後者の概念における「原罪」とは、結局「アダムとエバの自犯罪」ということであり、他の「罪」との違いは、“内容(種類)”ではなく、人類という血統的有機体の中の“どこで生じた罪なのか”という点にあります。つまり、Aさんの犯した罪は、Aさん自身にとっては「自犯罪」であり、Aさんの子供にとっては「遺伝的罪」となり、Aさんの兄弟にとっては「連帯罪」になるというわけです。このような観点に立つと、如何なる犯罪も、人類という血統的連結体の中では、必ず“三つの呼び方(遺伝的罪、連帯罪、自犯罪)”が存在することになります。
しかし、四つの罪のうち、例外的なのは「原罪」で、「原罪」だけは、“人類始祖だけにしか犯すことができない“という特別なものです。アダムとエバと”全く同様な内容の罪“を子孫の誰かが犯しても、もはやその犯罪は「原罪」とは呼ばれないということです。
このような意味での「原罪」は、結局、概念としては「一般的先祖(人類始祖以外の)からの遺伝的罪」ではなく、“「人類始祖からの遺伝的罪」のことを、特別に「原罪」と呼んでいる”ということになります。
(1) 「原罪」の特徴は、その「内容」なのか、「位置」なのか?
しかし、「原罪」が罪の内容(種類)を指しているのではなく、“血統的有機体の中の原初という位置”を示しているということになると、人類始祖(アダムとエバ)の犯した罪は、その犯罪の種類に関係なく、“どのような罪を犯したとしても”子孫からみて「原罪」として扱われるのだろうか、という疑問が生じます。仮にアダムとエバが「淫行」ではなく、「ドロボー」や「暴行」「いじめ」「詐欺」、あるいは保守的なキリスト教会が捉えているように、「禁断の果実(文字通りの果物)を取って食べる」といった内容の罪を犯したとしても、それは子孫にとって「原罪」になるのだろうかということです。
勿論キリスト教では、それらの内容は立派に「原罪」として成立する訳ですが、しかし、統一教会の場合、『原理講論』にはっきりと「食物が原罪を遺伝するその要因とはなり得ない」(93頁)と書かれていますから、多くの統一教会員にとっては、「原罪」とはあくまでも「遺伝」につながる「淫行」のことであり、アダムとエバ(人類始祖)が犯した罪ならば何でもかんでも「原罪」になるとは考えないでしょう。おそらく、生物学的血統を生じさせる(子供を産む)ということと、天法に違反するということが同時に起きるような「特殊な犯罪=淫行」でなければならないと考えるのではないかと思います。
■ 子孫に転嫁される、たった一つの「犯罪」
但し、キリスト教においても、子孫に影響を与えた「原罪」とは、アダムとエバの犯した“全ての罪”ではなく、“禁断の果実を食したという、最初の、たった一度の違法行為”であることが強調されています。しかも、犯罪の内容(種類)というよりも、神の命令に従わなかったという「違法性」に重点が置かれています。ヘンリー・シーセンは次のように述べています。
「堕罪後の二人の罪深い行為は、初めの場合の行為とは異なるものである……最初の禁令のみが、試みの性格をもったものであって、かれらのその後の行動は、性質の違ったものなのである。」(『組織神学』ヘンリー・シーセン390頁)
しかし、「原罪」が「血統的有機体の原初(人類始祖)における犯罪」という概念規定であれば、必ずしも「生物学的血統を出発させる、出産を伴う淫行」でなければならない理由はないことになります。キリスト教が捉えているように、「原罪」と呼ばれる何らかの「人類始祖による違法行為(この場合、性行為以外の犯罪)」があった“その後に”、性交渉を通じて人類の繁殖が起こったとしても、彼らの行った犯罪は子孫から見て「原罪」として扱われることになるはずなのです。つまり、犯罪の成立と生物学的血統の出発が、必ずしも“同時である”必要はないことになります。
■ 妊娠に至らない淫行
