という「緩急の場」に、どれだけ大勢の人が「義勇をもって、はせ参じてくださったか」その動きは、新潟大地震でも、中京の水害でも、どこにも、発揮されました。
言葉では失われても、「心」は失われていないことを、感じる瞬間です。
椿さん、自分の人生の終わりでは、まだ足りないかもしれません。でも、悠久の日本国の歴史から思えば、必ずできる、いつの世にも愛国者は必ず現れると信じます。
明治の大先輩のようにはなれないでしょう。
今は、なにもかも便利になって、楽に暮らしているのですから、あまちゃんで、意気地なしなのは、仕方ありません。でも、そのとき、そのとき天皇家を奉じ、日本の国体を知り、日本は日本らしく信じあって生きる・・・そういうことなら、できるでしょう。
それさえも、今は乱れているけれど、敗戦の混乱を整理すればできると思います。
まだ、あの戦争の総括ができていません。
焼け跡で食うや食わずの暮らしで、大東亜戦争の総括なしで60年を過ごしてしまったのです。
しなければならないことは、決まっています。だから、前に進めます。
政略と戦略を統合する装置がありません。渡辺昇一の次の指摘をどう考えますか?
大本営のかかわることは統帥権の分野のことであり、それは戦場の戦略、つまり「用兵作戦」である。これに対して政府が外交・内政で行うのは政略である、この政略と戦略の両者を統合調整することは「戦争指導」と呼ばれていた。(中略)
戦略は大本営が担当し、政略は政府が受け持つことになるが、この両方を合わせた「戦争指導」はどこがやるか、ということが問題になる。
アメリカなら大統領、イギリスなら首相、ナチス・ドイツなら総統、ソ連なら書記長である。今の日本なら首相であるが、明治憲法では天皇御一人だけであり、「戦争指導」に関する固有の輔翼・輔弼の機関はなかった。法制上のどこにも規定されておらず、また慣行的にもどこにも存在していなかった。(p.118-119)
渡部昇一『日本史から見た日本人:昭和編』(祥伝社黄金文庫)
さて、いかに?
そのような帝国憲法下で現在の政府のように「派閥民主主義」や政府と軍部の両翼の意向でぶれにぶれていたのです。ねずきちさんは、防人の立派さを強調します。「信頼主義」で政府を妄信することを善としているように見えますが、無責任で、揺れ動き、戦争指導もできなかったのに、防人が立派だったから過去は美しいという傾向で総括していいのでしょうか?揺れ動く統帥の中で無駄死にはなかったのか、不必要な死はなかったのかも問いかけねばならないのではないでしょうか?
何度も言うようですが、防人の立派さは時の政府の免罪符にはならないです。明治憲法と戦争の検証をお願いします。
特に現憲法破棄=明治憲法復活論者にはそこのところいかがでしょう?敗戦原因憲法を敗戦結果憲法と入れ替えていいのですか?
郷中制度について一言。元鹿児島大学教授原口虎雄先生(故人)の著作によれば、郷中制度は一旦事あれば、そのまま軍団として転用された。薩英戦争では四番組は天保山の台場を受け持ち、六番組は祇園洲の台場を受け持ち、戊辰の役に出兵する時も、今度は三番組が出るとか、次は二番組が出るという風であった。このような重要な任務を持っているので、訓育も厳格を極め、忠孝尚武の練成であったという。そして仲間内で士魂・士道の詮議をしたとあります。桐野利明のように人斬り半次郎と名を売った者も、農耕に明け暮れ、文字の読めぬ者もいたらしい。いづれにせよ、薩摩は軍事大国の最強国であった。
幕末の頃、士族は全国平均で0,5パーセントほどであったが、薩摩では四人に一人と言われたように、26.8パーセントが士族であった。足軽は士族に算入してないので、いかに武士(軍人)の多い、軍事大国であったか。ちなみに、0.5パーセントはどの程度のものかと言えば、神官・僧侶と同じなのだそうだ。
このような強国だったからこそ明治維新を成し遂げたのだろうと思います。その強国薩摩の藩政改革をしたのは、20年間家老職を務めた調所笑左ヱ門広郷であります。薩摩を変え、結果日本を買えたと言っても過言ではない、彼もまた郷中教育を受けた、下級武士の出身です。ねずきちさんのお力で、いつの日か、彼にスポットライトを当ててくださればいいなあ、と思いました。
いつもありがとうございます。
椿さんのコメント、ほんと、まじで楽しみにしています^^b
>いつの世にも愛国者は必ず現れると信じます。<
↑
もうすでに現われているじゃないですか?かぐやひめさんもそのお一人でしょう。(笑)
>明治の大先輩のようにはなれないでしょう。
↑
確かに世の中が一変してしまいました。明治の先人達と同じようにとは、いかないかもしれません。ですが『国体護持』という一点に関してだけは、私達は今でも先人と同じ戦いをしているのだと思います。
かぐや姫さんが前に仰っていたように、まだ大東亜戦争は継続中なのですね。だからこそ私達子孫は『国体』を守らなければいけません。明治の先人たちのような『偉業』は成し遂げられなくとも、少なくとも『護国護持の精神』だけは守り通し、子々孫々に至るまで、伝え続けねばなりません。
