このように検討してくると、「堕落性と罪」という表現は、本来であれば次のように表記することが、より適切であり、概念が明確になるものと言えます。
まず、「動機から行為へ」(性相と形状)という観点から述べるのであれば、「堕落性」と真の意味で対比されるべき概念は、心のあり方、即ち動機や性質が原因となって結果的行動を引き起こす一連の時間の流れを示す「堕落性と堕落行為」という表現がより適切であると言えるでしょう。あるいは、“善なる思いと行為”ということで対比するのであれば、「創造本性と創造本然の行為」という表現になるでしょう。 同様に、「罪」という言語に対比されるべき概念といえば、それは「堕落性」ではなく、キリスト教的な表現を用いれば(後述)、「原罪と(行為)罪」、「ひとつの罪(sin)ともろもろの罪(sins)」、「存在(性質)としての罪と行為としての罪」といった表現になるでしょう。
次に、「価値」(善と悪)という観点から述べるのであれば、「性質」としての「堕落性」と真の意味で対比されるべき概念は、「罪」ではなく、悪の性質と善の性質の対比を意味する「堕落性と創造本性」ということになるでしょう。一方「行為」としての「堕落行為」に対比される概念は、「堕落行為と創造本然の行為(善行)」ということになるでしょう。
同様に、「罪」という言語に対比されるべき概念は、「堕落性」ではなく、直接の対極的言語(反対語)はありませんが、「有罪(悪)と無罪(善)」あるいは「罪悪性と善性」というように対比することが可能でしょう。
結局、「堕落性と罪」という並べ方は、概念の比較という点で、いわば“カテゴリーエラー”を起こしており、人間の動機(原因)から行動(結果)への、一連の動き(時間的運動)は、精神的、性質的なものから具体的行為(行動)まで、全て「存在概念」なのであり、その全体に対する“天的評価”こそが「罪」、即ち「価値概念」であるということが分ります。