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[8212] 異世界鍛冶屋物語(現実→異世界 日常系)【チラシの裏より移動】
Name: yun◆04d05236 ID:a5675c7b
Date: 2010/09/01 19:17
 前書き

 はじめまして。チラシの裏より移動してまいりました。

 このお話は、MMORPGなどで、生産・鍛冶・武器作製といったようなスキルに心惹かれる方の為のお話です。

 特殊な層を狙ってはいますが、通常の異世界物語としても楽しんでいただけるよう精進してまいりますので、よろしくお願いいたします。感想・ご意見などいただければ、ますます精進する所存です。

 それでは、お楽しみいただければ幸いです。


8月31日追記

 規約には一通り目を通したつもりでいましたが、ご指摘通り、習作もしくはネタを明記する旨の規約を破っておりました。投稿がかなり不定期になりそうなこともありますので、習作としてこのまま残して行きたいと思っております。

 また、感想でのコメント返しの禁止にも気づいておりませんので、該当の私からの感想欄へのコメントは削除いたしましたが、感想はいつもありがたく読ませていただいております。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

2010年9月1日追記

 チラシの裏よりオリジナル板に移動させていただきました。
 今後ともお楽しみいただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

前書き :4/24追加 8/31追記

第1話 :4/24追加

第2話 :4/24追加

第3話 :4/25追加

第4話 :5/24追加 5/31一部修正

第5話 :5/31追加

第6話 :6/21追加

第7話 :8/30追加 午後改行修正

第8話 :9/29追加

第9話 :10/19追加 10/21修正

第10話:4/5追加

第11話:8/30追加

(2010/9/1チラシの裏よりオリジナル板へ移動)


規約上、感想欄での感想への返事は控えましたが、コメント返し自体を禁止する条項ではないと思われますので、以下に感想への返事を書かせていただきます。
したがって、以下ネタバレを含む可能性があります。
本編未読の方はご注意ください。












―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
感想返しなど(8/31)

>久しぶりの更新
>もう少し早い頻度での更新
申し訳ありません。もう少しペースをあげてみようかと思います。
覚悟を込めて、近々オリジナル板へ移動しようと思いますので、そちらでも
何卒よろしくお願いいたします。

>この後どうなったのか
それについては、ご想像にお任せします。

>誤字
ご指摘ありがとうございます。修正しておきます。
ちょくちょく誤字・脱字はあると思いますが……。
のんびりと修正することにします。


久しぶりに感想返しなど(4/11)

>聖剣の刀鍛冶に似ている
コミック版を1巻だけ読んだ事がありますが、詳しくは知りません。どちらかといえば、様々な種族が次々出てくるという意味で一番参考にしたのは「怪物王女」というコミックかもしれません。

>久しぶりの更新
お待たせしました。去年の後半は忙しくてなかなか時間がとれませんでした。
今もそれほど時間がとれるわけではないのですが…。地道に続けていこうと思います。

>多種族の世界だからこそ自分の種族の歪みに気づく。
>三面六臂なら確かに最強の剣士だな。
>様々な種族が住んでいる世界なのですね。
様々な種族がいる世界で、それぞれが違い、ある部分で認め合い、ある部分で諍いを起こす、そういうお話を描いていきたいと思います。

>日常ファンタジーものですごく良い感じです。
>これからも楽しみに待っています。
ありがとうございます。ゆっくりとお楽しみください。


>部分的にヘルシングを取り入れた感じがたまらなく好みでした。
セリフ回しや全体の雰囲気が非常に好きな作品でした。『冷静で紳士的』という従来のヴァンパイアイメージも悪くないものですが、あの作品の狂気じみたヴァンパイア像は非常に面白いものだったと思います。

>この世界のヴァンパイアの文化というか、道徳と言うか、そのようなものはどうなっているのでしょう。
>ちょっと思ったのが吸血=吸血鬼になるだと無差別に吸わなくても多くなりすぎるんじゃないかな。
>吸血ですが、『仲間を増やす為の吸血』は食事の吸血とイコールなのでしょうか?
それとも、特定の手順をふむ必要があるとかなんでしょうか?