そう、「戦い」はまだ継続中、そしてまだ負けたわけではありません。これからが真の戦いです。白人達も侵略する前は、侵略される側で、何百年もの間“辛酸”を舐めてきています。アジア・アフリカも何百年も奴隷として虐げられ、やっと独立出来ても、まだいまだに“貧困”から脱出できません。シナ・朝鮮も同じです。日本だけが苦しい戦いを強いられているわけではないと思います。
みな、自国の生き残りをかけて、死に物狂いで戦っているのだと思います。古今東西、「平和を勝ち取る為」に、みなどこの国も「尊い命」を投げ出し、「血みどろの戦い」をしてきたのですもの、私たち日本人だけが、戦わずに、苦しい思いもせずに、安逸な生活をおくれるわけがない。それは宇宙の法則に反すると思います。
昔、母がよく言っていました。「人間“苦労の色”は違えども、苦しんでいるという事実はみな同じ」と…。
>ねずきちさんへ、
ありがとうございます。
コメントを入れる時間が無くなりましたがブログは必ず読んでいます。
熱い夏を更に熱く、戦う覚悟です。
久方の戦闘配置に身の引き締まる思いです。
d(@^∇゜)/ファイトッ♪
でも、まじで今年の夏も暑いから、体こわさないように、がんばってくださいね^^
私達、教育勅語だって生きていると認めたらいいんですよね。
今の世界情勢、歴史の流れは、全然分断されていない、ずっと続いている。
英霊は過去の事件ではなく、私達の親の世代の物語、すぐそこ、手の届くところにいらっしゃる。
敗戦のショックが大きすぎて、マインドコントロールにかかっていただけです。
それでも、こういう話題がネットの上でも、書籍でも、白昼堂々と表に出れること自体、ものすごい変化だと思います。
そして、苦し紛れのようにして、この事実を浮かび上がらせなければならない「現状」は、もしかしたら「神風」かもしれないと思うのです。
まんま平和ボケできていたら、反対に消えてしまった過去になったかもしれません。
今、必死で、失われた時間をみんなで記憶をたどり、ひとつひとつ掘り起こす作業ができるのは、緊急事態だからです。
でも、もし、緊急事態がなければ、日本人はゆるんだゴムのまま、使い物にならなくなっていたのではないでしょうか?
すべてに、感謝。
感謝して、行きましょう。ご先祖様に感謝。それを思いださせてくれる今の世情にも感謝。
日増しに、たとえ、何が起ころうと、私達には「できる」という思いが深まります。
この仕組みは絶妙だと思うのです。今でなければ、もう、一代後なら、もう、思い出すことさえできなかいでしょう。
今の世代は祖父や親から大東亜戦争を聞いています。だから、わかる。だから伝えられる。
大掃除は、必要なんです。苦しくても。
こんなところでコメントしていたんですね。飛ばして読んでいました。
>大日本帝国憲法は欠陥憲法です。敗戦憲法といってもいいです。 <
↑
違いますね!!
>ねずきちさんは、防人の立派さを強調します。<
↑
強調していませんよ、真実を語られているだけです。それに皆が、納得しているだけではないでしょうか? 不思議ですね、日本人なら先の英霊方を「防人」とは、決して言わないと思いますが・・・、どちらの国の方ですか?
>「信頼主義」で政府を妄信することを善としているように見えますが<
↑
「善」としている?それは、ずきちさんが「悪」を「肯定」していると言いたいんですか?もしそうなら、そのあなたが言う「悪」とは何ですか?
>無責任で、揺れ動き、戦争指導もできなかったのに、防人が立派だったから過去は美しいという傾向で総括していいのでしょうか?揺れ動く統帥の中で無駄死にはなかったのか、不必要な死はなかったのかも問いかけねばならないのではないでしょうか?<
↑
無責任?戦争指導?無駄死に?不必要?いったい何の事ですか?具体例を出して言っていただけますか?
>何度も言うようですが、防人の立派さは時の政府の免罪符にはならないです。明治憲法と戦争の検証をお願いします。<
↑
どんな悪行を当時の政府はしたのでしょうか? 具体的に仰ってください。それと、あなたの明治憲法と戦争の検証を教えてください。
>敗戦原因憲法を敗戦結果憲法と入れ替えていいのですか<
↑
宜しいですよ。それが何か?
では、政略と戦略を統合する機関があったとでも?
あったというならどうぞ。
憲法のどこをみても、ないですよ?欠陥ですあきらかな。
ここで掛算の話をしているのに、まだ足し算もわからない人が、「意味わかんねーし」とやってるように見えますよ。
質問をするというのは、学ぶということです。
自ら学ぶつもりがないなら、ここでの議論は、お互いにとって意味をもちません。
あなたのご質問への回答は、椿さんのおっしゃることが全てです。
本ブログにおける、けんぶつさんへのご回答は、以上で打ち切ります。
勉強不足で、日露戦争が、どうして勝てたのかは、知りませんでした。こんなにもすばらしい歴史があったのですね。当時はメディアもなく、正しく貫ける環境もほんとによかった時代でもあったと思います。それが大きな問題に今はなって、正義もなにも判断できないようになっています。ここカナダも、昔アメリカと地政学による戦争があった(石油がらみのアラスカやボーダーラインで)のですが、結果カナダのTVでアメリカのニュースの時は、キャスターは事実だけ伝え、コメントはいっさいしてはいけないという、規制があります。日本も日本に否定的なコメントさえなければ、少しは救われるのですが。あってもこの程度の規制なら、国民も自由に判断できます。