エピローグにしてプロローグ
晩年の頃、彼女は思いを諦めきれないでいた。
寿命というには明らかに早いその晩年は、彼女の齢三十二歳の時に訪れた。
それでも、『こうなる当時』の年齢になるまでと同じ時間生きたのだから、持ったほうだと彼女は思う。
彼女はある時を境に食事を殆ど摂らなくなった。
生きる事を諦めたかのように、人が生命活動を行うに必要なあらゆる行動を放棄していた。
彼女がそれでもこの年齢に至れたのは偏に彼女が貴族だったからだ。
彼女の家は公爵家だった。
公爵家の娘ともなれば、たとえどんな状態になろうと無碍にすることなど許されない。
彼女は三女だったが、だからといってそこらへんの貴族の家の長男よりも好待遇だった。
一切の世話を任された侍従達によって、彼女は食事を食べさせらせ、着替えさせられ、ありとあらゆる方法で彼女は生かされた。
彼女はそんな彼らを視界に入れることなく、ずっと虚空を見据え、本の虫にでもなったかのようにとある調べ物を続けた。
彼女がそうなってから最初の一年はまだ彼女も気迫があった。
しかし、二年、三年と経つにつれ彼女の気勢は削がれ、意思の抜けた作業をこなすだけの時間の昇華になっていた。
それでも彼女は調べ物を止めなかった。
家が裕福なのも幸いし、調べものをするための資金は潤沢だった。
自分の願いを叶える為に近しいことならどんな些細な事でも調べた。
最初はただ願いを叶えるという一点に絞った。
願いを叶える万能の釜。
七つ集めれば願いが叶う珠。
果ては神などという曖昧な伝承を漁りもした。
しかし得られた結果と成果は皆無だった。
どれもこれも真実味が無く、作り話かと思わせるような文献ばかり。
結局、彼女は望みのものを見つけられなかった。
彼女は大きい天蓋付きシングルベッドで一人、横になりながら天蓋を見つめる。
シングルベッドと言っても、小柄な人間なら二人は十分に寝られるほどにおおきなそれは、固定化という魔法でこの十数年朽ちることなく彼女の寝所としてあり続けた。
彼女は思う。
もう声を思い出すことさえ出来ない『彼』はかつて、このベッドで一緒に眠ったな、と。
年と共に磨耗していく記憶は彼女の心を蝕み、その命を削る。
彼女にとって、『彼』が自分の中から消えていくのは自分の体が朽ちるよりも耐えられないことだった。
最初に記憶から彼の履いていた靴が無くなった時、彼の覚えている全てを形にしておかなかったことを後悔した。
すぐにその他の衣服で似た物を揃えさせ、記憶の固定化を図ったかが、彼女のかつての魔法行使と同じく、それは意味をあまりなさなかった。
記憶が、年月を重ねるごとに薄れていってしまう。
肌の触感。
仕草。
表情。
目や鼻の大きさ。
肌の色。
匂い。
どれも形で残せぬものが色褪せ、磨耗していく。
そしてとうとう『彼』の自分を呼ぶ声を思い出せなくなった時、彼女は声を殺して泣いた。
それはくしくも、彼女がこうなって初めてみせた感情の表れだった。
彼女がこうなって十余年。
こうなる前、当時の彼女はもっと明るく活発で奔放だった。
しかしそれも「戦争」という二文字の為にあっけなく壊される。
彼女は元々はトリステイン魔法学院の首席で、しかし魔法成功確率ゼロパーセントで、魔法が使えないのに特別な魔法使いだった。
気位が高いのは自認していたし、自分の力量を見誤る程馬鹿では無いつもりだった。
ただ、浅はかだった。
幼い頃からの友人で国の宝物でもある王女、アンリエッタ姫の頼みを受けられるのは自分だけだと思い、幾度と無くその身を危険に晒してきた。
それは別に今でも恨んではいない。
恨むべきは浅はかな自分自身。
戦争というのは殺し合いだ。
周りや『彼』がそれを諭そうともわかっていると言って聞かなかった。
でも、わかっているつもりでわかっていなかった。
姫の頼みなら例え死でさえ覚悟するつもりでいた。
それが貴族だという矜持が当時の彼女には根強かった。
そんな彼女は、幾度と無く自身の使い魔、『彼』と衝突した。
普通、使い魔とは幻獣や動物の類だが、彼女は何故かそのどれでもない、動物界・脊索動物門・脊椎動物亜門・哺乳綱・サル目(霊長目)・真猿亜目・峡鼻下目・ヒト上科・ヒト科・ヒト属・ヒト種、学名でいうホモ・サピエンス・サピエンスの雄だった。
早い話が自分達と同じ人間の男、それも平民だったのだ。
当初こそ衝突の多かった二人だが、時間と共に絆を深め、唯一無二の存在にまで互いはお互いを認め合った。
だからこそ、彼女は彼を失い難く、彼の為にも命を投げ出す覚悟だった。
結果、彼は彼女の為に命を投げ出した。
戦時中、戦局の流れでこちらが撤退をやむなくされた時、国の宰相であり姫の側近である者からしんがり役を彼女は頼まれた。
当然『彼』は止めた。
しかし、当時の彼女は『彼』のそれを受け入れるほど聞き分けが良くなかった。
結果、彼女は知らぬうちに眠らされ、撤退用の船に乗せられ、彼は彼女の代わりとなった。
「……サイト」
高い透き通るようなソプラノの声。
彼女が本当に久しぶりに発した声は、十余年経とうとも唯一変わることなく衰えを感じさせる事も無かった。
だが、そんな彼女が声を発したのは一体何日ぶりだろう。
もしかしたら月単位、いや年単位かもしれない。
今だ彼女の記憶に色褪せずに残っているのは『彼』の名前のみ。
平賀才人(ヒラガサイト)。
サイトはそうして彼女の代わりに七万人もの兵隊に一人挑み、帰らぬ人となった。
