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第2章 統一教会の救済観の問題点

【26】 「救済論」における「義認」と「聖化」

 さて、既に述べてきたように「罪」と「堕落性」という対比の表現には、多くの問題が内包されてはいますが、この二つの捉え方は、同時にその解決を意味する「救済における二つの概念」とそのままつながっています。キリスト教では、前者が“罪の赦し”“罪の清算”を意味する「贖罪」あるいは「義認」であり、後者が“堕落性を脱いで、神性をもつ人格の完成者となること”を意味する「聖化」の概念です。統一原理的に表現をすれば、前者が“つぐない”の意味としての「蕩減」の概念であり、後者が「再創造」の概念に相当するということができるでしょう。

 

 (1) 「義認」について

 

統一神学

 まず「罪と堕落性」という捉え方の一つである「罪」のほうの「解決」が、キリスト教では「罪のゆるし(清算)」であり「贖罪」です。これが「義認」つまり「法廷的無罪宣告」という訳です。それは一定の贖罪条件(刑罰)を全うしたことが認められたときに、その人の実存状況(人格)とは関係なく(特にプロテスタント神学において)、法廷的に一方的に「無罪」が宣告される(=ゆるされる)ものと考えられているものです。

 そしてその贖罪をもたらす法的根拠とされている事柄こそ「イエスの十字架による身代わりの死」なのです。これは人類全体の為に、神からの恩寵として与えられた「身代わりの贖罪(代贖)」です。それは「イエスの身代わりの死」を“信じる”全ての人に、無償で与えられる「信仰による義=恩寵」であるというわけです。そしてそれを受け入れたことを表明する宗教儀式(サクラメント)が、「聖餐式」と「洗礼」なのです。(但し、カトリックやギリシャ正教などでは、サクラメント<秘蹟>は七つとされています。)

 

  しかし、そのようにイエスの代贖を信じて「クリスチャン」となった状態は、前述したように言わば「罪人して義人」という、一見“矛盾している”と思われる神学的表現にみられるように、実際は罪を犯し続ける性質を内包した(堕落性が残っている)状態のままで、「キリストの義の衣」を着せてもらい、法廷的にのみ「罪の無い人間(?)」として扱われているに過ぎません。

■ 「宣義」と「成義」
但し、同じ「義認」でも、プロテスタントが「宣義」という意味で用いるのに対し、カトリックでは「成義」という意味で用います。つまり、カトリックの場合は、単なる法廷的宣告ではなく、実質的に“義がその人の中に成就しつつある”という、「聖化」の概念が内包されたものとなっています。その点は、文先生の『御言』の示す概念に、より近いものとなっていると言えるでしょう。

 統一教会ではこのような形式的、条件的な救いである「義認」を受けているクリスチャンの救済状態を“霊的救いの段階に留まっている”と表現し、しかるに次の段階としての再臨主による「霊肉共の救い(実体的完全な救い)」が必要となっていることを、キリスト教に対する主要なメッセージとして掲げてきたのです。

  しかし、そのような主張をしてきた当の本人である「統一教会」において、結果的にはキリスト教の「霊的救いと全く同様なタイプの救い」が公然と説かれるようになっているのです。

  文先生も祝福(条件的贖罪)を受けた者たちに対して、次のような『御言』を語っておられます。

「皆さんの一身は愛の衣を着たものとして、涙でもって洗ってから清くしてもらったとしても、心は清くなれない自分であることを知らなくてはなりません。この悲運な事実を自覚しなければなりません。考えるだけでも身震いするのです。サタンの、その恩讐の血が流れているものたちよ!  ……恥ずかしいわが身であることすら自覚のないこの群れよ。軽挙妄動するこの群れが今日の統一教会の祝福を受けた者たちではないかというのです。この時間警告しておきます。」(『祝福』67号 祝福を受けたもの達 68頁 )

■ 「霊的救い」とは?
『原理講論』には、「霊的救い」についての明確な定義はありませんが、「霊的救い」と同義と考えられる「霊的新生」については次のように述べられています。「「霊的な真の父であるイエスと、霊的な真の母である聖霊との授受作用によって生ずる霊的な真の父母の愛を受けるようになる。そうすればここで、彼を信じる信徒たちは、その愛によって新たな命が注入され、新しい霊的自我に新生されるのである。(『原理講論』266頁)」

