『原理講論』に登場する「罪と堕落性本性」という表現は、統一教会内ではごく一般的に用いられているのですが、よく検討してみると、この二つの言語の対比には、“いくつかのカテゴリー”が“混在している”ことが分かります。
つまり、既に述べたように、そこには「価値と存在」という概念の比較も考えられますが、その他にもいくつかの異なったカテゴリーも存在しているため、結果的に二つの言語を並べることを通して、“どのような概念を説明しようとしているのか”が、極めて曖昧となっているということなのです。
つまり、「罪と堕落性」という並べ方には、全く異なる二つの観点が考えられるのです。一つは「価値(評価)」という観点、即ち「罪である(悪)のか、罪ではない(善)のか」という観点と、もう一つは「動機なのか、行為なのか」という観点、即ち「性質(原因)なのか、行為(結果)なのか」という観点の二つが“混在している”ことが分かります。
【参考】 この二つの観点を「統一原理の二性性相的観点」からみれば、「価値」という観点は、ある意味で「陽性と陰性(但しこの場合は“善と悪”なので、厳密な意味での“陽陰”とは異なりますが…)」という(空間的)概念に相当し、「動機から行動へ」という観点は、ある意味で「性相と形状」、即ち “原因と結果”という(時間的)概念に相当するものと言ってもいいかもしれません。
さて、このような“概念の混在”が、何故問題となるのでしょうか。 それは、「罪と堕落性」という並べ方をすると、「堕落性」が一見“罪とは対極にあるもの”“罪ではないもの”というように捉えられてしまう危険性があるということなのです。(勿論、言語を二つ並べたら、何でもかんでも“対極的なもの”という意味になるわけではありませんが、“そのように捉えてしまう傾向が強くなる”というは確かなことです。)
つまり、外的な行動に移らない限り、“堕落した性質そのもの”は“罪ではない”という解釈が出てきてしまうということです。同様に「罪」の概念のほうも、堕落性という“性質、心のあり方、動機といった精神的なものではない”もの、つまり“外的結果的な「行為」のみ”が“罪の定義に含まれる”と解釈されてしまう危険性があるということなのです。
『祝福結婚と原罪の清算』(光言社)には「堕落性本性」について次のように述べられています。 「堕落性本性に関していえば、それは情念の世界など、人格面での性質が変化したことを意味しており、その悪なる情念(霊的波動)の力によって健康が阻害されるなど、肉身面での変化が生じます。ただしその変化は、……天法に違反することで生じる罪の影響によるものではありません。」(69頁)
このような「罪と堕落性」あるいは「原罪と堕落性本性」という“概念の分離”は、統一教会にとっては、むしろ既成キリスト教神学のあいまいさを正す“優越的見解”とさえ考えられています。
〔「統一原理」における罪の理解の特徴は、「原罪」と「堕落性本性」の概念を明確に区別して論じている点です。(55頁)……中略……キリスト教の原罪の定義で注目すべき点は、「根源的腐敗の性質」という、いわば「統一原理」の「堕落性本性」に相当する概念をも原罪の定義の中で、一緒くたにして説明している点です。〕(『祝福結婚と原罪の清算』光言社 57頁)
しかし、このように「罪と堕落性」の概念を“分離して捉える”というのは、あくまでも『原理講論』の表現からくる“誤解”であり、文先生の『御言』自体が示している概念とは大きく異なっているといえます。(事実、『原理講論』も、よく読むと、「原罪」も「堕落性本性」も、それぞれ別々に定義されてはいますが、二つの概念が、互いに如何なる関係にあるかについては、明確に説明していないのです。)
それでは、「堕落性」あるいは「堕落性本性」は、統一教会の主張するように、本当に人間の霊人体の単なる“性質”であって“罪ではない”のでしょうか?