【徒然】精神的外傷?
Rickの大好きな信徒Aさん。
Aさんは聖変化などでは跪かれますが、聖体拝領は手でされてます。 しかしRickは以前から「舌による聖体拝領」を望んでらっしゃることは知っていました。 この方も「教皇様の御意志」をご存知なのです。 そして何が基本的に正しいのかも。 今日の御ミサでの聖体拝領の列では、Rickのすぐ後ろが家内、そしてAさん。 Rickは跪いて舌にのせて頂く・・・ 家内も跪いて舌にのせて頂く・・・ 絶好のチャンス! そしてAさんは・・・ 手に・・・ 御ミサの後、Aさんが話しかけてこられました。 そして一言・・・「駄目でした」と。 今日はゆっくりとお話を伺えました。 いざとなると、走馬灯のように迫害の記憶がよみがえるそうです。 S神父さまから始まり、歴代の主任司祭、助任司祭、信徒から・・・ かなり酷い仕打ちを受けたそうです。 だから「怖いんです」と。 これって教会から受けた精神的外傷ではないでしょうか? 彼は特に他者を悪く言われませんし、多くを語られません。 でも、こんな話ってAさんだけではないんです。 こっそりと、数名の方から伺っています。 ピークは90年代だった、とか・・・ 「新生計画」が大阪教区で打ち出されてからだ、とか・・・ シナピスが出来てからだ、とか・・・ 正統かつ伝統的なカトリックを望む信徒さんたちは迫害を受け、大多数がT教会から姿を消してしまったそうです。 21世紀に入ってから教会の空気は少し落ち着きを取り戻した感はあるけど全く違ったものになってしまった、と。 とりあえず今の主任司祭のK神父さまも、跪きや舌による聖体拝領などに関してお好きではないようですが「立ちなさい!」とかは言われませんし、望む者に対しては何も言わず舌にのせられます。 大司教様も補佐司教様も、T神父さまも何も仰らずに舌による聖体拝領をさせてくださいます。 正統かつ伝統的な信徒さんたちは、どこへ行ってしまったのでしょう・・・ 「怖くて教会にいけない」という話も聞いたことがありますが、教会から与えられた精神的外傷によって教会に通えず、御ミサに与れなくなってしまった信徒さんも日本中にいらっしゃるのかもしれませんね。 Aさん、そして同様に教会から与えられた精神的外傷に苦しむ兄弟姉妹のために祈りたいと思います。 |
過去のココロの傷について
カトリック中央協議会レベルで
そして、過去に違法行為によって、信徒の有する権利を不当に侵害した教区司祭は
明確に、被害者である信徒たちあてに
謝罪すべきです。
「申し訳ありませんでした。自分たちが誤った判断をくだし、
信徒たちに多大な迷惑をかけてしまったこと、ココロの傷を与えてしまったことを、おわびし、
ココロから赦しを願いたい」
そのように表明して
誤りをうやむやにせず、誤りを認めて、
正当な権利を、日本の信徒たちに返さなければなりません。
宗教以前に、社会的見地からしても
そのようにするのが、妥当なことでしょう。
それをしないで、
平和だの正義だの、全くもって説得力に欠けています。
また、教理教授の段階で
舌による聖体拝領の存在を明確に提示しないこと自体
典礼秘蹟省の指針に反すると、解釈されます
なぜなら、信徒が選ぶ、とある以上、
知らないこと、知らせないこと、その事実をもって
選べない状況を創出していることになり
ひいては信徒の正当な権利を侵害していることとなるからです。
2010/8/29(日) 午後 10:44 [ jesuamormeus ]
舌による聖体拝領を妨害すること自体が、違法行為である以上
手による聖体拝領を強要し、権利侵害を行なったわけですから
その過去の過ちを認めることが
被害者の心を癒す薬となるでしょうね
自分の非を認めることができないものが上に居座り続けることは
ゾッとしますね
ですから早い段階で
善処してもらいたいです
上に立つものは
責任の重大さをもっと自覚してもらいたいですね
傑作ぽち
教皇庁の指針にあるとおり
信徒の正当な権利は守られてしかるべきです
2010/8/29(日) 午後 10:52
jesuamormeusさん
お久しぶりです♪
>自分たちが誤った判断をくだし、信徒たちに多大な迷惑をかけてしまった
このような意識はないかもしれません。
大阪教区の新生計画の指針本を読むと、超進歩的で正統かつ伝統的なものや信徒は全て「過去の負の遺産」であって、攻撃的に罵っているような文章があり、「新生」のためには信徒が傷つこうが知ったことじゃない!みたいな感じです。
そして、その「新生計画」は事あるごとに未だに活きているのです。
2010/8/30(月) 午前 8:01
ベネさん
少なくとも最近の大阪教区では跪きや舌による聖体拝領など「伝統的な形」を望む者を否定せず受け入れるように言われているようです。
でもそれが基本という表現ではなく「過渡期だから(大阪教区典礼委員会)」仕方がないといった感じで絶滅を待っているみたい。
2010/8/30(月) 午前 8:10
過去のことはすべて裁きうるかのようですね。
今週の主日の福音書の謙遜とは正反対の傲慢さのようにもとれます。
過去を上から目線で非難する彼らは傲慢そのものだと思います。
近代主義とは人間の傲慢さから生まれたものなのでしょうね。
そしてその近代主義に染まったカトリック教会の姿をみるのは悲しいことだと思います。
近代主義の怖さってこういうかたちで出てくるのですね。
彼らは信徒の良心的自由意志を憎んでいるんでしょうか?
