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2010年01月01日

正月



謹賀新年
本年もよろしくお願いします
           寅えもん  

Posted by anagura at 11:34Comments(0)TrackBack(0)だいなし

2009年09月22日

結 飛騨の結婚式

結(ゆい)という言葉を知ったのは60歳近くになってからである。
知ったのは、テレビドラマ「北の国から」の最終回である。

この最終回は、当時長良川河口堰を初め自然と開発の問題絡みで、脚本家は自然保護で岐阜県に関心を持っておられたようで、ドラマには岐阜が背景にあったように感じた。

蛍が夫の待つ赴任地へ旅立つシーンがある。
ナレーションが告げるのは「岐阜のダム工事現場へ・・。」であった。

「農事などに互いに力を助け合う事」などの意味を持つ結。
それは飛騨の合掌造りの屋根の葺き替え作業も含まれるはずである。
ドラマで主人公五郎の家などを住民が協力してたてる大きな筋立があった。
その中で「結」と言葉が出てきた。


私には僅かであるが飛騨の血が流れている。
飛騨の本場が分水嶺の峠の向こうならその手前、浅い飛騨の温泉町での血である。
四代前のことである。

6月の花嫁として家内方の姪が飛騨に嫁いだ。
浅い飛騨の奥まった分水嶺に近い町である。

式は高山でおこなった。

近頃、都会の披露宴では獅子舞など日本の伝統芸の披露が流行りだそうだ。
それらの大半は、ショービジネスと化した結婚式の一環であろう。

美濃の披露宴参列しか経験のない私にとっては、飛騨の披露宴は驚きの連続であった。

披露される催しが永く受け継がれた習わしごとであった。
獅子舞の衣装にしても永く遣われたものと思えるものであった。

盛り上がる新郎側と比べ新婦側の我々美濃の者はただ圧倒されるだけであった。
しかし、今まで経験した中で一番感動した宴であった。
軽々しく言えるものではないが「結」と言うものを感じさせるものでもあった。


式場には受付らしき物はなく、贐を渡す場所がなく美濃から来た者達は戸惑った。
式場に聴くと、当日持ってくる人は来賓だけであり、親族は事前に渡すそれが飛騨の仕来りということであった。

これは何も飛騨だけの事ではなく、ある時期までそれが日本の一般的な作法であった。
ある時期とは結婚式場ビジネスが一般的になった頃である。

父は明治生まれで、昔の仕来りに拘った男である。
私の結婚の昭和40年代半ばでも親族はその遣り方であった、其の他の事は「今時そんな事など。」と、父と考え方で激しく対立した。

しかし、その数十年後の親族の時は、礼を尽くす意味もあり旧来の本式である事前に渡す方法を採った。

日柄のよい、事前に日を選んでのことであった。
然しそれは、当日会場に持っていく方法がごく一般的になって、旧来の本式を知らない中では、恥をかくことになった。

その恥は今回払拭された。
その方法に驚く美濃からの親族に、これが本式の遣り方だと教える事が出来たからである。

それと共に、伝統芸だけでなく古くからの仕来り、風習が今も続いている中で、すっかり合理化された美濃で育った姪は苦労するのではと内心思ったものだ。


それは、その席では話題にするべきことではないが、通夜の事が気になった。

今では通夜にも黒い礼服を着ていく事が普通になり、それ以外では肩身の狭い思いをするものだ。

昭和の中頃までは、取るものもとりあえず急いで来たとの姿勢で、ふつうの服装で行くのが常識であった。
ましてや身内が喪服などで行けば「死ぬのを待っていたのか」と責められたであろう。

何年か前に角界の貴ノ花の通夜に、部屋の女将さんであった前夫人が銀色系(?)の着物で訪れた。
古参のテレビのアナウンサーが「流石に女将さん、通夜の作法を・・・。」とコメントしていた事がある。

飛騨の通夜がどの様なものなのか、それが気になったことである。

高山は社会に出てから初めて一人で旅したところである。
今回の式には北陸道を通っていった。

分水嶺の長い宮峠のトンネルを、喘ぎながら登る蒸気機関車の吐く煤の臭いの中訪れた、45年近く前の夏の高山は観光客向きに変貌する前であり、これが飛騨と感じさせられる街であった。
高速での飛騨入り、「飛騨へ来た」との感慨は確実に無くなっていた。

