「ゆ、ゆ~じゆ~じゆ~じぃっ!!」
「人の名前を連呼するな」
キッチンで静音と一緒に明日のテイクアウト分を考えていたところにホールから岩崎が弾丸のように飛んできた。
「た、たたた大変っ!」
「何だ、どうしたんだ」
「と、とにかくちょっと来てってばっ!」
わけがわからないままに岩崎に腕を引っ張られてホールに連行される。
そこで目にしたのは優雅な雰囲気を持った……、いや、困った顔でおろおろと辺りを見渡すだけのフランス人形のような少女だった。
Manual 01 慌てること莫れ
小柄な体を更に縮こませて捨てられた子犬のようにこちらを見つめる青い瞳。
柔らかそうなフワフワのウェーブがかかったブロンドヘアーはどこぞの貴族の娘ではないかと疑うほど。
服装はここいらではよく見かける高校の制服。改めて見れば岩崎の高校のものだ。だが袖を通しているのがここいらでは見ない人間だという話。
「えっ……と?」
「ダメ!私英語ダメなのよっ!こう見えても私英語だけは嫌いなのっ!時代はインターナショナルだって言っても使う機会なんて数えるほどしかないじゃないっ!」
「その誤魔化しで通してきたが、今正にこの瞬間、その数えるほどしかない機会にブチ当たったわけだ」
「分かったっ!分かったってば!帰ったら明日の英語の予習やるから今は助けてっ!」
危機を乗り越えても絶対にそれだけはやらないことは分かってはいたが、さりとてこのまま放っておくわけにはいかない。お客さんがあまりにも不憫だ。
折角この店に入ってきたのだからゆっくりとした時間を味わってもらいたいのだ。幸運なことに他にお客さんはいない。
俺は席まで近づき、知っている英語の知識を総動員させてとりあえずオーダーを聞くことにした。
「あ~……May I help you? (いらっしゃいませ)」
「Year, thank you. (どうもありがとう)」
こ、これはっ……!
通じたっ。
「え~……っと、 This shop has mainly drinks and cakes. (当店では飲み物とケーキを中心に販売を行っております)」
「I did. I want to eat delicious cake. Ah~, What you recommend? (知っているわ。私、ケーキが食べたいのよ。何かお勧めはあるのかしら?)」
早い。向こうは普通に喋っているつもりなのだろうがこちらとしてはもはや英語の領域を超えている。適当に単語を繋げるだけではやはり無理があるのか。
いや待て、まずは何が分からないのかを理解しろ。今彼女は何と言ったのか。……、リコメンド、確か最後にそう言った気がする。
リコメンドの意味は、勧める、だったな。ワッチューリコメンド。貴方は何を勧めるのですか、つまりお勧めを聞いているのではあるまいか。
「あ~……っと、What jenres of recommend do you want? (何のお勧めでしょう)」
「Cakes naturally. (当然ケーキのことよ)」
ケイク、今ケイクと言ったか。つまりケーキのお勧めを知りたいということだろう。構えからして紅茶にも精通していそうなもんだからそっちを気にしているのかとも思ったが、
どうやら取り越し苦労のようだ。考えてみれば女の子なのだ。やはり目当ては甘いスイーツに決まっている。
自分の無力さに苦笑しながら岩崎に手で合図してメニューを持ってこさせる。
じっとこちらの様子を見ていた岩崎は弾かれたように動き出し、メニューを俺に渡すとまた疾風のように定位置に戻っていった。話しかけられては困る、そういうことらしい。
「あぁ~……っと、 This is the menue we have. Today's recommendation is chiffon cakes included a bit soar.(本日は少し酸味のきいたシフォンケーキがお勧めです)」
「Oh……、That is nice. OK, I will take it and have coffee? (まぁそうなの?それならそれを頂くわ。それとコーヒーはあるのかしら)」
コッフィー。コーヒーのことだろう。
「っと、Of course.(もちろんご用意できますよ)」
「Good, one shiffon cake and coffee please, OK? (あぁ良かった。シフォンケーキとコーヒーを一つずつ頂くわ。いいかしら?)」
「Yes, thanks a lot. (かしこまりました)」
頭を下げてホールからキッチンに戻る。古賀にオーダーを伝えると何故かドッと疲れが来た。しばらく休んでいると、古賀が俺をニヤニヤしながら見つめているのに気が付いた。
「何だよ」
「別に?ただ必死に片言の英語を話してる雄二があまりにも可愛いもんだから」
「よく言う。お前、喋れるクセにわざと出てこなかったろ」
「慣れよ慣れ。私だって最初から話せたわけじゃないもの。期間は別にしても、確かにさっきの雄二のような時期は私にもあったわ」
