「罪」という概念が、決して、“外的で結果的な違法行為”のみを指しているのではなく、“性質をも含む”ものであることについて、「ユダヤ教」「キリスト教」「近代刑法」等の観点から検討してみることに致しましょう。
「ユダヤ教」といえば、基本的には、「神の律法」を人間としての自己努力(自力)で遵守するか否かで、“罪であるか、否か”が決定されるという、いわば「罪」を最も「外的な違法行為のみ」に限定し、「神の律法」を本質的には“守りきれない”堕落人間の“普遍的弱さ”、つまりキリスト教が強調する「原罪」の概念を認めないわけですが、それでも、ユダヤ教神学者のヘッシェルは、次のように述べています。
〔個々の特定の罪、すなわち律法を破った実例と、人間に内在する「悪しき欲動」という一般的かつ根元的な問題である。律法は第一の問題を扱う。律法への服従が悪しき行為を防ぐからである。だが悪しき欲動の問題は律法遵守によって解決されはしない。〕(『神と人間のあいだ』教文館303頁)
つまり、「悪しき欲望」という“内在する根元的罪(性質としての罪)”は決して律法を守ることによっては解決されず、その解決は、歴史の“終末”において起きるというのです。
「見よ、わたしがイスラエルの家と新しい契約を結ぶ日がくる、と主は言われる。……彼らの先祖たちと結んだ契約とは違って……わたしは彼らの内面に律法を置く、そのこころに律法を書き記す」(エレミヤ書31章31~34節)「わたしはあなたがたに新しいこころを与える、……あなたがたのからだから石のこころを取り除き、肉のこころを与える。」(エゼキエル書36章26~27節)
要するに、ユダヤ教においても、終末の時にイスラエルに与えられる究極的救済とは、「新しい心が与えられること」、すなわち“性質の変革”だと理解されているのです。
そして、「罪」を単なる「行為」ではなく、「性質」であることを最も主張するのは、他ならぬ「キリスト教」であります。『組織神学』の著者であるヘンリー・シーセンは次のように「罪」を定義しています。
〔罪は「行為」であると同時に、一つの原理または性質である。神の律法に対する順応性の欠如は、行為におけると同時に、性質における欠如をも含んでいる。……罪は行為となって外に表われる以前に、すべての人の内に性質として存在している。〕(『組織神学』ヘンリー・シーセン403頁)
〔霊的な光に照らされたキリスト者は、神の律法から離れるのは自分のうちに堕落した性質があるためであると考えて、実際の罪の行為よりも、もっと深くそれを悔い改めるのである。〕(『前掲書』 404頁)
〔最初の罪は、神の関心事よりも自己の関心事を選びとる、という心のなかの欲望であった。外面的な行為は、すでに心の中で犯されていた罪の単なるあらわれであるにすぎない。〕(『前掲書』 420頁)
最後に近代刑法においても、同様な見解をみることができます。例えば「殺人事件」を例にとった場合、明らかに「人を殺した」という事実よりも、「殺意があったか否か」という、より内面の心情的動機こそ「罪の本質」であると捉えられており、「動機」や「心情」こそ刑量判断(罪責)のより重要な根拠であるとされています。この点について次のように説明されています。
「犯罪行為が、国家・社会的倫理規範の観点から、悪質な動機に出たものであるときは責任が重く、宥恕すべき動機にもとづくものであるときは責任が軽い……厳密には、動機と区別して、行為者の心情も問題とされるべきである」(『刑法総論』大塚仁466頁)
このように見てくると、「ユダヤ教」においても、「キリスト教」においても、また「近代刑法」においても、いづれも「罪」が単なる“結果的外的行為”だけではなく、むしろ、より原因的な心(性質)の問題こそ「罪」の本質的概念であると捉えていることがよくわかります。
【参考】 このような論述をすると、次のような反論が考えられます。それは、統一教会の「啓示論」から言えば、「統一原理」のみが再臨主による「最終啓示」なので、『原理講論』や『御言』以外の、第一イスラエル(ユダヤ教)、第二イスラエル(キリスト教)の
古い啓示(旧新約聖書)に基づいた神学的解説や、非イスラエル圏(諸宗教圏と一般社会)の学者たちの見解等をいくら挙げても、“真理性の裏付け”としては何の説得力もない、といった反論です。
しかし、古い啓示の中にも、時代を貫いて変わらない「普遍的真理」は明らかに存在しているのであり、しかも“最終的真理”は、「宗教と科学の統一」を目指すのですから、堕落人間としての「理性の限界」を認めつつも、歴史をかけて積み上げられてきた「理性に基づく、人類の様々な哲学的疑問」に答えていく必要(義務)があるのであり、当然、人間側からの「理性による探求」である“諸学問”との間に、多くの一致点を見出していく方向に、真理性の解明は進んでいかなければならない、と言えるでしょう。従って、当然全てが正しいわけではありませんが、様々な一般的意見を取り上げることも、普遍的真理の「傍証」、あるいは「参考」として、極めて意味のあることだと言えるでしょう。
本来、「罪」とはその人の“行為”だけではなく、その人の“心の動機(性質)“をも、「法的基準(宗教的には天法=神の定めた原理)」に照らして評価するという、価値概念なので、人間の「性質(動機)」も「行為」も、共に「無罪」と「有罪」という、両極の状態があるのです。つまり「罪」とは、「思い」なのか「行為」なのかということではなく、法的基準が、より内的なもの(動機)に高められれば、「思い」も当然「罪」として評価されるようになるということなのです。
【参考】 不思議なことに、「罪」という漢字には、「あるべきではない(非なる)四位基台」という意味の文字が含まれておりますが、このことは、「罪」が単なる「法律」に対する「違反・違法(行為)」という意味だけではなく、それよりはるかに深く、重い、本質的なもの(神)からの“ズレ”、あるいは“ズレた状態(存在)”を示しており、元々堕落性という性質(存在の状態)面と切り離すことは出来ない概念であることを示しているように思われます。