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日本シルクロード科学倶楽部
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ニックネーム:おつる 鶴姫 (洗礼名ジャンヌダルク)
性別:女 
年齢:いい感じの年 
都道府県:兵庫県
サッカー大好き♪好きなサッカーチームもちろん★バンヴェール兵庫★マリリン・モンロー大好き♪自衛隊ファン♪ JAZZが大好きー♪ 猫が大好き♪ そして 何より好きなんは・・ビールやね♪

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2009年10月31日(土)
★動画  ジャパンタイムズへ抗議にいきました。
<日の丸に(fuck you)ファックユーを叫ぶ白人女を賛美するジャパンタイムズ> 厳罰を下せ!ジャパンタイムズと白人キリスト教徒の日本蔑視に ◆反日を稼業とする「ジャパンタイムズ」は10月15日、『うるさい右翼どもに立ち向 かう』(Standing up to noisy rightists)との投書を掲載したが、嘘八百の投書だった。この白人女は我々が 「拳と拡声器で私を殴りつけた」と言いながら、一方では「私は無傷だった」と述べるな ど、事実関係の整合性に欠片もない。デタラメと分かっていながら掲載したことは、ジャ パンタイムズの<『語る』運動から『行動する』運動へ>に対する悪意であり、敵視以外 の何ものでもない 日本敵視のジャパンタイムズを許すな!@ 日本敵視のジャパンタイムズを許すな!A 侍蟻、有門さんに続いて、おつるも叫んでます。 おつるの怒った顔は不細工です 演説も下手だけど、緊張したけど、一生懸命叫んでます 日本敵視のジャパンタイムズを許すな!B 日本敵視のジャパンタイムズを許すな!C 日本敵視のジャパンタイムズを許すな!D ジャパンタイムズの管理部長は涙目になってました。 お世話になった皆さま、有難うございました。
2009-10-31 21:44 | 記事へ | コメント(5) | トラックバック(0) |
| キリスト教 カトリック / 中国の核実験 |
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★ジャパンタイムズへ抗議にいきました。
ジャパンタイムズ、反日新聞への抗議に行きました。

主権回復を目指す会の修平さんと待ち合わせ

そして、ジャパンタイムズへ


 写真は、★NPO外国人犯罪追放運動理事長 侍蟻さんの
ブログ  http://blog.livedoor.jp/samuraiari/

 そして★主権回復を目指す会 ホームページより
お借りしました。 

到着すると、すでにたくさんの方がいらっしゃいました。

以前、イグナチオでお見かけした方もいっぱい。

そびえたつジャパンタイムズ
こんな綺麗なビルから、口にするのもおぞましい

「夫がリストラされた日本の家庭では、主婦売春が大ブーム、
家計を支えるために主婦が売春することは今や普通である」
「日本女性の55%は即エッチ」
などの変態性的記事を 
垂れ流すのね。 

日本女性を侮辱するな!!

私は たとえ 1憶円あげると言われても
売春なんかしないんだよ!!!



西村修平さん、 イグナチオで外人女性が、ファックユーと
叫びながらしていた 下品なポーズを再現しています。

こんなポーズは日本女性は絶対できないよ。

「お前の○○の穴に指 突っ込むぞ」という意味だそうです。
ひどい・・・・

外国人犯罪追放運動理事長の侍蟻さんの素晴らしい演説のあと

おつるも西村修平さんよりマイクを託されました。

おつるは、イグナチオを拠点にした反靖国行動を
カトリック正義と平和協議会が画策していた事

それに対して、主権を目指す会が抗議という行動により阻止して
下さった事

その事に対して、カトリック信徒である私が、謝罪し、立会い、
一部始終を見ていたけれど暴力的行為などなかった事

嘘とデタラメだらけ、
まるで反日、反靖国行為に触れず、それに対する抗議の方々を
街宣右翼であり暴力集団であるかのような外国人の投書を
取材もせず、確かめもせず、抗議団体やカトリック本部の話も
聞くことなく、一方的に掲載した ジャパンタイムズは
許さないという思いを述べました。

実際に 現場で目撃した信者でない通行人も警察も外国人も、
この団体が暴力などふるっていないという事は知っていたはず。

この女性の投書は嘘なのです。

逆に言えば「カトリック信徒は嘘つきだ」「反日、反靖国の側だ」と
言っているようなもの。

私は、緊張しながらも一生懸命叫びました。




外国人の関係者も多いということで、英語で抗議文を
読まれた方も


女性の抗議は、日本女性を売春婦と書いた記事への抗議です。


そしてジャパンタイムズのビルの入り口へ・・・・



私の投書を のせなさいと迫るおつる・・・↓

お母さんに叱られた子供みたいに無言ばかりの管理局長


「竹島は日本の領土か、尖閣諸島はどうか、
あなたは日本が好きですか」という問いにも無言・・・

最後に 西村修平さんから 国旗を掲揚しないジャパンタイムズへ
日章旗のプレゼント笑






さあジャパンタイムズが今後、どういう対応をしてくるのか・・・

二度と、嘘、偏向記事を書くな!!

少しは、懲りたかな・・・もしまた偏向嘘報道を
繰り返すならば容赦しない。



抗議のあと、参加しておられた女性と
親しくなりました。
そしてみんなで、おひるごはん。

西村さんと写真を撮ってもらいました。 


これからも、おかしいと思う事には躊躇せず声をあげていきたいです

侍蟻さんブログより



事実を捻じ曲げ、さも全ての在日外国人がありとあらゆる権利を要求しているかのように喧伝し、また、そのように不当な権利を主張することが日本に住む外国人として当然ですよ−と言いたげなのがジャパン・タイムズのような偏向新聞社ではないのか?

 そのような意図に基づいて記事を作成しているとすれば、それは日本に住む常識・良識ある全ての外国人に対する侮辱でしかない!

 ジャパン・タイムズはあたかも日本人が外国人を差別・迫害・排斥しているかのような報道をでっち上げてまで行なうよりも、日本人こそが不逞外国人から差別され迫害を受け蹂躙され、そして雇用においても冷遇されている「事実」こそを大々的に報道すべきではないのか!?

 それでこそ日本の報道機関としての使命であり、外国人向けの英字新聞としての役割を果たせるというものだろう。

 大体がカソリック系イグナチオ聖教会内で企てられていた「平和と正義」なる集会こそ、日本が過去に侵略、強制連行、大虐殺を行なったという捏造された戦争犯罪を断罪するための分科会であり、日本人に対する重大な差別・迫害問題であると強く糾弾されなければならない!

 これを果たすべきマスコミがやらず、一国民らが集って展開した抗議行動について、捏造記事を掲載してまで日本人を虐げるような所業は断じて許されるべきものではない。


2009-10-31 20:48 | 記事へ | コメント(1) | トラックバック(0) |
| キリスト教 カトリック / 中国 |
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2009年10月28日(水)
★日本敵視のジャパンタイムズを許すな!
先日の聖イグナチオ教会にて

カトリック正平協の 反靖国行動について
「主権回復を目指す会」の抗議がありました。

この抗議は合法的で、暴力行為などはありませんでした。

が、まったくの嘘の投稿をジャパンタイムズは掲載し、

カトリックがなぜ抗議されたのか、
その元凶である カトリック正平協の反靖国行為のことは
一切、書かれていません。

この記事を読んだ方は、この嘘をついている白人女性の
主張が本当であり、

抗議団体が悪く、カトリック正平協が被害者のように
思われてしまいます。

また、カトリック信徒全員が 反靖国に加担していると
思われるでしょう


(もしかしたら、この白人女性ではなく、抗議に対応せず
物陰からこそこそ見て、逃げた正平協の関係者が
投書したのではと思えるような内容です。)


私も ジャパンタイムズに追及したい。




******************************************

http://shukenkaifuku.board.coocan.jp/?m=listthread&t_id=3511

 【抗議街宣】日本敵視のジャパンタイムズを許すな!



主権回復を目指す会事務局



【抗議街宣】
白人の味方、日本敵視のジャパンタイムズを許すな!

<日の丸に(fuckyou)ファックユーを叫ぶ白人女を擁護するジャパンタイムズの犯罪>

もう黙っていないぞ!ジャパンタイムズと白人キリスト教徒の日本蔑視を


日時:平成21年10月29日(木) 11:30集合(抗議文の提出あり)

場所:ジャパンタイムズ本社 最寄り駅JR田町駅(芝浦口)

http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E139.44.56.460N35.38.18.990&ZM=10
108-8071 東京都港区芝浦4-5-4 電話03-3453-5312 FAX03-3452-0659

◆反日を稼業とする「ジャパンタイムズ」は10月15日付けで、『うるさい右翼どもに立ち向かう』としての投書を掲載した。

◆我々は10月11日、反日キリスト教徒と「日本カトリック正義と平和協議」が麹町教会(聖イグナチオ教会)に集結して徒党を組んで靖國神社に乱入する企てに、断固とした抗議でもってこれを粉砕した。今夏、高金素梅ら反日シナ・台湾人らが靖國神社へ乱入して英霊を冒涜した前例に習い、今度はカトリック教徒らが同様な振る舞いを演じようとしたからだ。

◆教会前で整然と抗議活動を展開する我々を前に、スペイン系と思われる白人女が通り過ぎながら隊列に中指を突き立てながら「fuckyou」を浴びせた。米国ならば犯罪として処罰される言葉「死ね!クダバレ」に匹敵する禁句であり、身柄を拘束して人民裁判にかけなければならない。

◆白人女を拘束しようとしたが警察に阻止され、その女は身柄の安全を保証されながら、反日の権化・聖イグナチオ教会にまんまと逃げ込んだ。

◆主権回復を目指す会と<『語る』運動から『行動する』運動へ>は明言する。今後、このような侮辱的な言葉を吐く相手は決して容赦しない。その「安全」も保証しないと。さらに白を黒に言い換え、白人キリスト教徒の犬を演じているジャパンタイムズに、それ相応の責任を徹底追及する。

※雨天決行 プラカードの持参歓迎

呼び掛け:主権回復を目指す会/せと弘幸Blog『日本よ何処へ』/NPO外国人犯罪追放運動/在日特権を許さない市民の会

連絡:西村(090-2756-8794)有門大輔(090-4439-6570)





下記の記事の中の赤字の部分は すべて嘘です。 

◆以下参考
『うるさい右翼どもに立ち向かう』【ジャパンタイムズ10月15日付】

 私は日本の警察に謝意を表したい。 日曜日、都心の教会で行われる礼拝に歩いて向かっていると、右翼の独特の旋律が聞こえてきた。私は「またかよー」と思った。

 しかし、今回はいつもの迷惑車両(街宣車)ではなかった。教会の外の角で、30〜40人ほどの抗議者が拡声器で叫んでいた。彼らの不満は、正義と平和のための日本カトリック協議会が靖国神社への見学ツアー含みの集会に対するものであった。

 右翼が教会への乱入および集会への妨害をしようとしたことにより、集会は中止に至った。そして、残された右翼たちは通りの角でどんちゃん騒ぎをしていた。私はこれら抗議者たちが、社会の断面を表わしていることに気づいた。スーツを着た男女、カジュアルな服装の若者、少なく
とも一人は着物で下駄を履いた男もいた。

 少しばかり離れた所に、たくさんの警察車両が待機していた。制服警官らが右翼とは反対側の歩道で列を作っていた。私がこの2つの群れの間を歩いていると、右翼が私に向かって日本語で「日本から出てゆけ!」と叫んだ。驚いて、彼らを見ると、口に出して言うのもはばかれるアング
ロサクソンの言葉を吐いたのだ(※おそらくfuckyou)。


 彼らはすぐさま私に向かって迫ってきて、拳と拡声器で私を殴りつけた。リーダーは私の髪の毛を引っ張れるほど近くまで迫ってきた。その時、警察官は私に迫り、攻撃者に体当たりをし、彼らを元いた歩道へと押し戻した。「走れ!」中年の警察官が私に叫んだ。

 私は指示に従い、すぐさま教会の安全な所へ辿り着いた。私は無傷だった。しかし、もし警察官のとっさの対処がなかったら、私は確実にもみくちゃにされ、酷く殴られたことだろう。私は小柄な女性。私は白人ゆえに標的にされた。しかし、これらの右翼たちは、憎悪の中にさまざまなものを抱えている。その当日早くから、彼らは日本人礼拝者たちをヤジり、侮辱していた。残念なことに、彼らは、彼らがナショナリズムに執り付かれる以前より、カトリック教会は古くから深く日本に根ざしてきたことに気づいていない。






※ ジャパンタイムズ

●「慰安婦=セックス・スレイブ」のデマを世界に広める原動力になったのがジャパンタイムズ。

●「慰安婦=性奴隷」
プロパガンダを繰り広げたジャパン・タイムズは、
いまだに「拉致は日本政府の捏造」暴言を吐いた反日豪州野郎のグレゴリー・クラークを 起用し続けている。



