統一教会では、キリスト教が説く「救い」の二つの側面である「義認」と「聖化」は、本来メシヤであるイエスが到来したその時代に、両方とも“同時に”成就すべきであったとみているのです。
そして統一教会は、キリスト教が長い間待ち望んできた「再臨」の時が“到来した”ことを宣言し、今こそ「完全な救い」、つまり「実体の救済=人格の完成=聖化の完成」を成就することができる“成約の時代”に入ったことを強調してきたのです。
そうすると、「統一教会の救済論」が、キリスト教のそれと大きく異なる重要な点、つまり、統一教会が“キリスト教を超えたものであるとする最も重要な神学的メッセージ”とは、従来のキリスト教型の「法廷論的贖罪(義認)」ではなく、まさに「霊肉共の救い」を意味する「聖化の完成」、即ち「人格完成と家庭完成による地上天国の実現」に他ならないのです。
■ 「肉的原罪の清算」としての「肉的救い」
しかし、統一教会には「霊肉共の救い」の「肉的救い」について、単に“アダムとエバの犯した「肉的堕落」行為に対する法廷論的贖罪”と捉え、その「贖罪(恩寵)」を受け取ること、即ち「肉的原罪の清算としてのサクラメント(三日行事)」に参加することをもって、「肉的救済が完了した」と捉える見解もあるようですが(…「聖酒式」は霊的原罪の清算とみる…)、そのような考え方は、文先生の語られる「救済論」の全体を正しく評価しない、極めて偏った見解であると言えるでしょう。
【文先生の御言】
「神様の祝福を受ける人は、どのような位置に立った人ですか。神様の愛の根から生まれていなければならないのです。本然の父母から生まれて成熟したならば、その本然の父母から祝福を受けて、宇宙を相続する立場に立つのが祝福です。
皆さんはそういう位置に立ちましたか。統一教会にそのような基盤がありますか。祝福を受けた人たち、手を挙げて見なさい! 皆さんが置かれている今の位置は、祝福を受けたものとしての位置ではありません。祝福の本然の世界を求めていくための条件基盤なのです。三十六家庭であろうと、何であろうと皆同じです。」(『祝福』67号 祝福を受けたもの達 55頁 )
まさに「聖化」の成就こそ、復帰原理的観点の『御言』の中で強調されている、「信仰基台と実体基台」を通して、「メシヤのための基台」を造成しながら、成長期間を上り直すことであり、「心情の縦的八段階」を上がっていくことであり、「四大心情圏と三大王権」を獲得し、「創造本然の完成人間になる」ことに他なりません。
また、「伝道」「ホームチャーチ」、「3人の霊の子を作る」「アベル・カイン問題に勝利する」「堕落性を脱ぐための蕩減条件を立てる」「恩讐を愛する」「為に生きる」などといった、信仰生活における実践的内容は、全て、実体の人格と心情の成長をもたらす「聖化」そのものの概念であり、「霊肉共の救いを完成して、創造本然の実体を復帰すること」に他なりません。それは決して単なる、過去の犯した罪に対する法廷論的な「贖罪(義認)」ということではないのです。