期間は別にしても。
その辺りに嫌味を含んでいるのだろうが、滅多と見ない古賀の嬉しそうな表情を見ていると水を差すのも無粋かと黙っていた。
普段あまり笑ったりしないやつだけに、その時間を目にするとどうしても邪魔したくなくなってしまう。増えることはないけれど、無理に切ることもない。
「オーダー挙がったわ。どうする?持っていく?」
「散々陰で笑ってたんだ。お手本を見せてくださいよセンセイ」
「あら残念。もう一笑いしたかったんだけどマスターの命令じゃ従わないわけにはいかないわね。それじゃ私の英語でも聞いて勉強しておきなさいな」
悠々とホールに出てオーダーを持っていく古賀。ケーキをテーブルに置く時に何事か喋っているようだった。スラスラと流れるように出る英語は流石にここからじゃ聞き取れない。
でもあのお客さんは古賀と話していると笑顔が綻んでいた。何か、悔しい気持ちが沸き起こるのは気のせいだろうか。
万能にこなす古賀に嫉妬しているんだろうか。確実なのは俺じゃあのお客さんを喜ばせることができなかったということ。
「岩崎に言えた義理じゃないか、俺も」
一つため息をついた後、沈んだ気持ちを振り払って業務に戻った。
「あの子ね、留学生なんだって」
「いや、そりゃそうだろ」
「何よそりゃそうだろうって!」
「あの年頃で高校の制服着てれば普通そうだと思うんじゃないのか?」
仮に日本に長いこと住んでいたとするなら日本語はペラペラのはずだし。
俺の反応がおもしろくなかったのか頬を膨らませて抗議してくる。右手に持っているのは岩崎曰く秘密ノート。ポケットサイズのノートながら、記載されている情報は濃いらしい。
「あらそう、雄二はあの子のこと聞きたくないんだ」
「それって俺に了承とるの間違ってないか?あの子が承認しなきゃいけない問題だろ」
「ハンッ、そんなこと言ってるからコールドケースが山積みになってくのよ。ある程度の覚悟を持って法廷に出なきゃ何も変わんないのよっ」
「いや、法廷とは無縁だし」
話したくて仕方が無いらしい。しかし個人情報を重んじる今の世の中ではそう簡単に聞いていいものでもないような気がする。岩崎にかかれば法の網目をくぐっているらしいのだが。
見方を変えれば完全にアウトだ。岩崎は勝手に網目を変えてしまうから自分が網にかかっているとは思っていないだけである。捻じ曲げれば網も何も関係ないのである。
その片棒を担いでしまえばいつか白黒の車に乗らなければならない日が来てしまうに違いない。そうなっては姉貴にも母親にも死んだ親父にも顔向けできないではないか。
「……客の実態を知ることを放棄するわけですか、マスター」
「っ」
手痛いところをついてくる。
岩崎にかかればもう俺の情報など無いに等しいのだろう。的確に急所をついてくる物言いには俺は反抗する術を失ってしまう。
「たおやかな、まったりした時間をお客様に提供するが我らの役目なれば、お客様を知ることこそ、達成する為の最もの近道。それを雄二は見過ごすと言うのか」
「お前、その性格止めた方がいいぞ」
とは言うものの、ここは聞くしかないだろう。何より俺が聞かないことには岩崎は業務に戻ってくれないだろう。オーダーをとらないウエイトエスなど立たせていても無駄なだけ。
加えて岩崎の言うことにも確かに一理ある。客を知ることこそ時間を提供するこちらとしては最も知っておきたいことに偽りは無い。触りだけでも聞いておくべきか。
「あの子ね、クラスじゃ浮いてるみたいなのよ」
「そうか?あの容姿なら逆に惹きつけるもんだとばかり思ってたが」
「日本語もほとんど分からないらしくて、逆に容姿が足を引っ張ってるみたい。残念なことにフォローしてくれる子もいなくて困ってるらしいのよね。だから肩肘張ってたんじゃないかな」
言葉が通じないということだけでかなりの負担がかかっているんだろう。増して状況を理解してくれる人が傍にいないとなると余計だろう。
「お前学校一緒なんだろう?助けてやればいいじゃないか」
「そりゃ私だって英語話せればそうしてるわよ。でもね、私は母国を愛する穢れない女子高生だから多分あの子のことは分かってあげられないのよ。心が痛むのだけれど」
「誰が母国を愛してるって?堅苦しい日本の文化は開放的なアメリカンの空気をもっと取り入れるべきだとか散々主張してたクセに」
「時代は変わる。もちろん人も変わるのよ。私だっていつまでも逃げているわけにはいかない。欧米に飲み込まれる日本をそのままにしておける年頃はもう過ぎたの」
うまいこと言葉を?いではどうにか英語を学ぶことから離れる。この言い回しこそ岩崎の特技の一つと言えるかもしれない。
「昨日話したけど、言葉が通じてえらく喜んでたわ。雄二のこと、とても良く思ってた」
「そっか。何とか努力してよかった」
いつの間にかキッチンから出てきていた静音を交えて三人で話す。今はお客さんがいないから別段構わないだろう。俺がマスターということもあり規則は結構緩いのである。
とは言っても最低限のことは守ってもらっているのでガミガミ言うこともない、というのが一番の本音ではあるのだが。
