さて、統一教会には、既に述べてきたようなキリスト教の契約神学型の「法廷論的贖罪観」とは全く異なる、「生物学的血統転換論」とでも言うべき、“もうひとつの救済観”が存在しています。この考え方は、既に述べたアウグスチヌスの「自然首長説」をより発展させたものであり、「罪の遺伝」という言葉の「遺伝」という単語を“徹底的に生物学的なものとして解釈する”というものです。(本書では、この概念を詳細に扱うことはできませんが、ある意味では、「法廷論的贖罪観」より、現実の信仰生活に与える影響の大きさから考えると、はるかに深刻な問題点を抱えているということができるでしょう。)
それは、「統一原理」の救済観の中核である「血統転換」という概念を、前述のような「法廷論的な戸籍の移動(入籍)」とはみなさず、メシア(文先生)家庭がもつ生物学的血統との実体的連結、即ち“婚姻(性的関係)による”文字通りの精子と卵子を媒介とした「肉的、生物学的血統転換」のことであると主張する神学的立場のことです。
しかも、それは「血統的転換」を、「法廷論的なもの」としてみなさないばかりでなく、文先生が『御言』の中で、何度も強調されている「心情的転換」の概念としても捉えず、ある意味では極めて唯物的とも言える、精子と卵子を媒介とする肉体的「生物学的」な連結として捉えているということなのです。
三人の統一教会の代表的講師による共著で、日本統一教会会長によって全国の信徒に対する必読書として推薦されている書籍には、次のようにはっきりと記述されています。
〔「血統」も、生物学的なアダム(男)とエバ(女)の血統のことであり、……「霊的な目に見えない何か」なのではありません。 ……血統の連結に関する霊的な妄想でも、神の心情に直結したと思い込むことでもないのです。生物学的に精子と卵子の結合による「血統的なつながり」がある関係のことを言うのです。
……神の血統、すなわち「本然の血統」への連結には、「本然の種」が必要なのです。 ……「性相的、霊的要素」「性相的心情の要素」がどうのこうのと言って、神の血統の概念を模糊化し、非科学的な血統について語っておられるのではありません。神の血統への連結には生物学的な「本然の種」が必要であるというのです。……本然の血統の「種を受ける」というのは、いわゆる「血分け」ではありません。 ……本然の血統である直系の子女様と祝福二世との婚姻のことです。そして、「種を受けて」生まれてくる孫が、真のオリーブの木になるのです。真のオリーブの木になるのに、祖父母、父母、そして孫と「三代」かかるのです。親がなるという話ではありません。〕(『誤りを正す』光言社256~258頁)
この記述によれば、統一教会が主張する「血統」とは、目に見えない“霊的な要素”でも“心情的な要素”でもなく、文字通りの“精子と卵子の結合による「血統的なつながり」”のことであり、 “生物学的血液の連鎖” のことだというのです。(勿論、医学的には“血液そのもの”が遺伝されるというわけではありませんが…。)
従って、堕落した人間が「神の血統」を回復するには、「神の霊的な性相的要素」や「神の心情の要素」ではなく、生物学的な「本然の種」、即ち「本然の男性の精子」が必要だと主張するのです。そしてその「本然の種」をもつ唯一の存在こそ、創造本然の人間として誕生したメシヤ(文先生)と、その生物学的血統を引き継いで生まれた子供(御子女様)たちであるというのです。
もちろん「種」とは「精子」のことなので、結局「神の息子」として来られた文先生か、あるいは、その息子としてお生まれになった“男の子のみ”が、「神の本然の種」を持っているということになるのです。
このように、統一教会の主張している「神の血統への回復」、即ち「本当の血統転換」というのは、「祝福」というサクラメント(儀式)を通して得られる「原罪清算」という単なる“法廷論的義認”のことではなく、「本然の血統である直系の子女様と、祝福二世との婚姻」のことであると主張するのです。
しかしこのような、反対牧師たちが以前より「文王朝の拡大」と揶揄する、「文先生の生物学的血統圏の拡大をもって“人類の救済”とみなす」という「救済論」は、本当に文先生ご自身が『御言』の中で語られている「真の救済観」と言えるのでしょうか。
このような唯物的、生物学的救済観には、余りにも多くの問題点があると言わざるを得ません。
まず、このような観点に立つと、“神の血統へと連結される「血統転換」は、「神の本然の種」を持った男性としてお生まれになった御子女様と、祝福二世の“女性”との間でのみ可能である”ということになり、結局、『誤りを正す』の中で「親がなるという話ではありません」(257頁)と述べられているように、文先生から祝福を受けた当事者である一世の親たち夫婦は、「神の血統」に入ることができないという結論になってしまうのです。
更に言えば、「種を受けて生まれてくる“孫”が、“真のオリーブの木”になる」とありますから、男性の御子女様に嫁いだ「祝福二世の女性」も、「真のオリーブの木」を“産む”ことはできても、「祝福二世の女性」自体は、“真のオリーブの木にはなれない”即ち“血統転換はされない”ということになってしまうのです。
そればかりか、教理的には「無原罪の子」とされている「祝福二世の男子」も、生物学的には“神の本然の種を持っていない(文先生の直系ではない)”ので、女性である真の御子女様が「祝福二世の男子」と結婚して子女を生んでも、その子供は神の血統を持つことができないということになってしまうのです。(しかも、よく考えると「本然ではない種」が、「聖い胎中」に蒔かれるということは、神の血統を残せないどころか、エバが堕落した時と同じ状況を意味することになると考えられるのです。)