それと共に美濃で育った者にとって過ごしやすい処に変貌するのかそれとも・・・。

変貌してほしくないものだと思うのも、かすかに残る浅い飛騨の血なのか。
  

Posted by anagura at 22:13Comments(0)TrackBack(0)だいなし

2009年07月03日

火葬場

死亡宣告より葬儀を出すまで24時間を経なければならない。
それは生き返りと言う事が昔からあるからだ。

不思議な体験をした事がある。
親父が亡くなり半日ほど経ったとき親父の小学校時代の同窓生がみえた。
そして床の顔を覗きこみ声をかけられた。
一瞬微かに首が動き、涙がすっと流れた。
「今、顔動いた!。」「確かに動きました。」
10年ほど前の事である。

火葬場を間近で見たのは岐阜である。
昭和20年代後半だったと思う。
叔父の葬式の時で、金華山の中腹の墓地の中であった。
レンガ造りの釜に簡単な屋根があるのみの構造だったと記憶する。

釜の周りを回る事が出来、裏側に中の状態を確認するための小さな覗き窓があった。


地元の火葬場も昭和30年代までレンガ造りであった。
流石に其の頃は裏側までは回りこめなかった。

昭和40年代頃まで、時折ある話を聞いた。
火葬中の釜の中から叫び声がすることがよくあるという話である。
そのような場合生き返った人をどうする事も出来ないという事である。

当時の医療レベルと今とでは比較にならない。

最近の脳死判定の報道を見るとき、ふっとそんな事などを思い出した。
  

Posted by anagura at 19:30Comments(1)TrackBack(0)だいなし

2009年06月14日

飛騨での結婚式

昨日は高山市内で姪の結婚式であった。
披露宴は4時間と美濃の住人にとっては驚きの長丁場であった。

事前に予備知識は無かったが、伝統ある地域ゆえ感覚的に半端ではないと
心してはいた。

相手は高山市とはいえ、最近合併で高山市になった山間の町の住人である。
やはり其の伝統と言うか、昔のしきたりが残っていた。

会場には美濃を含めではごく一般的になった受付が無い。

在るにはあったが、親族が対象の場ではなかった。

親戚等は当日ではなく事前に届ける習慣のためである。
この方式は私関係では昭和の50年代中頃まであった。
それはこの地域だけの事ではなく、全国的に通用する方式だったはず。

当日の前、日柄の良い日に角樽と一緒に贐を届けるという方式である。
前述昭和の頃では、一般的に角樽などは無く一升瓶になっていた。

しかし、それはある時から止めた。
正式と言える昔風の遣り方で当日、逆に恥をかくことになったからである。


私が昭和の頃まで昔風を遣っていたのは、明治生まれの親父の影響があった。
昨日、私たちの親族は全て美濃の住人であった。
そして親族は昭和の人間ばかりであり、昔風のことは全く知らなかった。

宴も流石に未だ、昔の慣わしが受け継がれている事を思わせる、印象深い時間であった。

義理の弟たち、これからの付き合い大変であろうと人事ながら心配している。
  

Posted by anagura at 18:30Comments(0)TrackBack(0)だいなし

2008年10月21日

洒落にならない結婚記念日

30数回目の結婚記念日


30数年前の今日は「国際反戦ディー」であり、その日の東京のホテルの下の公園はヘルメット姿のデモ隊でぎっしり、皇居周辺は機動隊そんな厳戒態勢の中であった。


10年ほど前の記念日のプレゼントは、単身赴任先から「辞めた、帰るから」と突然の電話。
これには或るところで電話盗聴をされていたため、その後の行動を妨げられないための方策との理由があった。勿論盗聴の件は数年前に初めて家内に話したことではあるが。


何故かこの日は家内に禄でもないプレゼントをする日のようだ


今年のプレゼントは明日からの入院
30数年前の新製品開発で負った病が因での持病の悪化である。
先日、タイトル変更時人生のリセットなどと書いた次の日、病院で分かり洒落にも成らないことである。


