さて、「罪の遺伝」を「法廷論的讒訴の伝播(転嫁)」ではなく、キリスト教が「原罪」の概念の中で内包した「腐敗した性質」としての“自己中心的な心の動機”、すなわち「堕落性」として捉えるならば、「性質」は、すなわち「存在概念」なので、「遺伝する」「子孫に伝わる」という言葉で表現することが可能になってくることが分かります。つまり、何らかの方法で、アダムとエバが持ってしまった自己中心的な性質(原罪)が、人類全体の性向(原罪)として普遍化しているという事実を説明することが可能となってくるのです。
しかし、この場合重要なことは、そのような「心の伝播(遺伝)」が、決して「生物学的血統」を通じた遺伝(つまりDNAを介した伝播)ではないということです。もし「心の遺伝」が「肉的生物学的」次元においてなされているのだとすれば、神が初めに設定した「創造原理」を途中で変更しない限り、“メシヤ(無原罪の人間)の誕生”も、“堕落した性質からの救済”も不可能なってしまうということなのです。
■「卵子」を用いたイエスの聖霊降誕
保守的なキリスト教が捉えているように、メシアの誕生が、たとえ「聖霊」による“処女妊娠”だとしても、女性の卵子が持つ「DNA情報」によって、生まれてくる子供の半分(50%)の性質は決定されてしまうので、堕落人間の男女両方の生物学的血統を切断しない限り、完全に純粋な神の血統の子供を誕生させることは出来ないということになるでしょう。同じように、現在生きている堕落人間を創造本然の人間にするには、「DNA情報」を“生きたまま変更しなければならない”ということになってしまうでしょう。
しかし、これは生物学的には不可能なことなので、結局、神が“創造原理を変更して”、その超自然的な力(奇跡)によって、全く“新たな人間”を創造しなければならないことになってしまうのです。このような創造原理を無視した方法では、「人間の責任分担」も「復帰摂理歴史」も全く必要ではなくなり、アダムとエバの堕落後、直ぐに人類を滅ぼし、「新たな人類を創造をすれば良かった」ということになってしまうでしょう。
本書ではその詳細に触れることはできませんが、結論として、「心(精神的要素)の遺伝」は、生物学的遺伝とは“別次元”において起きており、その性質(心情)の変更(救済)は、アダムとエバから始まった「自己中心的な動機」という「心情的血統の連鎖(人類歴史)」の延長線上において、「メシヤの本然の心情に連結されることによって」初めて“可能な現象”であるということができるでしょう。それは決して生物学的な結合ではなく、「心と心の心情的連結」を意味しているのです。今後私たちは、文先生の『御言』の中からその“原理的な救済方法”をより詳細に知っていく必要があるでしょう。
このように、文先生の『御言』にみられる「血統的転換」とは、“生物学的つながり(血統)を条件とした法廷論的讒訴からの解消(法廷論的戸籍の移動)”でも、性関係を通じて文先生の生物学的な「精子」を受け取ることでもなく、明らかに“堕落性を脱ぎ、実質的な創造本然の心情(神性)を回復する「心情転換」”を意味しているのです。従って『御言』に登場する「血統」の本質的意味は、生物学的DNAの連鎖ではなく、「心情的血統」すなわち「心情の歴史的時間軸上における連結性」であると言うことができるでしょう。
【文先生の御言】
「この地上のキリスト教徒たちは、主が来られるようになれば、原罪を脱ぐのだと言いますが、原罪を脱ぐとはどういうことでしょうか。それは、サタンの審判を受けない心情的血統の回復を意味します。最後の最後まで残るものがこれです。」(『祝福家庭と理想天国』(Ⅰ)683頁)