「統一教会に終末が訪れる」ということを、まず始めに理解しなければなりません。原理講論には、「サタン主権の罪悪世界が、神主権の創造理想世界に転換される時代を終末(末世)という。」(原理講論 147頁 人類歴史の終末論)と記述されており、終末時代が来れば、神の創造目的であった三大祝福が成就され地上天国が顕現することを教えています。
しかし、聖書の予言によれば、終末には火の審判があり、人類が「羊」と「ヤギ」(良い麦と毒麦)に分けられ、天国と地獄に分けて入れられるようになると記されているため、特に神を信じる信仰者にとっては自分自身の信仰の良し悪しが審判決定される時でもあります。
統一教会では、「祝福式」に参加した人たちは皆が天国へ入籍したと誤って教えられてきたため、祝福家庭は既に「終末」を越えたものと曖昧に信じています。しかし、本書で明らかにしてきたように、統一教会は第3イスラエル選民であって、これから救われなければならない立場に立っている群れです。祝福家庭は、神の血統を持つ立場ではなく、原罪の清算も成されてはいません。未だ、天国に入籍(復帰)された立場ではないのです。もちろん、天国はどこにも現れてはいないのです。
従って、統一教会の信徒たちも、他の宗教や宗教を信じない人たちと同様に、これから終末の時、審判の瞬間を迎えるようになるのです。
それでは、終末時代はいつ訪れるのでしょうか? 文鮮明師の御言によれば、「終末とは一つの時代が終わり、新しい一つの時代が始まることをいう」(祝福家庭と理想天国Ⅰ 526頁)と説明されており、「今」が、まさに終末の時であることを明確に示しています。(第九七条)
2001年を越え、現在は、実体的な成約時代に入りました。成約とは救済の約束が成就される時代のことです。サタン主管時代である先天時代から、神様が王権を復帰された後天時代へと時代は大きく変化しました。そして、第3アダムを中心とした第3イスラエルである統一教会時代から、今は、第4アダムを中心とした第4イスラエル選民圏時代に移行しました。時代が変わったということを知らなければなりません。
終末時代は、かつて人類始祖が誤った愛により堕落したために、再び同じような時代になり、堕ちていった時のように、倫理道徳から逸脱した動物的な愛が地上に吹き荒れるようになります。青少年の淪落に歯止めが利かない世界が現れるのです。それは、一般社会だけではなく、統一教会の祝福二世たち青年の中にもそのような現象が起きるのです。
では、終末に際して、私たちはどのような姿勢をもてば良いのでしょうか? 原理講論の172頁「終末に際して我々がとるべき態度」という項目に詳しく説明がありますが、最も重要な点は、「歴史の転換期において、古い時代の環境にそのまま執着し、平安を維持しようとする人々は、古い時代と共に審判を受けてしまう」のであり、「終末に処している現代人は、何よりもまず、謙遜な心をもって行う祈りを通じて、神霊的なものを感得し得るよう努力しなければならないのである。
つぎには、因習的な観念にとらわれず、我々は我々の体を神霊に呼応させることによって、新しい時代の摂理へと導いてくれる新しい真理を探し求めなければならない。」ということです。
終末時代には、新しい真理が神によって与えられます。統一教会の信徒たちは、自分たちが信じる「原理」が最終真理であると信じていますが、それは誤りです。第3イスラエルのために神が与えた教典は「原理講論」でしたが、それは未だ真理の一部分であり間違ったところが数多く含まれています。ですから、文鮮明師は2008年に入り、「原理講論」に代わる「原理本論」が出現することを明確に語られました。(第46条)
「原理本論」は「原理本体論」とも呼ばれ、神が第四イスラエル選民のために与えた成約時代の最終的真理なのです。真理とは、神と人間の「責任分担」に関して、明確に書き記したものでなければなりません。本書「100ヶ条の提題」は、「原理本論」に示された文鮮明師の「御言の中の原理」から整理され記述されたものです。
終末時代には「火の審判」があることは、聖書にも原理講論にも記されている通りですが、火の審判とは何でしょうか? それは、新しい時代のために神が与える「新しい神の御言」のことです。
過去の歴史を振り返ると、ユダヤ教もキリスト教も、神が新しい御言を選民に与えようとされた時に、いずれの選民も受け入れませんでした。古い時代の教典に固執し、神が送った預言者やメシヤの新しい御言に耳を傾けようともせず、逆に、彼らを悪霊の頭「異端者」として排斥し殺害してしまったのです。ユダヤ教においてイエス様は異端(悪鬼)の頭と呼ばれ、キリスト教においては文鮮明師が異端の頭という汚名を着せられたのでした。