休み無く突っ走ってきた体、一旦休養せいと言うことであるようだ。
2~3週間のことらしい、仕事を離れて持て余す時間がありそう、数々あるブログ用のネタでも纏めることにする。


とは言いつつ、これを機会に生業の新たな展開構想を考えようと思っている。
何処まで行っても仕事から離れられない世代の人間であるようだ。


明日から病院へ入る人ら一員、「我が闘病!」なんて。


言うことで暫く此のブログは休止

  

Posted by anagura at 08:53Comments(2)だいなし

2008年08月22日

しゃべる猫の 驚き

昨晩のテレビ番組でマグロの刺身を食べると「マ グ ロ う ま い 」としゃべる猫を紹介していた
大変驚きの事であった


驚きは
しゃべる猫のことではない
猫にマグロの刺身などを食べさせる家があることである

マグロの刺身!
食したのは、何時のことか

驚きの動物特集であったが
この番組、外国のテレビ局が注目すれば
「猫にマグロを食べさせる 驚きの日本人」などと
驚きの人間特集で放送されるに違いない

これから夕食、豆腐半丁が酒の肴

「猫って! 本当にいいもんですネ!」  

Posted by anagura at 18:51Comments(3)だいなし

2008年07月03日

他人の空似 車編

世の中には似た人が三人いると言われる
車にも同じ事がある事を知った

先日、遠州の娘の嫁ぎ先へ行って来た
旦那の車が新しくなっていた

T社のある車種である
前車の登録ナンバーは語呂合わせで、幼稚園の子供でも非常に憶えやすいナンバーであった

今度の車も同じ番号である

帰りに名古屋の大須に立ち寄った
ある建物の其処の駐車場と思える場所に、娘の旦那と車種、色が全く同じの車が停めてあった

その登録番号4桁も全く同じ
偶然の一致に家内と驚いていたが、背筋が冷たくなった

その車の所有者が善人なのかは分からない

もし、その車が静岡県で何かを起こし目撃されていたなら
確実に娘の旦那が疑われるはず

帰宅後早速その事実を娘に電話した  

Posted by anagura at 19:11Comments(0)だいなし

2008年01月20日

届かぬメール

Eメールは便利であった。
過去形である、
昨年の半ば相手にメールが届かないことがあった。
其の悪夢が年始に又起こった。

昨年の事は
同業の社長宛にメールを送ったが、何の返答もなく数日過ぎ痺れを切らし電話をかけた。
若干時間の余裕のある用件であったので相手の都合を無視する電話より、都合の良いときに読めるメールにしたのであるが届いていなかった。

届かなかった訳は、社員が迷惑メール扱いで削除処理したようである。
その後重要なことはFAXと電話を使うことにした。何のことはないメール導入以前に戻っただけである。

今年の年始のそれは
1月2日~3日に東京の悪友よりメールが入っておりそれに返信をした。
数時間後、配信不能のメール。
年末年始のメール規制のニュースを知っていたのでそれに引っかかっているものと想い、その後数回返信するも同じ事であった。

御用始めの4日の午前中に改めて返信するも同様であったので流石にこれは変。
携帯で相手に連絡するも居り悪く充電不足で途中でプッツン。
仕方なく電話を使うことにしたがここで最悪の事態が発生した。

固定電話の受話器を取った瞬間プッ、プッ、プッの話し中の音。
相手が話し中ではなく回線が混んでいるときの信号音である。
自宅は現在光回線であり、通常のNTT回線は使えない状況である。

昭和に終わり頃経験した第2電電のことを思い出させる事態であった。
ある時勤めていた会社が第2電電に切り替えた。

連休明けの午前中にそれは起きた。
東京へ至急の電話を入れる必要がありかけたが、受話器をとった瞬間回線話し中の信号音、其の状況は30分以上経っても同様であった。

そこであることに気付いた。
第2電電はNTTの回線を使用しているはず、普通に商売として考えれば仮に10回線ある全てを解放するはずがない、それならばNTT回線使えば通じるのではと。

