さて、このような“実存の中身と客観的法廷的評価を分離する”という考え方こそ、統一教会が、新約段階の「霊的救い」に留まっているとして、その“不十分性“と“未完成性”とを指摘してきた、従来のキリスト教会における「救済観そのもの」であり、まさにその救済論の中核ともいうべき「信仰義認論」こそが、そのような「法廷論的義認」に他ならないのです。
キリスト教では、イエス・キリストの十字架による代贖を根拠に、「洗礼」や「聖餐式」等の儀式を通じた「信仰告白」によって、人は「罪人にして義人」という、いわば天的な「法廷論的義認」を受けることによって“既に救われている”とみなされているのです。つまり“罪を犯す性質(堕落性)を残したまま”、神の前に“罪なき者(義人)”と“みなされている”ということなのです。
現在の統一教会における「法廷論的贖罪観」は、まさにこのような“キリスト教型の救済観の再現”であり、信仰告白を示す「サクラメント(礼典)」の内容が、キリスト教では「洗礼」や「聖餐式」であったのに対し、統一教会では「聖酒式」を中心とした一連の「祝福」の儀式に取って代わられているに過ぎません。
かつてクリスチャンに対し、“そのような救いではいけない”として、新約的段階の「霊的救済」から成約的段階の「実体救済=霊肉共の救い」への転換を力説してきた統一教会において、皮肉にも何故、キリスト教と同様な「新約的段階の救済観」が現われてきているのでしょうか。(それはH氏が指摘するように、何らかの摂理的理由により、明らかに「祝福」によっては、教理の目指す本来の内容が“実現しなかったから”ということができるでしょう。)
しかし、このようなキリスト教型の「罪人にして義人」といった、「実存」と「法廷論的評価」が分離し、実存の中身としては相変わらず“堕落性をもったまま”の状態で救われているといったような、形式的で内実を伴わない「救い」が、果たして本当に、文先生がその『御言』を通して示そうとされている「実体的救済(霊肉共の救い)」なのでしょうか?
【お断り】 本書で登場する「実存」という単語は、「実存哲学」の扱う「実存」概念ではなく、単純な「実体存在」という意味で用いています。