では、統一教会ではどうでしょうか? 第3イスラエル時代は過ぎ去り、第4イスラエル建設時代が訪れた今、既に、新しい真理の御言が与えられています。しかし、残念ながら、統一教会では、今も尚、古い時代の「原理講論」にしがみつき、新しい真理の出現を訴える人々に耳を傾けようとはせず、彼らを異端者として排斥(除名)し、偽りの噂を流布し、信徒たちの目に触れることのできないように覆い隠しています。その結果、神の願いに反して、新しい真理は異端の中から捜さなければならなくなりました。(第95条)
文鮮明師の「怨讐を愛せよ」という「真の愛の教え」を最も実践しなければならないはずの統一教会が、かつての失敗を今再び繰り返しています。第4アダム時代においても、歴史の同時性が起きてしまいました。神は新しい時代を導き、創造理想世界を実現するために、新しい真理を与えておられるのです。文鮮明師の教えは、一宗教の救いではなく、全人類が一家族として仲良く平和で幸福な愛の世界を築くことです。(第96条)
終末の時代は、イスラエル選民圏が腐敗堕落します。そして、何が正しいのか誤りなのか見分けがつかず善悪の区別ができない混沌状態となり、それまでの古い価値観が崩壊し、将来が見えない不安と暗闇が覆います。まさに、今の統一教会が、そのような終末状態であることを悟らなければなりません。このような現象を前にした時にこそ、信仰者として、常に謙遜な心をもって祈り、神霊的に感得し得るよう努力しなければなりません。そして、因習的な観念に囚われず、心に新しいブドウ酒を入れるための新しい皮袋を用意しなければなりません。
聖書に、火の審判によって「羊」と「ヤギ」(良い麦と毒麦)に分けられるとありますが、「羊」と「ヤギ」とは、どのような人たちを言うのでしょうか? それは、当然、「善人」と「悪人」という区分であることは明らかです。それだけでなく、文鮮明師の御言によれば、「羊は主人のある者を、ヤギは主人のない者」(祝福家庭と理想天国Ⅰ527頁)と説明しておられ、主人として来られる「メシヤを求める従順な羊のような信仰者」と、「主人は必要ないと傲慢なヤギのように自己中心的な生き方をする人」とに分けられると訓示しておられます。
文鮮明師は、統一教会の中に殺人魔や野良犬のような人たちがいることを嘆いておられます。そして、36家庭など全ての祝福家庭を、選別しなければならない時が来たことを告げています。(第94条)
又、「統一教会の教会員も、間違いなくヤギはヤギですが、主人の声を聞くことができる羊の流れに入ってきました。」(ファミリー2003/1 30頁) と語られ、統一教会の教会員がヤギの群れであることを指摘しておられます。そして、今、羊の流れに入ってきたことを教えておられます。統一教会の信徒たちは、間違いなく「文鮮明師」を主人として慕い従っているはずですが、なぜこのように語られるのでしょうか?
終末の時代には、「新しいメシヤが地上に来られる」ということを知らなければなりません。旧約時代のユダヤ教徒たちは、アブラハムやモーセを崇拝し旧約聖書を教典としてメシヤを待ち望んでいましたが、彼らの前に出現したメシヤは、名もない青年イエス様でした。そして、新約時代のキリスト教徒たちは、十字架のイエス様を崇拝し新約聖書の文字に示された、雲に乗って来られる再臨のメシヤを待ち望んでいましたが、神が送られたメシヤは韓国に生まれた青年、文鮮明師だったのです。(【図13】)
本書で何度も述べてきましたが、十字架の悲劇は繰り返されました。文鮮明師の路程は、準備された第二イスラエルであるキリスト教の失敗により、メシヤとしての使命を果すことができず、2000年前のイエス様と同じように、新しい第3イスラエル選民圏を構築していくための中心人物として復帰天使長の立場で歩まれたのでした。
成約的蕩減時代を歩んできた、第3イスラエル選民としての統一教会の信徒たちは、丁度、キリスト教徒たちがイエス様を崇拝するように、「文鮮明師」を救い主として崇拝し、聖書の解説書である原理講論を教典として歩んできました。
しかし、非常に残念なことに、統一教会の教典には、祝福家庭の前に再びメシヤが出現されなければならないことが記述されていませんでした。そのため、第3イスラエル選民は、選民の歴史上始めて、「新しいメシヤを必要としない」群れとなったのです。ここに、文鮮明師が、統一教会の信徒を指して「ヤギ」と指摘した理由があったのです。
終末時代に処した現在の統一教会の信徒たちは、今、「第4アダム時代」を迎えているのですから、「新しいメシヤが地上に来られる」ことを悟らなければなりません。そして、「新しいメシヤを求める信仰者」即ち、第四イスラエル選民圏144000の「羊」の群れの流れに入って行きましょう。(第97条)(【図9】)