「……好きよ、サイト」
伝えたかった言葉。
伝える事が終ぞ叶わなかった言葉。
それを伝えたい相手は、今の彼女自身がかつての彼女自身を見て思う“くだらない矜持”の為に彼女の前に姿を二度と現せなくなった。
その時から、彼女はもう一度彼に会いたいと方々手を尽くし、調べものをしてきたのだが、
「……結局言えなかったわね、私の想い、本当の気持ち。……ごめんなさい」
彼女はそう言って一筋の涙を流し目を閉じる。
願わくば彼女はもう一度彼に会いたかった。
しかしどうやらその願いは彼女の残りの人生を全て費やしても叶うものではなかったようだ。
彼女の胸の鼓動が数分おきに小さくなって、やがて止まる。
口元から吸っては吐かれていた吐息は無くなり、完全に時が停止する。
静まり返る室内。
享年三十二歳。
トリステイン王国公爵家ラ・ヴァリエール公爵が三女、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールは、こうして大きな無念を抱え込んだまま、その短い生涯を終えた。
***
暗い暗い場所。
グラリグラリと揺れ動く懐かしい感覚。
この場所には覚えがある、そう思って彼女は自身に被さっている布を振り払う。
死の間際であったはずの自分にしては思いのほか強い力だった。
「……あれ?」
布を取り払って疑問に思う。
暗いと思っていたのは全身に被さっていたその布のせいで、どうやら今は昼間らしいがそんなことよりも。
自室のベッドで横になっていたはずの自分は、中庭の池にある小船の上にいた。
ここに来るのは本当に何年ぶりだろうかと思う。
丸い大きな池の小船の上。
昔から嫌なことがあればここに隠れて泣いていた。
懐かしさに胸を打たれるのと同時、不思議な感覚に襲われる。
妙に体が軽い。
自分の体は衰弱しきっていたはずなのに。
と、聞き覚えのある声が聞こえた。
「ルイズ、僕のルイズ。もうすぐ晩餐会の時間だよ」
そこにいたのは若かりし日の初恋の人であり、裏切り者だった。
「また泣いていたのかい?大丈夫、僕がお父上にとりなしてあげよう」
そう声をかけてくるまだ少年の時の顔の裏切り者、ジャン・ジャック・フランシス・ド・ワルドは彼女の幼い頃の記憶そのままに手を差し伸べてくる。
何故ここにこの人がいるのか。
自分がその手を取る事があると思っているのかと睨みつけ、手をはたくことでその手を振り払い、気付いた。
「ルイズ……?」
まだ髭の生えていないワルドはルイズを訝しむが、ルイズはそんなワルドなど眼中に無かった。
見つめているのはワルドの手をはたいた自分の手。
小さいのだ。
それはもう幼子のように小さいのだ。
次いで自分の体を見て戦慄が奔った。
体が縮んでしまっていた。
いや、若返ったというべきか。
待て、そんなことはありえないはずだ。
そんなことが出来る薬か何かがあるのならもっと大題的に有名になっている筈である。
ルイズとて女性であり、若返りに全く興味が無いわけではなかった。
しかしこれはありえない事態。
今わの際の夢か幻と思うほうが現実的だ。
それにもし過去の幻覚を見るならサイトを見たかったと思う。
(……ん?過去?)
もし、もしも幻覚の類でなく他の可能性、目の前の若いワルドを見るに若返ったのではなく“戻った”のだとしたら。
自分が長い年月をかけ捜し求めたもの、少々時期がアレだがそれが起きているのだとすれば。
「あの、ワルドさま?」
「何だいルイズ?」
ワルドはしばし呆然としていたルイズを見て、眠っていたか何かで意識がはっきりしていないのだろうと決定付けた。
そうでなければ自分の手をこの娘が振り払う筈が無いのだから。
「私、変じゃありませんこと?」
「変?何を言ってるんだいルイズ、君はいつも通り可愛らしく、羽毛のように軽いよ」
そう言ってワルドはルイズ抱き寄せようと手を伸ばすがルイズはそれから逃げた。
「ルイズ?」
「すいませんワルドさま、気分がすぐれないので部屋に戻ります」
ルイズは逃げるようにしてその場からすぐに駆け出した。
不思議そうにしていたワルドは、顔をしかめる。
しかし、今のルイズには“そんなこと”どうでもいい。
確かめなければならないことがある。
礼儀など金繰り捨てて自室へと駆け出し、カレンダーを眺める。
その暦は、間違いなく自分の今の容姿、六歳頃のそれであった。
ここでルイズは瞬時に仮説を立てた。
何故こうなったのかはわからない。
だが今が仮に六歳の自分だとしよう。
もし、若返ったのではなく“戻った”のだとしたら自分は今、およそ二十六年ほど前にいることになる。
「あは……」
自分はまだ六歳。
けどこのまま育てば十年後には十六歳。
「あはは……」
その頃にはトリスイテン魔法学院にいて、“使い魔”を召喚するはず。
「あははははははははは!!!!!!!!!!!!!!!!」
その時、私はまた彼と会うことが出来る。
やり直す事が出来る!!
いつの間にか自分しかいない部屋で大声を出して笑う。
「サイト……やった、やったわ!!私また貴方と会えるの、会えるのよ!!」
その瞳は十余年ぶりに虚無以外のもの、“希望”を映し、彼女に活力を与える。
「あははははは!!!!!サイト、あと十年、十年待っててね、あはははははは!!!!!!!」
狂喜乱舞し、狂ったように笑い続ける彼女は今、幸せという名の希望を十余年ぶりに見出だした。