ここで、『原理講論』に述べられている「堕落性本性」の中身を検討し、それが「罪」と如何なる関係にあるのかを考えてみましょう。 『原理講論』では、「堕落性本性」は次の「4つ」であるとされています。(『原理講論』123~124頁)
1)神と同じ立場に立てない。
2)自己の位置を離れる。
3)主管性を転倒する。
4)犯罪行為を繁殖する。
それではこれらの内容を『原理講論』の表現に沿って、検討してみることに致しましょう。 まず初めは、「神と同じ立場に立てない」ということですが、これは“天使長ルーシェルが、神と同じ立場に立ってアダムを愛することができず、妬むようになった”という経緯であり、これは天使長が“霊的堕落をするようになった内的「動機」について述べたもの”ということができるでしょう。
次に「自己の位置を離れる」ということですが、これは“天使長が天使世界においてもっていた愛の位置を離れ、人間世界においてもその愛の位置を欲した”という内容です。この段階で、嫉妬心に支配された天使長の“行為の方向性が定まった”ということであり、天使長が、自己の分限と位置を離れ、人間世界においても愛の基となり、“神の愛を独占しようと「決意」した”ということを意味しています。
第三は、「主管性転倒」です。これは、天使長がエバを主管し、エバがアダムを主管することによって、堕落の「結果」が生じたという内容です。つまり、“淫行という「行為」が具体的に行なわれ、主管性が逆の立場で成立し、天使が人間を逆主管するという「結果」になった”ことを意味しています。
最後は、「犯罪行為の繁殖」ですが、これはエバが天使長と一体となり、“自分の罪をアダムにも「繁殖した」”という「犯罪行為」そのものを示しています。
このようにみてくると、「堕落性本性」の説明というのは、結局ルーシェルと人間始祖が犯した「霊的堕落」と「肉的堕落」という一連の「(犯罪)行為」の流れを、“天法に則ってその内容を評価したもの”である、ということが分かってきます。つまり「堕落性」と「罪(犯罪行為)」は、「内容と評価」という“同一存在の分離不可能な両側面”であることが分かってきます。
ここで「行為を評価する」ということが、一体どのようなことなのか、“刑法の概念”から少し詳しくみてみることに致しましょう。
「行為」というと、一般的に、外的で具体的な動作を連想いたしますが、実はそのような外的・具体的動作それ自体を、単に外側から見たのでは、その行為が“どのようなものであるのか”を評価することができません。
たとえば、“ナイフで体を切る”という行為を考えた場合、それが“殺人行為”なのか“医療行為”なのか、外面からだけでは判断ができないのです。つまり“手術を装った殺人”ということも有り得るからです。
更に、刑法上では「不作為犯」と呼ばれるものもあります。例えば、目の前で自分の子供が溺れており、“ほおっておけば死んでしまう”という状況にあったといたします。助けようと思えば助けられるという状況の中で、何かの理由で、“助けずに見殺しにしてしまった”といたします。この場合、何の外面的動作も行なっていませんから、外面からだけで判断すると、全く「殺人」を行なっているようには見えません。
にもかかわらず、刑法上では“殺人行為を行なった”と評価されることがあるのです。それは、その人の内面の「意識現象」が“殺人行為を行なったのと同じである”と判断されることがあるからなのです。
このように、外面的動作というものは、誰の目にも明らかで、一見簡単に評価が可能なようにも思えますが、実はそれだけでは“如何なる行為”なのか、その善悪を決定することができないというのが、今日の刑法上の考え方なのです。
結局、「行為」とは「外面的動作」と「内面的意識現象」を一括して表現した言葉だと言うことができます。そして、先の「不作為犯」の例からもわかるように、善悪を決定する重要な要素は、「外面的動作」ではなく、むしろ「内面的意識現象」の方であることが分かります。
■ 「意思」と「行為」について
