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第2章 統一教会の救済観の問題点

【9】 「罪と堕落性」という“対比の仕方”の問題点

 『原理講論』に登場する「罪と堕落性本性」という表現は、統一教会内ではごく一般的に用いられているのですが、よく検討してみると、この二つの言語の対比には、“いくつかのカテゴリー”“混在している”ことが分かります。

  つまり、既に述べたように、そこには「価値と存在」という概念の比較も考えられますが、その他にもいくつかの異なったカテゴリーも存在しているため、結果的に二つの言語を並べることを通して、“どのような概念を説明しようとしているのか”が、極めて曖昧となっているということなのです。

 

 (1) 「罪と堕落性」の中にある「二つの観点」

 

 つまり、「罪と堕落性」という並べ方には、全く異なる二つの観点が考えられるのです。一つは「価値(評価)」という観点、即ち「罪である(悪)のか、罪ではない(善)のか」という観点と、もう一つは「動機なのか、行為なのか」という観点、即ち「性質(原因)なのか、行為(結果)なのか」という観点の二つが“混在している”ことが分かります。

【参考】 この二つの観点を「統一原理の二性性相的観点」からみれば、「価値」という観点は、ある意味で「陽性と陰性(但しこの場合は“善と悪”なので、厳密な意味での“陽陰”とは異なりますが…)」という(空間的)概念に相当し、「動機から行動へ」という観点は、ある意味で「性相と形状」、即ち “原因と結果”という(時間的)概念に相当するものと言ってもいいかもしれません。

 さて、このような“概念の混在”が、何故問題となるのでしょうか。 それは、「罪と堕落性」という並べ方をすると、「堕落性」が一見“罪とは対極にあるもの”“罪ではないもの”というように捉えられてしまう危険性があるということなのです。(勿論、言語を二つ並べたら、何でもかんでも“対極的なもの”という意味になるわけではありませんが、“そのように捉えてしまう傾向が強くなる”というは確かなことです。)

 つまり、外的な行動に移らない限り、“堕落した性質そのもの”は“罪ではないという解釈が出てきてしまうということです。同様に「罪」の概念のほうも、堕落性という“性質、心のあり方、動機といった精神的なものではないもの、つまり“外的結果的な「行為」のみ”“罪の定義に含まれる”と解釈されてしまう危険性があるということなのです。

 『祝福結婚と原罪の清算』(光言社)には「堕落性本性」について次のように述べられています。 「堕落性本性に関していえば、それは情念の世界など、人格面での性質が変化したことを意味しており、その悪なる情念(霊的波動)の力によって健康が阻害されるなど、肉身面での変化が生じます。ただしその変化は、……天法に違反することで生じる罪の影響によるものではありません。」(69頁)

  このような「罪と堕落性」あるいは「原罪と堕落性本性」という“概念の分離”は、統一教会にとっては、むしろ既成キリスト教神学のあいまいさを正す“優越的見解”とさえ考えられています。

 〔「統一原理」における罪の理解の特徴は、「原罪」と「堕落性本性」の概念を明確に区別して論じている点です。(55頁)……中略……キリスト教の原罪の定義で注目すべき点は、「根源的腐敗の性質」という、いわば「統一原理」の「堕落性本性」に相当する概念をも原罪の定義の中で、一緒くたにして説明している点です。〕(『祝福結婚と原罪の清算』光言社 57頁)

 しかし、このように「罪と堕落性」の概念を“分離して捉える”というのは、あくまでも『原理講論』の表現からくる“誤解”であり、文先生の『御言』自体が示している概念とは大きく異なっているといえます。(事実、『原理講論』も、よく読むと、「原罪」も「堕落性本性」も、それぞれ別々に定義されてはいますが、二つの概念が、互いに如何なる関係にあるかについては、明確に説明していないのです。)

 それでは、「堕落性」あるいは「堕落性本性」は、統一教会の主張するように、本当に人間の霊人体の単なる“性質”であって“罪ではない”のでしょうか?

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救済論の問題点 目次
はじめに
第1章 統一教会における教典問題
【1】統一教会の「教理」と『原理講論』
【2】『原理講論』の“教典的位置”としての問題点
【3】『統一神学』の問題点
【4】『統一思想』の問題点
【5】「統一教会の教理」に関するその他の「解説書」
【6】文先生の『御言』の中にある「最終的真理」
 
第2章 統一教会の救済観の問題点
【1】「霊肉共の救い」を主張した統一教会
【2】統一教会の主流的救済観─「法廷論的贖罪観」の問題点
【3】「法廷論的贖罪観」が強調されるようになった経緯
【4】「法廷論的贖罪観」の強調は、“反対牧師対策”がその背景。
【5】「法廷論的贖罪観」の問題点。
【6】統一教会内にあった「二つの見解」
【7】「実存と法廷的評価」の分離は「キリスト教型の救済観」
【8】「罪」と「堕落性」の関係
【9】「罪と堕落性」という“対比の仕方”の問題点
【10】「堕落性本性」の内容と「罪」との関係
【11】「性質としての罪」の概念
 
【12】「堕落性」という言葉
【13】 「思い」や「性質」は“罪ではない”と主張する統一教会
【14】 「堕落性と罪」のより適切な対比表現
【15】 キリスト教における「堕落性と罪」の概念
【16】 「原罪」ついての二つの捉え方
【17】 人類始祖の犯罪行為としての「原罪」概念の問題点
【18】 「神の血統」の真の意味
【19】 「淫行関係」と「血縁関係」の概念の混乱
【20】 「罪の遺伝(転嫁)」とは?
【21】 「法廷論的贖罪観」の論理的問題点
【22】 もう一つの救済観─「生物学的血統転換論」の問題点
【23】 統一教会に混在する「二つの救済観」
【24】 『御言』にみる「正しい血統的転換論」
【25】 「心の遺伝」
【26】 「救済論」における「義認」と「聖化」
【27】 統一教会の救済論の重点は、「義認」より「聖化」
【28】 「義認と聖化」は“同時的”に実現
【29】 「罪と堕落性」「義認と聖化」からみた「イスラエル(選民圏)の変遷」
【30】 統一教会の本来の目的は「聖化」の完成
【31】 「第三イスラエル」としての統一教会と「第四イスラエル」時代の到来
あとがき