設定だけはしていたのですが、思いのほかそこが気になる方が多かったようでした。描き切れていなかった部分もあったかと思いましたので、一部修正をしました。

>よく考えてつくられているんだな、と思う
>ゆったりとしたときが流れています。
>ゆっくり着実に…わたしを愉しませてくれ!
ありがとうございます。勢いとノリの良い作品を書けるタイプではないので、ゆっくりでもしっかりとしたお話を、と思って作っていますので、そう言っていただけるのはとてもありがたいです。今後もゆっくりとお楽しみください。








[8212] 鬼に鉄剣
Name: yun◆04d05236 ID:a5675c7b
Date: 2010/08/31 00:55








 彼の目に映るのは、輝きを放つ赤だった。

 それは、生命など持たない、物体に過ぎないそれが放っているとは思えないほどに、力強く、そして煌々とした赤だった。

 しかし、それに手を伸ばす訳にはいかない。それは、触れられるためにそこに存在しているものではなく、そして、鑑賞の為のものでもなかった。

 彼は、手にした鎚を振り下ろす。

 かぁん、と、高く、澄んだ音。そして鉄は、少しだけ、形を変える。

 かぁん、かぁん、かぁん、かぁん、と、立て続けに、鎚と鉄がぶつかる音が響く。真っ赤な鉄の塊が、少しずつ伸ばされて、形を変えていく。

 その行程を、彼は愛した。

 ただの無粋な金属の塊でしかないものが、自分の手によって、一つの意味を持つ姿へと生まれ変わっていく。それが、楽しくて仕方がない。そうして生まれたものの一つ一つを、愛おしいとすら思う。

 工房には、熱がこもる。鉄すらも溶かすほどの高温を扱っている以上、それは当然の事だ。その中で、鍛冶と言う重労働を行っているのだから、当然、彼の全身は、季節を問わずすぐに汗まみれになる。

 それも、彼には気にならなかった。時折、無造作に汗を手でぬぐう以外に、彼は鎚を振り下ろす作業をやめようとはしなかった。

 しばらく、金属同士のぶつかり合う音が、広くはない工房に響く。そして彼は、ふと、手を休めた。

「こら。工房に入って来ちゃいけないって、いつも言ってるだろう?」

 顔をあげた彼の視線の先には、工房の入り口に、自分で持ってきたのか、小さないすを用意して、ちょこんと座ったまま目を瞑る幼い少女がいた。言葉ではたしなめているものの、彼の言葉は柔らかく、彼が決して迷惑には思っていないということが聞いてとれた。

「ごめんなさい。でも、ユキヒトさんの作る音が、大好きなんだもの」

 少女は、瞳を閉じたままくすりと笑う。それは、その年の少女にしては、どこか控え目で、大人びた笑い方だった。

「危ないだろう」

「危なくないわ、だって近くまでは寄って行かないもの」

 続けた彼の言葉を、少女は歌うような声でいなす。やれやれ、と、彼は肩をすくめた。

「そこを動いちゃダメだぞ。鉄を打ってる間は、僕はそれ以外見えないんだから」

「分かってる。ここで、聞いてるだけ」

 彼がそれを認めると、少女は嬉しそうに答えた。彼は、右手を鎚から離して、苦笑いをしながら少しだけ頬を掻くと、再び表情を引き締め、鎚を手にした。

 工房の中には、長い間、彼の鎚の作り出す音が響き続けていた。少女は、頬を少し緩め、うっとりとした表情で、美しい音楽でも聴くように、それに耳を傾けていた。















 綾瀬 行人がこの世界に来たのは、三年前の事だった。

 ある日、突然、何の前触れもなく、彼は異世界へと放り込まれた。

 そこは、元いた地球とはまるで違う、それこそ剣と魔法の世界とも呼ぶべき、ファリオダズマと呼ばれる世界だった。

 ヒューマン、エルフ、獣人、竜、モンスター……さまざまな種族と、各地に残された、神代から存在する、とされる数々の迷宮、それを探索する事を生活の術とする冒険者、国家間での戦争に、モンスターたちの大増殖……。そう言ったあれこれが、ごく日常の風景として定着している世界。