「意識現象」すなわち「意志」というものは、一体どのようにして生じるのでしょうか。西田幾多郎の『善の研究』(岩波文庫129頁等)によれば、「意志」は“結果の観念をもっている”ので、すでに「方向性が定まっている」ということが分かります。そうすると、「意志」が起こるには、“方向性を定めるような素因”が必要となるわけですが、それは一種の「衝動的な感情」であるというのです。この衝動的な感情は、いわば「意志の力」とも言うべきもので、これが「動機」と呼ばれるものなのです。
つまり「方向性を定める情的力である動機」から、「結果」の観念、そのための手段である「運動」の観念が出てき、「意志」が形成されていきます。そして、その意志が「外面的動作」や「結果」をもたらすというのです。そうすると、「行為」と一言で言っても、そこには「動機」「意志」「外面的動作」「結果」という、一連の“流れ”があることがわかるのです。
このように『原理講論』の「堕落性本性」についての説明は、霊的堕落、肉的堕落という「行為」を、「動機」「意志」「外面的動作」「結果」の“各要素”に着目しながら“時間を追って、分析的に説明したもの”であることが分かります。
つまり「堕落性本性」とは、神と同じ立場で愛することができないという、天使長の心の中に生じた、アダムに対する妬みというある種の“衝動的な感情”を「動機」として、そこから“目的”や“手段”“結果”の観念をもった「意志」が形成され、それが具体的で外的な「行為」を引き起し、最終的には意志どおりの「結果」をもたらすという、「連続性のある内外の内容」であり、従って「堕落性本性」とは、「霊肉共の堕落」という“犯罪行為そのものの内容”を述べたものであるということができるでしょう。結局「堕落性本性」とは、「罪」と別個なものどころか、“罪そのもの”であることがわかります。
■ 「動機」と「意思」があれば、「犯罪」は成立する。
ところで、統一教会が主張するように、「外的動作」や「結果」が引き起されなかった場合は「罪」にならないのでしょうか。
つまり、動機、意志、動作、結果のすべての要素が整わなければ「罪」は成立しないのでしょうか。
この点について、西田幾多郎は、「行為の要部は実にこの内面的意識現象たる意志にあるので、外面の動作はその要部ではない。何らかの障碍の為の動作が起こらなかったとしても、立派に意志があったのであればこれを行為ということができる」としています(『善の研究』岩波文庫129頁)。
まさに「行為」の本質は外面の動作ではなく、「意志」にあるというのです。
従って、行為を評価する場合、いかなる「意志」によって行なわれたかが、重要なポイントになってくるというわけです。結論として言えることは、たとえ「動作」や「結果」が引き起されなかったとしても、その「動機」と「意志」を評価して、これを「罪ある行為」とみなすことができるということなのです。
『原理講論』における「堕落性本性」の定義には、「エバと血縁関係を結んだとき、偶発的に生じたすべての性稟」(122頁)と記されており、このような性質が天使長とエバとの「霊的性関係(淫行)」をもった“その時”に“偶発的に生じた”となっているのですが、その内容である「4つの性質」の説明をよく見ると、明らかに、第1(神と同じ立場に立てない)と、第2(自己の位置を離れる)は、 “エバと関係をもつ以前に”生じたものであり、そのような神に対する反逆の“動機”を持っていたからこそ、エバを誘惑し、その結果「霊的堕落行為」が起きたとみるべきでしょう。(厳密には第3の“主管性を転倒する”も、天使長とエバとの関係があった“その時”にそのような堕落性が生じたとみるよりも、“主管性を転倒しよう”という動機が先にあって、そのような関係が起きたとみるべきでしょう。)
■ 「心情の汚れ」
統一教会では堕落行為時における「心情の汚れ」について次のように説明しています。