産経新聞の古森義久氏のブログより
「グレゴリー・クラーク氏が「拉致は日本の捏造」だと断言!! 信
じられない非人道的な暴言です。北朝鮮による日本国民の拉致と
いうのは、日本側による捏造だそうです。多摩大学の学長や文部省
大学審議会委員などを務めてきた在日オーストラリア人のグレゴリ
ー・クラーク氏が10月1日のアメリカのインターネット論壇「N
BR JAPAN FORUM」への日本からの投稿で、そんなひ
どいことを堂々と書いているのです。「反北朝鮮のキャンペーンを
打ち上げるために捏造された拉致問題を利用しようとする東京(日
本)の異様な努力は、韓国を日本からさらに離反させ、中国へと接
近させるだろう」クラーク氏は上記のことを英語で明記しています
。クラーク氏は安倍政権にも、小泉政権にも、猛反対です。両政権
とも日本に軍国主義を復活させる危険なナショナリスト政権だとい
うのです。「民族主義の日本は共産主義の中国よりずっと危険だ」
ともクラーク氏は宣言します。こんな外国人に日本の教育を任せる
というのだから、なにをかいわんや、です。」

グレゴリー・クラークの正体
      ↓
●ジャパンタイムズ The Japan Times Part1●
http://society3.2ch.net/test/read.cgi/mass/1101947984/l50
グレゴリー・クラーク副学長の拉致問題暴言さらに拡大 
「日本の拉致問題は日本側の捏造だ」と
横田めぐみさんの事件をもデマと言っている。
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1159913122/l50



●販売網は朝日新聞社系列

●毎日hentai新聞の『WaiWai事件』と同様に、国産英字新聞の老舗、『Japan Times』でも性的侮辱記事が数多く掲載されていました。これについても実は以前から散発的に批判があったそうですが、バレてなくて数が少ないのをいいことに、黙殺して掲載し続けていたようです。


例えば、次のような記事が掲載されていました。

2002年6月2日の記事は週刊朝日からの引用で、風俗に勤務する主婦の実態を紹介。業者が広告を雑誌に出すと、特に既婚女性からの応募が殺到するという。夫がリストラされた日本の家庭では、家計を支えるために主婦が売春することは今や普通であるという、風俗ライターのコメントもある。

以下 書くのがはばかられるような記事
詳しくはこちら「朱雀式」さんブログ 
http://www.suzaku-s.net/2008/08/post_215.html



私は 

バチカンに従い、靖国も大切にするカトリック信徒として、

今回の事件を公平な取材もせず、
カトリック正義と平和協議会の問題性を指摘もせず
偏向報道し 自らの反日思想のために 

カトリックを利用する事に

抗議します。
 
2009-10-28 05:04 | 記事へ | コメント(9) | トラックバック(0) |
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聖トマス大学(英知大学)がつぶれる日 続報 
卒業生であり、カトリックの洗礼は受けておられない未信者さんで

聖トマス大学で 学ばれ卒業された方から

教えていただきました。 


聖トマス大学 卒業生に郵便で送られたそうですが・・・


「学生募集停止決断さぜるを得なかった」

せざるを得なかった・・・とは、あきれます。

卒業生の悲しみ、元教育者の悲しみを 

どのように 受け止めておられるのでしょうか・・・

おつるの以前の記事を あわせてお読みください↓

2009年06月08日(月)
◆カトリックの 聖トマス大学がつぶれる日 
兵庫県の聖トマス大が募集停止
「学校運営が困難」

http://blog.zaq.ne.jp/otsuru/article/892/


2009年06月17日(水)
◆聖トマス大学がつぶれる日A  
ある卒業生より「母校・英知大学の破綻について」


http://blogari.zaq.ne.jp/otsuru/article/900/





***********************************************
11/3  

11時から 

小田学長から、学生募集停止決断さぜるを得なかった理由説明会


13時から 同窓会


14時から 

「教会の社会教説綱要」出版記念 
カトリック3大学連続シンポジュウム

「人間共生の在り方と社会教説」 

聖トマス大学創立50周年記念行事・第47回開学記念講演会

T    シンポジゥム 

         マイケル・シーゲル
         橋本昭一
         本田哲郎  
         松本信愛 
         加藤賢一



U    交流会 池永大司教 パネリストの先生との交流 

2009-10-28 05:03 | 記事へ | コメント(5) | トラックバック(0) |
| キリスト教 カトリック |
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〈天皇即位20年奉祝〉に反対する おバカな 行為
こんな最悪な 催しがあるのですね・・・

天皇のご即位をなぜ日本人でありながら
お祝いする事に抗議するのか・・・

また天皇陛下をガイコツにしたり、日の丸に汚物や
ナチスのマークの落書きをするのでしょうか・・・


反戦反天皇制は
入管法反対などで
カトリック正義と平和協議会
カトリック大阪大司教区社会活動センター・シナピスと
行動をともにする組織。

また主権回復を目指す会や在特会のみなさんが
阻止して下さるでしょう・・・




以下は反日ブログ  ↓




11 ・ 1 「天皇即位 20 年祝賀」反対!大阪集会
2009-10-16 18:29:55 | 集会情報反戦反天皇制労働者ネットワークの吉田です。
11月12日の「天皇即位20年祝賀」国家式典反対に向けて「天皇
即位20年祝賀」反対!大阪行動は下記の闘争に取組みます。多
くの参加を呼びかけます。


●11・1「天皇即位20年祝賀」反対!大阪集会
  ――戦争・貧困・差別のアキヒト20年を許さない!――
 ◇日時 11月1日(日)午後1時30分〜3時30分  3時40分か
らデモ
 ◇場所 国労大阪会館(大阪市北区錦町2−2  JR大阪環状
線「天満」下車すぐ)
      案内図 http://www.doko.jp/search/shop/sc70390173
 ◇内容
【基調報告】 民主党政権下の天皇制攻撃 (大阪行動)
【発  言】
 ・日の丸・君が代と天皇翼賛―学校現場から 
中野五海さん(大阪教育合同)
 ・国防婦人会のころ 樽美政恵さん(ふぇみん大阪)
 ・新たな貧困と若者と天皇制 金羽木あつしさん
 ◇参加費 1000円(資料込み)
 ◇「天皇即位20年祝賀」反対!大阪行動
―――――――――――――――――――――――――

なお、下記の全国闘争への参加も呼びかけます。

●〈天皇即位20年奉祝〉異議あり!政府式典反対11・12全国集
会・デモ
 ◇11月12日(木)午後1時〜/京橋プラザ体育館(東京・銀
座)
 ◇主催 〈天皇即位20年奉祝〉に異議あり!え〜かげんにせ
ーよ共同行動
        (e-mail : igiari20@ten-no.net)
●11・11〜12反天皇制運動全国交流集会
 ◇11月12日(木)午前9時30分〜11時30分
 ◇千駄ケ谷区民会館(東京都渋谷区神宮前1‐1‐10)
 ◇主催:「天皇在位20年奉祝」やめろ!行動

------------------------------------------------------
●11・12「天皇即位20年祝賀」反対!大阪集会・デモ
  ◇11月12日午後1〜2時 大坂城公園教育塔前 集会後デ

  ◇主催: 「天皇即位20年祝賀」反対!大阪行動
●11・16天皇来阪・即位20年祝賀反対闘争 
  天皇は11月16〜18日、府内を視察。以降に京都でお茶会。
「奉祝大阪実行委」は16日「提灯奉迎」。反対闘争で迎え撃と
う。

 鳩山民主党政権は、自公政権を継承してか、「天皇在位20年
祝賀」国家式典を11月12日に東京の国立劇場で開催する。廃案
となった祝賀休日化法案も成立させるだろう。そればかりか、
自衛隊戦死者を慰霊・顕彰する国立戦没者追悼施設の具体化も
急いでいる。
 なぜ祝うのか。なぜ急ぐのか。
 それは、いまやアメリカの侵略戦争に参戦し自衛隊員の戦死
が現実味を帯びる戦争国家となったなか、天皇が戦争の中心に
座る必要が「待ったなし」となったからではないか。兵士が「
忠誠の対象」とする天皇、戦死を「お国のため」とたたえ「英
霊」として慰霊・追悼する天皇が必要なのである。侵略戦争と
植民地支配の責任をとらず居直り続けている日本国家と天皇が
、この国家式典を新たな天皇制戦争国家の本格的確立にむけた
跳躍台にしようとしている。
 私たちは国家が主催する「祝賀」式典を断じて許すわけには
いかない。私たち日本の民衆はかつてと同じ誤りを犯してはな
らない。
11月12日には〈天皇即位20年奉祝〉に異議あり!え〜かげんに
せーよ共同行動が全国闘争を呼びかけており、東京でも大阪で
も全力で闘う。11月1日はその前段である。多くの参加を。
 ――――――――――――――――――――――――――
  「天皇即位20年祝賀」反対!大阪行動
    ◇賛同を! 賛同費は個人・団体とも1000円。
 郵便振込 00900−8−168991 
  口座名称 反戦反天皇制労働者ネットワーク(大阪行動と
明記を)
2009-10-28 05:00 | 記事へ | コメント(15) | トラックバック(0) |
| キリスト教 カトリック / 靖国神社 |
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兵庫県リーグ  バンヴェール兵庫 
日曜日 久しぶりに 兵庫県リーグがありました。 チームメンバーの活躍の動画です。 (おつる撮影) 惜しくも0−1で負けましたが、いい試合でした。 水色ユニフォームが、バンヴェール兵庫です ピンクはとっても強い北五葉ウイングさん。
2009-10-28 04:58 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
| サッカー フットサル 大好き |
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2009年10月25日(日)
●NHK京都放送局前、ビラ配り街宣 10月24日
結構、職員が気にして見てますね!! お客様の声を聞くNHKのイベントの日だからグッドジョブ!! 中で、お客様からこの件について話題は出たでしょうか??  NHK京都放送局前、ビラ配り街宣 10月24日@ おつるは、明日がサッカーチームの久々の兵庫県リーグ戦 その前日練習は大切なので、参加できませんでした。 NHK京都放送局前、ビラ配り街宣 10月24日A たまちゃんや ともゆき社長、 奈良のキョウコちゃん、京都のリカちゃん他 頑張っている動画を見て、胸をうたれました。 NHK京都放送局前、ビラ配り街宣 10月24日B デモに比べると参加は少ないけれど、地道な頑張りと思いと真実は きっと伝わると思います。 NHK京都放送局前、ビラ配り街宣 10月24日C ごめんなさい。kinaくんの演説 素晴らしいです!! 来週は、 @ 「シルクロードは危ないよ!カンペイちゃんコースを変えよう!」 案内ビラ配り アースマラソンで走ってるカンペイちゃん。 予定経路にシルクロードが含まれております。 ご存知、支那政府が行った核実験の地、とっても危険です。 カンペイちゃんをひきとめましょう! A 「品川ヒロシ!外国人参政権に賛成?!抗議街宣」 偽善者、品川ヒロシが発言した「外国人参政権に賛成」。 この売国奴っぷりを皆さんにお伝えし、案内ビラ配りを行います。 @の開始時間 13時 Aの開始時間 14時   @Aとも場所は同じ  なんば高島屋前 (北東角の横断歩道前) 
2009-10-25 03:18 | 記事へ | コメント(3) | トラックバック(0) |
| 台湾 NHK抗議 / 日本シルクロード科学倶楽部 / 中国の核実験 |
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2009年10月24日(土)
殺伐とした世の中、たまには、癒されてください♪ おつる三代目の日常 そのA
おつるに似てるかなあ



寝返り成功♪


ハイハイももうすぐかな♪


たっちもお座りもできるよーって 4か月なのに!!





