ところで「原罪」を「原罪」→「遺伝的罪」→「連帯罪」→「自犯罪」という血統的有機体における“位置”という観点から捉えた場合、既に述べてきたように、多くの検討すべき問題が出てくるのですが、次に、これらの子孫に対する「罪の遺伝(転嫁)」という問題について考えてみましょう。
■ 「罪の転嫁」と「罪の遺伝」
「転嫁」と「遺伝」という単語は、どちらも曖昧に使われることも多いのですが、「罪」を「法廷論的罪責」という「価値概念」の観点から見た場合は、子孫に対する影響は、“法廷論的評価”なので、「罪の転嫁」と表現し、「腐敗した性質」という「存在概念」として見た場合は、子孫に対する影響は、“実質的存在論的”なものなので「罪の遺伝」という言い方が、より分かりやすいのではないかと思います。(しかし、何度も述べてきたように、この両面は飽くまでも同一存在の両側面なので、統一的に把握すべきものであることは言うまでもありません。)
これらの「四つの罪」は、いずれも「法廷論的罪責」としての概念ですが、最後の「自犯罪」を除けば、“私”からみれば全て“他人が犯した罪“ということになります。「原罪」は人類始祖である“アダムとエバ”の犯した罪ですし、「遺伝的罪」は“先祖”の罪ですし、「連帯罪」は“自分に関連(因縁)のある他の人間”の罪ということです。
“個々人の自由意志による責任性”によって成り立っている今日の刑法の下で生活する現代人にとって、「自犯罪」以外の罪(原罪・遺伝的罪・連帯罪)を「自分の罪」とみなすことは、現代の裁判にも全くなじまない、極めて抵抗ある考え方と言えるでしょう。
それでは、キリスト教や統一教会は、そもそも“他人が犯した罪”を何故“私が背負わなければならない”と考えるのでしょうか。一体その根拠とは何なのでしょうか。
このような“人類始祖の犯罪”である「原罪」の「遺伝(転嫁)の根拠」について、キリスト教では、大きくは二つのタイプの見解がありました。一つはアダムの「自然首長説」という立場であり、もう一つは「連帯首長説」と呼ばれている立場です。実はこの二つの考え方は、人間の「霊魂の起源」についての“二つの見解”と深く関係しているのです。
◆ 「自然首長説」……アウグスチヌス
前者の「自然首長説」、即ちアダムを「自然的代表者(natural headship)」とみる見解は、人間の「霊魂の起源」については「遺伝説」と呼ばれる立場をとり、人間の肉体がアダムとエバからの自然繁殖によって伝えられているのと同様に、「霊魂」もまたアダムとエバからの繁殖によるものとする見解です。人間は“個々の存在”というより、「人間」という「種」として創造されたのであり、個々の人間はあくまでも「アダムとエバの繁殖体」であり、「人類」という「アダムとエバから出発した生物学的繁殖による精神と生命の連続」という “有機的一体性”が強調されています。人類は個々の人間として生まれる前に、既にアダムとエバの中に「胚種的」または「精液的」な形として“真の意味で存在していた”とみられており、アダムが罪を犯したとき、人類は全て“アダムの中で、共に罪を犯した”ので、人間がアダムの「罪責」と「腐敗した性質」を受け継ぐことには、何らの“不公平”も“不適切”もないと主張します。アウグスチヌスがこの見解の代表的人物とされています。この説は、「性質としての罪」である「堕落性」が何故人類に普遍的なものとなっているのか、その“遺伝的性格”をもっともよく説明している見解であると言えるでしょう。
◆ 「連帯首長説」……カルヴァン(契約神学)
後者の「連帯首長説」、即ちアダムを「契約上の代表者(federal headship)」とみる見解は、「霊魂の起源」については「創造説」と呼ばれる立場で、人間は“肉体のみ”を先祖からの遺伝として引き継いでおり、「霊魂」は個々の人間の誕生のとき、神によって直接創造されるとする見解です。この説について次のように解説されています。
「この見解は、人間は身体的な本質を遺伝的に親から受け継ぐが、霊魂は各個人のために神が特別に創造なさるものであり、誕生の際(または別の適当な時期)に身体と結合するというものである。それゆえ、我々は心理的にも霊的にも、アダムを含む先祖のうちには存在しなかった。しかしながら、アダムは我々の代表であった。神は、アダムが自分自身のためにだけではなく、我々のためにも行動するようにとお定めになった。
そのため彼の行動の結果も子孫に受け継がれた。アダムは、言わば我々すべてのために執行猶予中の身であったのである。そしてアダムが罪を犯したゆえに我々すべては罪責をもつ腐敗した者として扱われている。神とアダムとの間に結ばれた契約に基づいて、代表としてのアダムがしたことを我々が実際にそして個人的に行ったかのように取り扱われるのである。」(『キリスト教神学』第3巻 ミラード・j・エリクソン著 いのちのことば社 210頁)
