2010/9/3
前田章夫氏は#librahack関連呟き参加者に喧嘩を売っているのだろうか? 知る権利と行政
『図書館界』353号より
大阪府立中央図書館 前田章夫 「図書館の自由と安全管理 −利用者の「問題行動」を中心に」−
執拗なクレーム と題された箇所。
小学生に作文を書かせたとする。一枚も書かない生徒には、少しでも書くよう指導するはずだ。逆に30枚も書いてきた生徒がいるとする。あなたが先生だったら、「それは多すぎるな。5枚でよかったのに。逆にこっちにとっては読む量が増えるので、迷惑だ。だから減点だ。」とその生徒に言うだろうか?絶対にそう言わないはずだ。
しかし前田章夫は、あたかも長文の質問状なり批判、意見なりを書いた文を図書館に送ることが「クレーム」であるとしか解釈できない書き方をしている。これは非常に不愉快だ。私は一ヶ月をかけて、貴重な時間と情熱を割いて、京都市立図書館に意見と観察と提言を述べた。それに答えがこなかったので、別のチャンネルを利用した。別の図書館に電話したりした。
そのことを当てつけられているようで、前田章夫のこの文章を読んで胸を痛めた。
前田章夫の文章全体を見ると、次のように捉えることもできる。
利用者の意見を図書館に伝える→それはできません、ピリオド。→それは違うでしょう、こういった理由で。→しつこいな(執拗だ)、それはクレームだ。
以前記事で「教育委員会の無謬性を前提としている」と指摘した。愛荘町柔道部事件の記事だ。また Twitter の #librahack の呟きでも、教育委員会の無謬性を前提としているので岡崎市立図書館の大羽館長の自分たちに非はないと固執すると言われている。
前田氏は「図書館サイドである我々は間違いを起こさない。我々がノーと言えばノーだ、それに楯突くならお前たちはクレーマー(モンスター)だ」と言わんばかりである。
そういった考えが前提になければ、『図書館界』で前田氏が展開する文章にはならない。そもそもなぜ「執拗に」「クレーム」が来るのだろうか、その理由を一切彼は述べていない。
これは想像すれば明らかである。図書館側が頑なにダイアローグを拒否するからである。そういった体質が、おそらく多くの教育委員会に存在するからである。京都市立図書館で、そのことを痛いほど知った。
オープンコミュニケーションをよしとする気風が日本の役所全体に欠く傾向がある。これが善意の利用者を憤慨へと導くのである。
いわば「モンスター」はそういった役所の体質がもたらした負の産物なのである。
節度ある「モンスター」もいる。私は静かに怒るタイプだ。静かに冷静に論を展開する。
しかし前田氏らはこういったタイプも「モンスター」に分類したいようだ。その意思が彼の文章から感じられる。
不明な点を質問するのは当たり前の話であり、それが世界標準である。教育委員会などは、「先生の言うことは絶対だ」という前時代的な遺物を引きずっていることが多い。だから民主主義的な権利に目覚めた一般利用者が、当然の疑問なり意見なりを告げると「生意気だ」と感じる。昔持っていた特権が失われたと感じるのだろう。だから古い教育委員会の人間ほど、「クレーム」でないものまで「クレーム」と見なすのだろう。ただしここで「クレーム」とは英語の意味でのクレームではなく、日本語化された狭い意味での「クレーム」である。
次は最近のクレームの特徴と題された箇所。
ちょっと待て。下線で引いた箇所の人間の行動は、そもそも「クレーム」(日本的な意味で)とは言えないではないか。それらの人間のことを「モンスター」と同列に扱うやりかたは、卑劣きわまりない。近接性(proximity)による攻撃だ。
前田章夫によるこの段落の文ではっきりしたと思う。彼は図書館側の無謬性に立脚し、図書館側の立場だけで物を言っているのだ。いっさい「クレーム」の原因なり感情なりを考慮していない。『図書館界』の読者はほとんどが図書館関係者と思われるので、媚を売っているのだろう。彼自身同誌の役員のようだから、いろいろと都合がいいのだろう。
彼の手に掛かれば産業技術総合研究所の高木浩光さん、Twitter のVipper_The_NEET,guteiや mabow さんは皆「執拗な最近のクレーム」に分類されるのだろう。あるいは、もろに彼らを念頭に置いた発言なのかもしれない。岡崎市立中央図書館に問い合わせが多数来ている報告を受けたのかもしれない。義憤に燃えた人や、単に真実を知りたい人もいるだろう。世のためによかれとおもって状況を明らかにさせたい人もいるだろう。こういった人を「モンスター」呼ばわりするとは、前田氏には道徳心があるのだろうか?