4か月検診異常なし。



2009-10-24 02:36 | 記事へ | コメント(13) | トラックバック(0) |
| おつるの日常 |
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殺伐とした世の中、たまには、癒されてください♪ おつる三代目の日常 その@
おつる三代目 なかなか元気でパワフルです

さすが、三代目の風格が漂う・・・





100日目のお食い初めは、鯛のおかしらつきとお赤飯♪



あーん。はじめてのおつゆ


いい湯だな〜〜



ママはいまだに、ギャルです笑


2009-10-24 02:28 | 記事へ | コメント(10) | トラックバック(0) |
| おつるの日常 |
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★ローマ・カトリック大司教 ヨゼフ・ピタウ氏 【講義詳報】
先日の東京マリアカテドラルで、荘厳司教ミサの司式の司祭様の
おひとりであった、ヨゼフ・ピタウ氏のご講演です

第二バチカン公会議の本来の意味を語っておられます。
この本来の意味が、ゆがめられ左傾化と、典礼破壊、世俗化に
つながっている現状を私は憂いていますが

真の意味を理解することが大切だと思います。

ベネディクト教皇様は2006年11月にイスラム教のトルコをご訪問。9月に法王は、イスラム教と暴力を関連づける発言をして物議を醸し、トルコ国内では各地で訪問を拒絶する抗議がおこっていましたが、実際には、トルコでは歓迎を受け、対話により、
異なる宗教間の和解へとつながりました。

 ●海外メディア、ローマ法王訪土についての報道ぶり
  http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/newsdata/News20061130_4016.html

★立命館大学リレー講座 現代社会と宗教

第9回 ローマ・カトリック大司教 
ヨゼフ・ピタウ氏 
【講義詳報】



◆公会議招集の背景

 カトリック教会がこの40年間、どのように改革され、世界での位置を考えているかについて話したいと思います。

 ローマ教皇ヨハネ23世(1881〜1963)は1962年、だれも期待していなかったことを発表しました。世界に散らばる約2500人の司教様をローマに招集し、カトリック教会の刷新を夢見ました。それが「第2バチカン公会議(1962〜1965)」です。

 第1の目的は、教会の「刷新」でした。第2の目的は、様々な教会や宗派に分裂したキリスト教界に「一致」を見いだし、もう一度、協力する態勢をつくることでした。

 ヨハネ23世は、「刷新」という言葉で、中世という時代は終わり、新しい時代を考えなくてはならないということを主張しました。刷新は多岐に及びました。例えば、典礼です。その時まで、カトリック教会では、イタリアでも中南米でも日本でも、全世界でラテン語を使っていました。

 全世界の神学教育のプログラムも同じでした。私は日本で神学部を卒業しましたが、日本の宗教的伝統について、科目は一つしかありませんでした。教科書もラテン語。日本人の同級生たちも、神学を学ぶより、ラテン語を理解し、日本語に訳す作業が中心でした。

 世界は多元的で、カトリックだけでなく、プロテスタントも、キリスト教以外の人々も多い。第2次世界大戦後、経済や政治の分野では新しい問題も起こりました。共産主義のソ連という新しい政治が生まれました。東ヨーロッパはもちろん、イタリアやフランスでも共産党が強い影響力を持っていました。

 新しい状態の中で、教会はどう考えなければならないか。教会は、どのような世界観を持てばいいのか。答えなくてはならなくなりました。それまでの神学の教科書は十分ではなく、現代に合った神学を構築する必要がありました。

◆全体主義への反省
 一方、なぜ、カトリック教会はドイツのヒトラーや、イタリアのムソリーニのような指導者を認めたか。なぜ、ホロコースト(ユダヤ人の大虐殺)は起こったのか。当時の欧米の神学者にとって、自らの戦争体験は大きな課題でした。そうした反省は、ヨハネ23世が第2バチカン公会議を招集した大きな理由でした。

 実際、第2次世界大戦中と戦後、優れた神学者たちはひどい苦しみを味わいました。なぜ、ユダヤ人が殺されているのを見て何もしなかったのかと。彼らは聖書を中心に研究し、自らの過ちを認めました。こうした神学者たちが、新しい神学、政治学に指針を与え、良心の呵責(かしゃく)の中で新しい世界をつくろうとし、第2バチカン公会議で大きな影響を及ぼしたのです。

◆一致への意志
 刷新の中で、これまで分裂していたキリスト教界の「一致」の問題が生まれてきました。ヨハネ23世は、同じイエス・キリストの教えを伝えるなら、一致点を持たなければならないと考えました。

 キリスト教界の最初の大きな分裂は1054年、東方教会と西方教会でした。この2つの勢力はいまだに分裂したままです。16世紀になると、プロテスタント、アングリカン教会(イギリス国教会)が分かれました。イギリス国教会はローマから独立、さらに、プロテスタントのルター派などの分裂もありました。イギリス国教会は、宗教的な理由よりも政治的、国民的な理由で分裂したのです。

 ラテン語の問題もありました。ローマ・カトリックは、だれもが聖書を勝手に解釈するのを恐れて各国語で訳すのを禁じましたが、プロテスタントはドイツ語の聖書を出しました。

◆4つの検証
 第2バチカン公会議で、多くの司教様はラテン語をあまり話せませんでしたが、自分の教区の優れた学者や専門家を呼び、相談役として使うことができました。第2次大戦の中で苦しんだ神学者たちは素晴らしい提案を出しました。公会議の公文書はとてもきれいな訳で、4つの中心的な検証を盛り込んでいます。これらの検証はカトリック教会の神学の中心に関するもので、大きな建物の柱に例えることができるでしょう。

 検証の第1は教会の考え方です。カトリック的な教会の神学はこれまで、目で見えるもの、手で触れられるものを重視してきたが、神との関係で心の持ち方、精神的なものを強調するようになりました。そして、教会は組織体であるより、一つの精神的なものとし、外面的な典礼より、心の問題、精神的なものとしました。

 16世紀のトリエント公会議(1545〜1563)では、教会は目で見えるもの、外面的なものを重視しました。例えば、教会で日曜日に何人が聖体を頂くか、何人が告白するかなどで、心はどうでもいいという傾向がありました。カトリックは、プロテスタントが外面的なものを否定したので、対抗するため、逆に外面的なものを強調するようになったのです。

 トリエント公会議では、教皇を頂点とする位階的、形式的な共同体を強調しましたが、第2バチカン公会議は、共同体の位階より、平等な関係を強調、ローマ教皇の定義も「神の奉仕者」としたのです。教皇や司教、司祭は奉仕するために存在するのです。教会の定義も「御父と子と聖霊によって、一つに集められた共同体」としました。教会は神の恵みで集められた団体で、精神的なものが重視されています。

 第2は、聖書についての検証です。聖書は、カトリック教会の中心的な存在で、だれもが自由に読めるようにしなくてはなりませんでした。カトリックでも聖書研究所で素晴らしい訳が作られ、みんなが聖書を持つようになりました。だれもが自分の聖書を読み、勉強できるようになったのです。

 第3に現代世界の検証が行われました。政治や経済、文化の問題が取り上げられ、指針が示されました。

 4つ目の検証は典礼です。カトリック教会はどこでもラテン語を使っていたが、各国の言葉で典礼をささげるようになりました。それは大きな革命でした。一般の信者も直接、ミサや祈りに参加し、理解できるようになったのです。典礼には司祭だけでなく、みんなが参加できるようになりました。

◆宗教間対話へ
 第2バチカン公会議によって、カトリックの教会は開かれ、司祭や信徒みんなが典礼に参加し、具体的な活躍ができるようになりました。改革は、すべての場所で、同じように速いペースで進んだとはいえませんが、全体として教会は刷新されました。

 そして、他宗教との対話の問題があります。カトリック教会は、ほかの諸宗教の中に見いだされる真実や行動、生活様式、戒律などを、尊敬の念を持って考察することになりました。

 他宗教の欠点をあげつらう傾向があり、こうした態度は、以前にはありませんでした。「公に対話したい。公に助け合いたい。お互いの価値観を認め、そこから習いたい。協力したい」。このような指針は全く新しい考え方でした。

 1986年、イタリア中部のキリスト教聖地・アッシジで、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が呼び掛け、世界の様々な宗教者が集まって平和のために一緒に祈りました。

 このアッシジの精神は、お互いに知り合い、協力しあい、平和のため、貧困をなくすため、具体的な目的のために力を合わせることです。一つの宗教だけではできません。この精神は今も生きています。

 つい最近のことですが、ローマ教皇ベネディクト16世が、ドイツで行った講義での発言を巡って、イスラムの指導者たちが怒りました。これは、昔の東ローマ帝国皇帝の発言を引用したもので、決して教皇が自分の言葉として言ったのではありません。

 他宗教との対話は、真剣に考えないと、このような摩擦が起こることもあります。いかに難しいかということを示したケースだったと思います。
 


◇ヨゼフ・ピタウ氏の経歴
 ローマ・カトリック大司教
 1928年、イタリア・サルディニア島生まれ。45年、イエズス会に入会。上智大で神学を修め、米ハーバード大で政治学博士号を取得した。上智大で教べんをとった後、75年から同大学長。教皇ヨハネ・パウロ2世の要請でイエズス会本部に移り、教育省局長などバチカンの要職を歴任した。


(2006年11月22日 読売新聞)
2009-10-24 02:10 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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緊急告知★間寛平ちゃんが危ない!! 日本シルクロード科学倶楽部よりお知らせ♪


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アースマラソンの間寛平が危ない!


シルクロードでカンペイちゃんが危ない! キャンペーン

詳しくは日本シルクロード科学倶楽部 ホームページへ
http://www15.ocn.ne.jp/~jungata/EKanpeiRisk.html

プロジェクトへ寄せられている日本人被害情報

・ 知人のNHKシルクロードカメラマンが肺がん死
・ 1980年代に観光した父親が悪性リンパ腫で死亡
・ 1980年代に観光した母が白血病で闘病中


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kinaくん企画!!

@「シルクロードは危ないよ!
カンペイちゃんコースを変えよう!」 案内ビラ配り


アースマラソンで走ってるカンペイちゃん。予定経路にシルクロードが含まれております。
ご存知、支那政府が行った核実験の地、とっても危険です。
カンペイちゃんをひきとめましょう!



開始時間 13時


A「品川ヒロシ!外国人参政権に賛成?!抗議街宣」


こちらは、ろーちゃん企画
(日本シルクロード化学倶楽部と別企画)




偽善者、品川ヒロシが発言した「外国人参政権に賛成」。
この売国奴っぷりを皆さんにお伝えし、案内ビラ配りを行います。

開始時間 14時  

@Aとも場所は同じ
 なんば高島屋前 (北東角の横断歩道前)


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プロジェクトの缶バッチが出来ました!

可愛いでしょ♪




シルクロード科学プロジェクトの缶バッチが出来ました。




1個300円のカンパで、東京、関西、札幌の倶楽部の各拠点で、
販売します。

なお、倶楽部会員のみなさんには、無料で1個を配布いたします。

その3箇所での会合で受け取るか、
2月の倶楽部誌と一緒に送付します。
2009-10-24 02:02 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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●酒井信彦先生 ご講演 動画
●酒井信彦先生 ご講演 動画@ ●酒井信彦先生 ご講演 動画A ●酒井信彦先生 ご講演 動画B ●酒井信彦先生 ご講演 動画C ●酒井信彦先生 ご講演 動画D ●酒井信彦先生 ご講演 動画E ●酒井信彦先生 ご講演 動画F ●酒井信彦先生 ご講演 動画G ●酒井信彦先生 ご講演 動画H
2009-10-24 02:01 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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★「大阪読書研究会」のご案内
「大阪読書研究会」のご案内

 「大阪読書研究会」

日時:平成21年10月24日(土)午後6時より

講師:特定失踪者問題調査会理事 三宅 博先生

演題:現下の政治情況と、我が国の未来、為すべき事

場所:梅田東学習ルーム

    大阪市北区茶屋町1-40(旧大阪市立梅田東小学校) TEL:06-6359-5832

    http://www.kyoiku-shinko.jp/sisetu/08/index.html

会費:金1,000円



第6回「黒田裕樹の歴史講座」

日時:平成21年10月24日(土) 午後3時30分より

内容:「徳川綱吉 〜犬公方の真実」

講師:黒田裕樹

場所:梅田東学習ルーム

    大阪市北区茶屋町1-40(旧大阪市立梅田東小学校) TEL:06-6359-5832

    http://www.kyoiku-shinko.jp/sisetu/08/index.html

会費:無料(カンパを受け付けておりますので、ご協力をお願いします)





南木先生のメーリングリストより

今回の講師は 特定失踪者問題調査会理事で、前八尾市議会議員の三宅博先生に来ていただき、現下の状況をどう見るかについてお話しいただき、その後様々な議論をしたいと思っております。

三宅先生は先日もチャンネル桜のパネルディスカッションに出演され、外国人地方参政権問題に関して警鐘を鳴らされたばかりで、益々活発にご活躍中です。また、その場で南木からもいくつかのお願いや、提言が出来るかも知れません。

先般の総選挙では、日夜思索を重ねられ、我が国の進むべき道について深い洞察をお持ちの多くの方々が落選した一方で、たまたま名簿に名前を記載されていただけで、政治のことは何も知らず、本当は政治家になる気もほとんどなかった方々が多く当選しました。

本当におかしな世の中になったものです。
けれどもこれが現実であり、この延長上に我が国の未来も、我々の運命もあります。

ご自身、そのまま八尾市会議員を続けられれば、議員年金も支給される立場になる事が決まっているのに、途中で市議会議員を辞され、国政選挙に出馬された三宅先生は、何としても国会に行っていただきたかった方です。

三宅先生は今回惜しくも落選されましたが、その三宅先生の生き方、生筋は一貫しており、本物のリーダーとしての要件を今回、ますます完備されたと南木は思っております。

近く、必ず出番がやって来るでしょう。

多数の方のご参加と活発な議論を期待します。

(大阪読書研究会が今回、第何回目に当たるのか、カウントの仕方で変わってきます。近くしばらく更新していない大阪読書研究会のホームページを更新しますので、その時調整いたします。)


第6回「黒田裕樹の歴史講座」のご案内



次回(第6回)の歴史講座は、「徳川綱吉 〜犬公方の真実」と題して行います。



「人間より犬を大切にする稀代(きだい)の悪法」と今でも非難される「生類憐みの令」(しょうるいあわれみのれい)を施行し、当時の庶民に多大な迷惑をかけた「暗君」として、21世紀の現代においてもなお指弾され続ける江戸幕府の5代将軍・徳川綱吉ですが、彼の治世は本当に「暗黒時代」だったのでしょうか?



