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第2章 統一教会の救済観の問題点

【3】 「法廷論的贖罪観」が強調されるようになった経緯

 1980年代の半ば頃から、統一教会内において、多くの統一教会員(特に献身者である若いメンバー)が、「反対牧師」と呼ばれる、統一教会に強く反対するキリスト教の牧師たちによって、離教(脱会)させられるという現象が、全国で多発するようになりました。

  多くの場合、「拉致・監禁」という極めて非人道的な手段による改宗事件でした。それは神を信じるキリスト教の信仰者としてはあるまじき行為であり、決して許されるものではありませんでしたが、問題は、キリスト教の牧師たちによって、統一教会員に突きつけられた“統一教会における救い”と“キリスト教における救い”との神学的な比較の内容でした。

 

 (1) 「霊肉共の救い」の実現を示せなかった統一教会

 

 「統一原理」は、従来のキリスト教の救いを、“肉的原罪が未だ精算されていない”、“未完成な霊的救い”であると位置づけ、それに対して“統一教会による救い”は、再臨主によってもたらされる最終的な「霊肉共の救い」であることを強調し、その「最終的救い」を実現する手段として、「祝福(結婚)」を強く推奨してきたのです。

  しかし、問題は、“原罪の清算”を意味する、「聖酒式」から「3日行事」までの「祝福」という一連の「儀式」がもたらす、「霊肉共の救い(=救いの完成)」というのは、具体的には、一体どのような状態のことを指しているのか、ということだったのです。

  「祝福結婚」が始まった当初、統一教会はその儀式を通じ、「霊肉共の救い」(霊肉共の原罪の清算)に預かったことに対する具体的な結果(現象)が、祝福を受けた家庭に“はっきりと現れてくる”ことを確信し、そのように信徒たちに対しても教育してきたのです。そして多くの人々がそのメッセージを信じ、統一教会の主催する合同結婚式(祝福結婚)に参加するようになっていったのです。まさに「祝福」こそ、「原罪の清算」を意味する統一教会の目指す「救い」の中心であり、「希望」の中心だったからに他なりません。

  しかし現実には、統一教会の期待や主張、及び教育に反して、「祝福」の儀式に参加したからといって、直ちにその人の人格や心情に大きな変革が起き、完成人間になるという現象は、残念ながら起こりませんでした。

 勿論、「祝福」を受けた位置は、堕落した時と同じ「長成期完成級」なので、たとえ原罪が清算されても、残りの「完成期7年」を“メシアと共に”通過してはじめて完成する、との教理的理解でもありますが、かといって祝福後の「完成期7年路程」を“篤実に”歩むことによって「神の直接主管圏」に入り、“完成した家庭”となったという話も、未だ聞いたことはありませんし、そのような領域に到達したという祝福家庭の実名が公表されたこともありません。

 そこで、このような現実を、目の当たりにしてきた多くの信徒たちは、次のように捉えざるを得なくなったと考えることができます。つまり、「祝福を受けた当人である“一世”は、既に堕落性をいっぱい持ったまま大人になってしまっているので、もはや“完全に聖くなる”ことは、現実的には難しいので、祝福を受けた夫婦から“無原罪の子”として生まれてくる“祝福二世の子女たち”に、その救済された実存的実り(実態)を期待する」といった考え方です。

  文先生も、祝福を受けた一世に対し、「あなたたちには期待していないよ、あなたたちから生まれてくる子供たちのことを考えながら祝福をしたのだよ…」といったような意味のお話を度々されたので、当然、「祝福二世」こそ、「霊肉共の救いのであり、「霊肉共の救いの実りであるとして、“無原罪の子=祝福二世”に対して絶大な期待を寄せるようになったと考えることができます。 しかしそのような、教義的内容から導き出される救済論的期待も、残念ながら、今日の二世の現状を見る限り、決して“かなえられた”と言うことができない、というのが多くの祝福家庭の偽らざる現状ではないでしょうか。(勿論、具体的な実例を挙げることは控えさせていただくしかないのですが……。)

  反対牧師たちは、このような「祝福結婚」の実態を指摘しながら、当然、「あなたがた統一教会が看板に掲げてきた、 “霊肉共の救い” の中身というのは、祝福家庭の“今のような現状”のことをいうのですか?」「果たして、そのような現状で、本当に“救われている”ということになるのですか?」「本当に、統一教会の祝福家庭の方が、2000年の伝統をもつクリスチャン家庭よりも、その実態において立派であり、“より救われた状態である”と主張することができるのですか!」といった内容の批判を突きつけてくるようになったのです。

 

  そして、何よりも深刻な問題は、祝福家庭の現状もさることながら、祝福家庭のモデルであり、完成された人類の理想家庭であり、「真の父母」である“文先生自身” のご家庭に起きた、憂慮すべき、理解に苦しむ様々な現象だったのです。

 一般信徒における祝福家庭に起きた問題は、それでもまだ“各自の5パーセント(責任分担)の不履行でそのような憂慮すべき事態を招いたということで、教学的にも何とかそのような批判に対処できるかのようにも思えました。しかし、完成人間として来られた「真の御父母様」ご自身「真の御家庭」に起きた、「離婚」を初めとする様々な問題は、多くの統一信徒たちにとっては、原理的にも、心情的にもどのように受け止めたらよいのか全く分からない、まさに信仰を根底から揺さぶるような、とても厳しい内容となったと考えることができます。