この定義によれば、「霊的救い」は単なる形式的な“法廷的無罪宣告”としての「義認」というよりも、実質的な何らかの人格面(霊的自我)の変化を伴うものと考えることができますが、かといって「霊人体の救いでない」ことは確かであり(…もしそうであれば、クリスチャンは死んで霊人体だけになれば、皆救われることになってしまう・・・)、いずれにせよ、「霊的救い」が「霊肉共の救い」と比較した場合、“救済の過渡的段階”を示していることだけは確かであると言えるでしょう。

 

 (2) 「聖化」について

 

 このように、「義認」の段階では、実体的、人格的には何も変わらないので、次に「聖化」という概念が必要となってくるわけです。「聖化」とは、「信仰によって義とされた」クリスチャンが、実生活において「罪を犯さない、聖い人格に変化(変容)していくこと」を意味します。原理的表現で言えば、「堕落性を脱ぎつつ、創造本姓(神の心情)を復帰していく」過程であると言えるでしょう。

  「義認」の段階の「救い」は、キリスト教以外の人々、特に仏教的立場の人から見るならば、はなはだ“不可解なもの”であると言えます。つまり、「救われた、救われたと言っても、次の日に、又同じ悪いことをしてしまう、あなたの人格、心情が少しも変わっていかないのなら、一体“救われた”ことに何の意味があるのですか!」といった内容の、率直な疑問です。

  それでは、このような疑問に対し、キリスト教はどのように答えてきたのでしょうか。 キリスト教は、“信仰によって義とされたクリスチャン”は、“その後の信仰生活において、聖霊の力により、少しづつ「聖い人格」、「罪を犯さない人格」へと変えられていく”と主張したのです。そしてその「人格の変容の過程こそが、まさに「聖化」なのです。

 

  「聖化」は当然、信仰告白による“瞬時的な概念”である「義認」とは異なり、日々の本人の「努力」という“継続的”“自力的要素”を必要とします。しかしその「努力」は、決して統一原理の主張する「人間の責任分担=5パーセント」と同じ概念ではなく、あくまでもキリスト教の救済が「人間の功績ではなく、神の絶対的恩寵によるもの」という福音の中核的信条を守るために、「聖化」の過程における「人格の変容」は、あくまでも人間の努力ではなく「聖霊の力によるもの」であることを強調するのです。つまり「聖霊の働きの結果(賜物)」として、いわば神からの「他力的恩寵の業」として「人格の向上」は成されていくというのです。

■ 新生という概念
キリスト教の救済論の中で度々登場する「新生」という言葉は、統一原理でいう「新生」、あるいは「重生」という概念とは多少異なっています。基本的には「洗礼」を受け、キリストの復活に共に預かり“キリストにある義人として生まれ変わった”という“1回限りの出来事”を意味しています。「新生」は“心が変わる”ことですが、神の側から見るとき「再生」と呼ばれ、人間の側から見るときは「回心」と呼ばれています。但し、人間の側から見て「再生」は “受動的”ですが、「回心」は“能動的”な行為であるとされています。

 

 (3)  キリスト教の「聖化論」の問題点

 

ここで、一旦キリスト教の「聖化論」の問題点を取り上げながら、統一教会の救済論との関係を考えてみましょう。

 実は、キリスト教の説く「聖化」には、多くの問題点があります。それは、まずキリスト教の「聖化」は、我々人間が肉身をもって地上に生きている間は、決して「完成しない」ということです。つまり一生、どんなに努力しても「罪を犯さない完成人間」には到達できないということです。

■ 「ホーリネス(聖め)派」の「聖化論」
但し、「聖化」を強調するプロテスタントのメソジスト派(ジョン・ウェスレー)や、そこから分離したホーリネス系(聖め派)の教会では、「初時的聖化」「漸進的聖化」「全的聖化」といったいくつかの単語を用いて聖化の段階を区別し、クリスチャン生活における「完全な聖化」の実現を主張していますが、再臨時における「栄化」という段階と比較すれば、やはり途上であり、未完成な状態であることは明らかです。