現代に生きる私たちが「空気のように」当たり前に感じている「あること」が、実は綱吉のお陰であるということ、さらに綱吉の評判が悪かった本当の理由が「彼の責任で起きたわけではない」という「隠された真実」を皆さんはご存知ですか?


今回の講座では、後世の人々によって「ねじ曲げられた」伝説をつくり上げられてしまった徳川綱吉の名誉回復を実践(じっせん)してみたいと思います!



尚、参考までに年末までの予定も紹介しておきます。

第7回「吉宗は名君か? 〜暴れん坊将軍の素顔」 平成21年11月28日(土)午後6時より (※この回は午後6時開始になります)

第8回「田沼意次と松平定信 〜悪人はどっちだ?」 平成21年12月19日(土)午後3時30分より


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●ドイツの学校教育とイジメ・移民政策の破綻
移民政策がさかんなヨーロッパ。ドイツにて、移民外国人の生徒からドイツ人の生徒が、いじめられている現状です。 日本も朝鮮人・中国人の移民により、このような状況が現実化するのも近い。在日外国人への差別がいけないと綺麗事を言って、我慢を重ねる日本人が将来的にマイノリティになり、差別される日は近い。 外国人参政権も憂うべきだが、もう現実となる。 それよりもさらに憂うべきは、簡易国籍取得法の恐ろしさ。
2009-10-24 01:09 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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陸軍史あちらこちら−(34) 『「陸軍少年兵制度」−現役下士官の主流は少年兵に−
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【特別号】 陸軍史あちらこちら−(34)             荒木肇
『「陸軍少年兵制度」−現役下士官の主流は少年兵に−』
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□はじめに

 長い伝統と歴史をもつ陸上自衛隊少年工科学校(神奈川県横須賀市)は、とうとう高等工科学校に名前を変えることになりました。もともと、技術下士官(陸曹)を養成するシステムとして発足したのが、この学校です。
 制度の発足は1955(昭和30)年のことでした。中学校を出た生徒たちは、入校すると、少年自衛官となりました。少年がついたのは、もともと一般入隊の若者が満18歳からであり、それと区別するためだったのでしょう。

 自衛官ですから階級がつきました。3等陸士です。左の上腕についている階級章の山形は一本の線だけであり、桜がないことで2士と区別がつきました。また、両襟には陸曹への有資格者であることを示す桜がついています。正式には「生徒」とよばれます。
 3年間の合宿生活をすごし、武山の校舎を離れるときには陸士長になり、それぞれの職種学校へと旅立っていきました。また、防衛大学や、一般大学、海・空の航空学生などへ進む人もめずらしくありません。神奈川県立湘南高校の通信制課程に在籍しているからです(昨年度から県立横浜修悠館高校に変わる)。

 何よりの特徴は、防衛大学校学生とはちがって、自衛官であることでした。防大生は定員外の自衛隊員ですが、少工校の生徒は階級をもつ自衛官です。防大生は学生手当を与えられますが、少工校生徒は階級に応じた給与を受けました。だから、同じく自衛隊の中の教育を受けながら、年齢が下の生徒の方が月収は良いといったことがあったのです。

 なぜ、来年度から高等工科学校と名前を変え、制度自体も変わるのでしょうか。実は、自衛隊の定員削減と大きな関係があるのです。「小さな政府」をめざす政策は、選挙で見られるとおり、国民の支持を受けているのでしょう。一般国家公務員の定員を減らすというのが政策です。
 防衛省・自衛隊も例外ではない。安全保障上の環境がむしろ悪化(いや、「友愛」でどこの国とも友好しようとしているから大丈夫だという考えもありましょう)しているのに、政府・議会は定員削減に突き進んでいます。自衛官を減らさなければなりません。すでに海・空自衛隊は「生徒課程」を廃止しました。残るは陸自だけ。とうとう、定員内だった生徒たちも自衛官ではなくなります。

 高等工科学校と名前は変わり、身分は変わっても、生徒たちの学ぶ姿は変わらないことでしょう。16歳という幼さで、厳しい団体生活に身を投じた少年たち。その伝統は守られることと信じています。


▼少年飛行兵と通信兵の創設

 何よりも有名だったのは、陸軍少年飛行兵でした。同時に通信兵もできました。1933(昭和8)年のことです。昭和8年の勅令には次のようなものがありました。
「陸軍補充令」の改正についてです。第66、67、68条にありました。
 補充とは、昔の用語ですが、人員の採用をいいます。
『工兵科の現役下士官には陸軍通信学校(東京都下村山)の生徒課程を卒業して、下士官候補者に定められた者が、のちに1年間ほど在営した者を下士官にする』、同じように『航空兵科の現役下士官には所沢陸軍飛行学校の生徒課程……』とあります。また、『この下士官候補者には上等兵の階級を与える』とありました。

 少年兵は、まず、陸軍通信学校、飛行学校の生徒課程に入ることになりました。でも、階級がないことが分かります。生徒課程を卒業して、下士官候補者になってから初めて、上等兵になることになっていました。

 1935(昭和10)年には、航空科について改正がされます。所沢ではなく、「熊谷陸軍飛行学校操縦生徒または同航空技術学校技術生徒」に改めるという勅令が出ました。操縦と技術系に分かれたからです。所沢は陸軍発祥の地、いまも空自が基地をもっていますし、熊谷も教育隊があります。今はなくなった空自の生徒も熊谷で教育を受けていました。


▼現役下士官の補充の主流は現役兵から

 もともと、第64条には次のように規定されていました。
『兵科(ただし憲兵は除く)現役下士官は、兵科下士官候補者として概ね2年在営して、軍教育隊の課程を修了するか、下士官候補者隊の課程をおえた者から採用する』
 これが現役下士官の補充の本流です。軍教育隊とは、各軍に設置された教導団の後身にあたる学校でありました。少年兵にはこうした規定があてはまりません。
 入営した兵士から志願した者を選抜して、下士官候補者にする。軍教育隊へ派遣するか、下士官候補者隊で教育するか、これが本流だったのです。だから、最短でも、伍長という階級になるのは23歳くらいでした。

 昭和の初め、世の中が不況だった頃、税金は安い方が国民は喜ぶ。対外危機があろうが、安全保障上に困難さが見られようが、それは一部の人が考えること。国防費が削られるのは昔も同じでした。軍人の給与は削られ、装備の改変は進まない。これもまた同じです。
「大学は出たけれど」と言われたころ、陸軍は下士官志願者の増大に驚いていました。また、政府は、陸軍に学歴のある者をなるべく将校や、同相当官に採用してくれと圧力をかけています。不景気はいつでも、現役下士官の志願増に貢献していました。しかし、それは、両刃(もろば)の剣でした。志願者の素質が良いかどうかというと疑問だったのです。

 すでに大正時代、陸軍当局は『下士志願者は社会の中では軽んじられている』という認識をもっていました。徴兵で現役兵になる人々の中には、学力が高い人も当然いるわけで、そうした人が上等兵になる。しかし、そういう人材は軍隊に居残るかというとそうではない。むしろ、世間でなかなか恵まれない階層から下士志願者は生まれてくる。だから、将校は下士を愛護して、兵たちから尊敬を集められるようにせよ。そういった通達もしばしば出されています。


▼少年飛行兵だけが「生徒」から「兵」へ

 65条の2は少年戦車兵、同3は少年砲兵、4は少年高射兵の規定であり、66条は少年通信兵(ただし、航空科の通信専修者はのぞく)のことが決められています。ここで書かれていることは、みな共通です。
1)それぞれの少年教育学校の生徒課程を卒業すること。
2)下士官候補者と指定されること。
3)陸軍大臣の指定する部隊で概ね1年間在営すること。

 ところで、67条は『前4条(少年戦車兵、同砲兵、同高射兵、同通信兵)の下士官候補者に対しては兵長の階級を与える』とあります。また、68条は航空関係の現役兵科下士官は……少年飛行兵にして下士官を志願し、概ね1年6ヶ月在営し下士官たるに適する者を採用ということが書いてありました。すると、少年飛行兵だけは生徒ではなく兵です。特別扱いがされたことが分かります。

 まとめていえば、飛行兵以外の少年兵は、学校を卒業して下士官候補者になって兵長の階級を与えられる。おおむね1年在営して下士官になる。下士官になるまでは「生徒」の身分です。「兵長になる」のではなく、「兵長の階級を与えられる」ことに注目してください。
 115条には、少年飛行兵学校生徒を「兵籍ニ編入ス」とあります。

 ここで、基本法令をみましょう。『陸軍諸学校生徒採用規則』によりますと、少年飛行兵学校生徒に志願できるのは、満14歳以上17歳未満です。3回受験できました。学科試験の程度は国民学校初等科(旧制の尋常科、6年制)、国語、数学、歴史、理科の4教科が受験科目でした。

『陸軍少年飛行学校令』によると、召募試験(しょうぼしけん、採用試験のこと)に合格した者を生徒にして、少年飛行兵たるに必要な教育を1年間にわたって行うとあります。『陸軍志願兵令』によると、少年飛行兵は少年飛行兵学校の生徒のうちは「生徒」だけれども、卒業するとともに、「志願兵」たる「兵」の身分に変わりました。

 素人にはやっかいな内容ですが、これが軍制の軍制たるゆえんです。
『陸軍志願兵令』をみると、昭和15年勅令第291号があります。
1)第3条 陸軍志願兵の兵種は飛行兵、通信兵、船舶兵又は軍楽兵とす。
2)第4条 ・・志願兵たる飛行兵は現役中之を少年飛行兵と称す。
3)第9条 陸軍志願兵の採用の際に於ける等級は飛行兵、通信兵及船舶兵に在りては上等兵、軍楽兵に在りては軍楽上等兵とす。
4)第17条 少年飛行兵は陸軍少年飛行兵学校生徒の課程を卒業したる者を以て之に充てる。

「兵種」という言葉が出てきました。1940(昭和15)年に、兵科の区別がなくなって、○兵上等兵などの言い方がなくなったからです。軍楽科は各部ですから、これまでどおり軍楽上等兵でした。「船舶兵」というのは、もともと工兵科の中にありましたが、上陸作戦や太平洋の島嶼戦で輸送船に乗り組んだり、上陸用舟艇を操縦したりといった兵種です。

 偕行の記事で詳しく軍制を語られた山崎正男閣下は、「少年飛行兵学校を出た生徒は、卒業とともに兵役義務に服する少年飛行兵になる」と示されました。何のためにそんな規定があったかというと、「おそらく他の少年兵は伍長に任官するまで生徒の身分だけれど、少年飛行兵だけは、学校卒業と同時に兵役義務に服する少年飛行兵となることを明確にするためだろう」とおっしゃっています。その根拠として、第9条に、『上等兵とす』と規定してあることをあげておられる。なるほど、『上等兵の階級を与える』とはなっていません。

 しかも、操縦教育が始まるとすぐに「兵」になりました。他の少年兵たちが伍長になるまでは生徒であるのに、飛行兵だけは「兵役義務を果たす」存在でした。おそらく、これは、訓練中に殉職する悲劇が多く、そんなときにも「兵である」方が、有利な扱いを受けられたからではないでしょうか。


▼各種少年兵の進路の比較

 戦車兵、野戦砲兵、重砲兵、高射学校、通信兵の各学校の生徒たちは、年齢14〜17歳で、国民学校高等科卒業程度。また、陸軍兵器学校生徒は、年齢14〜19歳となっています。彼らは学校で2年、隊附下士官候補者として1年の後に各兵科伍長になりました。兵器学校(神奈川県淵野辺)生徒は課程が3年間と長くなっており、技術部伍長になりました。

 飛行兵だけは、年齢が14〜16歳とせまくなっています。そして1年間の少年飛行兵学校生徒の課程をおえると、「兵たる少年飛行兵」になり、宇都宮・熊谷では操縦、航空通信学校(水戸市郊外吉田村)、所沢・岐阜の整備学校で2年間の修業をし、6ヶ月の隊附少年飛行兵をおえて伍長になったのです。