このように一方的に図書館側からの言い分に終始しているのが前田報告だ。確かに中には同情すべき案件もあるだろう。しかし「末端の図書館員が嘘の報告をしている、あるいは真実を述べていても言うべきことを省略している」可能性を少しでも考えたことがあるのだろうか?
うやむやに図書館側が一方的に「解決」の判子を押しても、それが利用者の憤りに火を注ぐ結果となることがわからないのだろうか?
社会的に期待されることをしていれば、「執拗なクレーム」は稀にしか発生しないだろうと想像される。その期待とは「誠意あるダイアローグ」である。これが現在の多くの教育委員会には欠如しているのではないだろうか。岡崎市立図書館事件を機に多くの書き込みからそれが推測される。
前田章夫氏には猛省が求められる。
3
大阪府立中央図書館 前田章夫 「図書館の自由と安全管理 −利用者の「問題行動」を中心に」−
執拗なクレーム と題された箇所。
「最近とくに目立つのは、図書館運営に対する執拗なクレームです。その執拗さは並大抵ではなく、何故そこまで固執しなければならないのかと思ってしまうほどひどいものです。私にとって、図書館の運営に対して考えなりを伝えることはいい行為とばかり思っていた。前田章夫にとっては、「クレーム」に分類されるのは単に「質問状の量の問題」なのだろうか?2枚程度なら「クレーム」とは見なされないのだろうか?
(中略)
この他、図書館の運営内容に対する疑問を綴った数十ページにわたる質問状を送付してきたり、図書館のコンピュータシステムについて詳細に分析して批判や改善要求を送りつけてくる人も最近増えています。
小学生に作文を書かせたとする。一枚も書かない生徒には、少しでも書くよう指導するはずだ。逆に30枚も書いてきた生徒がいるとする。あなたが先生だったら、「それは多すぎるな。5枚でよかったのに。逆にこっちにとっては読む量が増えるので、迷惑だ。だから減点だ。」とその生徒に言うだろうか?絶対にそう言わないはずだ。
しかし前田章夫は、あたかも長文の質問状なり批判、意見なりを書いた文を図書館に送ることが「クレーム」であるとしか解釈できない書き方をしている。これは非常に不愉快だ。私は一ヶ月をかけて、貴重な時間と情熱を割いて、京都市立図書館に意見と観察と提言を述べた。それに答えがこなかったので、別のチャンネルを利用した。別の図書館に電話したりした。
そのことを当てつけられているようで、前田章夫のこの文章を読んで胸を痛めた。
前田章夫の文章全体を見ると、次のように捉えることもできる。
利用者の意見を図書館に伝える→それはできません、ピリオド。→それは違うでしょう、こういった理由で。→しつこいな(執拗だ)、それはクレームだ。
以前記事で「教育委員会の無謬性を前提としている」と指摘した。愛荘町柔道部事件の記事だ。また Twitter の #librahack の呟きでも、教育委員会の無謬性を前提としているので岡崎市立図書館の大羽館長の自分たちに非はないと固執すると言われている。
前田氏は「図書館サイドである我々は間違いを起こさない。我々がノーと言えばノーだ、それに楯突くならお前たちはクレーマー(モンスター)だ」と言わんばかりである。
そういった考えが前提になければ、『図書館界』で前田氏が展開する文章にはならない。そもそもなぜ「執拗に」「クレーム」が来るのだろうか、その理由を一切彼は述べていない。
これは想像すれば明らかである。図書館側が頑なにダイアローグを拒否するからである。そういった体質が、おそらく多くの教育委員会に存在するからである。京都市立図書館で、そのことを痛いほど知った。
オープンコミュニケーションをよしとする気風が日本の役所全体に欠く傾向がある。これが善意の利用者を憤慨へと導くのである。
いわば「モンスター」はそういった役所の体質がもたらした負の産物なのである。
節度ある「モンスター」もいる。私は静かに怒るタイプだ。静かに冷静に論を展開する。
しかし前田氏らはこういったタイプも「モンスター」に分類したいようだ。その意思が彼の文章から感じられる。
図書館からの回答に納得できなければ、次から次へと質問状や意見書が送られてきます。中にはいつでも裁判所等に提出できるように、法的な書式を整えて送られてくるものもあります。