2010/8/30(月) 午後 8:38 [ リキオ ]
Oh!こちらにも跪きに関するエントリーが。。
自分も経験しましたので、こちらにもネタを;;
面白かった一問一答。。
神父「日本には跪く習慣は無いでしょ」
一太郎「跪きはカトリックの伝統的な祈りの姿勢です」
神父「伝統には間違ったものがあるので、だめです」
もはや、何を言っているのかわかりませんでした^^
トラウマなのか分かりませんが、これからは常に跪きについて
確認してから行う事になるでしょう。。
2010/8/31(火) 午前 0:28 [ 一太郎 ]
リキオさん
現代社会(世俗)は近代主義やポスト近代主義など人間の傲慢さで溢れかえっていますので、社会生活に適応するほど霊魂が削られて行くような気がします。だから御ミサで霊魂を癒され「派遣」されるのだと思いますが、教会まで人間的に世俗化してしまうと霊魂が乾ききってしまいますね。
2010/8/31(火) 午前 7:17
一太郎さん
正しい信仰により罪人たる意識があれば、それが外的なしるしとして現れて当然。ましてや日本的に「礼」として考えても、突っ立っているのは変。相手が聖であるほど土下座など平伏す事は古今東西一般的。跪くことは欧州の慣習ではなく、カトリックの慣習。具体的に「何が間違っているのか?」ではなく「伝統的=間違い」といった感性なのかもしれませんね。そりゃ、話にならない。
例えば「御聖体を噛んだら血が出る」という具体的事象は間違いかもしれない。でもそこにある「御聖体は現存されるイエズスさまの身体」という真理を大切にする事が大事。
いずれにせよ、日本におけるカトリックがおかしい。目先のことに拘り霊的指導者を探し、一つ一つ階段を上るのも良いですが、まず開き直って(神に身を委ねて)「洗礼」を最優先にしてから霊的指導者を必死で探すのも一手ではないでしょうか?変な入門講座は確かに霊魂を傷つけられますが、それによって「悪魔の業」を見極められるようになりますし・・・結果、信仰を強められる部分もあります。イエズス様の「荒れ野における試み」みたいですが・・・必要なものは神さまが御用意して下さいます。
2010/8/31(火) 午前 7:56
Rickさんありがとうございます。
入門講座(聖書勉強会)は、まぁ良しとするとして、
一番の問題はミサにおいて受洗前の祝福も受洗後の聖体拝領も、
跪いて受ける事が出来なくなってしまいます。
というのは、とても小さな共同体(いつもミサに来ているのは10人くらいです)でもしここで受洗したならば身動きが取れなくなってしまいます。信徒数の多い教会なら事情も違ってくると思いますが。。
私が贅沢なのでしょうか。。祝福はまだ良いとして立って手で受ける
事は10回に1回もしたくないのです。。
2010/8/31(火) 午前 11:52 [ 一太郎 ]
どうも、教会の事を考えると気分が悪くなります。。
跪きの事で急に牙をむいてきた、そんな感じでした。
少なくとも、私がいた2つの共同体では「跪いての拝領」は
絶滅しています。。奉献文の時跪く人も、もはや見かけません。
そういう所については、大阪よりも「新しい」のかもしれません。
一太郎のまったく個人的感想ですが荒れ野というか。。
エジプトの沙漠のようなイメージです。
ああ、考えるのを一旦やめよう。。
(なんだか、こんなコメントばかりですみません^^;)
2010/8/31(火) 午後 10:14 [ 一太郎 ]
一太郎さん、
>立って手で受ける事は10回に1回もしたくないのです。。
そう、その気持ちはよく分かります。
ただRickは心を痛めながらも「手での聖体拝領」をしていることがあります。その事についてはコメントでは足りませんので、そのうち記事にします。
>大阪よりも「新しい」
さて、それはどうでしょう。
大阪でも絶滅危惧種かもしれませんよ。
いつでも気にせずにコメントをしてくださいね♪
2010/8/31(火) 午後 11:09
先日、横浜教区の信徒さんに伺ったのですが、梅村司教様は、教皇様はこれを望んでおられるから・・・と仰って、ラテン語ミサ曲を歌うことを奨励されているようです。
ただ、教区の中には、教区長のご意向を無視するような方々もいらっしゃるとか・・・そりゃ、教皇様のご意向も無視するような方々ですから、教区長の指示を守りませんよね。
そういう教会は、信徒がどんどん離れていくでしょうね。
2010/9/1(水) 午後 5:21
一太郎の個人的な印象ですが司教座教会に近いほど良い教会が多い
気がします。
グレゴリオ聖歌を歌う信徒の会もあるようです。
確かに、ラテン語についてはタブー視されてませんね^^
#通ってた教会ではラテン語の歌などは無縁でした。
過去から受け継いだ教会の宝をもっと使えば。。人々の心が神へと
向かうのに勿体無い話です。
2010/9/1(水) 午後 11:35 [ 一太郎 ]
maggieさん
今は「司教様の鶴の一声」といった感じではないらしいですね。
大阪の司祭が集まると、なんか労組みたいな雰囲気ありますものね。
ローマンカラーしないし・・・
2010/9/2(木) 午後 8:50
一太郎さん
>司教座教会に近いほど良い教会が多い
大阪はその方程式は成り立たないかも。。。
だって、うちはカテドラルですが神父様が「日本でラテン語なんてありえない!」とか話されてますし・・・。
2010/9/2(木) 午後 8:53