 大学一年の学生として、受験戦争も終わり、だらだらとしながらも楽しい学生生活を送ってきた彼は、仰天した。当然のことながら、元の世界に戻る手段を探ろうとはしたのだが、所詮は一介の学生、そして何の力を持つ訳でもない彼に、『異世界につながる道』など探せようはずもなかった。

 それから三年がたった今とて、帰る事を諦めた訳ではないのだが、かと言って、事態が飲み込めてしまった当初の様に取り乱している訳でもない。三年もたてば、こちらの世界の人々とも様々な交流が出来た。彼らの多くは非常に気のいい人物であったし、今となっては、生活するための術も手に入れた。詰まる所、この世界での暮らしは、そう悪くないのだ。

 これは、異世界からやってきた青年の、鍛冶師、時々冒険者としての物語。

 世界を変えたりはしない、小さな物語。












 大柄な女が、山の中の道を歩いている。

 いや、大柄、で片付けられるような体格ではない。男であろうともそう滅多にはお目にかかれまい、と言うほどの身長に、子供が二、三人ぶら下がろうともびくともしまい、というような腕の太さ。太ももなど、小ぶりな樹の幹ほどもありそうだった。

 女性の額には、小さな角。ジャイアントと呼ばれる、鬼の末裔である種族の証だった。

 その種族の特徴としては、まず大柄な体格と、それに見合う凄まじい力があげられる。気質は、豪快にしてやや粗暴。武勇を尊び、決闘において勝ち取った権利は絶対、と言う掟が有名である。

 山道を軽々と歩く彼女の先に、一軒の家が現れる。扉の横には、小さな看板が下がっており、その看板には、剣の絵が描かれており、その剣の刀身には、『Cogito ergo sum.』と刻まれている。躊躇いなく、彼女は近づくと、どんどんっ、と、かなり危険な音で扉を殴りつける。とはいえ彼女の表情に剣呑なところは全くなく、それどころか、やや上機嫌そうに緩んですらいた。

 種族の違いと言うもので、彼女としては、それがノックのつもりだったのだ。

「はい、どうぞ」

 あまり大きいとは言えない、しかし可憐な声で、家の中から答が返ってくる。その言葉に、彼女は扉を開き、少しだけ腰をかがめ、それをくぐった。

 中は、やや広い部屋になっている。正面にはカウンターがあり、その真ん中には、ちょこん、と、小柄な少女が、目を瞑って座っている。それを見て、彼女は小さく手を挙げた。

「よう、ノルン。ユキヒトは?」

 ジャイアントは、知性の無いモンスターもどきなどではない。気さくに声をかけると、カウンターに座っていたノルンはにっこりと笑う。

「あ、カレラさんですね。ご注文の品はできていたはずですよ。少し待ってくださいね」

 そう言うとノルンは立ち上がる。

 十一歳という年齢にしても、小柄で華奢な少女だ。腕など、掴めば小枝のようにぽきりと折れてしまいそうだった。その原因を知るカレラは、少しの同情をこめて、それを見た。すると、家の奥へと入ろうとしていたノルンが、くるりと振り返った。

「大丈夫ですよ。目が見えないのは、生まれてからずっとの事ですし、それをいまさらどうこう思ったりしません。確かに、もうちょっと運動が出来て、丈夫な体だったらな、って思う事はありますけれど、だけどそれも含めて、私です」

「……本当、ノルンは、目が見えない代わりに、目で見えないものが見えるんだな」

 いつものことながら、心でも覗いたような事を言う少女に、カレラは苦笑した。

「そんな事ありませんよ」

 ふふ、と、優しく笑うその笑顔は、やはり年相応と言うよりは、もっと経験を積んだ、それこそ一人前の女性のようで、カレラはやはりそれを少し痛ましく思ってしまう。

 その視線にも、あるいはノルンは気づいたかも知れないが、それ以上は何も言わず、ユキヒトを呼びに、家の奥へと向かった。杖を突いたり、足元に危ういようなところはない。彼女はこの家で多くの時間を過ごしてきたし、この家は、彼女に配慮されて、躓くようなでこぼこを極力排した作りになっている。