「神様に反逆する立場に立った天使長ルーシェルが、偽りの愛で誘惑したとき、その誘惑に負けたエバは霊的性関係を結んで心情を汚し、さらに、アダムも誘惑を主管できずに肉的性関係を結んで心情を汚し、そのために汚れた種がエバの胎中に蒔かれて胎中が汚され、その結果、偽りの生命体としての偽りの子女が生まれ、偽りの血統が繁殖し、サタン主権の世界ができてしまったのです。」(『誤りを正す』 119頁~120頁)
ここでは、はっきりと“霊的性関係を結んで”それから“心情を汚した”となっていますが、初めに“心情が汚れていたからこそ堕落行為が起きた”のであり、“堕落行為が起きたので、心情の汚れ(堕落性本性)が生じた”というのは、まさに本末転倒の論理と言えるでしょう。既に述べてきたように、人間の「外的行動」には、必ず「内的動機」が“先行する”のはあまりにも当然なことと言えるでしょう。
■ 「罪の起源」としての「堕落性本性」の発生
しかし、このような説明の仕方をすると、「エバとの堕落行為の前に、まず天使長の心の中に悪の思い(堕落性本性)が生じたというのであれば、これまでのキリスト教神学の原罪観にバックしてしまい、“善なる被造物の中に何故悪が生じたのか“という、“神義論の迷路”に再び入り込んでしまうのではないか」との指摘も受けそうですが、確かにこれらの難問を解決すべく登場した「統一原理」の「天使と人間の同時堕落説」自体は、極めて重要な概念であり、個の“自由意志”を拘束する“授受作用の力”としての「愛の力」を、“堕落の原因”として指摘したことは、まさに画期的な神学的貢献であったと言えるでしょう。
確かに「思い」には、明らかに『原理講論』のいう、光に対する影のような段階の、いわゆる自動的に生じたとされている “嫉妬心” (122頁)や、『御旨と世界』の中で文先生が語られている「ある一時期、神御自身が自己中心的であられた」(262頁)という表現に見られる“自己中心性”など、「悪」とはまだ“規定できない段階”の“思い”(…まだ「善」が確立されていないので…)が存在することは事実ですが、それを「堕落性本性」と呼ばれる、言わば“恒久的な自己中心性”に定着させたのは、決して単なる「性関係を結んだ」という「外的な行為」ではなく、それ以前に、「愛」という“精神的、心情的なレベルにおいて起きている”ことを明確にする必要があるのです。もっと言えば「堕落」という本心に対する“拘束状態”は、男女の性関係による堕落(第二祝福型の堕落)の前に、“自己中心性を持った個の実体の確立”という「個体的段階での堕落(第一祝福型の堕落)」として起きていることを理解する必要があるでしょう。(詳細は別な機会で…)
「堕落性は罪ではない」という見解の一つとして、統一教会の現場では、「堕落性」は堕落人間が長い間「罪」をもっていた為に心に染み付いてしまった「癖」のようなものだと説明されることもあります。つまり、「堕落性」は「癖」なので、それほど深刻なものではなく、「原罪の清算(血統転換)」さえ終わっておれば、放っておけば、時間と共に消えてしまうものだ、といった捉え方のことです。例えば、ぬか味噌の樽に大根を入れておけば、大根は臭くなりますが、樽から出せば、時間と共に臭みは取れていくようなものだというわけです。
しかし、このような見解は堕落人間の根底にある「自己中心性」という“本性と化した堕落性本性の深刻さ”が全く理解されておらず、文先生の『御言』の中の堕落人間観とも矛盾しており、人間の普遍的腐敗性(原罪)を強調するキリスト教に対しても、全く説得力のない、極めて次元の低い見解であると言えるでしょう。
「堕落性本性」は、一過性の後天的「癖」とは本質的に異なったものであり、まさに人類始祖から引き継いだ、全ての人間の実存の根底にある普遍的な“罪を犯す性質”としての“自己中心性”であり、決して“放っとけば消える”というような楽観的なものではなく、メシヤによらなければ根本的には解決され得ない、堕落人間の本質的な内容を指していることは明らかなことであります。
さて、次に「罪」の概念を検討してみることに致しましょう。 「罪」は、果たして、“外的で結果的な違法行為のみ”を意味するのでしょうか? 「罪」の概念には、統一教会が主張するように、本当に“内的な性質(堕落性)”は含まれないのでしょうか?