早速最寄りのNTTに電話、市内通話であり何の支障もなくつながった。
前述したような回線割り当てでわないかと問い合わせると同時に解決方法を尋ねた。
自分の処の利益になることであり、ある数字を相手先番号の頭に付ける事によりNTTに切り替えることが出来る方法を教えてくれた。其の三桁の数字は今では忘れてしまった。

其の方法では何の支障もなく一発でつながり無事用件を果たした。
其の直後第2電電で同じ処にかけ状況を確認したが、話し中の信号音だけであった。

光電話も同様なことがあるのか分からないまま、充電途中の携帯で再度悪友に電話、其の理由が分かった。

パソコンからのメールは迷惑メール対策で受信拒否にしているとか。

携帯は持っているが束縛されたくない事と年老いた身内が居る為其の緊急連絡用だけが目的で身内にしか電話番号を知らせて無い。
仕事関係に、携帯に電話しても出ない事を連絡しており相手もあきらめているようだ。

そのようなことで自宅は光電話、仕事場はヤフーのADSLとNTT回線を未だに契約している。

無駄ではあるが過日NTT光の大規模障害でインターネットが使えないときがあり、自宅でメール処理籐が出来ない事態に陥った。
その時は幸い仕事場のヤフーで処理することが出来た。仕事場のNTT回線を契約解除しようかと想っていた矢先のことであり。
それと連休明けの悪夢対策でもあるがいずれにしても無駄である

我が家の通信関連の際見直しが今年の課題である

長い間に経験した電話に関する出来事は普通では想像もつかないことがある。
背筋が寒くなるゾ~とするようなこと。
話し中でも通話料金がかかる電話
それって二重請求
などと

便利なはずのメールが本当に便利な時代になって欲しいものだ

昨今のメール其の件名に企業努力が足りない、以前は必至になって考えているのだろうと思わせるものがあったのだが。

イカン、イカン迷惑メールを評価しては  

Posted by anagura at 11:17Comments(0)だいなし

2007年10月24日

北島三郎秘話+α

日本の有名メーカーと僅かに違う中国製品を今日のテレビでやっていた。
40年前頃までは日本国内でも同様なことがあった。
「よく見て買わないからだ、しょうがない奴だ」奴とは大概騙された者であった。

当時は流石に少なくなっていたが例えば美空ひばりの公演を見に行ったが何時まで経つても当人が出てこない。名前が一文字違っていたなど地方ではよくあった話である。

太田の街にも少し違った同様なことがあった。
その様な話が珍しくなった昭和40年頃のことであが、こんな事を覚えているのは多分私ぐらいだろうと思う。

私自身もそれは事の起きた少し後から笑い話として聞いたことである。
太田宿に中山道会館があるその少し西に「前進座」と言う芝居小屋から映画館に変わった劇場があった。
その劇場の一番古い記憶は、枡席がありそこに花道、二階席、舞台の昔ながらの芝居小屋であったが、当時は枡席、花道は取り払われ椅子席の映画中心の劇場に変わっていた。
外観二階席、舞台と言う基本的な構造は昔のままであった。

そこにある日当時売れっ子新人の北島三郎の公演がかかった。
宣伝カーで町中を宣伝したようであるが、その公演はがら空きだったそうだ。
「こんな田舎に北島三郎が来るわけがない、又偽物だ」それががら空きの訳であったと聞いた。
勿論本物の北島三郎であったそうだ。

今、少し手伝っている中山道で催される「大八文庫」の件で同じ様なことを体験している。
今週末の鍋屋バイテッjク会長、来月の未来工業会長の公演で、何でその様な人がこんなところに来るのと半信半疑で受け止められるのである。
聞いたところでは「県単位でなければ講演受け付けないはず」らしい。
会費500円と聞いてそれ嘘だろう。
細かいいきさつは知らないが、本当のことである

