さて、「救済論」における最も重要なテーマと言えば、何と言っても「原罪の清算」ということになるのですが、では、そもそも「原罪」とは一体何なのでしょう。
「原罪」は英語では「original sin」といいますが、“origin(起源、始源)”とは一体何を指しているのでしょうか。
実は、この「origin」をどのように捉えるかによって、全く異なる“二つの原罪観”が存在しているです。
ひとつは、既に述べてきたような“実存的な捉え方”で、ひとりの人間の中に内在する「罪を犯させる要素(性質)」としての「原罪」の概念です。つまり、一切の犯罪行為の根底にある「堕落性本性(自己中心の動機)」としての「原罪」であり、「原因(origin)としての罪」という意味です。キリスト教において「罪(sin)ともろもろの罪(sins)」という並べ方をするときの「罪(sin)」の概念です。
もう一つは、「遺伝的罪」「連帯罪」「自犯罪」と並べられるときの「原罪」の概念です。それは、「人類」という「血統的有機体」の「原初」、つまり「人類始祖(origin)」である「アダムとエバが犯した罪」という意味での「原罪」です。この「原罪」の概念は『原理講論』では、「人間始祖が犯した霊的堕落と肉的堕落による血統的な罪」と定義されています。
このように「原罪」には全く異なる“二つの概念”が存在しているのですが、結論から言えば、文先生が『御言』の中で示されている「原罪」の概念は、どちらかといえば、より前者に近いものであることがわかります。後者は『原理講論』に書かれている概念ですが、不思議なことに文先生の『御言』自体には、「遺伝的罪」「連帯罪」といった単語がほとんど出てこないのです。つまり、文先生は「原罪」という言葉を「堕落性本性」、即ち「腐敗した自己中心的な動機」とほぼ“同義の概念”として用いられているのです。
後述するように「遺伝的罪」や「連帯罪」といった概念は、ユダヤ教では顕著に見られますが、キリスト教(特にプロテスタント神学)においては、基本的に否定されています。
さて、“後者の概念”、つまり「原罪」「遺伝的罪」「連帯罪」「自犯罪」という並べ方における「原罪」の捉え方には、いくつかの検討すべき問題点があります。