統一教会の「法廷論的贖罪観」は、既に絶版となっている補助教材シリーズNo8『やさしい贖罪論』という書籍の中で、その理論的な解説がなされています。
「そもそも“罪”という言葉自体が既に宗教的、倫理的、法律的用語であることを考えると、それが“遺伝する”といっても、そのことが単なる生物学的遺伝を指しているのではないことは明らかです。つまり原罪の遺伝は、血液や遺伝子といったものを通じて、何か物質的なものが代々受け継がれていくということではありません。
簡単にいえば、人類始祖の犯した罪(原罪)が遺伝するとは、人類が血統的な有機的一体性を有しているがゆえに、その血のつながりを条件(因縁)として法廷論的(forensic)に罪の讒訴が後孫にまで及ぶということ……つまり、生物学的要素を媒介(条件)とした讒訴条件の伝播なのです。」(『やさしい贖罪論』光言社192~194頁)
しかし、この説明にはある重要な論理的矛盾が隠されています。
それは、生物学的(存在論的)要素と、法廷論的(価値論的)要素との関係です。つまり、人類始祖の子孫への「罪責の転嫁」が、たとえ法廷論的な評価(価値)だったとしても、その“根拠”自体は、あくまでも“血がつながっている”という、“生物学的、血統的一体性”という「存在論的」なものであるということです。もしそうであれば「救済の転嫁」においても、法廷論的な無罪宣告を勝ち取るためには、今度は“血がつながっていない”という、やはり“生物学的、存在論的根拠を必要とすることになってしまう”ということです。
つまり、「原罪の遺伝」について、一方では“原罪の遺伝は、あくまでも法廷論的なものであって、生物学的なものではない”と言いながらも、その救済方法においては、やはりメシア自身がまず、アダムからの生物学的血統から完全に独立した、全く別個な生物学的血統に生まれなければならないし、(…その点、ファンダメンタルなキリスト教は、イエスの誕生を、肉の父親にはつながらない、奇跡的な聖霊による処女降誕として、アダムの子孫であるという生物学的血統の連結性から切り離された存在として捉えている…)更に、そのメシアによって原罪からの無罪宣告を獲得しなければならない堕落人間も、実質的生物学的子孫(実際の肉的子女)として産み直されなければならなくなってしまう(…つまり、法廷論的な戸籍の移動ではなく、実質的、生物学的血統転換を必要とすることになってしまう)ということなのです。少し論理が込み入っているので、注意深く読まないと煙に巻かれるようですが、明らかに論理の矛盾がそこにはあるのです。
このような理論上の混乱の原因は、統一教会の「法廷論的贖罪観」が、前述のキリスト教の「契約神学」と似ているようで、実際は「契約神学」と全く同じではなく、丁度カルヴァンの「連帯首長説」とアウグスチヌスの「自然首長説」とをミックスしたような見解であるためと考えることができます。つまり、「罪の転嫁」については法廷論的な「契約神学」と同じですが、その「転嫁の理由(根拠)」については、“アダムと神との契約”とはみなさず、“血統的な有機的一体性”というアウグスチヌスの「自然首長説」の立場をとっているためで、その論理が首尾一貫していないからと考えることができるのです。