こうえんの詳細は
http://www.geocities.jp/kasamazya/daihati.htm  

Posted by anagura at 19:27Comments(0)だいなし

2007年09月29日

太田宿 大八講座の案内

中山道太田宿の気楽な大八講座のお知らせ

9月30日(日)
午後1時30分~3時
会費500円 予約不要

会場 中山道太田宿(美濃加茂市太田町)
    小松屋

講師:大野鵠士(こくし)
 (連句の俳人)
 獅子門道統、俳人協会会員、岐阜県連句協会理事長

内容
『芭蕉への誘(いざな)い』
連句をとおして松尾芭蕉の魅力を語る

詳細は次のアドレスでご覧下さい
http://www.geocities.jp/kasamazya/daihati.htm


尚、次回は先着100名限定 予約制
(予約受付は10月1日開始)詳細は上記アドレスHPに明日掲載)

10月28日(日)
『ここが違う!こんな生き方・こんな経営』
伝統と最新技術、他品種少量生産を可能にした委細の経営者が語る

講師:岡本太一
(鍋屋バイオテック株式会社・会長)

■11月講座は
講師
未来工業 山田会長です  

Posted by anagura at 21:54Comments(0)だいなし

2007年09月27日

顔の化粧が暴かれる

5年以上前のこと未だ個人でホームページを持っていることが自慢できた頃の話である,
当時各務ヶ原市のある会社へ派遣として行っていた。
そこにはパートの女性達が多く働いていた、仕事は彼女たちの職場と直結した別の仕事であった。
その担当の彼女たちとの力関係は敢えて言うならお姐さま方であった。
ただ此方も派遣の品欠くと言う一筋縄でいかないと思われていたきらいがあった様だ。

ある日そのお姐さま方の中でも一際経歴の永い方が一枚の大型の写真を手にして「この写真複写できない」と言ってきた。
言葉は優しいが有無を言わせぬものがあった。
モノクロなら出来るがカラーは無理、パソコンなら出来るかもと返した。

何処で知ったのか分からないが只器用貧乏で大概のことはこなしていたので、その辺りから迷惑な白羽の矢を立てられたようだ。

問題の写真はそのパートさんたちがその少し前に行った観光旅行の記念写真であった。
観光地でツアー客を並ばせて業者が撮る例の写真である。
その写真の金額が彼女たちの金銭感覚では却下され持ち帰った販売用の見本写真を複写セイとの命令調を多分に含んだお訊ねであった。勿論違法なことであるが長いものには・・・で画像処理など初めてなので失敗するかもとの条件で引き受けた。引き受けさせられたとの逃げを追加しておこう

初めてのこと故マニュアル本との格闘で色々と設定を変え操作。
突如異様な顔が浮かんできた、けっして怪談話ではない。
眉毛が半分無い顔、全くない顔、在ったはずの目の周りの隈取りのない顔、突如現れた目尻のクリーク等々であった。
それが後から書き込まれた化粧が吹っ飛んだ顔と気が付くまでに時間はかからなかった。

その後色々な設定で楽しんだのは書くまでもない。
コンピューターが暴いた素顔は写真の顔より素敵で在ったことを彼女たちの名誉のために書いておこう。

その後しばらく彼女たちと対峙するとき私しの中では二つの顔を行ききすお姐さま達があった。

デジカメ写真がその様になるのか試したことがない。

安心なされスキャナーで呼び込んだフィルムプリント画像データーは突然のハードディスクの崩壊とともに永遠の闇に葬られたから。  

Posted by anagura at 08:56Comments(0)だいなし

2007年09月16日

タバコ解禁

タバコは吸わない、昔はふかす程度に吸っていた。
何時しか止めていた、理由ははっきり覚えていない。
只、火をつけるのが面倒だと感じていたことはあった。
それでも何年か前までは仕事中口淋しくなりふかしながら遣っていた。

最近、来客人に最初に聞くことを忘れていた、そろそろ再開しようかと思って居る。
仕事場は普通の民家であり、打ち合わせは専ら畳の間である。

以前は「タバコは吸わますか」と訊いていた。
「吸いますけど」オイ灰皿持ってこい「エッ!禁煙じゃないんですか」タバコ我慢しながらではいい話は出来ない、私は吸わないが遠慮しなくて結構です。