「血統の出発(出産)」にこだわるとすると、同じ「淫行」でも、“妊娠しなかった場合”そのような“不倫なる行為”を、どのようにみたらよいのでしょうか。そのような行為は“当人だけで終わる”ので、後に子孫から「原罪」と呼ばれる犯罪とはならないのでしょうか。「赤ちゃん」ができるまでは、つまり“血統が生じるまで”は、同じような行為がアダムとエバの間に何回あったとしても「原罪」としては認定されないということなのでしょうか。生物学的血統が生じて(子供ができて)初めて「原罪」という“罪責”になるというのは、一般的倫理観からみても極めて理解に苦しむ見解と言えるでしょう。
事実、統一教会内においても、一般的にアダム・エバ問題の「脱線行為」という場合、必ずしも妊娠する行為のみを指していないことは明らかです。原罪の内容は、単に精子と卵子を結合させて血統を生じさせるという「行為」の特殊性にあるのではなく、もっと深い愛の性質や内面の心情の動機に関係したものであることは、余りにも明らかなことであると言えるでしょう。
そもそも天使長ルーシェルとエバとの不倫なる関係は、あくまでも肉体を持たない天使との「霊的堕落」なのであり、その時点では、エバは決して子供を孕むことは出来ない、つまり生物学的な血統を出発させることの出来ない行為であるにもかかわらず、その行為は「原罪の定義」に組み入れられています(『原理講論』121頁)。このことは、原罪が「不倫なる愛による性関係」であるという場合、その本質が決して「性行為」という肉体の行為自体(あるいは、子供が出来たかどうか)にあるのではなく、むしろ「不倫なる愛」という精神的部分(性質)にこそあることを示しており、「血統」という単語が、単に“生物学的次元で語られたものではない”ことは明白であるといえます。
(3) 「原罪」の本質は“自己中心の動機”としての「堕落性本性」
このように「原罪の本質」は、その罪が“どこで起きた”とか、“誰がやった“とか、あるいは、その行為の法的“違法性”といったことよりも、人類全体の「心情」と「性質」を“罪へ傾く普遍的傾向性”として規定している「堕落性本性」、即ち「歪んだ心情」「自己中心の動機」であるという点が重要だと言えます。
不倫なる性関係を通じて生物学的に子供を産む(繁殖する)という一連の“行為”への“天法に対する違法性”という問題も、決して軽視すべきことではありませんが、その行為を通して遺伝される「罪の性質」こそ、より重要な「原罪の本質面」であると言えるでしょう。「淫行」という身体的、外的行為の側面のみに、過度な重点が置かれることは、文先生が語られる「原罪の本質」を“見誤る”おそれがあるものと言えます。
そもそもアダムとエバの堕落行為(肉的堕落)自体を見た場合、お互いにやがては夫婦となるべき原理的な関係であり、ただ“時期が誤っていた”ということですから、身体的行為という側面では、「淫行」という表現は余り適切ではなく、今流でいえば「婚前交渉」ということなので、現在の刑法では、倫理的には問題があるとしても、それほど重罪とされるわけではありません。従ってより本質的問題は、“性行為そのもの”というよりも、性行為を通じて子孫に伝播した、「未熟、かつ自己中心であった性質(堕落性本性)」であると言えるでしょう。
更に、「原罪」が血統的連結体(人類歴史上)の「原初(最初)の罪」であるという観点から見た場合、どう考えても「淫行」が“「初めの罪」にはならない”という、論理的な矛盾が起きてしまうのです。つまり、決定的な「一線を越える」という行為の“前に”、既に抱擁や接吻等、多くの天法を違反する行為の連続があったとみることができるでしょう。 しかもイエスが「情欲をいだいて女を見る者は心の中ですでに姦淫をしたのである」と語られたように、“思いのレベルでの罪(…これこそ文先生の語られる「原罪」なのですが…)”まで考慮すると、決定的堕落行為のかなり“前から”不倫なる愛としての「罪」は生じていたことが分かります。従ってもし「原罪」を、「原罪」「遺伝的罪」「連帯罪」「自犯罪」という歴史的時間軸上における「原初の罪」という意味として捉えるのであれば、“「原罪」の前に、沢山の「罪」が並んでいる”という、とても奇妙な論述となり、「原初の罪」の定義とも矛盾する結果となってしまうのです。