 すぐに、奥から人が現れる。

 現れた男は、必ずしも、目を引く体格ではない。

 カレラと比べればヒューマンの体格などほとんど例外なく貧弱になってしまうが、ユキヒト自身、ヒューマンの平均的よりは少し高い、程度の身長でしかない。

 全体的に引き締まった筋肉をしているのは、鍛冶師と言う職と、稀にではあるが冒険者として探索に出かけることもある為、訓練をしているからだ。

 顔立ちは、目鼻立ちにどこか力強さが感じられるし、眉のあたりはきりりと引き締まっていて、全体として受ける印象はなかなか凛々しい。顔立ちはごつごつとした厳ついものを尊ぶというジャイアントの美意識から言えばやや軟弱かも知れないが、ヒューマンとしては男らしい顔立ちだ、とカレラは思っている。

 とはいえその顔立ちも、ヒューマンの美意識からすれば、特別に際立ったものではないらしい。そのあたりの事は、種族の壁とでも言うべきもので、カレラのセンスでは分からなかった。

「できたか?」

「注文通りの出来だよ。……重いから一度に両方は持って来れなかったけど。はい、左手用」

 男……ユキヒトが、ごとん、と音をさせて、布で包まれた巨大な物体をカウンターに置いた。

「うん……」

 カレラはそれを、じっと見つめる。しかし、手は伸ばさない。

「……どうした?」

「いや……できれば、両方揃ってから、包みを解きたくて」

「……そうか、分かった」

 そう言って苦笑すると、ユキヒトはまた、奥へと戻って行く。

 カレラはそれを確認して、おずおずと、カウンターの上のものに手を伸ばそうとして、ふるふると首を振った。

「ダメだダメだ、我慢我慢……」

 ぶつぶつと呟き、カレラはうろうろと部屋の中を歩き回る。落ち着きなく彼女が歩き回るたび、どすどすと凄まじい足音が響き、家すらも小さく震わせているようだった。

「お待たせ。右手用だよ」

 すぐにユキヒトは戻ってくる。ぐるぐると部屋を歩き回るカレラに苦笑すると、先程にもまして大きな布に包まれた何かをカウンターに置く。

「……いいな? 開けるぞ? ダメだって言ってももう無駄だからな?」

 待ちかねた、と言う様に、カレラは確認する。

「最初から、俺は開けちゃダメだなんて言ってないよ」

 もう、抑えが利かない。カレラはそれに手を伸ばすと、びりびりと布を素手で引き裂いた。

 中から現れたのは、鞘に収まった、二振りの剣。

 がばっと、まずは大振りな方を手に取ると、急いで鞘から抜き放つ。そんなに慌てなくても、それは君のなんだから誰もとりゃしないよ、と、ユキヒトが言っているのが聞こえたが、そんな事は気にならなかった。

 刀身は広く、両刃。反りはない直剣で、持った手にずしりと伝わる重さが心地よい。ぎゅっと握ると、柄は太すぎず、細すぎず、手にしっくりとなじむ。そして何より、剣を包む、確かな魔力。

 続けて、小振りの方も抜いてみる。大振りな右手用のものと同様の、僅かに全体的なサイズを縮めたものだが、うまく工夫してあるのか、重心の位置は大きく変わらないのを感じる。

 今回の注文は、二刀流で扱う為の鋼鉄製の剣、頑丈さを魔力で増強し、各種の仕様をカレラに合わせたオーダー・メイド。完璧な仕上がりだった。

「うふ、うふふふふふふふ……」

 思わず、笑みがこぼれる。こほん、と、ユキヒトが咳払いをするのが聞こえて、カレラはふっと正気に戻る。 

「良い出来だわ。じゃあ、料金を」

 荷物の中から、用意していた袋を、どさっ、と、カウンターに置く。

「……本当に良い出来だわ。重さと言い、長さと言い、握り心地と言い……うん、完璧。何よりこの、魔法陣のかかり具合と言ったら……本当に……うふふふふふふ……」

「……気に入ってもらえたようでなにより」

 完全に危ない笑い方をしているカレラに対して、それでも大して引いた様子も見せずにユキヒトは言った。

「なあ……どうしてこんな山奥でひっそりと店を出すんだ? お前なら、大きな街で工房を開けば、あっという間に評判の名工になれるぞ? そりゃ、そうなったら私の剣も早々作ってもらえなくなるかも知れないが……いいのか、お前は?」