「いや、もちろんそれもあるんだけどね」
「……?」
「まぁそれはいいとして。茜、雄二の言うとおりアンタちょっとはフォローしてあげなさい。同じ学校にいるんだから見過ごしてるだけじゃアンタの心が痛むでしょうよ」
「何、静ちゃんもインターナショナルなの」
「あのねぇ」
岩崎のガードは頑なだ。岩崎にとって勉強ほど嫌いなものは無いのである。
「……茜、英語話せるとモテるのよ?」
その瞬間、岩崎の中で何かが変わった。
「何て浅ましいヤツだ」
「やる気になってくれて何よりじゃない。学んでマイナスになることは無いんだしいいんじゃない?」
「お前も適当に言いつくろいやがって。これで彼氏の一人もできなかったらどうするんだよ」
「努力が足りなかったって言えばいいのよ。それに、知的な女性には男性は憧れるものよ。雄二はそうじゃないの?」
「いや、俺は別に」
古賀の言葉を真に受けた岩崎は翌日から人が変わったかのように英語漬けになった。それはもう言葉のとおりに英語漬け。インテリ眼鏡が似合わないったらない。
言葉と人の壁に苦しんでいたあの子もそれから毎日のように顔を出していた。というより岩崎が無理やり引きずり込んでいるようだ。
まぁあの子も嫌がってはいないようだからいいんだけれども、来る度に業務放り出して英語を教わる姿勢はどうかと思う。お客さんが一気に来たりしたらどうなるんだ。
岩崎が留学生に英語を請う姿は今となってはこの店の風物詩にすらなった。
常連さんが多いために必然とその現場を目撃される機会が多い。暖かい目線を送るお客さんもいれば、同じ女子高生からは苦笑を送られていた。
残念ながらその視線の中には同じ年頃のハンサムイケメンボーイのものは含まれてはいない点が何よりも哀れではあった。
「Do you love me!? But I saw that you had gone to the hotel cat she stayed!! (私を愛してるですって!?でも貴方あの泥棒猫がいるホテルに行ったじゃない!!) 」
「Cat she? What's that? (猫女?それって何なの?)」
隣の席に座っていたカップルから笑いがこぼれる。
「何を教わってるんだ何を」
「いいんじゃない?興味がわくところから学べばいいのよ。それに文法は合ってるじゃない不思議と。……泥棒猫はともかく」
「あぁ、キャットシーってそういうことか。お前よく分かったな」
「茜の頭の中のことならいくらでも理解できるわ。あの子ま特殊な能力を持っていてね、頭の中で考えていることがそのまま言葉にも表れるのよ」
それは俗に言う単細胞というものなのでは。
岩崎には聞こえないにしろ、何かあった時の為に口にするのは止めておこう。
「Cat she means a woman like a cat. It robs other woman of boyfriend. (泥棒猫ってのはね、猫みたいな女の人のことよ。他人の彼氏を奪うっちゃうの) 」
「Oh...that's too bad. The same things cat robs other's of fish. (それは……何だか悪いことね。猫が他人のおかずをとっちゃうことと同じってことなのね) 」
会話の内容に問題を残してはいるものの、うまくやっていけているようで何よりだ。あの子も良く笑うようになったし、いいことだな。
フッと視線が合った。岩崎をよろしくって意味で微笑を返すと顔を赤くしてサッと背けられてしまった。
「う~む、やはり岩崎とはうまくやっていけないということなのか」
「むしろ今のでそう解釈できる雄二ってかなりのものよね。毅然としてればそれなりのものを持ってるのに」
「何だぁ?」
「別に。それよりマスター、二人のオーダー分があがったから運んであげて頂戴。私は明日の分の仕込があるから動けませんので」
「何もこんな早い時間からやらなくたっていいだろ。閉めてから手伝うからその時にやればいい。ウエイトレスがいないんだからお前が代わりをこなすのが筋ってもんだろ」
その言葉に、静音はクスッと笑って。
「面白いものがあれば見たいじゃない。雄二だってそうでしょう?」
わけのわからないままに徹底抗戦を張る古賀にもはや適う術は無い。腑に落ちないままにオーダーを持ってホールに出る。
席に近づけば近づくほどにフランス人形の女の子はそわそわと居心地が悪そうに体を揺らす。それを見た岩崎が俺を振り返って、
バギンッ! っとシャーペンを折る。
「……何さ、ちょっと英語ができるぐらいで」
「何、何でスネてんのお前」
「ハンッ、結局そういうことですか。付け焼刃じゃ振り向かないってことですか。私がやってきたことはみんな無駄だったってことですか。彼氏はできないってことですかっ!?」
泣きながら必死に訴える岩崎と、チラチラと赤い顔をしながら俺を盗み見る少女。
笑いをこらえかねた隣の席に座るカップルが盛大に笑い声を上げる。
一部を除き、和やかな空気の中で、今日も洋菓子店『コサージュ』、営業中です。