このように、『原理講論』の「堕落性本性と罪」という対比の仕方自体に大きな問題が内包されていたため、統一教会では、人間の悪い “性質”や“思い”自体は「堕落性本性」であって、決して「罪」ではなく、飽くまでも「行動に移さない限り、罪にはならない」といった「罪観」が、平然とまかり通ってしまっているのです。統一教会の出版社である「光言社」から“「統一原理」の正統な理解のために”と題して出版されている書籍には、次のようにはっきりと述べられています。
「一個人で思う気持ちや、考えがどんなにふくらんだとしても、それが総論において天法に違反しない限り、思いそれ自体は、罪にならない」(『誤りを正す』光言社103頁) 『祝福結婚と原罪の清算』(光言社)には、〔通常、罪を犯す「傾向性(性質)」である堕落性本性をいくら多くもっていたとしても、本人の不断の努力によって、犯罪行為に至らなかった場合、それは罪を犯したことにはならない……〕(57頁)などと書かれています。
しかし、このような見解は本当に正しいのでしょうか。このような「罪観」は本当に文先生が語られている原理観と一致しているのでしょうか?
明らかにこれでは、成約時代の到来を主張しながらも、統一教会が旧約時代の「外的律法主義」にバックしてしまうことを意味しており、形を変えた“「成約律法主義」の出現”であると言われても仕方がないでしょう。
しかも、イエスが「情欲をいだいて女を見る者は心の中ですでに姦淫をしたのである」(マタイによる福音書5章28節)と語られた新約聖書の「み言」をも“公然と否定する”結果となり、より“内的動機“や“精神性”を重んじたキリスト教の「罪観」より、はるかに次元の低い、まさに時代を逆行した「旧約的律法観」と言われても仕方がないでしょう。
多くのキリスト教の牧師たちが “思い”や“動機”の次元を「罪」とみない統一教会の「罪観」に異議を唱えるのも、ある意味では当然のことと言わざるを得ません。 既に色々な観点から検討してきたように、現代社会において、たとえ宗教人でなかったとしても、高度な道徳観や倫理観を持つ人々にとって、「行為」や「結果」よりも、罪を犯させる心の「動機」こそ、「罪の本質」であることは、説明するまでもなく、あまりにも常識的な見解であると言えるでしょう。
■ 罪の本質は、自己中心
多くの学者は、罪の本質が「自己中心」という“内的な性質”であることを指摘しています。
●神学者であるヘンリー・シーセンは、「罪の本質を利己主義である。……聖書が敬けんであることの本質は神への愛である、と教えている以上、罪の本質は自己への愛である……あらゆる形の罪が、その源をたどると利己主義に行きつく……」(『組織神学』406頁)と述べています。
●物理学者であると同時に神学者でもあるイアン・バーバーは、「罪とは、自己中心性や、神および他の人々からの疎外である」(『科学が宗教と出会うとき』210頁)と述べています。
●哲学者であるシェリングは、「人間の意志が根源的な神的な意志と合一している限りそこに悪は生じないが、人間の意志が自己を中心におこうとするとそこに悪が生じうる」「悪は自己意思を中心としようとすることによって生ずる」(『カントからヘーゲルへ』 岩崎武雄 132頁)と述べています。
現在の統一教会の「罪観」は、文先生の『御言』が示している「罪観」とはかけ離れた、余りにも“外的なものになってしまっている”と言えるでしょう。
統一教会において、男女問題を考えるとき、内的心の動機よりも、“肉体的に、一線を越えなければ良い”、といった“外的行為を基準として”罪責を判断する傾向に偏るのも、このような“外的な罪の捉え方”に起因していると考えることができるでしょう。しかし、文先生はそのような考えに対して、『御言』の中で強く否定し、戒めておられます。
【文先生の御言】
〔自分勝手に、復帰の道をどのように行くのでしょうか?今まで、「一線を越えなければいい」と、だれが教えましたか?すべてを明らかにしなければなりません。……「一線を越えなければよい」という話がどこにあるでしょうか?〕(『ファミリー97年3月号18頁)
「線(一線)を越えなければ、罪ではないというのですか?この者たち!」(『祝福家庭』8号28頁)
このように、文先生の『御言』の示す罪観は、“思っていても、やらなければ(行動に移さなければ)良い”といった、外的行為に限定されたものではないことは明らかです。