最近そこら中が禁煙になってきた、その為何時しか洗脳されてきたようで、最初の言葉を忘れていた。
流石に仕事場は仕事柄引火性の物があるため禁煙である。

息子、婿が来た時に時々外に出ていく、タバコを吸うためである。
此が面白くない。
タバコぐらい堂々と吸えよ!
孫が小さいからだろう嫁と娘の力が強いから仕方がないが、面白くない。

親父の死後何時も過ごしていた四畳半の部屋のガラス戸がひどく黄色く変色していた、洗剤で洗うとドロ~とこびり付いていた物が流れ落ちてきたタバコのニコチンである。
何枚ものガラス戸にこびり付いていた物を掃除するのは大変であった。

88歳までフィルターなど付かない両切りタバコが愛用であったが癌にも成らなかった。
医学的なことは知らない。

ひねくれ者が想うのは、好きなことをコソコソ嗜むこれが一番体に悪いのではと。  

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2007年09月15日

大垣と東海道53次

安藤広重の東海道五十三次という有名な版画がある。
この絵には基絵があり広重はそれを基にして描いたと言われている。

中仙道太田宿に付いて別のホームページを持っている。
中仙道三大難所の一つ太田の渡しを描いた広重の版画があり、その描かれた位置をほぼピンポイントで探った。
その過程で東海道五十三次の謎に迫るホームページに出くわした。

太田の渡しだけで終わるはずであったが、野次馬根性と妙なことにはひどく興味を持つ男故、木曾街道六十九次図そして東海道まで興味は広がってしまった。

よせばよいのに素人の無責任な思考で考えると、非常に面白い展開になってしまった。

東海道五十三次図は大垣が原点である。

権威の後ろ盾も何もない素人だから書ける記事 
興味のある方は次のアドレスよりご来遊下さい
「岐阜と木曾、東海道」の項をクリック

http://www.geocities.jp/kasamazya  

Posted by anagura at 19:04Comments(0)だいなし

2007年09月01日

郡上八幡

ぐじょうやはた、最初に聞いたのは未だ十年も経たない前であった。
各務ヶ原の住人からであった。
最初何のことか理解できなかったが話の流れで理解し驚いた。
その人の詳しい素性は知らないが30代で昔からの岐阜県人であったと聞いていた。

子供の頃から越美南線(現、長良川鉄道)の始発駅美濃太田の町で育った私にとっては、その沿線の町でよく聞く地名、当地でも盆踊りで炭坑節と並び定番であった踊り(郡上節で郡上八幡節ではなかったが)や氏神様から「はちまん」が常識な呼び方であった。

岐阜県人だからとの先入観で考えれば違和感があるが、特に興味や馴染みがなければ「やはた」であっても不思議ではない。
私自身県内の地名の正しい呼び方を全て知っている自信など無いから。

少し興味が湧いたので他県の何人かの知り合いに訊ねてみた。

驚いたのは「やはた」が殆どであった。
郡上は「ぐんじょう」が大半で全く正しく読めなかった。
「ぐじょうはちまん」と正しく読めたのはテレビなどで知っていた人であった。

何故「やはた」なのか 。色々考えたが一つ思い当たることに気が付いた。
大半の人が八幡と言う字面に出会うのは「八幡製鉄」である。
それからすると「やはた」が普通で「はちまん」が特異なのかもしれない。

郡上へは二,三回昼間に行ったことがある。
この町の宿で一度夜を過ごせたらいい気分に浸れるだろうとその度に思っていた。
その後、娘が勤め先の出張で2度ほど泊まり「いい処だよ」と言っていた。

やはり「やはた」より「はちまん」が風情を感じる  

Posted by anagura at 23:04Comments(0)だいなし

2007年08月25日

大人の寺子屋

中仙道太田宿(美濃加茂市)に小松屋という旧家を整備した建物がある。
現在は資料館となっている建物は内部に昔の日本家屋の佇まいを色濃く残している。

三和土から上がった畳の間で大八講座は開かれる。
大概50名ほどの聴講であり、普段着の大人の寺子屋とでも言う気楽な講座である。

明日26日昼から1ヶ月ぶりに開催。
題目は「宮沢賢治」に関することである。

小難しい話でもなく、多分あまり聞かれないエピソードなども聴けることと期待している。
とはいえ身構えていく気はない、身構えなくてはいけないような雰囲気はチト辛い性格故

