原理講論は完全な真理でしょうか? 統一教会では、原理講論が教義の中心に据えられ、全信徒に対する教育の教科書として用いられてきました。指導者たちの多くは、原理講論が文鮮明師の原理そのものであると信じ、そして絶対的な原理であるかのように教育しています。
しかし、原理講論の著者である劉孝元氏自身は、原理講論の総序の最後に「真理の一部分」であることを明確に書き記しておられるのです。そしてそこには、いずれ将来、一層深い真理が発表されなければならないことを指摘し、著者自身が、それを待ち望んでいることを吐露されているのです。(第41条)
原理講論は、完全な真理ではありません。文鮮明師の指摘によれば、間違っている部分や訂正しなければならない部分が数多く含まれています。そして、神の思想を表すにおいて重大な提題が抜け落ちており相当な部分の真理が未発表なままなのです。又、哲学や科学など学術的な分野からの真理性の検証が不足しており、総序に提示された、真理とは宗教と科学が統一された課題として解決されなければならないという観点から見ても、原理講論は最終的に神が人類に与えて下さる「完全な真理」としての定義を満たしていません。
原理講論には、重大な欠陥が四つあります。
その第一は、原理講論は、教祖である文鮮明師の御言に説明されている原理観と大きく食い違っているという問題です。創造原理、堕落論、復帰原理と原理の基本的な説明がありますが、そのどれもが御言とは異なる説明がなされています。
創造原理では最も根本的な神観が異なっています。神の創造目的、神と人間との関係、三大祝福、価値論、霊界論 …、全ての項目を書き換えなければならないほど原理観や定義が異なっているのです。
一つ例をあげてみれば、神の創造目的に関して原理講論では、「神が被造世界を創造なさった目的は …(中略)… 見て、喜び、楽しまれるところにあったのである。」(原理講論64頁~ 創造原理)と記述されていますが、文鮮明師の御言には「未来の実体の神様の現れを目標としてアダムを造った。だからアダムは実体をもった神様である。…(中略)… そのようなアダムを前に立たせて、そのアダムの中に神直接臨在して、アダムという肉体を、神の共鳴体と同じような立場に立たせて、神直接この天宙を主管しようとした。 …(中略)… 愛によって神と人間は一つになる。愛によって人間と世界が一つになる、という結論になる。これが神が創造した目的である。」(御旨と世界 62頁~ 血統的転換)と解説されています。
これら両者の説明には、根本的な違いがあることがお分かりいただけると思います。原理講論には、神が被造世界や人間を創造した目的は、神が被造世界を見て、喜び、楽しまれるためと説明されているのですが、文鮮明師の御言では、神はご覧になるだけではなくて、アダムの肉体の中に神が直接臨在して、アダムを通してこの世界を直接主管されようとしたというのです。主管は愛でなされるのですから、神はご自身の愛を人間の中に実体的に現し、そして被造世界と直接的な愛の関係を結んで一つになろうとされたというのです。
神の原相論(本体論)や被造物における存在論が根底から違っているのですから、創造原理の全ての項目において違いが出てくることは言うまでもありません。これは、神学的、哲学的に重大な問題を投げかけているのです。そして、一般社会のあらゆる学問に大きな影響を与えていく内容となるのです。人類歴史上最も重大で根本的な提題であると言って過言ではありません。
他にも、堕落に関する説明が原理講論と文鮮明師の御言では大きく違っています。(第47条) 又、原罪や血統に対する定義が全く違うのです。(第50・59条) 創造原理、堕落論が違っているのであれば、必然的に復帰原理が違ってきます。原理の最も基本的部分の説明が間違っていたとすれば、これは大問題です。
それでは、真理を判断するための私たちの姿勢として、原理講論と文鮮明師の御言のどちらにその基準を置くべきでしょうか?(第44・45条)
第二の欠陥は、原理講論には、1966年以降の文鮮明師の御言が何一つ解説されていないということです。この理由は、原理講論が1966年5月1日に初版が出版されて以来何も書き加えられていないからです。したがって、原理講論に示された原理の教えは、統一教会のごく初期の段階、草創期に語られた文鮮明師の御言の解説に止まっているのです。