▼陸軍兵器(工科)学校生徒だけは最後まで少年兵とはいわない

 1940(昭和15)年、勅令498号で、『陸軍工科学校を兵器学校に改める』とあります。新しい学校ができたわけではなく、名称変更がされたのです。ここでいう技術下士官ということが一般の方には分かりにくいと思います。軍隊は技術集団です。昔も今も、陸軍将校(陸自幹部)には工学博士もいましたし、現在の技術陸曹にあたる銃工長や、鍛工長、火工長といった技術下士官がいっぱいいました。

 技術部は各部の一つで、昭和15年から新設されました。それまで、現役将校の中で技術系といわれる将校たちは、砲兵、もしくは工兵の出身でした。名称の起こりは不明ですが、「帝国大学工学部員外(いんがい)学生」として学んだり、大学院も出たりしました。他には帝国大学の理工学部を出て入隊する人もいました。

 これに対して下士官たちは工科学校で教育を受けていたのです。
 明治5(1872)年、東京の砲兵工廠の中に、「諸工伝習所」がおかれます。内容は四つに区分されていました。火工(3年)、銃工、木工、鍛工がいずれも4年間の履修です。これがのちに、砲兵工科学舎になり(明治23)、明治29年には砲兵工科学校になりました。砲兵がとれて工科学校になるのは1920(大正9)年のことです。

 少年兵といえなかったのは、現役兵の中からも満23歳未満なら受験できたこと。そして、19歳までが受験年齢だったこともあります。


▼特別幹部候補生

 戦争中の特例としての「特幹」です。この制度を初めて知ったときには、その字面(じづら)から見て、「予備役」のことだろうと思いました。というのは、陸軍では現役将校になる人は「士官候補生」、予備役幹部になる人は「幹部候補生」というのです。だから、制度を報じたマスコミの記事などに違和感をもちました。
 たとえば、1943(昭和18)年の12月15日の『朝日新聞』には、「陸軍に特別幹候生 1年半で優秀な下士官を養成」とありました。また、1945(昭和20)年の新聞には、浦田耕作氏(昭和19年採用)によれば、「この制度が単に下士官のみの養成機関であるかに誤解している向きもあるが、実際には採用後1年半で伍長に任官、そのうち中等学校卒業者または特殊技術所有者中の優秀者はただちに軍曹に任官、その後、累進して軍曹、曹長、准尉の階級にある者には、己種学生の受験資格を与えられ、最も早い者は4年くらいで少尉に任官できる」と書いてあったというのです。中学卒業から4年で少尉とは、陸士卒にも負けないくらいのスピードになります。

 勅令をみてみましょう。『陸軍現役下士官補充及服役臨時特例(昭和18年922号)』があります。それによると、「当分ノ内……補充スルコトヲ得」とあり、やはり、「当分の間の」臨時特例であり、「得」とあることから、「できるよ」という意味でもあるのです。そして、やはり「服役は特別幹部候補生に採用せられた月の1日から起算して2年に満つる日まで現役、その後は予備役に編入」。やはり、予備役だったのです。もっとも、「引き続き現役に服したい者は陸軍大臣の許可を得ればよい」ともあります。

 勅令992号には、第4条として、「採用と同時に……兵籍に編入す」とあり、「入隊または入校と同時に、1等兵を命じ、その後おおむね6ヶ月後に上等兵、そして6ヶ月後に兵長に進級せしむ」とあります。正規の階級ですね。少年兵たちのように、生徒である期間はまったくありません。似た年齢であるから、学歴指定なども似ていますので、海軍の飛行予科練習生などと比べるむきもありますが、制度的にはまったくちがうのです。海軍の予科練は現役下士官養成でした。


▼苦労した下士官確保

 陸軍は慢性的に下士官不足でした。処遇がよくない、社会的地位が低いなどが、その理由だったのではないでしょうか。伍長、軍曹では結婚もできないし、外出も不自由。給与も低いなどの具体的な例が、昔の文書などには残っています。
 そこで、陸軍は、軍事技術者である下士官を確保するために、少年兵制度を考えました。当時の、貧しいけれど勉強したい。学校には進めなかったけれど、立身する道はないだろうか。そういう若者たちの希望の受け皿が各種の少年兵でした。

 飛行兵だけは操縦教育が始まるとすぐに「兵」にしました。殉職したときに「生徒」の身分ですと「賜金」が貰えないのです。また、戦後になって、軍人恩給の算定では、生徒の期間は軍人(戦力を構成する)であったわけではないので、陸軍士官学校の生徒と同様に、恩給の対象になる勤務期間にはなりませんでした。






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◆荒木肇経歴
1951年、東京生まれ。横浜国立大学大学院修了(教育学)。横浜
市立学校教員、情報処理教育研究センター研究員、研修センター役員
等を歴任。退職後、生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉
専門学校講師、現在、川崎市立学校教員を務めながら、陸上自衛隊に
関する研究を続ける。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年
間を通して、陸自部隊・司令部・学校などで講話をしている。


◆主な著書
「自衛隊という学校」「続・自衛隊という学校」「指揮官は語る」
「自衛隊就職ガイド」「学校で教えない自衛隊」「学校で教えない日
本陸軍と自衛隊」「子供もに嫌われる先生」
いずれも並木書房刊 http://www.namiki-shobo.co.jp/
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| 戦争 / 自衛隊 / 荒木 肇 先生 |
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 荒木肇   『歩兵聯隊の動員計画」と火力装備−(下)』
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           荒木肇
『歩兵聯隊の動員計画」と火力装備−(下)』
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□おわび
 コメントでご指摘を受けましたように、「済々黌(せいせいこう)」と「修猷館(しゅうゆうかん)」について、その位置を逆にしてしまいました。見落としでした。正しくは、福岡が「修猷館」、熊本が「済々黌」です。まことに申し訳ありません。卒業生の知人からもお叱りを受けました。


■はじめに

 前回で少尉、あるいは中尉が指揮する歩兵小隊は4個の分隊に分かれることを書きました。そのうちの1個分隊は、分隊長以下12名、重擲弾筒(じゅうてきだんとう)3筒(とう)を装備しました。この重擲弾筒こそ、日本陸軍のオリジナリティそのものです。列国には、この装備はありませんでした。南方の島の戦いで、この兵器をみたアメリカ軍は、これを「ニー・モーター(膝撃ち迫撃砲)」と呼んだようです。

 それは、筒の最下部には、地面にあてて発射反動を支えるための部品があったからです。まるで、膝上の太ももあたりにちょうどはまるような形をしていました。

 歩兵の戦闘は間合い(敵との距離)によって、主になる武器が違いました。射程の長さの順にいえば、歩兵砲中隊の山砲(41式山砲)が6,300メートル、次が92式重機関銃の4,300メートル、92式歩兵砲の2,800メートル、99式軽機関銃の2,200メートルとなりましたが、これはすべて最大射程です。よく誤解があって、カタログを見て現実とはかけ離れた空想をされる方がいます。

 山砲はたしかに6,000メートル以上も飛びますが、まず当たらない。ねらった所には落ちにくい。もちろん、砲の数がたっぷりあって、砲弾もふんだんにあるというのなら、砲手たちの疲労も考えなければ、いくらでも撃つことができます。それをやや精密にしたのが、1次大戦で行われた「弾幕射撃」の考え方です。

 しかし、わが日本陸軍は、いつでも砲弾に不足していました。また、最大射程で撃つということは砲に大きな負担をかけます。だから、山砲の実用射程は、2,000から3,000メートルだったそうです。同じように、重機の弾丸は4,000メートル飛んだといっても、もっとも使われたのは600〜700メートル。軽機関銃も300〜400メートルくらいだったといわれます。そして、この89式重擲弾筒は、およそ600〜700メートルの位置に専用の榴弾を落とすことができました。


▼89式重擲弾筒(じゅうてきだんとう)

 陸軍は世界大戦(1914〜18)をみて、多くのことを学びました。機関銃陣地を射撃する平射歩兵砲、また、迫撃砲と同じような曲射歩兵砲です。平射とは弾道が直線に近い。わが歩兵の接近を阻止する敵の機関銃を狙撃する歩兵のもつ砲です。重量は89キログラム。馬に載せて運びました。砲尾にある閉鎖機は、垂直鎖栓(させん)式です。金属製薬莢(やっきょう)で一体化された37ミリの砲弾を、開いている口に入れると自動で閉まりました。発射すると撃ち殻(がら)薬夾は自分で飛びだしてきます。

 もう一つ、歩兵が装備する火砲がありました。11年式曲射歩兵砲です。迫撃砲のことです。世界大戦の塹壕戦では、敵の頭上から弾丸を落とすことが必要でした。そのためには、ゴルフのピッチング・ウエッジのように、弾丸を高く撃ちあげなくてはならない。世界大戦では大きく分けて2種類の砲がありました。1つはフランスのストークブラン社製の内部がツルツルの滑腔タイプ。もう1つはドイツ軍のライフリング(施条)されたタイプです。

 滑腔タイプは、砲弾の後部に、飛行を安定させるために「羽根」がついていました。施条タイプは、これまでの砲弾と同じです。どちらの命中率が高いかといえば、やはり、ドイツ式でしょう。砲弾の生産量が少なく、バカバカと大ざっぱに撃つことに抵抗があった日本陸軍は、当然、これを選びます。なお、「迫撃砲」というネーミングではなく、「歩兵砲」としたのは、迫撃砲は編制上で砲兵の装備、歩兵砲は歩兵大隊の直接支援火器であるということからです。

 これら両方の持ち味を統一できないか。そう考えて造られたのが92式歩兵砲です。これは、口径70ミリの専用砲弾を使う曲射も直射もできた小型砲でした。歩兵大隊に1個小隊2門が装備されました。これについては、詳しく後で述べます。

 さて、重擲弾筒です。世界大戦では各国とも、手榴弾がたいへん重宝がられました。すでに日露戦争では、両軍が爆薬を投げ合い、次には空き缶などに火薬を入れて手榴弾のような物ができました。正式に手榴弾ができたそうですが、実物が見つかりません。
 まず、手榴弾を遠くへ飛ばせないか。また、小銃から撃ちだせないかと考えました。手榴弾を遠くに飛ばすために開発されたのが「擲弾銃(てきだんじゅう)」でした。問題は重い500グラムほどもある手榴弾を小銃で撃ち出したら、小銃が壊れてしまう。それなら、専用の「筒」を造ったらどうか。これが擲弾筒です。

 89式に重がつくのは、10年式擲弾筒があったためです。10年式は手榴弾を飛ばすものでした。89式は専用の89式榴弾(りゅうだん)を使いました。この榴弾は、重さが800グラムでした。弾底には発射薬がついていました。しかも、弾着精度をあげるために内部にはライフリングがされていて、TNT火薬150グラム入り、着発信管(固いものに当たると発火する)つきの榴弾を回転させながら飛ばします。最大射程は670メートルとあります。

 3つに分解できました。陸自の武器学校(茨城県阿見町:土浦駐屯地)の広報館には実物が公開されています。榴弾の底部を見ると、発射薬はうすい銅板(今は安全上、外されています)に覆われていたらしく、発射時にはこれが広がって筒身内部のライフリングに食いつきました。なかなかに巧妙な仕組みです。半径10メートルに加害できたというので、けっこうな威力の小型砲といっていいでしょう。
 擲弾筒手と弾薬手2人、それぞれ18発ずつ運んだそうです。つまり、0.8キロ×18ですから14.4キログラム。擲弾筒分隊はこれを3筒もっていました。筒手は筒だけをもちましたが(拳銃武装をしたらしい)、他の兵は歩兵銃も担いだわけでした。なお、筒の重量は4.7キロ。

 1個小隊には3筒、中隊には9筒、大隊には36筒、聯隊全部では108筒にもなりました。1分間には3発の投射が可能でしたから、硫黄島のアメリカ兵も苦しめられた記録が残っています。毎分324発、重量にして259.2キロの発射弾量です。戦争映画には、まず出てきませんが。どうしてでしょうか。おそらく、撃たれた側にすれば、迫撃砲と区別がつきにくかったかも知れません。


▼MG(機関銃)中隊の編制と装備

 歩兵大隊にはMG中隊がありました。MGとはドイツ語の「マシーネ・ゲベール」、英語ではマシン・ガンです。この中隊はもっとも人数が多い。
「敵性語」の追放で、帝国陸軍は英米語を使わなかったなどといいますが、あれも大げさにいわれてきたようです。MGはドイツ語でしたから、同盟国の言葉であり、敵性語には入らないと思いますが、自動車隊でも、ハンドルはハンドル、アクセルはアクセルでした。「転把(てんぱ)」とか「噴射践板(ふんしゃせんばん)」などと強制されたという人もいますが、部隊や現場で、いつでもどこでもそうかというと眉ツバです。

