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【芸能・社会】新宿駅ホーム転落死の佐藤さん、作曲家だった 大林監督が追悼2010年9月3日 紙面から
東京・京王線新宿駅ホームで8月23日夜、電車待ちの列に男がぶつかった弾みでホームに転落し、亡くなった星槎(せいさ)大学学長の佐藤方哉さん(77)が「木下雅夫」のペンネームで作曲家として映画音楽などで活躍し、亡くなる直前にも自作品のアルバムを発売していたことが分かった。年内に次作も発売する予定だった。事故の1時間ほど前にも電話で次作の打ち合わせをしていたという音楽プロデューサーの高橋常喜さん(67)は突然の悲報に沈みながら、「故人の遺志を継ぎ、次作を完成させたい」と話している。 心理学者だった佐藤さんは、作家で詩人の佐藤春夫の長男。母親の千代さんは作家谷崎潤一郎の元妻だった。慶応や帝京大学で教授を務め、昨年通信制の星槎大学学長に就任した。 高橋プロデューサーによると、佐藤さんは学者としての傍ら、趣味で若いころから作曲活動をしていた。作詞家に紹介され、故坂本九さんの妻で女優の柏木由紀子(62)が1970年に歌った「北国のわたしは幸せ」の作曲を依頼したのがきっかけで親交を深めた。 佐藤さんは「木下雅夫」のペンネームでプロとして作曲活動を続け、1986年には大林宣彦監督の映画「野ゆき 山ゆき 海べゆき」の挿入歌を作曲。詞は父春夫氏が残した「少年の日」だった。 童謡や唱歌を多く作曲してきた佐藤さんは、かねて「いつか自分の作品集を作りたい」と話していた。その思いは高橋プロデューサーの協力で07年に実現。歌謡曲を集めたアルバム「深く愛したら」が発売された。その後も毎年、アルバムを発売し、今年8月6日に第4弾の「童謡組曲 十二ケ月の子守唄」を発売したばかりだった。 アルバムは、インターネットサイトの世界童謡アルバムのヒットランキングで9位になるなど好評で、佐藤さんは「世界のベストナインにも選ばれた。思った以上にいい作品ができた」と大喜びしていた。 年内にはシリーズの第5弾の作品を発売する予定で収録曲がほぼ決まり、歌い手や作詞家への発注作業も行われていた。京王線新宿駅での悲劇はその矢先に起きた。高橋プロデューサーは「23日の夜の事故の1時間ぐらい前でしょうか。佐藤さんと作品のことで電話で話したんです。24日に会う約束もしていました。知人に『亡くなったのは木下さんではないか』と知らされましたが、そんなことはないだろうと…。新聞に出た顔写真を見るまで信じられなかった」と話した。作曲家「木下雅夫」が佐藤さんと同一人物と知らないファンも多かった。 佐藤さんは、アルバム制作をライフワークにしたいと意欲満々で、年内に発売する予定だった第5弾に続き、シリーズ6弾の企画も立てていた。高橋プロデューサーは「第6弾は歌曲を集めた作品にしたいと、メンデルスゾーンを研究したり、一生懸命勉強していた。木下先生の思いをなんとかかたちにしたい」と話している。 ◆大林宣彦監督が哀悼佐藤方哉さんと親交のあった大林宣彦監督(72)が本紙に追悼文を寄せた。 ◇ 僕が91年に撮った映画「野ゆき 山ゆき 海べゆき」は文豪佐藤春夫の小説「わんぱく時代」が原作で、その中に春夫の詩「少年の日」を挿入歌として使おうという事になった時、方哉さんが「父の詩ならば、ぜひ私に曲を」と自ら作曲を申し出られ、穏やかに、けれどもまことに亢奮されて、ある日楽譜を手にいそいそといらっしゃり、恥ずかしそうに、でも堂々と、なかなかの美声で唄って下さいました。 景観論争で去年、日本中を沸かせた古い港町・鞆の町の、百年の歴史を持つ港の雁木を舞台に、この歌は唄われ、文豪の詩情が日本古来の文化の町に切々と人の情や想いを染み込ませたものでしたが、お父さま似の風ぼうをお持ちの方哉さんは、まことに誇らしく嬉しそうでした。 この度の突然の訃報は今だに信じ難いのですが、日本の文化を美しく誇る春夫・方哉の二代に渡る佐藤さんと共に映画を作り得たのは、僕の生涯の誇りでした。有難うございました。美しい鞆の港もきっと守りますよ。(原文ママ)
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