  それらの内容に対して、今日までの統一教会本部は、まるで腫れ物に触るかのように、正式な見解を述べることを避けてきたのです。しかも、それらの問題が起きた原因として、「信徒たちの“信仰と誠意”の足りなさ」を強調し、信徒に対する “一層の悔い改めを迫る”というかたちになることもしばしばでした。勿論そのような原因を全く否定することはできませんが、全ての事象にそのような理由を当てはめるには明らかな無理があると言えるでしょう。このように、「メシア家庭の問題」に対しては、何ら教学的には納得のいく説明がなされないままできたのです。

統一神学

 ■ 「真の御家庭の問題」についての統一教会の見解統一教会本部伝道教育部長により出版された『祝福結婚と原罪の清算』(光言社)には、次のように記されています。「さまざまなかたちでメシヤ家庭(真のご家庭)に次々と押し寄せてくる不幸や苦難というものは、すべて“メシヤ家庭の十字架”として認識され得るのです。……蕩減復帰の摂理歴史上に残されてきた「罪責」(サタンの讒訴圏)を清算するために、メシヤ家庭自らがその罪責を背負って蕩減路程を通過してこられたという、いわゆる、キリスト教でいう「十字架の代購」と同じ意味として理解されるべきものなのです。」

しかし、“メシヤ家庭に押し寄せてくる不幸や苦難”という表現は、文先生自身に起きた様々な内容については、確かに歴史的蕩減をかけた内容であり、文先生自身の落ち度(罪責)と見ることは明らかに問題があるので、そのような表現も“適切”かとも言えますが、 “完成した真の家庭から誕生した、無原罪としての御子女様”に起きた、「離婚」を初めとする様々な内容は、どう考えても、サタン世界からの受難(十字架)として捉えるには、かなり厳しいものがあると言えるでしょう。

 勿論、反対牧師が提示するおびただしい情報の中には、悪意に満ちた虚偽やでっちあげも数多くありましたが、しかしそこには、明確な証拠に基づく、疑いようのない事実も、少なからず存在していたのです。(しかもそれは、過去のある“一時期だけに”あったというのではなく、現時点においても、あきらかにそのような問題が起きていることを否定することはできません。)

 このような統一教会の現状に対するすさまじい批判の嵐の中で、多くの統一信徒は、反対牧師の説得によって、統一教会のもたらす“救いの意味と価値”が分からなくなり、“離教”へと追い込まれていったのです。

 

  (2) 「キリスト教」を超えてはいない「救済の現実」

 

  確かに、反対牧師たちが主張する「人格の実り」「救済された実態」という観点からみれば、現在の“祝福家庭や祝福二世の実状”には、非難されしかるべき多くの問題点があることも決して否定することはできないでしょう。それに比べ「キリスト教」は、多くの“歴史的汚点”を残しながらも、2000年の歴史的伝統の中で、イエスの示された“愛の教え”に基づき、「信仰義認」とそれに続く「聖化」による“人格の向上”を目指し、現実的にも多くの「学校」や「教育機関」を設立し、一般社会に多大な善的影響を与え、歴史的にも沢山の「義人」「聖人」を輩出してきたということは、万人の認めるところであります。

  従って、敬虔なクリスチャンのもつ“人格性と隣人愛”、及び“クリスチャン家庭の愛の高さ”と、“統一教会における祝福家庭の現状”とを比較してみた場合、明らかに様々な点でキリスト教に軍配を上げざるを得ない実情であることを、否定することはできないと言えるでしょう。

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はじめに
第1章 統一教会における教典問題
【1】統一教会の「教理」と『原理講論』
【2】『原理講論』の“教典的位置”としての問題点
【3】『統一神学』の問題点
【4】『統一思想』の問題点
【5】「統一教会の教理」に関するその他の「解説書」
【6】文先生の『御言』の中にある「最終的真理」
 
第2章 統一教会の救済観の問題点
【1】「霊肉共の救い」を主張した統一教会
【2】統一教会の主流的救済観─「法廷論的贖罪観」の問題点
【3】「法廷論的贖罪観」が強調されるようになった経緯
【4】「法廷論的贖罪観」の強調は、“反対牧師対策”がその背景。
【5】「法廷論的贖罪観」の問題点。
【6】統一教会内にあった「二つの見解」
【7】「実存と法廷的評価」の分離は「キリスト教型の救済観」
【8】「罪」と「堕落性」の関係
【9】「罪と堕落性」という“対比の仕方”の問題点
【10】「堕落性本性」の内容と「罪」との関係
【11】「性質としての罪」の概念
 
【12】「堕落性」という言葉
【13】 「思い」や「性質」は“罪ではない”と主張する統一教会
【14】 「堕落性と罪」のより適切な対比表現
【15】 キリスト教における「堕落性と罪」の概念
【16】 「原罪」ついての二つの捉え方
【17】 人類始祖の犯罪行為としての「原罪」概念の問題点
【18】 「神の血統」の真の意味
【19】 「淫行関係」と「血縁関係」の概念の混乱
【20】 「罪の遺伝(転嫁)」とは?
【21】 「法廷論的贖罪観」の論理的問題点
【22】 もう一つの救済観─「生物学的血統転換論」の問題点
【23】 統一教会に混在する「二つの救済観」
【24】 『御言』にみる「正しい血統的転換論」
【25】 「心の遺伝」
【26】 「救済論」における「義認」と「聖化」
【27】 統一教会の救済論の重点は、「義認」より「聖化」
【28】 「義認と聖化」は“同時的”に実現
【29】 「罪と堕落性」「義認と聖化」からみた「イスラエル(選民圏)の変遷」
【30】 統一教会の本来の目的は「聖化」の完成
【31】 「第三イスラエル」としての統一教会と「第四イスラエル」時代の到来
あとがき