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第1章 統一教会における経典問題

【1】統一教会の「教理」と『原理講論』

 「統一教会の救済観」について考える前に、そもそも「統一教会の教え(正式な教理)」とは何か?ということを検討してみる必要があります。しかし、この「統一教会の教え」とは何か?という問いに答えることは、決して簡単なことではありません。

  というのは、統一教会の「教理」に関連した書物は、実に大量に出版されているのですが、その内容の相互関係、位置付け(権威付け)については、必ずしも明確にはされていないからです。そこには様々な教学的観点が提示されており、一貫性のある、一つの体系付けられた教理(組織神学)として把握することは、決して容易なことではないからです。

  統一教会の教理を、“体系的にまとめた最も権威ある書物”と言えば、きっとほとんどの信徒(統一教会員)は『原理講論』であると答えることでしょう。しかし『原理講論』の教学的位置付けについては、実は色々と検討すべき問題があります。

  一般的に、宗教団体にはその教えを提唱した教祖(開祖)がおり、その人物が直接語った内容が一番“宗教的権威”をもっており、それを収録したものが原則的には「教典」と呼ばれるものとされています。

  勿論、キリスト教の「聖書」や仏教の「仏典」のように、教祖自体の言葉が殆んど記録されなかった場合は、その“弟子たちの解説や手紙”も「教典」として取り入れられてきたことも事実ですが、それでも教祖の直接の言語(啓示)と、それ以外の人物(弟子)の解説との間には、何らかの“啓示的権威の差(序列)”があることは明らかなことであります。

  そうすると、教祖である文先生が直接語られた、言わば「原啓示」とも言うべき「説教集」(以下『御言』と表記します)と、弟子である劉孝元先生が書かれた『原理講論』とを比較した場合、当然、文先生の『御言』のほうが、より啓示的権威をもった書物であることは明らかなことです。しかし、教祖である文先生が存命中であるにもかかわらず、弟子の一人によって書かれた『原理講論』に、何故、かくも特別な“教典”的権威が与えられたのでしょうか?

  一般的に、教祖の語る内容(啓示)は、学問的に体系付けられたものではなく、時として「比喩」「象徴」「暗示」といった、「詩的」で「難解」な言語による表現が多く含まれています。さらに、そこには一見「矛盾する」と思われる表現も多々あるため、その言葉の「合理的、かつ整合性のある解釈」をめぐって、いわゆる「神学的作業」が必要となってくるのです。

 

 しかし、文先生の語られる御言としての「統一原理」の場合、『原理講論』の総序(37頁)で、「この真理は、……かつてイエス御自身が直接話されたように、例えをもってではなく、だれしもが共通に理解できるように『あからさまに』解いてくれるものでなければならない」と述べられているように、従来の経典(啓示書)とは異なり、もはや「比喩」や「象徴」「暗号」といった表現ではなく、誰が聞いても“解釈の相違”が生じる余地のない、“明らかな真理(最終的真理)”として出現したので(…原理講義を受講するとき、そのように説明を受けてきた…)、これまでの宗教の「経典」のような、その啓示的内容についての「体系化」や、「合理的、神学的解釈」は、本来、必要とされていないはずなのです。

  しかし、現実には文先生の語られる最終的真理としての『御言』も、(…不敬とのそしりを覚悟で、率直に言わせて頂くと…)、やはり多くの“難解な表現”で満ちており、決して学問的に体系付けられたものとは言い難く、従来の啓示的言語(教典)と同様、そこには何らかの“神学的作業が必要である”ことは、明らかな事実であると言えるでしょう。

  このような事実は、文先生の『御言』が、『原理講論』の総序で述べられているような、本当に「例え」や「比喩」ではなく“あからさまに”語られたものであるのかどうか、今一度検討してみる必要があることを物語っているように思います。

  ところで、教祖の言語(啓示)に対する合理的、体系付けである「組織神学」の構築をする場合、極めて重要なことは、まず大前提としてその作業を進めるための「啓示的資料」として、“教祖の語った内容の「全体」が揃っていなければならない”ということです。従って通常、教祖が“存命中”は、神学的作業の前提となる文字(資料)が“確定していない”ので(説教等が継続しているため)、その作業を行うことは極めて困難な状況にあることが分かります。  

 キリスト教や仏教の場合、経典である『聖書』や『仏典』にみられるように、教祖(開祖)が存命中には、その語られた内容の記録がほとんど行われなかったため、…つまり、教祖の話を、逐次書き留める書記の存在やテープレコーダーもなく、そもそも、初めに教祖の周りに集まった人々は、その説話を書きとめる必要すら感じていなかったため、教祖のオリジナルな言語の“全体”を復元することは、ほぼ不可能な状況となっています。
  しかし、統一教会の場合、文先生の語られた膨大な『御言』の中から、文先生ご自身が、その“基本的な内容を網羅した範囲を指示してくださった”(例えば『御旨と世界』や『祝福家庭と理想天国』等を「成約のみ言」「成約聖書」として位置づけて下さったことがある…『祝福家庭と理想天国(Ⅰ)』3頁序文)ので、ある程度の「神学的作業」(組織神学の構築)は可能であると考えることができます。

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救済論の問題点 目次
はじめに
第1章 統一教会における教典問題
【1】統一教会の「教理」と『原理講論』
【2】『原理講論』の“教典的位置”としての問題点
【3】『統一神学』の問題点
【4】『統一思想』の問題点
【5】「統一教会の教理」に関するその他の「解説書」
【6】文先生の『御言』の中にある「最終的真理」
 
第2章 統一教会の救済観の問題点
【1】「霊肉共の救い」を主張した統一教会
【2】統一教会の主流的救済観─「法廷論的贖罪観」の問題点
【3】「法廷論的贖罪観」が強調されるようになった経緯
【4】「法廷論的贖罪観」の強調は、“反対牧師対策”がその背景。
【5】「法廷論的贖罪観」の問題点。
【6】統一教会内にあった「二つの見解」
【7】「実存と法廷的評価」の分離は「キリスト教型の救済観」
【8】「罪」と「堕落性」の関係
【9】「罪と堕落性」という“対比の仕方”の問題点
【10】「堕落性本性」の内容と「罪」との関係
【11】「性質としての罪」の概念
 
【12】「堕落性」という言葉
【13】 「思い」や「性質」は“罪ではない”と主張する統一教会
【14】 「堕落性と罪」のより適切な対比表現
【15】 キリスト教における「堕落性と罪」の概念
【16】 「原罪」ついての二つの捉え方
【17】 人類始祖の犯罪行為としての「原罪」概念の問題点
【18】 「神の血統」の真の意味
【19】 「淫行関係」と「血縁関係」の概念の混乱
【20】 「罪の遺伝(転嫁)」とは?
【21】 「法廷論的贖罪観」の論理的問題点
【22】 もう一つの救済観─「生物学的血統転換論」の問題点
【23】 統一教会に混在する「二つの救済観」
【24】 『御言』にみる「正しい血統的転換論」
【25】 「心の遺伝」
【26】 「救済論」における「義認」と「聖化」
【27】 統一教会の救済論の重点は、「義認」より「聖化」
【28】 「義認と聖化」は“同時的”に実現
【29】 「罪と堕落性」「義認と聖化」からみた「イスラエル(選民圏)の変遷」
【30】 統一教会の本来の目的は「聖化」の完成
【31】 「第三イスラエル」としての統一教会と「第四イスラエル」時代の到来
あとがき