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Thursday, March 06, 2008

縄文人・倭人・弥生以降の日本人を巡るアサヒコム関西のトリップにつきあう

asahi.com 関西版が「九州大ミニミュージアム・倭人(わじん)の形成」を紹介する記事を掲載していた。

日本人の起源 探る第一歩に

日本列島に先住していた縄文人と弥生期に渡来した人々との混血で、日本人が成立したとみるのが定説になっている。その渡来人が最初に足を踏み入れた北九州発の「九州大ミニミュージアム・倭人(わじん)の形成」が、日本人の起源を探る第一歩にふさわしい。

九大では地の利を生かし、遺跡から発掘された古人骨の研究が盛んだ。「縄文人と弥生人」中の「身長・遺伝」を見ていただこう。面長の渡来系と彫りが深い縄文人の頭骨の違いは印象的。さらに頭骨の形態小変異から縄文人、アイヌ、古墳人、現代本州人、中国人、タイ人からハワイ人、北米先住民まで類縁関係を整理した図は圧巻。

「縄文人と弥生以降の日本人は同系統の集団とは考え難い」のだが、縄文人の血を消し去るほど大量の渡来人が来たのか。「今日の学説」で「弥生人の人口増加」は「稲作農耕の定着とともにおこった人口の急激な増加によると考える方が自然」とする。縄文人も急速に農耕技術を身につけ移行したのだろう。

約半々であった縄文人と弥生人」は最近のY染色体の研究を引いて縄文人由来の多さに驚く。民族学者の梅棹忠夫さんが「日本人の物づくりが得意な体質は縄文期から続いている」と言われたのを思い出す。

Source : 日本人の起源 探る第一歩に(asahi.com 関西 2008年03月03日)

この記事がなんのための物か非常にわかりにくいのだけれど、「縄文人と弥生以降の日本人は同系統の集団とは考え難い」という点について、「九州大ミニミュージアム・倭人の形成」が掲載している図がこれだ。

縄文人と弥生以降の日本人

読めばわかるけど正確を期すために書き写しておくと、「縄文人と弥生以降の日本人の間には非常に大きな違いがあり、同系統の集団とは考え難い」と「頭骨の形態小変異22項目に基づく東アジア、北アメリカ、オセアニア集団の類縁関係」のところに記されている。「非常に大きな違いがあり」の部分は消されている。

さらにこの記事はその直後に「約半々であった縄文人と弥生人」という九大とは関係のない別のサイトが掲載する論文にわれわれを誘っている。こちらは京都大学大学院理学研究科の蔵琢也という研修員の人が大衆の啓蒙活動として書いた『天皇の遺伝子』(廣済堂出版刊2006年)のなかの一部を自ら公開しているサイトであり、そこにつぎのような文章があった。

約半々であった縄文人と弥生人

日本人の由来はどうだったのだろうか。結論から言えば、ミトコンドリアでははっきり、縄文系と渡来系弥生人に別れなかった。それでも様々に推定されてはいるが、これが縄文系のミトコンドリア、これが弥生系渡来人のミトコンドリアとは単純に別れなかったのだ。

この理由は中国を含む近隣の地域のミトコンドリアが多様であり、日本も多様だったからである。ミトコンドリアは分岐して多様化した年代が古いので、縄文人と渡来人の区別がはっきり付かなかったのである。

しかし、多様化した年代が新しいY染色体は違った。縄文系と渡来系が、だいたいはっきり別れたのである(図3.2)。そして、縄文人由来のY染色体と渡来人のY染色体の比率は、だいたい半々であった。これは意外である。(中堀豊『Y染色体から見た日本人』岩波書店,2005、あるいは、最新の研究を参照)

y_hapologroups_of_the_world_j

Y染色体から見ると日本人の三分の一から半分は中国で大多数の系統(中国や東南アジアで多数を占めるO型と)であり、渡来系弥生人が持っていたと思われるタイプである。しかしもう半分は、ほとんどチベットにしかないD型と、広く環太平洋に見られるC型の混合である。いわゆる縄文系である。

D型とC型に別れるのは縄文系もやはり二種類に分かれるという一部で言われていた説を、ある程度裏付ける結果である。フィンランド人や東シベリアのウラル語族に多いN型も数%ある。このN型は遺伝的にはO型の兄弟ではあるが分岐年代は1万年以前であり、これらの民族は北極近辺に集中している。もしかするとN型はO型に近くても「渡来人」系ではなくて、「縄文人」系なのかもしれない。

この結果からいえることは金属器と稲作を持ってきた弥生人が増えるのと併走して、なぜか縄文人の遺伝子も爆発的に増えてきたのである。

この原因は今後の重要な議論になるだろう。だが、縄文人は基本的に狩猟採集民の新石器時代人とはいっても、土器や石器のレベルが最も高度な部類だったし、簡単な農耕もしていた証拠が増えつつある。とりわけ西日本では焼畑農業を既に行っていたようだ。

そもそも農耕は、それに適した作物の種が手にはいらないとできないので、良い品種の米が伝来しないと本格的な農業には入れなかった。しかし伝来すると、ほぼ数十年で名古屋の方まで伝わったと推測されている。ヨーロッパやアメリカの農耕の拡大のスピードと比べて、驚異的に速い。縄文系の人々は金属や稲作農耕を見て、他の狩猟採集民ではあり得ないほど、すぐに学んだと考えるのが最も簡単な説明だろう。

Source : DNAから見た人種と日本人 −日本人の起源を遺伝子から探る−京都大学大学院理学研究科研修員/蔵琢也

そしてこの論文のなかで、著者が意外だといっている「縄文人由来のY染色体と渡来人のY染色体の比率」についての中堀豊という研究者の最新の研究に掲載されているイリノイ大学のサイトで見つけた最新のものという「世界のY染色体グループ」(J・D・マクドナルドという学者が2005年に作成)の図 (クリックで拡大)というのがこれである。いやー、なかなかのトリップだけど、やはりネイティブ・アメリカンのもっとたくさんの部族のY染色体グループを見てみたい気がするなぁ。日本とチベットに著しくある「Dグループ」のこととかさ。

y_hapologroups_of_the_world.jpg

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