ここで、「救い」において、“実存と法廷論的評価を分離する”といった考え方が、どのようにして起きているのかを検討してみることにいたしましょう。
一般的に、キリスト教神学の「救い(救拯論)」には、二つの大きな要素があると考えられています。一つは「義認」であり、もう一つは「聖化」です。
実はこの「救い」についての、この二つの要素(側面)が、そのまま「罪」と「堕落性」の問題ともつながっているのです。 そこで、「救済論」の全体的内容を検討するために、「罪」と「堕落性」の関係について、少し整理してみたいと思います。
一般的に、「罪」という概念は、その人の“行為”や“状態”を「罪」と定める(評価する)“「法」との関係”の中で成り立つ、「関係概念(価値)」であるとされています。これに対し、「堕落性」という概念は、その人自体の中に存在する“罪を犯す性質”という意味で、「存在概念」であるとされています。
確かに「罪」と「堕落性」の関係は、「関係(価値)」と「存在」という関係としてみることはできますが、しかしこの比較の仕方には、いくつかの問題点があります。
【お断り】
■ 「罪と堕落性」と「原罪と堕落性本性」
「原罪と罪」と「堕落性本性と堕落性」とでは概念が異なりますので、従って「原罪と堕落性本性」と「罪と堕落性」とでは、前者がより本質的原因的な概念であり、後者はそこから生ずるより結果的な概念であるという点で、意味は異なっていますが、「両者の対比」という点では“同じ概念”とみることができるので、本書においては、より“普遍的な概念の比較”という意味で、後者の「罪と堕落性」という表現を主に使わせていただきました。(但し、『原理講論』では、両方がミックスされたような「罪と堕落性本性」という表記で述べられています。)