しかし、再臨のメシヤとして地上に立たれている文鮮明師の御言は、その後、今日に至るまで40年以上に渡って毎日のように語り続けられ、原理講論に書かれていない全く新しい原理観や摂理観が示され、その説明が加えられています。又、神の復帰摂理歴史は、一九六六年以降、さまざまな摂理的展開の中で大きく進展し、新しい段階へと変転を繰り返しています。
果して、40年以上も前に書かれた真理の一部分しか記述されていない本を、現在もそのまま、最も中心的な原理観を教える教科書として用いたままで良いのでしょうか? 現実の信仰生活の中で、私たちが知らなければならない数多くの御言があり、原理的解説を必要とする全く新しい重要な用語が沢山あります。
例えば、「祝福」という用語がありますが、この単語の持つ原理的な意味はどのようなものでしょうか? 祝福を受けると原罪清算され神の血統に連結されるのだと統一教会では教えていますが、本当にそうだったのでしょうか? 原理講論にはこの重要な用語の原理的解説はありません。
他にも、三大王権、四大心情圏、皇族圏、ホームチャーチ、氏族メシヤ、国家メシヤ、第4アダム、等々、挙げれば切がありませんが、私たちが現実の信仰生活を歩む上で必ず理解すべき用語の原理的解説が原理講論にはありません。
第三の欠陥は、原理講論には、再臨のメシヤの実際の歩みに関しての事柄が何も書かれていません。この時代の摂理的な事情、縦的な御旨を中心とした事情に関して記述がありません。
原理講論の最終章は「再臨論」ですが、その説明は、2000年前に十字架で亡くなられたイエス様の再臨として、今日再び、韓国の地にメシヤが来られることが予言的に記述されています。そして、「賢い者は悟るでしょう」と結ばれ、最後に言語統一に関して書かれているのみで、原理講論の全ての記述が終わります。
原理講論を執筆された劉孝元氏は、生前、原理講論の持つ使命について、洗礼ヨハネが「悔い改めよ、天国は近づいた」と言って、メシヤが来ることを予言した荒野の叫びと同じであることが語られています。(第42条)
文鮮明師の御言にも、原理講論が、再臨のメシヤが来られる直前までの歴史について記述されたものであって、再臨のメシヤ自身の実際の歴史や、その摂理的意味に関しては何も解説されていないと指摘されています。(第43条) ですから、私たちには、これから本当に勉強しなければならないことが数多く残っているのです。原理講論は原理の「本論」ではなく、再臨のメシヤを迎えるために準備された、洗礼ヨハネ的使命の「導入の書(序章)」だったといえます。
第四の欠陥は、原理講論は、再臨のメシヤによって成されるべき実体(霊肉)救済に関して何も記述されていません。(第43条)
文鮮明師の御言(御旨と世界 11頁)に、原理講論には歴史路程においてなされた結果的記録が記述されているものの、それを如何にして「蕩減」するのかということに関しては述べていないことが指摘されています。これは、人類救済を目的とした統一教会の宗教運動において、又、実体救済を待ちわびてきた人類にとって大問題ではないでしょうか?
なぜならば、「蕩減」の方法を知ることは、救済のために必要な最も重要で根本的な復帰に関する原理観であるからです。堕落人間の救済は、奇跡や儀式による一方的な他力的恩寵によってなされるのではなく、人間自身の責任分担により創造本然の人間に向けての再創造が必要なのです。
罪の清算をしながら、再創造をしなければなりません。それが「蕩減復帰」です。堕落した時の位置と状態と経路を再度取り戻しながら、創造本然の人間に再創造し、長成期完成級を越えて、真の神の愛を体恤した人格完成を成さなければなりません。
さて、このような蕩減復帰を如何にして成していくのでしょうか? 実は、再臨のメシヤを通して成される実体救済の原理に関して原理講論には全く記述されていなかったのです。
本書における「原理講論」に関する詳しい検証はこれで終わりますが、もしも、文鮮明師の御言と綿密に詳細に照らし合わせるならば、原理講論の多くのページに修正が必要になると考えられます。このような観点からも、原理講論の著者である劉孝元氏の言葉の通り、現在が一層深い真理の部分が発表されなければならない時代に至っているといえます。
第4アダム心情圏時代は、人間の責任分担を完成し、堕落歴史の完全蕩減復帰をしなければならない成約時代であるため、完全な真理としての成約時代の聖書、「原理本論」が必要な時代です。本書、「100ヶ条の提題」は、原理本論の原理観に基づいて質問と解説が書かれたものなのです。