「アダムも誘惑を主管できずに肉的性関係を結んで心情を汚し、そのために汚れた種がエバの胎中に蒔かれて胎中が汚され、その結果、偽りの生命体としての偽りの子女が生まれ、偽りの血統が繁殖し、サタン主権の世界ができてしまったのです。」(『誤りを正す』光言社119頁)
結局、“文先生ご夫妻から誕生された「男性の御子女様の精子」との結合によって生まれた子供のみが「神の血統」に転換される”というのですから、人類の血統的な救済は文先生の直系である「男性の御子女様との婚姻」以外には有り得ないという驚くべき結論になるのです。
【補稿】「真のオリーブの木」になるのに、祖父母、父母、孫の「三代」かかる(『誤りを正す』光言社257頁)ということは、「祖父母」である「文先生御夫妻」も、実は「真のオリーブの木ではない」という意味にもなりますが、そのことと、「本然の種」である「メシヤの精子(DNA)」を相続することによってのみ「血統転換」(性質の聖化)が起こるという理論との間には、明らかに矛盾があると言えるでしょう。(つまり、継代を通して“漸次的に”聖くなるという概念と、“完成したメシヤの性質”という情報を持った精子(DNA)を伝授していくこととは、明らかに異なった概念と言えるでしょう。)
実は、このような「血統転換」の方法を、キリスト教の反対牧師たちは広義の「血分け」と呼んできたのです。この本には“……本然の血統の「種を受ける」というのは、いわゆる「血分け」ではありません。”とわざわざ弁明していますが、反対牧師たちは、“メシヤの精子によって「血統転換」されるという考え方”、即ち“メシアの精子に堕落人間の性質を聖化する物理的能力がある(…創造本然の人間の性質は、メシアの精子のDNAに書き込まれているので、その物理的繁殖によってのみ人類は聖化される…)とする考え方(教理)”を「血分け」と呼んでいるのですから、この本に記述されている説明こそ、統一教会が“反対派のデッチ上げである”として真っ向から否定してきた、まさに「血分けによる救済原理」そのものであると言ってもさしつかえないでしょう。
「原罪」の概念を、心情的なものとは捉えず、「淫行」という外的行為にのみその焦点を当てると、「救済の方法」においても、必然的に「外的な行為による血統転換(性行為)」が強調されることになってしまうでしょう。堕落論における「間違った結婚」の本質を「間違った愛」ではなく、「間違った性」(あるいは「愛」を心情的、精神的なものではなく、肉欲的なもの)と捉えることによって、「性(SEX)による救済」という、文先生の『御言』とは全くかけ離れた救済観が主張されることになってしまうのです。
このような「メシアの本然の種(精子)」を受けることによって、いわば物理的に“性質(心情)の変革”を願う「救済論」と、『御言』の中で語られている、「ホームチャーチ」を通し「アベル・カインの問題」に勝利しながら、人間の責任分担を全うしつつ、「心情の縦的八段階」を上っていく救済路程と、一体如何なる関連があるというのでしょうか。
「本然の種(精子)」の伝播には、必ず男女の「SEX」という「行為」が必要となりますから、統一教会の「血統転換」理論は、事実上“SEXによって成される“と非難されても仕方ありません。そのような“行為”を通して誕生した、文家の子女達による「世代的血族連鎖」こそ、「復帰された血統」であると考えられていることが分かります。
■ 『統一倫理学』
韓国の「鮮文大学」(統一教会の二世たちが数多く在学)の授業で用いられている『統一倫理学講座(第一巻) 祝福家庭のための天一国生活倫理』(清心神学大学院大学出版部)と題するテキストの内容が、まるで巷の書店で販売されている「HOW TO SEX」とでも言うべき、「性の指南書」となっており、夫婦愛の心情的な側面には、全くといってよいほど触れられておらず、外的、テクニック的な性生活の指導に始終しているのは、このような「SEXによる救済観」という考え方が大きな影響を与えているのではないかと考えることができます。(この本は元日本統一教会の会長、清平の訓母様などによって推薦され、修練会等で使用されています。)
しかし問題は、このような「生物学的血統転換論」とでも言うべき驚くべき内容が、決して、統一教会の末端にいる人物によって語られている“異端的な見解”ではなく、統一教会における代表的講師と呼ばれる三人の人物によって執筆され、元日本統一教会会長が推薦し、“統一原理の正統な理解のために”と題して、全国の信徒に読むように指示が出された書物に書かれていることであり、従って、このような「血統転換論」が、現在の統一教会の「正統的な教学的見解」となっているということは、疑うことのできない事実なのです。
結局、この理論は、来られたメシヤの生物学的「血統」のみが「救い」にあずかるという内容なので、今地球上に生きているほとんどの人間、即ちメシヤとしてお生まれになった文先生の生物学的血統を引き継いだ御家庭から誕生する系譜以外の人間は、全員“救われない”という理論になっているのです。
これは明らかに統一原理の主張である「万人救済論」とは矛盾した考え方であり、極論すれば、“救われない”とされる人々は、最終的には「ノアの箱舟」の時のように、神の審判を受けざるを得ない(…霊界に行ってもうらうしかない…)といった恐るべき考え方にもつながるものと考えることができます。