メシヤが来られる前に、エリヤが再臨するということは、既に預言者マラキによって示されたことですが、第4アダム時代も同じように、「主の道を正しく準備する者」が必要です。その理由は、第一に、「私(注 主)は盗人のように来る」(新約聖書 黙示録 3章3節)からです。神がメシヤの降臨を知らせたのは、「洗礼ヨハネ」であり「金百文」でした。今の時代にも、神はそのような預言者を必要とされるに違いありません。
第二に、原理講論の再臨論に記述されているように、今までの選民圏において、祭司長や律法学者など教会の指導者が真っ先に来られるメシヤを迫害し、主を十字架に引き渡してしまったからです。エリヤは洗礼ヨハネに再臨復活し、「主」のみ前に先頭に立って歩み、イスラエル選民の心を神とメシヤに向けさせます。そして、悪しき者を挫き、砂漠(腐敗して神霊の枯れた教会)に水でバプテスマ(新しい命)を与えるのです。
第三に、終末の混乱期には、「偽メシヤ」が現れる可能性があります。それは「あなたが主である」と啓示を受ける人が現れるからです。終末時代に直面した現在の統一教会には、「私がメシヤだ!」と高言する者や、自分によって罪が取り除かれ、サタンの血統が根絶されると言って多額の献金を要求する者が現れています。
霊通者は、各自の心霊程度に合わせて、それに相対する霊界が協助するため、その人に示される「真理(?)」の基準も各々異なっており、多くの場合、論理的実証性を欠き、そこには「原理」がありません。
「真理」は、既に地上に降ろされました。神の示す本当の「真理」は、暗号で示されるために、それを解明しなければその意味を理解することはできません。再臨のメシヤとして来られた文鮮明師の御言に、神は全ての真理を下ろされたので、師の御言を綿密に詳細に整理分析し、それが、直接的に字義的に現されなければならないのです。(第46条)
そしてそれは、現在の最先端科学においても整合性があり、現実社会において有益なものでなければなりません。又、人類歴史に現れた、あらゆる神学や哲学を凌駕し得るレベルの論理的実証性を具えていなければ、全世界のあらゆる宗教を統一し、混乱した現実世界を導いていくことはできません。
盲目的信仰をしていると、今まで長い歳月を修道生活に費やし、様々な犠牲を払い数多くの功績を立てていたとしても、「偽メシヤ」の言葉に翻弄されて、一瞬にして全てを奪われかねません。私たちは、「神霊面においても、真理面においても、常に正しい信仰を持つために努力しなければならない。」(原理講論 206頁 メシヤの降臨とその再臨の目的)
そのため、神は「メシヤ」の降臨が近づくと、日の出る国から、第四番目の天使を呼び、火(御言)の車に乗せて再臨させるのです。そして、人々を惑わすバアル神たちと戦わせ、サタン分立の摂理を成就していかれます。
神を愛する篤実な信徒の皆様は、現在の統一教会が、「終末」であり、新しい時代へと移行しなければならないことを一刻も早く悟って、「新しい真理」としての「原理本論」を学び、第4イスラエル選民としての使命を全うして行きましょう。 メシヤ降臨準備時代、「第4アダム」の出現が間近に迫っている時です。暗く寒い冬から、木々の枝に若葉が萌える明るい春の季節がすぐそこまで来ています。
■ 文鮮明師の御言
「いまだに7000名のバアルとかアシュラの偶像の神に服さない者が残っている。どんなことがあっても、再びこれを一つにしなければならない」というのです。 …(中略)… それで、これらを一つにすることができれば、イエス様が来られる時が近いというのです。
このカイン・アベルを一つにしなければ、再び国家的メシヤとして来られるお父様を殺してしまうことになるのです。大変なことです。エバが堕落してアダムを殺したことを、再び神の方に元返してあげ、その権限を神共に一体とするためにアダムとして来られた方を殺してしまったらどうなりますか! 神様が直接働いて再創造する道を、平面的に復帰していかなければならないと大変なことになるのです。
・…(中略)… それで神様は「メシヤがこられる前に再びエリヤを送る」と言ったのです。このような内容をイスラエル民族は知らないのです。 …(中略)… 終末にはどのようにして神様に帰ることができるかということを教えることができるのです。ですから、そういうことを教えることのできる人こそ、真の親でなければならないということはもっともな話であるというのです。
(男性訪韓修練会御言集 318頁 1995年1月15日)