それでは、「法廷論的贖罪観」とは、そもそも一体どのような考え方なのでしょうか。
それは、第一に、「罪」と「堕落性」の概念を“全く別個なもの”として分離し、祝福を受けた人間の実体(実存)が、相変わらず“堕落性に満ち”、心情的にも人格的にも、“堕落人間としての状態に留まっている”としても、「罪責」という観点からは、メシヤ(真の父母)の“代理蕩減による恩寵”によって、天的には、“法廷論的「無罪」宣告を獲得した立場”に立つことができ、“原罪の清算が起きている”とみなす見解のことです。
『祝福結婚と原罪の清算』(光言社 45~46頁)には下記のように説明されています。
〔「原罪」の清算と「堕落性本性」を脱ぐことについて考えてみると、まず原罪の清算の場合、関係性を修復して、「あなたの罪はもうないことにしてあげよう」というメシヤからの「罪の赦しの宣告」を受けた瞬間に、清算されることになります。
つまり、原罪とは、もともと物質ではなく、法が命ずる〝関係概念〟としての評価(サタンの讒訴圏) であるために、有罪から無罪へと天的評価が変わるだけで一度に消滅してしまう、という性質をもったものなのです。
そのような意味では、原罪の清算とは、ある一定の期間を通過するといった時間性を必ずしも要しないで、メシヤを中心に、必要な手続きさえ終了すれば、清算され得る超時間的なものだといえます。……以上のことから「原罪の清算」の仕方は、本人の努力というよりも、何らかの手続きを通過することによって、一気に消滅してしまう可能性を持っている……〕
第二に、「血統転換」と「心情転換」の概念を全く別個なものとして分離し、祝福による「血統転換」は、「心情転換」という“実存面の変化”を伴わなくとも、“法廷論的な手続きによって、客観的、法律的に「戸籍の移動」が行われた”とみなす立場です。
「結局、我々に「原罪がある」とか「原罪がない」とかいうことは、その人が良い人か、悪い人か、あるいは堕落性が強いか、弱いか、などという人格の内容面とは、一切関係なく、我々が堕落したアダムとエバの子孫(血統圏内) であるという法的な評価が下されている間は、例外なく、すべての人に原罪が及んでいるのであり、反対に、ある手続きを通して、我々が第三アダム・エバ (真の父母) の血統下に生まれ直した (=重生)という法的な評価さえもらえるならば、どんなに人格の歪みのある人でも、また未熟な人であっても、その瞬間から「原罪はない」という立場に立てることを意味しています。」(『祝福結婚と原罪の清算』46頁)
このように、人間の実存の内容面と、その人間に対する客観的評価を全く別個なものとして扱うことによって、祝福家庭の実態が多くの問題を抱えていたとしても、“法廷論的”には、“救われている(無罪)”状態であると表現することが可能となってくるのです。
もちろん、このような考え方は、決して再臨主である文先生の『御言』に基づく「成約的救済観」ではなく、“キリスト教の他力型恩寵論の再現”であることは明白です。
このようなタイプの救済観は、キリスト教のプロテスタント神学において、主に改革派(カルヴァン派)の「契約神学」に近いもので、人類は人類始祖アダムの罪責に、実質的にではなく、あくまでも「法廷論的に」巻き込まれただけなので、贖罪(義認)も「法廷論的」に成立するとみなす立場のことです。(後述)
しかし、そもそも「その人が良い人か、悪い人か、あるいは堕落性が強いか、弱いか、などという人格の内容面とは、一切関係ない」といったような、「人格の完成と切り離された救い」に、果たして“何の意味がある“というのでしょうか?
クリスチャンたちが二千年間、修道生活を通し“心の清さ”を求めつつ、再臨主の到来と共に、最終的に与えられると信じ続けてきた「実体的な救済」が“この内容”ではあまりにも“悲しすぎる”と言えるのではないでしょうか。
このように、成約時代における「霊肉共の救い」の到来を標榜しながらも、実質的には、キリスト教の「霊的救い」と何ら変わらない(むしろ、ある面では劣っているとさえ言える)、“中身の無い”法廷論的救済観が、統一教会の「正統な救済観」として評価され、今も信徒たちや祝福二世たちに教育されているというのが偽らざる現状なのです。