「土俵の鬼」と呼ばれ、戦後の相撲界を盛り上げた元横綱・初代若乃花の土俵入り=1962(昭和37)年
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「土俵の鬼」と呼ばれた大相撲の元横綱初代若乃花で、日本相撲協会元理事長の花田勝治(はなだ・かつじ)氏が1日午後5時25分、腎細胞がんのため東京都内の病院で死去した。82歳。青森県出身。自宅は東京都杉並区成田東3の25の10。通夜は4日午後6時、葬儀・告別式は5日午後1時半から東京都中野区中央2の33の3、宝仙寺で。喪主は二男の浩(ひろし)氏。歴代横綱では初代梅ケ谷の83歳に次ぐ2番目の長寿だった。花田氏は2005年5月に死去した元二子山親方(元大関貴ノ花)の兄で、若乃花、貴乃花の兄弟横綱の伯父。1946年秋場所、若ノ花のしこ名で初土俵を踏み、50年春場所で新入幕を果たした。55年秋場所後に大関、58年初場所後に第45代の横綱に昇進。好敵手の横綱栃錦とは昭和30年代前半に「栃若時代」の大相撲黄金時代を築き、優勝も栃錦と並ぶ10回を記録した。
華麗なる「花田家」の始祖が逝った。弟の貴ノ花を大関に育て上げ、おいの貴乃花、三代目若乃花は自分と同じ横綱までのぼりつめた。戦後の相撲界を支えてきたと言っても過言ではない花田家の総帥であり、引退後は相撲協会理事長としても尽力した花田勝治氏が82歳で死去した。
横綱としては戦後最軽量の110キロに満たない体重だが、生まれ故郷の青森県弘前市から移り住んだ北海道室蘭市の港湾労働で鍛えた強靱(きょうじん)な足腰が武器となった。土俵際、俵に足がかかってからビクともしなかった。「かかとに目がある」と表された、持ち前の足腰のよさに加えて猛げいこによるものだった。巡業中、若乃花が会場入りすると支度部屋から幕内力士が逃げ出していなくなったこともあったという。
先に相手に相撲を取らせる。そこから上手を引くと場内から歓声が沸き起こる。ファンが期待するのは呼び戻し、上手投げ。横綱白鵬も若乃花の映像で「呼び戻し」という技にあこがれたほど。
大関時代の56年秋場所前、長男の勝雄ちゃんがひっくり返ったちゃんこ鍋の熱湯を浴びる事故で亡くなった。悲しみの中、息子の名前を刻んだ数珠を首からかけて場所入り。初日から12連勝しながら、心身の限界から高熱で倒れて休場したときは、日本中の涙を誘った。
日本相撲協会の二子山理事長として最後の場所だった1992年初場所では、当時の貴花田が史上最年少の19歳5カ月で平幕優勝。千秋楽の表彰式で伯父からおいへと天皇賜杯を手渡すシーンは、多くの人を感動させた。かつて、コマーシャルで口にしていた「人間辛抱だ」というセリフも、たくさんの人の胸に残っている。
目立つのは土俵の上だけでなく、服装でも目を引いた。巡業で青森から函館に移動するとき、青函連絡船を待つ波止場で真っ白なスーツにパナマ帽をかぶって登場。あまりにも似合っているため批判する者は誰ひとりいなかった。
杉並区成田東の自宅に花田氏のひつぎが到着したのは午後8時10分。花田氏が育てた弟子たちが続々と姿を見せた。「土俵の鬼」と呼ばれた師匠に横綱まで育てられた間垣親方(元二代目若乃花)は「42年前に、中学校の職員室に来てくれたのを思い出した。とにかく厳しい師匠だった。2年前の正月に会ったのが最後。頑張れと言われたのがうれしかった」と語った。
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