会費は500円 予約はなくフラリといらっしゃい
畳の間に入れないときはひんやりとした三和土の床几で聴くのも風情がある。

アンタまわし者?
そうです、中学の同窓生が主宰している講座で勝手に応援している公認のまわし者です。
大八講座の由来、明日の内容については次のアドレス頁をご覧下さい。

http://www.geocities.jp/kasamazya/daihati.htm  

Posted by anagura at 08:48Comments(0)だいなし

2007年07月31日

に と は の違い

どうでもいいが、時代が変わると

わが子を“セレブ”に!? 子供用ジュエリーが人気(本日のyahooトピックスより)

昔、昔、その昔
銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに 勝れる宝 子にしかめやも  山上憶良  

Posted by anagura at 18:56Comments(0)だいなし

2007年07月12日

火の玉のかす

少しブルッと来る話の季節になったが少し夜は肌寒い。

昭和30年代前半は未だテレビの普及率も低く、町の中心部を離れると午後9時頃でも深い夜であり、線路に狐火が点々と点ったり、人魂を見たなどと学校で話題になるなど魑魅魍魎の蠢く世界はそこここに存在していた。

小学校低学年の頃の記憶だから昭和20年代後半の話である。
国道21号より数十m程北に広い墓地があり、その真ん中を通る道がある。

ある日の朝、母に手をひかれその100m強の距離の道を通った。
今では住宅地の中であるが当時は周りは畑の中で大人でも薄気味が悪い道であった。
子供では尚更であり周りを出来るだけ見ないようにして歩くのがそこを通るときの癖であった。

道の中程で少し離れた木の墓標に薄い茶色の様な何とも言えない不気味な物体がだらりとかかっていた。
当時はビニールなどという物は無く、古びたゴム風呂敷ののような感じであった

何かと母親に尋ねたところ「火の玉(人魂)の燃えかす」と教えてくれた。
それの真偽は分からないが、その光景は今でも思い出せるほど永く頭の片隅に焼き付いた。

それから40年ほどしてから車雑誌の読者の体験談を読んでいて驚いた。
大阪方面の話で深夜走行中に火の玉が車内を通り過ぎていったそうだ、直後助手席に茶色いべとべとした物が付着していたという内容であった。

あの時の母の話は本当だったのだろうか。
母は明治も終わり頃の生まれであり、その様なことが極普通に存在していたからその様な応えが自然に返ってきたのかもしれない。  

Posted by anagura at 00:11Comments(0)だいなし

2007年06月30日

丈くらべ

我が家の仕事場には宝物がある。

今の自宅に移る前は今の仕事場が住まいであった。
今はその一部を作業場としており、他の部分は住居のままである。
住居部分の一角の柱部分にその宝物がある。

末の子供が物心付いた遠い年の5月5日にそこに立たせ、背の高さを日付けと共に標した。
上の子供も含め三つの印である。
それから誕生日など時或るごとに印は増えていった。

それは転居まで何年も続き途絶えた。

最初の年より25年程たった一昨年よちよち歩きの初孫が来た。
来たら再開をと密かに思っていたことを行った。

何のことか分からず泣く(外)孫の頭に仕事柄有る大きめの三角定規を当てて印を付けた。

それから1年ほどして二人目の(内)孫が来た、外孫より大きく泣きながらの中で印を付けた。

来る折りに付ける印は増え、先日は両家族が揃って来た。
もう泣くことはない中新しい印が増え、明らかな成長の印を見て両親とも喜び、自分の子供の頃の印と比較しながら感慨深げであった。