 中隊には223人もおりました。それもそのはずで、中隊は重機関銃12銃(陸軍では挺とは数えない)を装備する「戦銃隊(せんじゅうたい:3個小隊)」と自動砲小隊(2個分隊)、さらに弾薬小隊(3個弾薬分隊)に分かれました。

 92式重機関銃は、口径6.5ミリの3年式重機関銃の次に制式化された装備です。小銃が増口径化(6.5ミリから7.7ミリへ)する前に、重機関銃は1932(昭和7)年に7.7ミリ化に成功します。日本陸軍の銃器研究家の第一人者であられる須川薫雄氏(陸自武器学校展示館顧問)の名著『日本の機関銃』によれば、重機関銃の用法は次のように分類されます。
1) 危険地域。敵の身長より低い高度で直進する弾丸は、敵の前進を防いだ。
2) 集束弾道域。中間地点で、弾丸が上下のばらつきを生む地点では、縦長の楕円形の弾痕が生まれた。
3) 被弾帯。距離が遠いと、弾丸の落下角度が急で、被弾帯は円形にまとまった。固定された精度の高い機関銃は、射手が見えないところでも命中精度が高かった。

 92式重機の弾丸は重く、横風の影響も少なく、しかも低く伸びたので連射されたら接近はずいぶん危険だったといいます。また、重量があり、(三脚架つきで五五・三キロ。銃本体は二八キロ)発射反動も十分吸収するので、弾丸はよくまとまり、弾着しました。連発した弾丸がばらつくのは、要するに発射反動が収まらないうちに次の弾丸が出るためです。
 サイパン戦を描いた『ウィンド・トーカーズ』で、ニコラス・ケイジ扮する軍曹がサブ・マシンガンを連射します。威力が弱い拳銃弾をばらまくSMGがあれほど使えるなら、全軍、あれを装備すればいいのです。あの映画を観た若者が電車の中で、『バカだよな、日本軍て。小銃なんてガチャガチャやってさ、あれじゃ負けるのは当たり前だよ』などと言っていましたが、映画では歴史は学べません。

 特徴的なのは、銃弾の装填方法です。金属リンクを使ったり、布帯(布ベルト)を使ったりした列国に対して、うすい真ちゅう製の「保弾板」を使いました。今も残る写真には、機関部の左横から突きだしている保弾板と弾丸を見ることができます。ホコリがひどく、雨が降れば泥だらけになるアジアでは、金属リンクや布帯では、ねじれたり、いたんだりしたことでしょう。
 保弾板の一連には30発が組みこまれ、重さは実包(薬莢と弾頭がついて発射できる状態にある弾丸)が815グラム、保弾板が120グラム、紙函75グラムで合計が1,010グラムでした。頑丈な弾薬箱には20連=600発が入り、その総重量は30.043キログラム。2箱を駄馬の背に振りわけて運びました(並木書房『日本陸軍兵器資料集』ミリタリー・ユニフォーム・シリーズに詳しくかかれています)。

 さて、機関銃の用法です。有名な銃器史研究家でもある某先生は、『南京の大虐殺は機関銃で撃ったのだ』とおっしゃっています。銃砲史の研究家なのに、ウソをついていると思うのです。それは拙著『静かに語れ歴史教育』(出窓社)でも書きましたが、機関銃や小銃ほど「人を殺す」という機能だけでいえば、不経済かつ、非効率なものはありません。もし、知っていてのウソつきではなく、ほんとうに2日間で30万人もの人を機関銃で殺したと信じているなら、その大先生は運用というものを考えていないと思います。
 このころ、重機関銃はたいへん高価な兵器であり単価は2,000円もしました。軽機関銃が1,200円、小銃が35円と比べると、その貴重品扱いもうなずけます(昭和18年の価格)。しかも、少しでも大切に使わないといけません。替え銃身だって高価なものでした。
 重機関銃は連射などするものではなく、点射といって3発から5発をていねいに撃ちました。30万人を殺すなど、何百、いや何千万発の弾丸が必要であり、またそれを運ぶことのどれだけの苦労が必要だったことでしょうか。

 前にも編制表から、10頭の駄馬がいれば、その馬糧運搬のためだけに3頭の馬が要ることを書きました。重機は予備銃身や、付属の部品類、その他を運ぶために1頭、弾薬600発を運ぶためだけに1頭の馬が必要でした。アメリカ映画『シン・レッドライン』の中で、密林の中で92式重機を4人で搬送する日本兵が出てきます。きつかった……と本物の経験者が話してくれました。戦争末期の歩兵の思い出話ですが、入営して検査を受けた。米俵をもたされて、肩まで担ぎ上げたら「MG中隊だ」といわれた。何とか持ち上げたら「軽機関銃手」、それ以下は小銃手だったという分け方をされたという人がいました。


▼世界最高性能の対戦車ライフル

 自動砲小隊は2門の口径20ミリ、97式自動砲をもっていました。これは対戦車ライフルのことです。制式の対戦車ライフルとしては、世界最高性能の折り紙がつけられています。半自動式、つまり、一発撃つごとに引き金を引きました。箱弾倉といって、大きな箱の中に、大きな弾丸がこめられます。ただし、排莢(撃ちがらをけり出す)や次発の装填はガスの圧力と発射反動を使いました。1分間に12発を撃てるとトリセツには書いてあります。
 これは、全長が2メートルをこす大型で重量級の兵器でした。重機関銃より重い59キロもありました。運用は1門あたり9人もの人手が要りました。距離700メートルで30ミリの鋼鈑を撃ちぬいたといいます。これは、第二次世界大戦で戦車の装甲が50ミリをこえるようになったところで、威力不足になりました。

 ところが、初陣のノモンハン戦では、ほとんど威力が発揮できませんでした。生産数が少なく、弾丸の補給にも不自由したせいでしょう。しかも、見通しの良いところでは、ソ連軍の45ミリ戦車砲に制圧されたのではないかと思います。
 そこで生産が打ち切られますが、大東亜戦争の末期、生産が再開され、南方に多数が送られました。対魚雷艇や対戦車になんとか役に立ってくれという思いだったのでしょう。有名な村上兵衛氏の思い出の中にも自動砲が出てきます。氏が隊附候補生になったのは、近衛歩兵聯隊だったようですが、九段(現在、武道館があるところ)の堀端の訓練場で、この自動砲の操作を教えられたとありました。


▼92式歩兵砲−大隊砲といわれたミニ大砲

 重擲弾筒のところで、平射も曲射もできる大砲として「大隊砲」にふれました。口径は70ミリ、歩兵大隊の中で歩兵砲小隊として2門がありました。口径75ミリの41式山砲は歩兵砲大隊の装備です。これは聯隊砲といわれました。砲兵の装備する分解可能な山砲のことをいいます。

 92式歩兵砲は、ドイツの歩兵随伴砲をモデルにしました。わが国の、戦場を映した写真や記録映画の中でもしばしば登場します。砲身が短いので、バン!という強い音がしています。車輪は鉄製で、穴があいて軽量化の工夫がされていました。弾丸口径は70ミリで、弾丸重量は3.79キログラム、加害半径最大射程は2800メートルといわれます。もっとも、砲身が短いので命中率はあまりよくなかったようです。


▼歩兵砲大隊(人員311名、輓馬52頭)

 歩兵砲大隊(人員311人)は二個中隊、つまり、口径75ミリの山砲を装備する中隊と、口径37ミリの速射砲をもつ中隊でできていました。歩兵砲中隊は戦砲隊(せんぽうたい、2個小隊4分隊、合計4門)と弾薬小隊(4個分隊)でできています。観測車、弾薬車8両をもち、弾薬小隊は弾薬車12両、器材車、器材予備品車4両と予備馬をもって准尉が小隊長。5個分隊にすると編制表にあります。

 聯隊砲の41式山砲は、もともと山砲兵の装備でした。山砲とは、分解して駄載(馬の背に載せる)に積むことができる大砲です。弾丸は野砲と同じですが、火薬量を少なくしてあります。それは、軽量化するために強度を落としてあるからです。だから、当然、射程は野砲に劣ることになりました。当時の輓馬の駄載能力はようやく100キログラム。砲身だけで1頭が必要、全部で6頭の馬で運びました。総重量は539.5キログラムです。

 歩兵の装備に山砲を加えることは、満洲事変(1931年)で生まれたアイデアでした。チチハルを攻略した第2師団が、鹵獲(ろかく)した山砲を歩兵聯隊に預けてみました。歩兵聯隊長が使ってみると、たいへん良かった。なんといっても75ミリです。これまでの歩兵砲の70ミリと比べれば、30%以上の炸薬量(砲弾内部につめられた火薬)と、倍近い射程が好評でした。

 砲兵は新式装備として94式山砲が生産され始め、旧式になった41式は次々と歩兵聯隊に引き渡されていきました。なお、野砲との違いは、その閉鎖機でした。軽量化するために、野砲の自動鎖栓機(垂直に厚い板がおりる)ではなく、螺式(らしき、片側にちょうつがい式のピンがあり、手動で開閉する)を採用しました。それは、同時に、完全弾薬筒(金属製薬莢と弾頭が一体化している)ではなく、弾頭と薬筒(やくとう)を別々に装填することになります。もっとも、装薬(発射用火薬)が少ないので、その方が良かったのですが。結果、自動で排莢してくれる野砲よりも発射速度が遅くなりました。


▼速射砲中隊(人員106名、輓馬17頭)

 戦砲隊(2個小隊)と弾薬小隊に分かれ、37ミリ対戦車砲、弾薬車4両、予備品車1両。弾薬小隊は弾薬車6両、予備馬若干、准尉を長として2個分隊になりました。
 この16年度の37ミリ対戦車砲とは、今も武器学校で見られます。低い姿勢の、いかにも精悍な大砲です。1933(昭和8)年、陸軍技術本部は近い将来の対ソ連戦を考えていました。ロシア戦車の装甲がいずれ30ミリになるという情報から、これを撃ちぬく対戦車砲の開発を始めます。

 ドイツのラインメタル37ミリ砲を参考に、重量328キロ、射程2,870メートル、初速700メートル毎秒の砲を造りました。ラインメタル砲と比べると、ちょっと性能が落ちました。それは、砲身の冶金技術に遅れをとっていたからです。また、部隊側からは、分解して駄載できるようにという要望がありました。またまた軽量化です。しかし、道路が整備されていない大陸の戦場では、馬で引っぱるのも大変でした。馬に載せる、それも駄目なら人が引く、あるいは担ぐ。昔の人はどれほど頑健だったことでしょう。


▼聯隊の総人員は

 こうして人員合計は4,487人、馬が合計927頭にもなりました。もちろん、通信中隊142名、馬25頭もふくめた数字です。通信中隊は電話機20個、被覆線30キロメートル分、5号無線機5個、6号無線機12個をもっていました。中隊は2個小隊、小隊は6分隊に分かれています。

 まとめておきましょう。聯隊は3個歩兵大隊、1個歩兵砲大隊と通信中隊で構成されました。合計12個歩兵中隊、3個機関銃中隊と3個歩兵砲小隊、歩兵砲中隊と速射砲中隊がそれぞれ1個でした。
 火力は重機関銃36銃、70ミリ歩兵砲と20ミリ自動砲が各6門、75ミリ山砲が4門、軽機関銃が108挺、重擲弾筒108筒、他小銃およそ3,500挺となります。

 対ソ連戦に備えた戦闘師団の1個聯隊の実力はこうなりました。なお、レイテで戦った歩兵第1聯隊の職員表(幹部=下士官以上のポストに人名が付されたもの)をみますと、まさに、このとおりの編制になっております。装備はもちろん、7.7ミリの99式小銃と、99式軽機関銃、92式重機関銃でした。大岡昇平氏の名作『レイテ戦記』には、『38式歩兵銃の銃声と野砲の響きが再現できたら』と書かれていますが、第1師団は少なくとも7.7ミリの重い銃声と、重擲弾筒の響きをとどろかせていたのではないでしょうか。







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◆荒木肇経歴
1951年、東京生まれ。横浜国立大学大学院修了(教育学)。横浜
市立学校教員、情報処理教育研究センター研究員、研修センター役員
等を歴任。退職後、生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉
専門学校講師、現在、川崎市立学校教員を務めながら、陸上自衛隊に
関する研究を続ける。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年
間を通して、陸自部隊・司令部・学校などで講話をしている。


◆主な著書
「自衛隊という学校」「続・自衛隊という学校」「指揮官は語る」
「自衛隊就職ガイド」「学校で教えない自衛隊」「学校で教えない日
本陸軍と自衛隊」「子供もに嫌われる先生」
いずれも並木書房刊 http://www.namiki-shobo.co.jp/
2009-10-24 01:05 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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陸軍史あちらこちら−(32)『歩兵聯隊の動員計画」と火力装備−(上)』
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【特別号】 陸軍史あちらこちら−(32)              荒木肇
『歩兵聯隊の動員計画」と火力装備−(上)』
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□ご挨拶