「まあ……名誉もお金も、それほど欲しい訳じゃないからな。それに、街中は……空気が悪い」

「……そうか」

 自分の事よりも、決して丈夫とは言えないノルンの為。それも分かっていたことだ。カレラは頷くだけにした。

「……じゃあな。また来る」

 二振りの剣を鞘におさめると、ひょい、と、カレラはそれを肩に担ぎ、そう告げた。

「待ってるよ」

「次も、理性を吹っ飛ばしてくれるような良い出来を期待してる」

「……程々に頑張るよ」

 肩にずしりと来る重みに満足を覚えつつ、カレラは店を出て行った。

















「……良いお客さんなのは、確かなんだけどなあ……」

 カレラが上機嫌で出て行ったあと、しばらくして、ユキヒトはぽつりと呟いた。

「……帰った?」

「帰ったよ」

 おずおずと、奥につながる扉から現れるノルンに、ユキヒトは笑って答えた。

「カレラさん、良い人だけど……納品の時は、ちょっと怖い」

「まあね……」

 ジャイアントの戦士の気質。

 武勇を尊ぶ彼らは、武具の収集家でもある。特に、自分専用に作られた性能の良い武器を所持する事は、彼らにとってのステータスであり、食事を削ってでも最上級の武器を作るための費用にすることで知られている。

 ジャイアントの戦士、カレラ。

 彼女は、その気質を極端なまでに備えた、詰まる所刃物マニアであった。

「まあそれでもやっぱり、良いお客さんだよ」

 ユキヒトは、独り言のように呟いた。

 異世界からやってきた青年が、盲目の少女と共に山奥で営む刀剣工房『コギト・エルゴ・スム』。

 客には変わり種が多いものの、本日も平穏だった。












『猛き心と幾千の刃持つ鬼人へ この剣が貴女を妨げる全てを打ち砕かんことを 行人』






 





[8212] 願わくば七難八苦を与えたまえ
Name: yun◆04d05236 ID:a5675c7b
Date: 2009/04/24 01:16











「ふぅ……」

 ユキヒトは、小さく息をついた。

 今日は、注文されていた剣の納品日だ。元々仕事量が決して多い訳ではない彼は、納品の三日前には大抵注文の品は仕上げていたし、客もそれを知っているため、納品日前に受け取りに来る者もたまにいる。とはいえ、やはりそれも稀な事である。増して今は、今日納品の剣以外に、仕事がなかった。

 彼は、暇を持て余していた。

 ちらり、と、窓際に目をやると、ノルンは、椅子に腰かけて目を閉じ、じっと座っている。

 盲目である彼女は、普段から目を瞑っている。そうして静かに座っていると、起きているのか寝ているのか、そろそろ付き合いも長い彼でも判別できない事がある。

 元いた世界ならば、パソコンなり、読書なり、いくらでも暇をつぶす方法はあった。この山奥に工房を開く前、まだ鍛冶師になっていない頃ならば、魔術学院と呼ばれる、その名の通り魔術知識を専門的に教える教育機関に通っていたため、勉強することで時間も潰せた。

 しかし、この世界ではまだ印刷技術が発達しておらず、本は全て手書きの写本であり、紙もまた高価な代物であるため、そう簡単に手に入れられるものではなかった。こんな山奥では、暇潰しの方法すらないのである。