 しかも、注目すべき点は、聖化の過程における「人格の実り=達成度」は、その人の「救い」にとって何の意味をもなさないということです。つまり、立派な人になってもならなくても、そのことで天国の行く場所に差がでたり、救済における評価の違いが生まれたりはしないということです。ある意味で、信仰告白をし、洗礼を受けクリスチャンになり、次の日にトラックに轢かれて死んだ人も、その後長く生きて人格の向上に努めた人も、結果として“同じ場所(天国)に行く(同じ救いに預かる)”ということなのです。

 このように、キリスト教の説く「救い」は大きく「義認」に重点がおかれており、「聖化」は、いわばそのことから始まる「聖霊の力(神の恩寵)による「必然的結果であり、しかも、どれほど努力しても“地上で”生きている限り、「聖化の完成」即ち人格完成は“達成できない”ということなので、キリスト教の「救い」にとって「人格の完成」は、さほど重要な意味をなしていないことが分かります。(もちろん一方では、“救われた”ことの証しは、 “聖霊の実”である“聖い品性と人格”として、必ず実を結ぶと主張しているのですが……)

  では、キリスト教では「最終的な人格の完成」は“いつ”成就するとみているのでしょうか。それは、イエス・キリストが再び地上に来られるとき(終末=「再臨」)であり、そのとき信徒は、キリストの栄光によって、瞬時に「二度と罪を犯さない」「二度と死なない」完成された特別な身体=「栄化体」変えられるというのです。これを「栄化」と呼んでいます。

 

  統一教会では、キリスト教が結果として、「義認」としての救い(霊的救い)しか強調することが出来ず、完全な救済(霊肉共の救い)は、終末時における「未来の事件」として、「先送り」しなければならなくなった理由は、イスラエル民族がイエスを受け入れることが出来なかったため、イエスが地上において救いの摂理を“完了”することができず、再び来なければならなくなったためであると主張してきたのです。

 

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救済論の問題点 目次
はじめに
第1章 統一教会における教典問題
【1】統一教会の「教理」と『原理講論』
【2】『原理講論』の“教典的位置”としての問題点
【3】『統一神学』の問題点
【4】『統一思想』の問題点
【5】「統一教会の教理」に関するその他の「解説書」
【6】文先生の『御言』の中にある「最終的真理」
 
第2章 統一教会の救済観の問題点
【1】「霊肉共の救い」を主張した統一教会
【2】統一教会の主流的救済観─「法廷論的贖罪観」の問題点
【3】「法廷論的贖罪観」が強調されるようになった経緯
【4】「法廷論的贖罪観」の強調は、“反対牧師対策”がその背景。
【5】「法廷論的贖罪観」の問題点。
【6】統一教会内にあった「二つの見解」
【7】「実存と法廷的評価」の分離は「キリスト教型の救済観」
【8】「罪」と「堕落性」の関係
【9】「罪と堕落性」という“対比の仕方”の問題点
【10】「堕落性本性」の内容と「罪」との関係
【11】「性質としての罪」の概念
 
【12】「堕落性」という言葉
【13】 「思い」や「性質」は“罪ではない”と主張する統一教会
【14】 「堕落性と罪」のより適切な対比表現
【15】 キリスト教における「堕落性と罪」の概念
【16】 「原罪」ついての二つの捉え方
【17】 人類始祖の犯罪行為としての「原罪」概念の問題点
【18】 「神の血統」の真の意味
【19】 「淫行関係」と「血縁関係」の概念の混乱
【20】 「罪の遺伝(転嫁)」とは?
【21】 「法廷論的贖罪観」の論理的問題点
【22】 もう一つの救済観─「生物学的血統転換論」の問題点
【23】 統一教会に混在する「二つの救済観」
【24】 『御言』にみる「正しい血統的転換論」
【25】 「心の遺伝」
【26】 「救済論」における「義認」と「聖化」
【27】 統一教会の救済論の重点は、「義認」より「聖化」
【28】 「義認と聖化」は“同時的”に実現
【29】 「罪と堕落性」「義認と聖化」からみた「イスラエル(選民圏)の変遷」
【30】 統一教会の本来の目的は「聖化」の完成
【31】 「第三イスラエル」としての統一教会と「第四イスラエル」時代の到来
あとがき