 すっきりとした秋晴れが、なかなか見ることができません。ただ、そのおかげで助かっていることもあります。秋の陽射しはけっこう強いものです。
 近頃では、各地の陸上自衛隊の創立記念日が行われています。晴れ上がっての記念式典。そこに参列させていただくと強い陽射しにつらい思いをすることが多い。薄曇りくらいですと、式典の間整列される隊員のみなさんの負担も、少ないのではないかと思います。
 先日は東北、仙台の方面総監部の記念行事にお招きをいただいたところです。式典、行事は広大な霞の目飛行場で行われました。そこは市内の総監部から車で15分くらいにあります。ふだんは方面航空隊や輸送隊などが駐屯しているところです。

 案内して下さったのはT幕僚副長。長身の高射特科(砲兵)ご出身の若い将軍ですが、全国五つの方面総監部の中では、こうした広い会場があるのはただ一つとおっしゃっていました。
 たしかに、市街地のまっただ中にある北方(札幌)総監部、練馬区大泉の東方、兵庫県伊丹市の中方、熊本市内の西方の各総監部などの環境に比べれば、アトラクションの訓練展示も十分、ゆとりをもって行うことができます。

 空自の松島基地から5分で飛んでくるF2支援戦闘機、八戸からも海自のP3Cがやってきます。大・中型ヘリの編隊飛行も見物です。祝賀会食には格納庫があてられますから、多くの方々が隊員手作りの料理や、東北名物の芋煮を楽しめる。そば、うどんなどの模擬店も賑やかでした。

 今回の訓練展示は、久しぶりに見る大きな戦闘訓練でした。戦車、対戦車ヘリコプター、野戦榴弾砲の支援を受けた増強普通科(歩兵)中隊が、空挺降下した部隊の協力を得ながら、戦車などで守られた敵陣を攻撃するシーンです。
 ヘリからのドアガン(12.7ミリ重機関銃)によるドンドンドンという重い響き、戦車の車載機銃のバリバリバリという豆を煎るような軽快な射撃音、耳をつらぬく戦車砲のドンという轟音。空に突きぬけるような野戦特科のFH70の斉射。久しぶりに火力のすごさを目の当たりにし、機甲科かと一体になった普通科部隊の突撃の勇ましさに、頼もしい思いをしました。

 同時に、こうした厳しい環境の中で訓練に励む隊員のみなさんに感謝の気持ちでいっぱいになりました。それは環境というような易しい言葉ですむようなものではありますまい。
 空挺隊員も高度1000フィート、わかりやすくいえば、東京タワーのてっぺんから降下します。ヘリのパイロットによる「コウカ!コウカ!コウカ!」という緊張した声も、そのまま場内に放送されました。次々と開く落下傘。地上ではほとんど無風でしたが、ちょっとでも風があれば、その着地の危険は大きく増していくということです。

 祝賀会食では、東北選出の国会議員の方々が挨拶に立たれました。その中で、一人の若い議員のご挨拶には、少し鼻白むものがありました。災害派遣への期待ばかりを、何度もいわれるのです。自衛隊が役に立つのは災害の時の活躍ばかりのように聞こえました。
 今、目の前で起きたことの何を見ておられたのだろうと思うのは私だけではなかったことでしょう。会食にはインド洋対テロ給油活動、アフリカの海賊退治でなお、仲間が活動継続中の海自の隊員たち、それらを陰で支える空自の隊員たち、警備に出かけている陸自の隊員たちが加わっているのです。そのことへの感謝の言葉もなく、ただひたすら宮城県沖地震のこと(もちろん、大切なことでありますが)ばかり語るM党の議員さん。

 佐藤正久参院議員のご挨拶が白眉でありました。国益とは何のことなのか、自衛官の活動が何につながるのか、どういう存在価値が自衛隊にあるのかをていねいに解説されました。『自衛隊は強くなければなりません』との御言葉が印象的でした。もちろん、現場で働く隊員諸官、支える組織の皆さんへの感謝の言葉を忘れずに。広い格納庫の天井までひびく拍手が鳴りやみませんでした。それを並んで聞いたM党の議員さんはどう思われたのでしょうか。まさか、ふん、身内褒めをして、などとは思われなかっただろうことを願います。


▼はじめに

 旧陸軍の火力のことです。司馬遼太郎先生や、半藤一利先生などにより、すっかり定着した陸軍2流装備伝説。『日露戦争の頃には装備は一流、昭和に入っては二流、三流』という定説がすっかり広まっています。
『カチャパン(手動装填式)ばかりの小銃だけで戦ったからだめだ』という言い方もずいぶん、国民の常識化しているようです。ガダルカナルでもニューギニアでも、自動小銃、機関銃のアメリカ兵に肉弾で銃剣突撃した日本兵というイメージは大きなものでしょう。

 以前、NHKのガダルカナル戦の特集でも、「こんなに長い」とか、「M1と比べると連射できない」などと批判されていたくらいです。こんなに技術軽視だったとまとめられるのが常になっています。
 そうした主流の考え方に逆らうようで恐縮ですが、今回は、残された史料の数々から歩兵聯隊の編制を再現して、その中で歩兵の兵器についてみてみましょう。読者の方からいただいたコメントにも、部隊などの編成を載せてほしいというご要望もありました。今回、ご紹介するのは、『歩兵聯隊(甲)編制表』です。

 編制(ヘンダテ)と編成(ヘンナリ)は少し意味が違います。どちらも「ヘンセイ」と読みますが、陸軍では(いまの陸自でも)、「ダテとナリ」は厳密に使い分けました。
 まず、編制とは、当時、勅令によって定められた永続性のある部隊の組織をいいます。編成とは、ある目的のために決められた編制をすること。もしくは、臨時に部隊を編合(へんごう)し、組織することをいいます。

 陸軍では、複数の軍隊(この言葉は総称ではなく、官衙、学校、特務機関と区別する戦闘組織をいう)を組みあわせるとき、軍令で定めるものを編組(へんそ)といいました。この一時的なものを軍隊区分といい、指揮命令関係はありますが、隷属関係はありません。隷属とは、人事までもふくむ上意下達の組織の関係を表す言葉です。ただし、戦時に、勅命による作戦軍の編組は「戦闘序列」といい、軍隊間に隷属関係が発生しました。

 これらの言葉は、戦後、旧軍関係者でも、ときに正確に使い分けないことがあります。それは、軍制や軍法についても、たいていが無関心であること。私たちの中に、どうも制度や組織について、根元的なことに考えない習慣があるからではないでしょうか。
 体験者でも誤解をもったままに書かれていることもあります。戦史や軍隊史に興味をもたれるとき、話者や著者が陸軍経験者だからといって鵜呑みにすると危険があるゆえんです。


▼昭和16年度動員計画「歩兵聯隊(甲)編制表」

 師団には甲師団や乙師団という分類がありました。ひらたくいうと、戦闘師団と警備師団、あるいは治安師団などという分け方です。歩兵聯隊(甲)は、3単位制戦闘師団の歩兵団を構成する3つの歩兵聯隊のうちの1つです。

 では、以下、数字が多くなりますがご勘弁ください。
 まず、聯隊本部の人員と馬の数です。
 聯隊長以下、209名(以下略)、乗馬27頭(同前)、輓馬103頭(同前)になります。聯隊長は大佐、もしくは中佐。少佐が1。兵器掛(へいきがかり)大尉もしくは中尉1。同じく副官1。暗合掛、少尉もしくは中尉1。瓦斯掛(ガスかかり)同1、聯隊旗手少尉1が将校の定員です。乗馬があるのは、佐官以上と聯隊副官の計3頭。聯隊旗手の少尉は副官の助手をかねており、暗合掛将校は情報主任ともいわれていたようでした。ガス掛は、対毒ガス戦用の教育を(この当時は「習志野学校」で行っていた)受けていた将校です。また、将校の中には、輜重兵少尉、もしくは中尉1名がいました。また、軍医・主計・獣医各部の大尉と同少尉が1名ずつ。主計大尉と同少尉もおりました。下士官も数多く、獣医務、技術系下士官もおります。兵隊は29。

 歩兵大隊は3個。大隊本部は人員223。乗馬18。輓馬46。駄馬84。
 各大隊には4歩兵中隊と1機関銃中隊と1歩兵砲小隊がありました。歩兵中隊は人員190。大尉もしくは中尉の中隊長が1。中・少尉が3、准尉と曹長が各1。軍曹、伍長の下士官が18、うち、兵器掛兼瓦斯掛、給養掛、連絡掛が各1名ずつ。兵162、合計186に衛生兵4で合計190になりました。この中隊は3小隊に分かれ、小隊は4分隊、第1から3までは長以下13名。軽機関銃1と小銃11挺、第4分隊は長以下12名、重擲弾筒3と小銃9挺でした。

 このとき(昭和16年度)の軽機関銃は99式7.7ミリ口径です。わが国は、傑作小銃38年式歩兵銃、同騎兵銃(6.5ミリ)を使い続けてきましたが、世界各国の動静や、中国戦線でドイツ製モーゼルの7.92ミリに撃ち負けない銃弾を望む声におされて、とうとう7.7ミリへの増口径化に踏みきりました。まず製作されたのが99式「小銃」です。

 よく米軍のガーランド(M1ライフル)が開発されたことと比べて、1939(昭和14)年にもなって、まだ手動装填式を採用したことを、そしる声があります。それが、戦後の神話となって、旧陸軍の精神主義や技術軽視体質を非難するのが流行しました。いや、いまだに、「だから駄目だったのだ」というのが常識でしょう。

 しかし、一国の主力小銃の決定という問題は、想定される戦場や、そこでの使われ方を考えた上でのことだという認識がなければなりません。また、兵器産業を支える国家全体の技術水準や、自動装填式(引き金をひくごとに、次の弾丸が装填される)小銃の採用から予想される小銃弾の使用量の増大や、補給力の整備に耐えられるかといったさまざまな条件を考えての決断という側面もあります。それらを検討した上での総括、非難だったのでしょうか。いや、それは、絶対にちがいます。
 経験者やら誰やら、マスコミや文化人が、無責任にいいふらした浅薄な戦前社会批判、軍隊非難のデマだったのです。
 では、技術軽視でも、白兵大好きでもなかった陸軍が、自動小銃を採用できなかったわけについて考えてみましょう。

1)陸軍が想定した主戦場は、泥とホコリにまみれる中国大陸でした。すでに38年式歩兵銃、騎兵銃には、機関部に「遊底覆い」というカバーがつけられていたくらいです。大陸の砂塵は細かく、精密な機関部に入りこみ、装填動作がうまくいかなかったという実戦談がたくさん残っています。
 そんな環境で自動銃は完全に動いたでしょうか。戦後、20年あまり過ぎたベトナム戦争でも、アメリカ軍のM14自動小銃は、しばしば故障したといいます。湿気が高く、泥が多かったベトナムの戦いでM16ですら、当初はトラブルが続いたそうです。

2)新型銃には38年式を超える機構が当然、要求されました。新型の機械は、つねに進歩していなければなりません。小銃でいえば、より軽く、よりシンプルに、それでいて強度が高くなければならないのです。軽いことは執銃者、ヘイタイさんの負担を少なくしました。『長い行軍をして、紙1枚でも捨てて歩きたかった』という主計将校の手記を読んだことがあります。
 構造がシンプルであることは手入れの手間を少なくしました。銃は1発でも撃ったら、分解して掃除をしなくては、ならなかったのです。強度が高くなければ、より速い弾丸を撃ち出せません。
 開発者にとって大変だったのは、完成された手動式小銃だった38年式を超える機関部を造れという要求に応えることでした。おそらく、当時も現在も、38年式は世界でも類がないくらいシンプルで強度がある銃です。
 自動装填式は、当然、構造も複雑になりました。部品点数も多くなり、分解組み立ての手間も増えたのです。

3)小銃には、さまざまな付属品がありました。中でも主役は小銃弾です。昭和の初年に自動銃を開発した人たちの記録があります。実験すると、毎分あたりの発射速度は、自動銃12発くらい、手動銃7〜8発だったといいます。それほど大した差ではないことに驚く人もいますが、じっくりねらって撃つのが歩兵銃です。一部のアメリカの戦争映画のように、撃ちまくっていたら、それはほとんど当たっていない。まあ、限られた時間の中での弾丸密度を考えると、自動銃はやはり有利です。しかし、いざとなったときの、弾薬消費量はハンパなものではありません。おそらく、次々と乱射したら、1分間に50発や60発は撃ってしまうことでしょう。
 しかも、戦場の背後には兵站線が続きます。銃弾は内地の工場を出て、兵站倉庫に集められ、そこから港へ運ばれて集積される。船に積まれて港に着き、倉庫に運びこまれて、その後に長い旅を経て師団集積所に運ばれる。そこからは師団輜重の領分です。輜重兵は馬の背につけ(駄載)、補給車にのせ(輓曳)、人が背負い最前線に運んでいきました。弾丸や薬莢が増えたら、負担は大きく増えるのです。
 5発ずつ束ねられてクリップにまとまったタマをいれる弾薬盒。手入れ用具。オイル、予備部品、その他の備品など、すべてが38年式より高価になりました。小国の陸軍ならいざしらず、100万人単位の軍隊は、かるがると主要装備の変更などできるものではありません。