そもそも、ある「外的な行為」をもって「罪の出発」とみなすこと自体、実質的には無理なことであり、人間の外的行動には、必ず「内的な動機」が“先行している”のであり、既に何度も述べてきたように“動機の内容(良し悪し)”こそ罪の判定の“決定的要因”となっているのです。 いずれにせよ「一線を越えるという決定的行為としての性関係」のみを「原罪」として定義すると、その行為より“前”の「罪」は、「罪の根」から出たものではないか、あるいはそもそも“罪ではない”ということになってしまうでしょう。これでは、『原理講論』の「すべての罪は、その根に該当する原罪から生ずる」(121頁)という「原罪の定義」とも矛盾してしまうし、天使長の自己中心の“思い”から出発し、堕落(罪)がどのように進んでいったのかを詳細に語られた文先生の『御言』にみられる堕落の経緯の説明とも大きく食い違った見解となってしまうのです。
更に、「原罪」という呼び方は、子孫からみた“「人類始祖の自犯罪」に対する呼び方”なので、アダムとエバ自体は「原罪」を持たない(持つことができない)という、実に奇妙な考え方となるのです。前掲の“「統一原理」の正統な理解のために”と題して出版されている書籍には、次のように書かれています。
「原罪をもつ主体は、アダムとエバが犯した罪を、血統によって受け継いだ子孫たちであって、アダムとエバ自身ではありません。アダムとエバの犯した罪は、彼らにとってみれば自犯罪です。それが人類全体の罪の根となったのです。」(『誤りを正す』光言社110頁)
つまり、「原罪」という呼称は、子孫からしか成立しないので、アダムとエバの不倫なる性関係を結んだと言う犯罪自体は「原罪」ではなく、「罪の根」という別な呼び方をするという訳です。果たしてそのような見解は原理的に正しいのでしょうか。 『原理講論』の「すべての罪は、その根に該当する原罪から生ずる」(121頁)という表現は、明らかに「罪の根」と「原罪」は“同じもの”であることを示していると考えられます。むしろ「罪の根」という表現こそ、“あらゆる罪の原因となる罪”という、「原罪」という言葉がもつ本来の概念を、一層明確に示していると言えるでしょう。
又、アダムとエバ自身は“原罪をもたない”と言いますが、『原理講論』には「堕落直後、まだ原罪だけがあり、他の善行も悪行も行なわなかったアダムとエバは、神ともサタンとも対応することができる中間位置におかれるようになった」(272頁)とあり、堕落直後のアダムとエバには“原罪がある”とはっきり書かれています。
確かに「原罪」という言葉には“様々な思想的側面”があり、どこを強調して表現しようと自由であるとも言えますが、問題は統一教会は再臨主である“文先生の思想”を紹介することがその使命なのですから、文先生御自身がその言葉を“どのような概念”として用いられているのかということが、何よりも大切なことではないでしょうか。特に「原罪」のように“救い”の問題と直接関係しているような言葉に関しては、より“正確な定義”が必要とされているのは言うまでもありません。
更に「原罪」「遺伝的罪」「連帯罪」「自犯罪」という並べ方には、「罪と堕落性」という対比の仕方と同様の問題が内包されていると言えます。つまり、「原罪」の概念が、「自犯罪」等と“同レベル”に扱われ、ただ“人類始祖が犯した“という点にのみ“他の罪との相違点がある”ようにみえるので、「動機」や「思い」といった精神面より、やはり、違法「行為」という外的行為面のみが強調されてしまう傾向にあると言えるでしょう。
但し、罪を“一本の木”にたとえ、原罪は「罪の根」、遺伝的罪は「罪の幹」、連帯罪は「罪の枝」、自犯罪は「罪の葉」に該当するという『原理講論』(121頁)のアナロジー(類比)は、「原罪」の“根源性”を示しており、文先生の『御言』とも一致した適切な表現であると言えるでしょう。