こうした執拗なクレームの増加は、図書館だけでなく、教育現場やホテル、スーパーなどでも増えていて、「モンスター○○」と呼ばれる社会現象にもなっていますので、現場の職員にとって大きなプレッシャーになるであろうことはご理解頂けるのではないかと思います。
不明な点を質問するのは当たり前の話であり、それが世界標準である。教育委員会などは、「先生の言うことは絶対だ」という前時代的な遺物を引きずっていることが多い。だから民主主義的な権利に目覚めた一般利用者が、当然の疑問なり意見なりを告げると「生意気だ」と感じる。昔持っていた特権が失われたと感じるのだろう。だから古い教育委員会の人間ほど、「クレーム」でないものまで「クレーム」と見なすのだろう。ただしここで「クレーム」とは英語の意味でのクレームではなく、日本語化された狭い意味での「クレーム」である。
次は最近のクレームの特徴と題された箇所。
こうしたクレーム問題をより解決しにくくしているのは、利用者が図書館の業務の妨害を目的としているのではないということです。最初から業務妨害を目的としているのであれば、それなりに対応もあるとは思うのですが、ここで紹介したようなクレームを付けてくる人は、図書館の運営改善、平等な利用を確保するための提言と考えていることが多いようです。しかも中には図書館職員以上に法律や電算システムなどの知識を持っており(専門家として従事していた人も少なくない)、加えて、その指摘には的を得ているものも少なくないため、拒絶一辺倒では対応できないということで、現場での対応に苦慮しているのだと思います。
ちょっと待て。下線で引いた箇所の人間の行動は、そもそも「クレーム」(日本的な意味で)とは言えないではないか。それらの人間のことを「モンスター」と同列に扱うやりかたは、卑劣きわまりない。近接性(proximity)による攻撃だ。
前田章夫によるこの段落の文ではっきりしたと思う。彼は図書館側の無謬性に立脚し、図書館側の立場だけで物を言っているのだ。いっさい「クレーム」の原因なり感情なりを考慮していない。『図書館界』の読者はほとんどが図書館関係者と思われるので、媚を売っているのだろう。彼自身同誌の役員のようだから、いろいろと都合がいいのだろう。
彼の手に掛かれば産業技術総合研究所の高木浩光さん、Twitter のVipper_The_NEET,guteiや mabow さんは皆「執拗な最近のクレーム」に分類されるのだろう。あるいは、もろに彼らを念頭に置いた発言なのかもしれない。岡崎市立中央図書館に問い合わせが多数来ている報告を受けたのかもしれない。義憤に燃えた人や、単に真実を知りたい人もいるだろう。世のためによかれとおもって状況を明らかにさせたい人もいるだろう。こういった人を「モンスター」呼ばわりするとは、前田氏には道徳心があるのだろうか?
また応対の途中で相手の発言を遮ったり、否定したり、或いは「お金がない、人がいない」といった理由で言い訳をすると、さらにエスカレートするので、ひたすら相手の言うことを聞いているしかなく、的確な対応が難しくなっています。その面でのストレスも大変なものだと思います。
こうしたクレームによって、結果的に他の利用者の利用の妨害に結びついたり、職員の業務妨害となることも少なくありません。また執拗なクレームのため職員がカウンターに出られなくなったり、退職に追い込まれた職員もいます。これは特定の図書館の話ではなく、程度の差こそあれ多くの図書館で同様の事例が発生しており、深刻さを増してきていると思われます。
このように一方的に図書館側からの言い分に終始しているのが前田報告だ。確かに中には同情すべき案件もあるだろう。しかし「末端の図書館員が嘘の報告をしている、あるいは真実を述べていても言うべきことを省略している」可能性を少しでも考えたことがあるのだろうか?
うやむやに図書館側が一方的に「解決」の判子を押しても、それが利用者の憤りに火を注ぐ結果となることがわからないのだろうか?
社会的に期待されることをしていれば、「執拗なクレーム」は稀にしか発生しないだろうと想像される。その期待とは「誠意あるダイアローグ」である。これが現在の多くの教育委員会には欠如しているのではないだろうか。岡崎市立図書館事件を機に多くの書き込みからそれが推測される。
前田章夫氏には猛省が求められる。
テーマ: 図書館