このように「堕落性と罪」という『原理講論』の表現には多くの問題が内包されているわけですが、従来のキリスト教では、この関係を、次のような様々な対比言語として表現してきました。
「原罪と罪」
「存在としての罪と行為としての罪」
「罪(sin)ともろもろの罪(sins)」
「sinとcrime」
「腐敗した性質と罪」
等々です。これらの関係は、既に述べてきた概念の中の「動機と行為」「原因と結果」といった関係に相当するわけですが、重要なことは、キリスト教神学では、『原理講論』のようにこの両者の概念を分離したりはせず、両方とも「罪」の概念に含めているということです。つまり「(一つの)原罪(sin)があるので、(様々な)罪(sins)を犯す」という観点です。
従ってキリスト教の「原罪」という概念は、後述するように“人類始祖の行った犯罪行為”という観点もありますが、何よりも、“様々な罪を引き起こす根源となる性質としての罪”即ち“堕落性本性”と同義の概念として用いられていることが分かります。
■ 「罪と堕落性」は、「とがと汚れ」
その他、キリスト教では「罪」を「とが」と「汚れ」としても表現しています。
実はこの表現こそ『原理講論』の「罪と堕落性」の概念に極めて近いものと言えるでしょう。つまり「罪」は「とが」であり、「堕落性」は「汚れ」に該当すると言えます。しかし大切なことは、「とが」と「汚れ」は、両者とも神の“善としての基準”からのズレ、即ち“罪性”であり、別な表現で言えば「不義」と「不潔」、つまり前者は神の「正しさ=正義」からみたズレであり、後者は神の「聖さ=聖性」からのズレということができます。
■ 「とがと汚れ」は共に「心(情知意)の評価」
「心」の機能(情・知・意)からみた評価(価値)という観点でみれば、「とが」は「知」の基準、即ち「真理」「原理」「正義」「天法」といった基準からのズレ、即ち「不正」「不義」「不法」「律法侵犯」といった概念を指しており、「汚れ」はその反対の「聖」の概念が、「正しさ」と「美しさ」の両面を含むものと考えられるので、「知」の基準であるズレと、「情」の基準としての「美」からのズレ(=醜)との総合的評価、あるいは「情・知・意」全体としての“全人格、総合的”な神の資質という観点からの評価と言ってよいのかもしれません。
このようなキリスト教の「原罪観」は、文先生の『御言』にみる観点と極めて類似しており、「原罪」を「堕落性本性」と同じ“心の性質的要素(動機)”と見ている点で、原理的にも正しい見解であると言えるでしょう。文先生は『御言』の中で次のように語られています。
【文先生の御言】
〔この「愛の病気」は、どのようにして始まったのでしょうか。この病気の始まりは、そもそも自己中心の思いによってもたらされました。自己中心こそが堕落の動機となったのです。自分を中心として考え、自分を中心として愛を求めようとしたことによって、堕落がもたらされたのです。
自己中心の愛が堕落をもたらしたのですから、復帰するためには、神を中心とした愛、すなわち自己中心でない愛を求めなければなりません。エデンの園において、アダムとエバと天使長が、自己中心ではなく、神を中心として愛し合ったならば、堕落はあり得なかったことでしょう。この地上で自己中心でない愛、神を中心とした愛をもって、互いに愛の関係を築いた人々が、最後に行く所が天国です。これが、神のみ言たる原理の、基本の基本です。〕
(『み旨と世界』 550頁 歴史的父母の日)
〔堕落は、神を中心としてアダムとエバが一つにならなければならないのに、神の僕である天使長と一つになったことを言います。神の血統を受け継がなければならない人間が僕の血を受け継いだことです。ですから堕落した人間がいくら神を「父」と呼んでも実感がわかないのです。 これは神であろうとなんであろうと関係なく、全てを自己中心にだけ連結させて考える堕落性本性が遺伝したからです。」〕(『祝福家庭と理想天国Ⅰ』 439頁 アダムとエバの堕落 )
このようにしてみてくると、『御言』にみられる文先生の「原罪観」は、『原理講論』の(不明瞭な)表記をもとに構築された現在の統一教会の「原罪観」よりも、むしろ従来のキリスト教(特にプロテスタント神学)により近い概念であることが分かってきます。
このことは、本来ならば、キリスト教神学(プロテスタント神学)こそ、再臨主である文先生の思想を受け止めるのに充分な、“思想的神学的準備を整えていた”ことを物語っているように思えます。