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第1章 統一教会における経典問題

【2】『原理講論』の“教典的位置”としての問題点

 このような観点からみて、『原理講論』と文先生の『御言』との関係を考えた場合、弟子である劉孝元先生の書かれた『原理講論』は、あくまでも文先生の『御言』の一つの「解釈」であり、「組織神学的解説」なので、文先生の直接語られた『御言』のほうに、より宗教的権威があることは言うまでもありません。(このことは、万が一、両者(『原理講論』と『御言』)の間に、対立する概念や表現があった場合、『御言』のほうを優先すべきであることを示しています。)

 

 (1) 文先生の『御言』の全体を網羅していない『原理講論』

 

 しかし、『原理講論』が文先生の『御言』の“組織神学的展開”だとしても、その啓示的資料となるべき『御言』が、1954年に統一教会がその看板を掲げ出発したごく“初期”の段階である“1966年5月1日(『原理講論』出版)までの内容しか網羅されていない”ということは、極めて重大な問題であることが分かります。

統一神学

  実際、文先生は『原理講論』の出版後も、現在に至るまでの四十数年に渡り、実に膨大な、重要な御言を語られているのです。そこには『原理講論』には全く登場しない、いくつもの新しい、重要な「単語」や「概念」が含まれています。本来は、それらの内容を“全部”網羅した上でしか、「新しい啓示の体系付け」(組織神学の構築)は行うことができないはずなのに、何故1966年というかなり早い時期に、宗教団体にとっては極めて重要な“教理の神学的骨子”のような書物が出版されたのでしょうか。

  しかも、その後、文先生ご自身が『原理講論』の“不足面”“間違った箇所”に度々言及されながらも【注1】、『原理講論』の「続編」や「改訂版(内容の大幅な補充)」などが出版されるという動きは全く見られないのです。(一度、三弟子のひとりであられる金栄輝先生によって、『原理講論』の補足版ともいうべき『原理教本』<1976年>なるものが出版されたことがありましたが、不思議なことに直ぐに絶版となってしまいました。)

【注1】 文先生の『御言』
「今あなたたちが学んでいる『原理講論』、これは歴史路程において成された結果的記録であり、これをいかにして蕩減すべきかということについては、まだまだ述べていない。それは先生自身が闘って勝利して切り開いていく。」(『み旨と世界』11頁 復帰と祝福)(『祝福家庭と理想天国Ⅱ』 11頁)
「原理講論は……1ページ1ページ(先生の)鑑定を受けたのです。間違っていたとしても、それを知らないのではありません。間違っているところ何ヶ所かを、そのままにしておかなければならないのです。全てを教えてあげるわけにはいかないのです。(『ファミリー』1995年2月/63頁 神の日の御言“真の父母様の勝利圏を相続しよう”)

 『原理講論』の“不足面”“部分性”については、『原理講論』自体がその総序において、「ここに発表するみ言はその真理の一部分であり、今までその弟子たちが、あるいは聞き、あるいは見た範囲のものを収録したにすぎない。時が至るに従って、一層深い真理の部分が継続して発表されることを信じ、それを切に待ち望むものである。」(38頁)と明確に述べているとおりです。

 

  (2) “新しい聖書解釈”としての『原理講論』

 

  更に『原理講論』の記述方法には、他の宗教団体にはあまり見られない不思議な側面があります。通常、宗教団体の教理(神学)というものは、教祖の“新しい啓示内容”の神学化なので、ちょうどキリスト教神学が、“教典”である“聖書の言葉(聖句)”を引用しながら、神学の体系化を行ってきたように、統一教会の神学(統一神学)は、本来であれば、統一教会の“本当の教典”である“文先生の『御言』”を引用しながら、その内容の体系化(組織神学化)を行うべきである筈なのに、『原理講論』は、その論述のほとんどが聖書の「聖句」の引用によってなされており、その書物の体裁は、「統一教会の教典」というよりも、一見「キリスト教の新しい神学書(聖書解釈)」のようであり、まるでキリスト教の“一つの派”にすぎないかのように見えるのです。

