このように、統一教会には、「法廷論的贖罪観」と「生物学的血統転換論」という全く異質な「二つの救済観」が存在していることが分かりますが、既に指摘したように、それぞれが深刻な問題点を抱えていると言わざるを得ません。
まず、統一教会において主流的位置にあると思われる「法廷論的贖罪観」の何よりも大きな問題点は、「原罪」の最も重要な側面である“腐敗した性質”としての「堕落性本姓」を、“罪ではない”と規定し、「救済」の概念を「法廷論的義認」に偏重させることによって、「キリスト教型の救い(カルヴァン派の契約神学)」にバックさせ、「救い」を“内実の伴わない”、“空虚な来世主義的なもの”にしてしまっているということでしょう。
更に、性質面から分離された「原罪の清算」が、メシアの代贖によって「法廷論的無罪宣告」として“一方的に”、“一瞬にして”与えられるという考え方は、極めて「安易な他力的恩寵論」へとつながるものと言えるでしょう。このような「安易な恩寵」の強調は、“人間の責任分担を軽視する傾向”を生じさせ、「心の善化」(縦的成長)に必要な、信仰生活における「人間の努力」をすら否定することになりかねない見解であると言っても過言ではないでしょう。(…ディートリッヒ・ボンヘッファーも、福音にすがりつくキリスト者が「安価な恵み cheap grace」に滑り落ちる危険性のあることを指摘しています。)
更に、このような“安易な他力的救済観”は、清平で行われている「免罪符的な金銭による救い」へと駆り立てる“原因”を作り出しているとも言えるでしょう。
一方、「生物学的血統転換論」は、「原罪の遺伝」に関しては、原罪の“法廷論的転嫁”よりも堕落性本性の“遺伝”の側面に力点が置かれており(…その点、アウグスチヌスの「自然首長説」の立場であると思われますが…)、その解決(救済)方法は、極めて問題のある考え方と言えます。即ち「メシヤによる救済」を、人間の責任分担を伴う“人を愛すること(アベル・カイン)を通して復帰(再創造)していく縦的な心情の成長路程”とは捉えず、「メシアの種(精子¬=DNA)」のみが、人間の心情を本然のものへと転換させる“物理的力”を有していると捉え、「血統転換」の概念を、単に“外的、唯物的な、生物学的血統転換”として解釈するので、結果として、「精子と卵子の結合(SEX)による救済論」、即ち反対派の指摘する「血分け」理論へとつながってしまう可能性のある、極めて“危険な思想”であると言うことができるでしょう。
■ 都合よく利用された「二つの救済観」
統一教会における、このような全く異質な「二つの救済観」は、本来は統一的に把握すべきである「罪と堕落性」の概念を分離して捉えた為、その「救済の方法」も“分離(即ち「罪の清算」と「堕落性の解消」とに分離)”してしまったことと、深く関係していると思われます。そしてこの「二つの救済観」は、その両者の理論の整合性についてはあまり検討されることもなく、ときとして、統一教会内においては、様々な部署において、その状況に応じ“都合よく用いられてきた”と考えることができます。
たとえば、「祝福」(原罪の清算)の “価値”を強調しなければならない時や、他力的恩寵的要素の強い「印鑑」「壷」「念珠」といった蕩減商品による“免罪符的贖罪”を奨める時には、「法廷論的贖罪観」が用いられ、一方、創造本性を復帰する「血統の回復」を意味する「御子女様との婚姻」を強調する時は、「生物学的血統転換論」が用いられているといった具合にです。
「清平」などで行われている、“先祖解放”による救済論は、厳密には上記の「二つの救済論」とも異なる、全く別な「もう一つの救済論」(極めて、非キリスト教的なシャーマニズム的救済観に近いもの)と言えますが、内容的には上記の「二つの救済論」の要素がミックスされており、キリスト教では否定されている「遺伝的罪」や「連帯罪」(…特に、韓民族と日本民族との民族的歴史問題に関する「遺伝的罪」や「連帯罪」が強調されている…)の“転嫁の根拠”としては、「生物学的な血統的有機的一体性による遺伝的連帯性(因縁)」という考え方に立っており、その贖罪方法としての「祈願符」や「献金」は、“罪責の解消”という点で、「法廷論的贖罪観」の観点に立っていると言えるでしょう。(但し、背中たたき等“除霊”に関係した部分は「法廷論的」な「贖罪行為」とみることは難しいでしょう。)
■ 「清平」的救済観について
「清平」における摂理(役事)の、神学的な最大の問題点は、「遺伝的罪」と「連帯罪」の清算の問題です。統一教会において「原罪の清算」が「祝福」によって起きるという場合、その神学的根拠となっているのが、まさに「法廷論的贖罪観」です。既に述べてきましたが、その「原罪が消える仕組み」を簡単に説明すると次のようになります。
そもそも“アダムとエバの犯した罪(原罪)が遺伝する”という意味は、血液や遺伝子を媒介として、何か“物質的なもの(性質)”が代々受け継がれていくということではなく、人類始祖と子孫が“血統的な有機的一体性の中にある”がゆえに、その“血のつながり”を条件として、アダムとエバの罪責が“法廷論的に”子孫にまで及んでゆくということなのです。
簡単に言うと、アダムとエバの犯した罪は“私の犯した罪”ではないが、アダムとエバと私は“血がつながっている”ので、その犯罪に対して“連帯的責任”があるというわけです。それと“同じ原理”で“先祖の罪も私に転嫁されている”というわけです。(但し、キリスト教の場合は、原罪以外は転嫁されません。)
そうすると、もし人類始祖の立場の人間が罪を犯さなかったとするならば、「原罪」は私に転嫁されないことになるのです。そのような“罪を犯さなかった(勝利した)人類始祖”として立たれたのが、他ならぬ“メシア”である「真の父母」だったのです。その罪の無い「真の父母」に“私”を「子」として認知して頂くこと、それが他ならぬ「入籍」という、まさに「法廷論的戸籍の移動」を意味する「祝福」だったのです。つまり「罪の転嫁」が“生物学的なもの”ではなく、「法廷論的」なものなので、「義の転嫁」も“実際の血統転換“をしなくても、「法廷論的」に行うことができるというわけです。(この点は、キリスト教の「契約神学」と同じ考え方です。)
問題は、この理論によれば、「祝福」とは、「真の人類始祖」であり「真のオリーブの木」である「真の父母(文先生御夫妻)」につながって“血統的転換されること“ですから、「原罪」だけでなく、“「遺伝的罪」や「連帯罪」からも同時に解放される”ことになるはずなのです。それは「原罪」の転嫁の理由と、「遺伝的罪」や「連帯罪」の転嫁の理由が“同じ”だからなのです。(共に“同一の血統圏にある”という理由。そもそも原罪とは人類始祖の“遺伝的罪”のことなので・・・・。)従って、「祝福」によって「原罪」は清算されているが「遺伝的罪」や「連帯罪」は“残っている”ということ自体、神学的には極めて理屈の合わない矛盾した見解となってしまうのです。そもそも再臨主が来られたのに、“再臨主は「原罪の清算」しかできないので、残りの罪(遺伝的罪、連帯罪)は「清平」で!”という発想自体、とても納得できるものとは思えません。
(「祝福」を「接木」に例え、もし「真のオリーブの木」につながっても、古い枝に「昔のオリーブの木の性質」が“残っている”(従って、遺伝的罪、連帯罪は残っている)とみるならば、もはやそれは罪を「法廷論的なもの」として扱わず、 “性質的な罪(堕落性本性)”とみているということになるでしょう。)