「子は親を映す鏡」ということわざがあるように、子どもは両親をはじめとした周りの大人たちの言葉や行動を手本に成長します。
子どもの汚い言葉遣いやルールに反した行動を注意した時に、
「大人だってやってたじゃん!」と反論されたら、返す言葉がない(笑)
1位の《ゴミのポイ捨て》・・・まぁ、そうでしょうな(汗)
2位の《お礼や感謝の言葉を述べない》は、ようするに、
「ありがとう」と「いただきます」
ある中学校で、生徒の母親から
「給食費を払っているのだから『いただきます』を言う必要はない」
という要望が出たという新聞への投書が話題を集めたことがありました。
身近なところでも、「どうして給食費を払わないのですか」という学校側の知るもんに対し、
「だって注文してませんわ」と答えた母親がいて、騒然となったという話を聞いたことがあります。
「いただきます」は、眼の前の食べ物を与えてくれた動植物、農家の方、流通の方、そして作ってくれた人などへの感謝の言葉です。
人は、ひとりでいきているわけじゃない。
目の前にあるお味噌汁ひとつをとったって、大豆の栽培農家、、具ザイの栽培農家、ワカメ漁のおばちゃんたち、味噌工場で働く人々、味噌を入れるための包材屋さん、市場のおじさんたち、流通トラックの運ちゃん、問屋さん、スーパーのおばちゃん・・・・などなど、実にいろいろの人の手を経て、いま、眼の前の一杯のお味噌汁になっている。
そうした人々の支えによって、自分が、そのお味噌汁をおいしくいただくことができる。
そこへの感謝の意を「いただきます」の言葉であらわします。
その昔、武家では、大名や将軍様といえども、食事のときは正座して食べたといいます。
士農工商という身分制度はあっても、人口の9割が農家であった時代に、統治者である武家は、庶民への感謝の心を、三度の食事のときに、あらためて自己に言い聞かせる。そんな意味があったのだといいます。
ついでに言うと、隣の人に粗相がないよう、脇をしめて食べた。
両肘をはってごはんを食べるのは、お行儀が悪い(笑)
人は心で生きるもの。三度の食事にも感謝の心を忘れず、その感謝の心で民を統治する。そうでなければ施政者としての資格がない・・・そう考えられていたのです。
昔の日本人は、他人へ感謝の気持ちを持たないものは、恩をわきまえず、恥を知らない、そういう人を、恩知らず、恥知らず、といってさげすみました。
恩知らず、恥知らず、孝知らずは、礼を知らず、忠がなく、義がなく、正しい行いを忘れ(廉)、人を信じることができない。その八つの恥をしらない者を、「忘八者」といい、彼らは「人でない」とされた。
どういう人が忘八者かというと、岡場所(遊郭)の番人たち。
女性を、心を持った人としてではなく、肉体だけの女性器として扱うことを仕事とする彼らは、最早、人ではない・・・そう定義づけられたのだそうです。
どこかの国は「恨」の文化なのだそうですが、日本は「感謝」の文化です。
すべての自然の恵み、人々の努力に、常に感謝の心をもって接する。それが日本人の心なのだということができようかと思います。
すくなくとも、「給食費を払っているのだから『いただきます』を言う必要はない」などと、カネを払えばそれでいい、なんて考え方には、ねずきちはあきれてものもいえないのですが・・・・
←気にいっていただいたらココをクリックよろぴく。ちょっぴりはげみになりますので^^vありがとう
ちょっぴり感動するお話です^^
見させてもらっています^^
確かに子供は大人を見て育ちますからね
子供のためにいい見本になれるように
頑張りたいものです
背中・・・だいじですね〜〜^^