▼99式小銃

 99式小銃は歩兵銃ではありません。99式には、38式のような騎兵銃タイプ、銃身を切りつめて短小・軽量化したモデルがないからです。
 99式小銃のデータです。
 全長1,117ミリ(38年式の1,275ミリより約16センチ短い)。重量は3.7キログラム(同じく4.00キログラムより軽い)。初速730メートル毎秒(同760メートルより若干遅くなる)。
 弾丸を身につけるときには、前盒2つにそれぞれ30発、背中側の後盒に60発の合計120発でした。重量は1発で27.0グラム(38式実包より5.8グラム増える)だったので、全部で3.24キログラムにもなりました。銃が軽くなったかわりに携行弾重量が増えたのです。
 99式実包はもともと92式重機関銃の弾丸を利用しようとしました。しかし、威力が高い重機の実包では小銃にそのまま使えないので、火薬量を減らし(弱装という)たのです。弾丸には赤色の帯がまかれた一般弾、同じく黒の徹甲(てっこう)弾、緑の曳光(えいこう)弾、赤紫の焼夷(しょうい)弾がありました。つまり、6.5ミリ弾は軽量で、小さく、なかなか加工が難しかったので、各種の特殊弾がつくれなかったのです。

 99式は最後までには200万挺以上が製造されました。装備は戦闘師団、しかも対英米戦の先頭に立つ南方攻略の部隊から始められたようです。また、満洲に常駐した第1師団も持っていたといわれます。初期の製品は、たいへん美しく、実物をみても力強いデザインです。陸上自衛隊武器学校などに展示されています。
 38式を見慣れていると、太くて、強そうだなと思えるくらいです。仕上げもていねいにできていて、特徴は何より銃身内部にあります。美しいクロームメッキがほどこされています。ふつう消耗品の制式小銃には、そんなぜいたくはしないのですが、日本陸軍はちがいました。これで、銃身の命数(寿命)は大きく伸びました。小銃の生命というべき、内部のライフリング(弾丸に回転を与えるスジ)が、すり減ることが少ないからです。


▼99式軽機関銃

 小隊には4個分隊があり、3つが軽機関銃装備、1つが重擲弾筒(てきだんとう)装備でした。
 1930年前後、6.5ミリ弾で自動装填式小銃を開発していた陸軍は、ドイツやソ連がその採用をあきらめたことを見て、やはり……と胸をなで下ろしました。ある資料によれば、槓桿式小銃が30円余りでできたとき、自動小銃の見積価格は70円あまりとのことです。
 世界中でアメリカ軍だけが、1936(昭和11)年にM1ライフルを制式化しましたが、平時の米軍装備数はわずかでしたし、陸軍は中国戦線で戦っていたころです。まず、目の前のことからというのがふつうでしょう。

 歩兵用の小銃を7.7ミリ化するということは、分隊支援火器といわれる軽機関銃は同じ弾丸を使うのが常識です。これまで陸軍は96式という6.5ミリ口径の軽機関銃を使っていましたが、その制式化からわずか3年で、新型軽機を採用したのです。ただ、96式はもともと7.92ミリのチェッコ機関銃を模倣したものでした。頑丈にできていたのです。7.7ミリにするのは難しくありませんでした。

 チェッコ機銃というのは、チェコのスコダ社製の軽機関銃です。「ガス利用式」という、発射時に出る火薬ガスを利用して機関部を動かすタイプです。機関銃には、この他に「反動利用式」という精密な工作精度を必要とするタイプもありました。わが国の機関銃は、この高い精度を実現化できずに、重機も軽機もどちらもガス利用式でした。
 わが国の機械工業の弱点です。頭脳はすぐに追いつきます。だから、設計図はいつも完璧なものができました。日米や、欧州諸国との差は、技術力ではなくて、生産力や製品管理能力でした。なんとも出来なかったのが、金属加工、素材開発、冶金技術などです。

 戦争中にろ獲したり、見本を買って、すぐに真似をしたりしてみる。試作品ができてみると、どうしてか調子がでない。機関銃では連発がなかなかきかない。やっと、バリバリバリと撃ち始めると、すぐに薬莢がちぎれて次の弾丸が入らない。いったい、どこが悪いのだろう。技術者が首をひねっても分からない。これは、目に見えない百分の何ミリというような工作精度の問題でした。
 機関銃は連続発射をします。薬室(弾丸がぴったり入る空間)への薬莢の出入りは、発射時には密着し、発射後の抜き出し(抽出)時にはスムー
スに抜けなければならないという厄介なものです。

 次回は、この機関銃の詳細と重擲弾筒、そして機関銃中隊(人員223、駄馬48)について、その装備した92式重機関銃についてお話しします。






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◆荒木肇経歴
1951年、東京生まれ。横浜国立大学大学院修了(教育学)。横浜
市立学校教員、情報処理教育研究センター研究員、研修センター役員
等を歴任。退職後、生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉
専門学校講師、現在、川崎市立学校教員を務めながら、陸上自衛隊に
関する研究を続ける。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年
間を通して、陸自部隊・司令部・学校などで講話をしている。


◆主な著書
「自衛隊という学校」「続・自衛隊という学校」「指揮官は語る」
「自衛隊就職ガイド」「学校で教えない自衛隊」「学校で教えない日
本陸軍と自衛隊」「子供もに嫌われる先生」
いずれも並木書房刊 http://www.namiki-shobo.co.jp/
2009-10-24 00:34 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2009年10月15日(木)
本日、関西防衛を支える会(関防会)濱野晃吉会長の講演
大圓さんより教えていただいて、本日 参加します

大圓さんは、左翼が嫌いです。
大圓さんは、釜が崎で、個人で支援活動をされ続けています。

カトリックのシスターや 松浦補佐司教や本田神父も
御存じだということです。

でも釜が崎での、正平協の憲法9条の署名活動や
思想活動に疑問を抱いておられ、

一切 関わらず、個人で活動しているのです。
個人で、毛布や食べ物を配ったり・・・資金の面でも

たいへんな事です。

私は大圓さんを尊敬しています。 

もし、急きょいける方は、おつるにメッセージで ご連絡を

関西防衛を支える会(関防会)濱野晃吉会長の講演を企画しました。

毎月私が開催しています「いのちと出会う会」でお話していただきます。

お近くでお時間がありましたた、ぜひご参加ください。


『第90回「いのちと出会う会」 
10月15日(木)「命をかけていのちを守った日本の人々」』 

100年以上前に日本近海で遭難したトルコ軍艦エルトゥールル号の
乗組員を命がけで救助した日本の寒村の漁民たちの物語と、百年後の
トルコから恩返しの物語のDVD上映。
そして若手経営者をも感動させる特攻基地、知覧から飛び立った若者
たちの物語を語っていただきます。 

話題提供者: 濱野晃吉さん
関西防衛を支える会(関防会)会長
新しい歴史教科書をつくる会大阪会長
褐o営センター 取締役社長

時間:  18:30〜20:30 
参加費: 1000円(應典院会員700円)
場所: 「應典院」 1階右奥の左側研修室
〒543-0076 大阪市天王寺区下寺町1−1−27
(地・谷町9駅から西へ坂を徒歩8分) 
TEL06−6771−7641 FAX 06−6770−3147 

司会 石黒大圓
毎月第3木曜日開催(1、8、12月を除く)

できましたら、ご予約をお願いします。
例会後に同会場で懇親会開催。


濱野晃吉さん
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E6%BF%B1%E9%87%8E%E6%99%83%E5%90%89&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq= 
http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4ADBR_jaJP238JP240&q=%e6%bf%b1%e9%87%8e%e6%99%83%e5%90%89+;%e9%96%a2%e8%a5%bf%e9%98%b2%e8%a1%9b%e3%82%92%e6%94%af%e3%81%88%e3%82%8b%e4%bc%9a

トルコ軍艦エルトゥールル号の遭難
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%AB%E5%8F%B7%E3%81%AE%E9%81%AD%E9%9B%A3&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&x=wrt

【動画】エルトゥールル号の遭難

http://www.youtube.com/watch?v=WOY2BcsmdpQ&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=kRTrhXCQ3RA


「経営者の方は、一度知覧に行くといい」
http://blog.nishida-fumio.com/?eid=254420
http://smc-g.seesaa.net/article/88632471.html
http://blog.livedoor.jp/kigyouka/archives/50103362.html    
http://www12.plala.or.jp/endou27/20080820_25nishinihon.html


應典院HP
http://www.outenin.com/about/index.html 
應典院HPのなかの「いのちと出会う会」開催予定と趣旨、過去の開催記録(第1回〜)
http://www.outenin.com/otc/projects/inochi.html  
應典院へのアクセス
http://www.outenin.com/about/accessmap.html 
 


「いのちの風」通信「縁の花」支縁サイト
http://www.geocities.jp/ennohana/en20isiguroyosihiko.htm 

2009-10-15 17:36 | 記事へ | コメント(129) | トラックバック(6) |
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酒井信彦先生 ご講演

聖イグナチオ教会の抗議の日、

抗議団体の主権回復の会、西村修平さまと対話させて
いただいた時に教えていただきました。

主権回復の会の主張は 顧問であるこの酒井先生の
思いを反映したものです。

酒井先生とはお会いしていないので、お会いして
対話ができればと思います。

私は 講演会に参加します。

カトリック正義と平和協議会のみなさん、
大阪のカトリックのみなさんも、

今回の、聖イグナチオ教会の件について

何かご意見や 謝罪、要望があれば 

講演会に行かれるといいと思います。

大阪の正義と平和協議会の拠点からすぐでしょう。

クリスチャンに必要なことは、隣人との対話。


主権回復を目指す会 関西支部発足のお知らせ

<発足記念講演とデモ行進>

この度、主権回復を目指す会は満を持して関西支部を発足します。支部長に中谷辰一郎を、荒巻靖彦を事務局長の体制で、
曲学阿世に陥らない道理を立てた正義を貫く<『語る』運動から『行動する』運動へ>を関西地区において展開します。その基
本理念は大和魂という民族精神の誇りを以て真の国家主権を回復することです。

<『行動』する運動>を進める当会の理論的支柱である酒井信彦先生と、運動推進の支柱である西村修平代表を関西にお
招きして現下のわが祖国を語って頂くと共に、在日シナ・朝鮮人の不逞を糺すデモ行進を行います。乞う!多数の御参加を。


【告知動画】<そこの朝鮮人 竹島を返しなさい!>
http://www.youtube.com/watch?v=hz5Ip-I1YFk

◆ 講演会

演題『民主党政権で推進される

日本民族の抹殺政策

―民族が滅亡すれば

国家の再生はあり得ない―』


日時:平成21年10月16日(金) 18:00会場 19:00開演

講師:酒井信彦(主権回復を目指す会顧問 元東京大学教授)

会場費負担金:千円

場所:大阪市立生涯学習センター(06-6345-5000)
大阪市北区梅田1−2−2−500 大阪駅前第2ビル6F


◆デモ行進

「朝鮮人に警告する!竹島を帰せ 対馬への侵略を止めろ」デモ行進


日時:平成21年10月17日(土)14:00集合 14:30出発

場所:東小橋北公園 JR環状線玉造駅東側スグ

主催:主権回復を目指す会関西支部
協賛:在日特権を許さない市民の会・関西

連絡:中谷(090-6600-7951)荒巻 (080-3802-0900)

※雨天決行 プラカードの持参歓迎
※両日とも懇親会あり

2009-10-15 17:02 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(3) |
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2009年10月14日(水)
●聖イグナチオ 主権回復の会とカトリック (動画)D
今回の抗議行動された主催団体の動画、抗議の様子です これを見て、胸が痛むのならば、心あるならば カトリック正義と平和協議会は、傷つけられた日本人に対して そして聖イグナチオ教会に対しても、謝罪してください! 声明を出してください!                                      (1/4)反日の拠点・聖イグナチオ教会を許すな! 靖国をマッカーサーの焼き討ちから救ったビッター神父様のこと、上智大学の学徒出陣の事、ローマ法王庁に従うべきだということ (2/4)反日の拠点・聖イグナチオ教会を許すな! (3/4)反日の拠点・聖イグナチオ教会を許すな! (4/4)反日の拠点・聖イグナチオ教会を許すな!
2009-10-14 00:06 | 記事へ | コメント(9) | トラックバック(2) |
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