 暇を持て余すのは、ユキヒト以上に、店番を任せているノルンで、暇があれば彼女は、話をせがんでくる。

 自分では何も見る事が出来ず、体を十分に動かす事もままならない彼女だ。人との会話は、彼女の、唯一と言っても良い娯楽である。

「……ノルン?」

 小さな声で、ユキヒトは名前を呼ぶ。

 極力小さな声にしたのは、ノルンが非常に敏感な聴力を持っているためだ。

 生まれつき目が見えなかった反動か、ノルンは、聴覚や嗅覚が非常に優れている。大きな声、どころか、普通の声で名前を呼べば、深い眠りの中からであっても、ノルンは目覚め、返事をしてしまう。それも、自分が寝ていたことを悟られないように気を遣う事も多い。

 ユキヒトは、長い生活の中で、ノルンを起こさず、起きていた場合のみに返事をするぎりぎりのラインを見極めていた。余りにも限定的すぎるスキルの為、今のところ、それを習得した事を知っているのは、ユキヒト自身のみである。

 返事はなかった。どうやら、春のうららかな光の中、少女は居眠りをしているらしい。それを知って、ユキヒトは少しだけ頬を緩めた。

 刀剣工房『コギト・エルゴ・スム』。本日も平和に、時間は過ぎていた。













 こんこん、と、ノックの音がして、ノルンが、はいどうぞ、と、声をかけた。

 結局あれからしばらく、ユキヒトは居眠りをするノルンを眺めて時間を潰していた。少女の居眠り姿を盗み見る、と言えば不埒な行為に違いはないが、春の穏やかな日の中眠る彼女は、一幅の絵画のようで、それを鑑賞する心は決して下卑たものではない、と、ユキヒトは内心に断言していた。

 さておき、ノックの主は、扉を開いた。

 扉を開けたのは、まだ、少年の域を抜け切れていない、あどけなさを残すヒューマンだ。

「こんにちは、依頼していたものを取りに来ました」

 声変りは流石に終わっているだろうに、ボーイソプラノのような高い声だ。体もやや華奢で、余り肉体労働に相応しいようには見えない。しかし彼はれっきとした冒険者であり、それも、かなりの実力を持つ、中堅どころと言っても良いポジションにある、と聞く。年齢からくる経験不足の感はあるものの、遠からず一流と呼ばれる実力を備えるだろう、と、その筋では有名らしい。

 彼の名は、ファル。ヒューマンの冒険者だ。

「ようこそ、ファルさん。ご注文の品は、完成していますよ」

「ありがとう。楽しみだなあ」

 にっこりと、ファルは笑う。そう言う表情をすると、どうにも頼りなげな子供のようで、とても将来有望な冒険者には思えない。とはいえ、その情報が伝わってきたのは、ユキヒトとしては最大限の信頼を置いている経路を通っての事だ。実際に戦っているところを見た訳ではないが、彼が才能ある若者である、と言う事を、ユキヒトは疑っていなかった。

「じゃあ、取ってくるか。ノルンはどうする?」

「ついて行きます」

「そうか」

 ユキヒトは、決してノルンが刃物に触る事を許さない。目の見えない彼女には、それは危険にすぎる。

 とはいえ、ノルンが家の中を歩き回るのを、ユキヒトは止めようとはしなかった。

 目が見えない、と言うのは、大きなハンディキャップではあるものの、かと言って、何もできない訳ではない。何もさせず、何もできないもののように扱うのは、彼女にとって失礼だ、と、ユキヒトは思っている。