マジックでありボールペンであり、その時手元にある筆記用具で書いた印は柱の傷ではないが、これからも場所は違っても受け継がれていくような兆しである。

勿論今の場所に増え続けることは確かである。
10年もすれば子供達の印を追い越した高い位置に、孫達の印が付くのも確かとも思っている。

あの日、急の思いつきであったが始めて良かったと思っている  

Posted by anagura at 23:48Comments(2)だいなし

2007年06月13日

中原中也

何年か前より中山道太田宿で「大八文庫」という小さな講座が開かれている。
会場は太田宿に古くからある家屋を改修した「小松屋」という建物である。
その中の畳敷きの間で50人も入ればほぼ一杯の会場である。

主宰は東野大八という地元ではあまり知られていないが、国内のその世界では有名な人物の娘で、その世界とは川柳の世界である。

娘は古藤愛子といい私の中学時代の同級生である、だから娘という表現は誤解を招く歳でもある。(書くには書いたがこの表現を知られたときが少し怖い)

大八はジャーナリストでもあり、それが本業であった。
かの李香蘭とも因縁があり、ラストエンペラーとも親交があった豪快な人物で在ったらしい。
愛子の父親がその様な人と知ったのは数年前のことである。

この歳でネットを曲がりなりにも使え、悪のりが出来る者はこの界隈ではあまり無く、勝手にホームページを作り情報を流している。
今日久しぶりに家内と二人で食べるには荷が重い量の新鮮なタマネギと共に次回のチラシを持ってきた。
「又、貼って置いて」と!先程ようやくHPにアップ。

中原中也がテーマ、中也については名前は知っているがその世界に踏み入ったことはない。
30年ほど前に本屋で10数冊の詩集をまとめ買いをしてきた中に中也も有ったはず、この機会に目を通すことにしようと想っている。

講座の雰囲気は堅苦しいものではない、文化人面は殆ど見受けられない、普段着のままの少し大人の世界である。

裏は木曽川、川風が入り込んでくるかもしれない江戸の雰囲気を残した日本家屋の中での講座。
寺子屋へどうぞいらして下さい

大八講座アドレス http://www.geocities.jp/kasamazya/daihati.htm  

Posted by anagura at 23:49Comments(0)だいなし

2007年06月11日

我が家の 猫物語

そ奴は突然来た

居間は普通のガラス戸を間に小さい庭に面している。
庭に接して隣家があるが冬以外は滅多にカーテンは引かない。
食事はその部屋で座って摂る。自分の席はガラス戸を横に見た位置である。
ある夕食時ガラス戸の下の方に視線を感じた、庭は真っ暗である。

そんな姿の見えぬ視線の気配だけの日が度々続いた。
そしてある日ガラス戸の下の方に部屋を覗く鋭い二つ目をが在った。
部屋の明かりでわずかに判るシルエットは黒い猫であった。
ガラス戸を開けると逃げて既にその姿は無かった。
そんなことが何日も続いた日遂にその姿を見た。

近所を我が物顔で歩くこの界隈に君臨する大きめの猫であった。
少しばかりの残り物をいつも覗く辺りに置いてみた、次の朝それは無くなっていた。
どこかの飼い猫なのか飼われていて置き去りにされたのか分からないが「ノラ」と呼ぶことにした。

野良の習性なのか人に非常な警戒心を持ち間を置いていたが根気よく接していた。
次第にその目の鋭さに穏やかさが見えるようになり、抱き上げても抵抗もせずガラス戸を開けた時などは大きな面をして部屋へ上がり込みのし歩く始末であった。

そしてガラス戸の下が何時しか一日の多くの時間を過ごす場所になり、冬は空き家になっていた犬小屋に古い毛布を敷いてやったらそこをネグラにした。

穏やかさが宿った目であったが時折通りで出くわす目は野良のままの鋭さであった。
ノラとの穏やかな日々が過ぎていった数年後、少し動きに老いを感じだした頃手負傷を負ってき出した。

それは度々のことになり、その度に手負い傷は酷くなってきた。
この界隈に君臨してきた鋭い目には弱さが見えだしある日を境にパッタリと姿を見せなくなった。
何日も何日もひょっとしてと庭を見る日が続いたが遂に戻ってくることはなかった。

これがそれから続く我が家の猫との話の始まりである。  

Posted by anagura at 00:04Comments(2)だいなし