この説は、前者のように、アダムの“腐敗した性質”や“罪責”が、生物学的繁殖を通して実質的に“遺伝している”とはみなさず、あくまでも人類は、アダムの契約上における “法廷論的な罪”に巻き込まれたに過ぎないとみるのです。この説は「契約神学」と呼ばれ、改革派(カルヴァン)がその代表的立場とされています。このようなアダムの原罪の、人類に対する「法廷論的な転嫁」の考え方は、救済論における「キリストの義」の「法廷論的転嫁(義認)」と裏表のように密接に結びついているのです。
■ パウロにみるアダムとイエスとの「並行性」
パウロは「ひとり(人類始祖)の罪過によってすべての人が罪に定められた」(ローマ5:18)という人類全体への「罪の普遍性」を強調していますが、それは「ひとり(メシヤ)の義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。」(ローマ5:18)という、福音の中心であるメシヤによる「救済の普遍性」を支えている根本的な概念となっているのです。
このように、「連帯首長説」あるいは「契約神学」においては、「アダムによる原罪の転嫁」と「キリストによる義の転嫁」との「並行性」を“如何に合理的に説明するか”ということが、神学の重要なテーマとなっていることが分かります。この「並行性」について、次のように説明されています。
「我々とアダムとの関係、および我々とキリストとの関係が並行しているということ(ローマ5:12─21)は、ここでは意義深い。我々自身は実際には義ではないが、イエスのもっておられる義の立場にあるかのように取り扱われる。それと同じく、我々は最初の罪を犯すときまで、個人的には罪深いとは言えないのであるが、そのときより前に、アダムがもっていた罪深い立場をもつかのように取り扱われる。我々のものでないキリストの義が我々に転嫁されることがもし正しいのなら、アダムの罪とその罪責が我々に転嫁されるのも公平で正しいことである。
アダムは、キリストが我々のために行動できるのと同じく、我々のために行動することができることになる。」(『キリスト教神学』第3巻 ミラード・j・エリクソン著 いのちのことば社 210頁)
しかし、キリスト教はユダヤ教とは異なり、「父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、」(出エジプト記20:6)といった聖句よりも、「子は父の悪を負わない」(エゼキエル18:20)「人はめいめい自分の罪によって死ぬ。」(エレミヤ31:30)といった聖句や、イエスが生まれつきの盲人を癒されるとき、その理由について「本人が罪を犯したのでも、その両親が犯したのでもない」(ヨハネ福音書9:3)と語られた聖句等を根拠に、「遺伝的罪」や「先祖の因縁」などといった概念を基本的に認めていません。
従って“子孫に転嫁される罪”というのは、先ほど論じたようなアダムとエバが犯した様々な罪や、先祖の犯した罪ではなく、「取って食べてはならない」という神の戒めを破り「禁断の果実を食した」という“たった一度の”神に対する不従順(不信仰)としての罪(原罪)であることを強調しています。
「アダムの最初の罪は、神に対するただ一度の、永遠的反逆であった。他のすべての罪は、あの一つの違背の実であって、子孫にまではおよばないものである。」(『組織神学』ヘンリー・シーセン いのちのことば社438頁)
この最初の犯罪がまさに「原罪」であり、この罪責のみを“人類全体のものとして、子孫に転嫁する”ということを、神が“人類の代表であるアダムと契約を結んだ”というのです。ヘンリー・シーセンはこの「連帯首長説」について、次のように解説しています。
「神はアダムを人類の代表と定め、かれと契約を結ばれた。…………この契約の条件として、神はアダムがもしこの連帯性のかしらとしての神に従うならば、かれとかれの子孫に永遠の生命を与えると約束し、かれが従わなかった場合には、腐敗した性質と、死という刑罰を与えると宣言された。しかしアダムは罪を犯してしまったので、神はかれの子孫をみな罪ある者とみなし、アダムの違背のゆえに、かれらにものろいを宣言された。」(『組織神学』ヘンリー・シーセン いのちのことば社433~434頁)
実は、統一教会における「法廷論的贖罪観」という考えは、まさにこのような改革派の「契約神学」と同様な見解であることが分かります。