<初回監禁は監禁らしくない環境で>第1回拉致監禁をなくすための集い─連載第02回
今回は別表1994年5月の項を参照してください。
司会:
ありがとうございます。それではお母さんですね。辞めたはずの麻子さんが統一教会に入っていた。それがわかったとき、その瞬間、教会のイメージとか、何か不安とか、教会のイメージはどんなものでしたか。お母さん:
親戚の方に相談して、その後いろんなことで変わったと思いますが、一番最初のお母さんのイメージはどのようでしたか。
私は麻子が辞めると言ったのを、信じていたのです。親戚の人には娘は辞めてないよと言われても、そんなことはないと、辞めていると信じていたのです。司会:
ところがまた麻子が、もう一度また統一教会に行くと言い出した。「行っていい?」って言ったから、びっくりしたのです。
統一教会は、悪いところだ、給料を全部とって働かせたりするところだ、と聞かされていました。献金以外にも貯金とかなんとか、みんな出しているみたいだとか分かった時に、「これは困ったなあ」という感じがしたのです。
それでまた、麻子に内緒で親戚の者と話し合いました。
近所の教会に相談に行ったこともあったのです。そこの教会の牧師は鍵をかけてはいけないと言われました。反対派ではない人ではなかった。
でも、親戚の提案で、親戚が所有する山中湖のマンションに麻子を入れて、説得することにしました。
私は監禁するという気持ちは、毛頭ないものですから、私がもう疲れて話すのが嫌だと感じたら、それじゃ一緒にみんなで買い物に行こうよとか、今日は散歩に行こうとか、監禁らしくないことをしていました。
私は監禁するということ自体が、あまりよく分かっていなかったのです。
なにしろ監禁と説得は、親戚の者がやっていて、私は余計なことばかりしていた感じだったのです。
「麻子、下の階に行けばね、妹が卓球しているから、行ってくればいいよ」とか、平気で、麻子に監禁らしくないことを言っていたのです。
それで、麻子が逃げて行ってしまって、統一教会に帰っちゃったのです。
それで、私はどうしたら良いか分からなくて、茫然自失みたいになって、すごく困りました。どこに行ったか、統一教会に逃げたのか。良く分からない。統一教会に帰ったかどうかも分からない、とにかく途方にくれて、麻子の住んでいる家を捜しました。
お母さん、統一教会について初め、どういうイメージでしたか?お母さん:
(桜田)淳子ちゃんの統一教会とか、霊感商法の統一教会とかですか。お店が忙しくて全然情報がなかったですか?
私、統一教会のこと、全然知らなかったのですよ 。司会:
全然知らない。親戚の方が詳しかったということですか?お母さん:
ええ、親戚に言われるままに、保護や説得をやっているっていうことが多くて。米本氏:
ともかく、私には店のことが常に頭にあり、パニックになっていたことは確かです。
(そのあと)戸塚のキリスト教会に行ったのですが、子どものことより、商売を辞めたことのほうが大きかった。
教会の勉強会には一年くらい行くのですが、ともかく落ち着かなかった。脱会者の方々の話とか聞いても、全然覚えていないのですね。私の頭の中は商売を辞めたことが中心で、ふらふらして落ち着いて人の話を聞くことができなかった。
補足しておきます。麻子さんは、94年5月に親戚が所有する山中湖畔のマンションに監禁されます。
その前の状況のことですが、親戚の人がマンションで話し合おうと提案した。話し合いに入れば日数もかかる。
その時、お母さんのお肉屋さんは、お祖父さんの代から始めたお肉屋さんは、店の売り上げはどんどん下がっていた。
お母さんにとって、お祖父さんから受け継いだ店を何とかしなければいけないという思いがものすごくあった中で、結局、日数のかかる山中湖湖畔のマンションで監禁することになり、店を閉じることになった。
それがお母さんにとってはショックだった。
それにもかかわらず、山中湖畔のマンションから、麻子さん2週間くらいで逃げてしまった。
その後、新宿界隈を探し回った。探し回って帰ってくると シャッターが閉まった肉屋を目の前にして、お祖父さんに申し訳ないことをしたという気持ちになる。
その次に、黒鳥牧師の勉強会に参加するのだけれども、店を閉めたことがパニックになっていて、勉強会どころではなかった。黒鳥牧師が話をしていても、お茶をくんだり何かしている、パニックで、頭が真っ白になったような感じで、勉強会の部屋をうろちょろしたりしているような精神状態だったということです。