従来の保守的キリスト教が、創世記3章にみる人類始祖の堕落を、「文字通りの禁断の果実を取って食べたこと」と解釈していたのに対し、文先生の天啓による統一原理が、それは“果実を食べた”ことではなく、“天使長ルーシェルとエバ、並びにアダムとエバとの「淫行」”であったことを明らかにしたことは、まさに原罪の本質を示す、画期的な神学的指摘であったと言えます。(勿論、類似した見解が歴史的に全く無かったという意味ではありませんが…。)
しかし、文先生の『御言』によれば、「淫行による堕落」の本質は、「淫行」という「外的性行為」自体にあるのではなく、あくまでも「不倫なる愛」「自己中心的な愛」という、“心情的、精神的側面にある”ことが重要な点なのです。
そもそも「血統」及び「血縁関係」という概念を、単に「生殖器による生物学的な結びつき」として捉えると、直ちに根本的な矛盾にぶちあたってしまいます。それは、「神の血統」や「サタンの血統」といった概念の説明自体が、極めて困難なものとなってしまうということです。
「神の血統」や「サタンの血統」という表現がなされる場合、果たしてそれはどのようなことを意味しているのでしょうか。
神やサタンが人類と“連結している”という場合、決してそれは「精子と卵子」といった「生物学的物質」即ち「生物学的DNA」を媒介としたものでないことは明らかです。確かに人間は神から“生まれた”のですが、それは決して、神自体の中にある「男女神」が「性行為」をすることによって誕生したというのではありません。従ってそれは明らかに「生物学的な関係」ではなく「心情的な関係」を意味しています。
更に、「天使長とエバとの関係」も、天使は肉体を持たないので、肉体的な「精子」は存在せず、従ってエバを妊娠させることはできません。 “霊的な感化”を与えることは出来ても、物質的、生物学的「血統」を出発させることはできないのです。
『原理講論』には、「愛によって一体となれば、互いにその対象から先方の要素を受ける…」(109頁)とありますが、ここでいう“要素”とは、精子を通じた“生物学的DNA”ではなく、“性相的、心情的要素”を意味していると考えられます。文先生の『御言』には、堕落の起源である「罪の根(原罪)」と「血統」が、共に同じ「自己中心の動機である」ことが、はっきりと語られています。
【文先生の御言】
「悪とは、サタンの讒訴し得る条件を提示することです。罪とは何でしょうか。サタンの讒訴し得る内容をもつようになれば罪です。ですから、誰よりもまずキリスト教徒たちは、罪の根をはっきりと知らなければなりません。
悪は、サタン自身は言うまでもなく、エバにおいても「私が主体になってみよう、私が中心になろう」というところから出発しました。神様の創造の原則は、「相手のために生きよ」ということであり、「私のために生きよ」というのは、サタンの根性です。皆さんは善悪の起源をはっきり知らなければなりません。
悪なる人は、私に仕えよと言います。神様もこれを打ち砕こうとするし、イエス様もこれを打ち砕こうとします。それゆえ、おごり高ぶるな、他のために犠牲になれ、奉仕せよと教えてきました。(『祝福家庭と理想天国Ⅰ』 772頁 祝福の意義と価値)
「堕落していない世界は、理想的世界であると同時に、だれもが喜ぶことのできる公的な世界です。堕落した世界とはどのような世界ですか? 自分を中心として大きくなっていく世界です。
いくら大きくても、自分を中心としたものは、なくなっていくのです。堕落のゆえに何を失ったのでしょうか?
神様の血統を失ってしまいました。このような本質的な面において、愛と生命が結合して血統が生じるのですが、公的な“ために生きよう。全体の前に吸収されよう”という思想を持った血統ではなく、“自分を中心として吸収させよう”という血統になったので、世界が変わってしまったのです。180度反対になったのが、今日の堕落した世界です。堕落したということは、原則の世界から脱線したことをいうのです。」 (『ファミリー』 2000/2 11頁 第33回「真の神の日」午前零時の御言)
つまり、『原理講論』の堕落論には、「サタンの血統」という単語が数多く登場しますが、その本質は決して生物学的物質的なものではなく、明らかに“自己中心の動機”という「精神的、心情的要素の連結性」を意味しているのです。文先生の『御言』を中心として整理してみると、現在の統一教会の「血統」の概念に対する理解は、余りにもその本質を誤ったものとなっていることが分かります。