  しかし、本来、再臨主によって提示される「統一原理」は、『原理講論』自体も述べているように、単なるキリスト教の延長ではなく、文先生を通して人類に与えられた、まさに聖書啓示を超える、“再臨主の直接的な言語”による“全く新しい啓示”であるはずなのです。それは、決して既存のキリスト教や聖書の枠に収まるものではなく、それらを凌駕したまさに「新しいパラダイム」であり、伝統的キリスト教とは全く異なる「新しい神学」でなければならないはずなのです。(このことは、『原理講論』が、再臨主である文先生の思想を組織神学化した“最終的な教理書ではない”ことを物語っているように思います。)

  更に、原理講論の総序で述べられている「宗教と科学の統一」という観点からは、本来であれば、『原理講論』の論理展開には多くの“科学的論証”が必要であり、又「宗教の統一」という観点からは、多くの“他宗教の経典”との“比較宗教的論証”も、もっと展開されていてしかるべきなのに、圧倒的に“キリスト教的観点からのみの論証”と言ってよい「聖書の解明」に始終しているのです。このことは、何か、統一教会が「キリスト教」の看板を掲げざるを得ない、つまり、あくまでも“キリスト教の枠内で真理を語らなければならない”何か“特別な摂理的事情”があったとしか考えることができません。

  このように、教団にとってまさに教典的な権威を持つとされる書物が、一体何故、教祖が存命中であるにもかかわらず、その“弟子の手によって”、“真理の一部分”が、しかも極めて“初期の段階で”書かれ、その後は、教祖によって度々“誤り”や“不足”が指摘されているにもかかわらず“「改訂版」や「増補版」が出されない”という不思議な事態が起きているのでしょうか?

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救済論の問題点 目次
はじめに
第1章 統一教会における教典問題
【1】統一教会の「教理」と『原理講論』
【2】『原理講論』の“教典的位置”としての問題点
【3】『統一神学』の問題点
【4】『統一思想』の問題点
【5】「統一教会の教理」に関するその他の「解説書」
【6】文先生の『御言』の中にある「最終的真理」
 
第2章 統一教会の救済観の問題点
【1】「霊肉共の救い」を主張した統一教会
【2】統一教会の主流的救済観─「法廷論的贖罪観」の問題点
【3】「法廷論的贖罪観」が強調されるようになった経緯
【4】「法廷論的贖罪観」の強調は、“反対牧師対策”がその背景。
【5】「法廷論的贖罪観」の問題点。
【6】統一教会内にあった「二つの見解」
【7】「実存と法廷的評価」の分離は「キリスト教型の救済観」
【8】「罪」と「堕落性」の関係
【9】「罪と堕落性」という“対比の仕方”の問題点
【10】「堕落性本性」の内容と「罪」との関係
【11】「性質としての罪」の概念
 
【12】「堕落性」という言葉
【13】 「思い」や「性質」は“罪ではない”と主張する統一教会
【14】 「堕落性と罪」のより適切な対比表現
【15】 キリスト教における「堕落性と罪」の概念
【16】 「原罪」ついての二つの捉え方
【17】 人類始祖の犯罪行為としての「原罪」概念の問題点
【18】 「神の血統」の真の意味
【19】 「淫行関係」と「血縁関係」の概念の混乱
【20】 「罪の遺伝(転嫁)」とは?
【21】 「法廷論的贖罪観」の論理的問題点
【22】 もう一つの救済観─「生物学的血統転換論」の問題点
【23】 統一教会に混在する「二つの救済観」
【24】 『御言』にみる「正しい血統的転換論」
【25】 「心の遺伝」
【26】 「救済論」における「義認」と「聖化」
【27】 統一教会の救済論の重点は、「義認」より「聖化」
【28】 「義認と聖化」は“同時的”に実現
【29】 「罪と堕落性」「義認と聖化」からみた「イスラエル(選民圏)の変遷」
【30】 統一教会の本来の目的は「聖化」の完成
【31】 「第三イスラエル」としての統一教会と「第四イスラエル」時代の到来
あとがき