 ファルの注文は、軽めでよく切れる片手剣。体格を考慮すれば、実に無難な選択と言えた。

 それと同時に、ファルは材料を持ち込んでいた。

 基本となる金属類は、ユキヒトの工房で用意している。鉄や銅、銀といった、通常の金属だ。

 しかし、例えば、ミスリルやモンスター素材など、特殊な素材は、持ち込まれれば加工するが、自前で用意してはいない。

 実のところを言えば、ユキヒトは、そう言った素材の扱いが、それほど得意ではない。

 鉄などの、ユキヒトが元いた世界にもあった素材は、ユキヒトにとって扱いやすいのだが、この世界に来て初めて見る素材は、どうにも性質が把握しきれていない。

 とはいえ、この世界で生きていくのだから、毛嫌いするわけにはいかない。むしろ積極的に扱うべきものだ。

 ユキヒトはそう考えているし、事実、金銭的に余裕がある時は、街に出てそう言った素材を買い求め、研究してもいる。

 ファルが持ちこんだのは、『鎧亀の甲羅』と呼ばれるモンスター素材だった。

 鎧亀とは、アーマードタートルと呼ばれるモンスターの略称である。その名の通り、非常に硬い甲羅を持ち、通常、剣などの刃物で倒すのは困難と言われるモンスターだ。その甲羅を細かく砕き、熱した金属に、仕上げの前に振りかけると、金属が強度を増す事で知られている。

 ファルがその素材を持ってきたところに、ユキヒトは感心した。

 軽さと鋭さを求めれば、どうしても、剣はやや細身にならざるを得ない。そうした剣は、えてして、折れやすい。

 ユキヒトとしては、出来る限り良質の鋼を使い、さらに日本刀の製法を参考に、硬度の違う複数の鉄を組み合わせることで、曲がりにくく折れにくい剣を作っているのだが、それにしても限界がある。

 自分の求める剣の特性をよく理解し、その弱点を正確に補強する素材を持ち込んだところなど、流石は有望な冒険者と呼ばれているだけはある、と思えた。

 工房の棚に、注文の剣は出来上がっている。それを手にとり、ユキヒトは元の部屋へと戻る。その間、ノルンは、とことことユキヒトの後ろをついて歩いていた。

 元の部屋に戻ると、ファルが、じっと、人の顔を見てくる。突然の事に面食らい、ユキヒトは、思わず言った。

「どうした、人の顔をじろじろ見たりして。そんなに物珍しいものでもないだろ」

「謙遜しないでください……ノルンちゃんみたいな可愛い子を山奥に監禁している世紀のロリコンの顔は、物珍しいものだと思います」

 ファルは、それまでと全く変わらない表情で、全く変わらない口調で、そんな事を言った。

 何故なのかは分からないが、ファルは、ノルンがいない場面だと、よくこういった事を言ってくる。と、言って、本気でそんな邪推をしている訳ではない事は分かっているため、ユキヒトは、大して相手をしない。

 今も、やれやれ、と言うように肩をすくめると、ひょい、と、後ろを振り返った。

「……だ、そうだが。ノルン、どう思う」

「監禁されてませんし、ユキヒトさんにそう言う事言う人は嫌いです」

「何というミステイク!? 背中に隠すなんて卑怯ですよこのロリコン!」

 小柄なノルンは、ユキヒトの背中に完全に隠れてしまっていたらしい。保護者であるユキヒトに全幅の信頼を置いているノルンは、彼の悪口を言うものにだけは容赦しない。容赦しない、と言っても、可愛らしく拗ねる程度なのだが。

「ごめんよノルンちゃん、これは軽いジョークと言うか季節の挨拶みたいなもんなんだよ。ああそうだ、飴をあげよう」

 突然早口になったファルが、慌ててフォローらしきものを入れ、それと同時に、本当に紙に包まれた飴を取り出す。用意周到なのか、本来は自分用のものだったのか。ユキヒトは笑ってしまうのを抑えられなかった。

「季節の挨拶で人を特殊な性癖の人扱いするのは失礼ですし、飴なんかで釣られる年じゃありません」

「嫌われた!? でも少女の口から特殊な性癖とか言われるとちょっと興奮するかもっ!?」

「ノルン、奥に戻りなさい。こういう可哀そうな変態の目で見られると、魂が汚れるぞ」

「はい。私、失礼します」

 いつも穏やかな彼女にしては珍しく、つん、とした声で言うと、本当に奥へと引っ込んでいく。

「くそぅ……なんて卑劣なロリコンなんだ……僕みたいな清純な魂の持主の事を、いたいけな少女に誤解させるなんて、貴方は悪魔ですか!?」

「勝手に自爆しといて良く言うよ」

 ユキヒトは、全力で苦笑した。

 普通なら、彼こそノルンを狙う特殊性癖の持主……と言っても、年の差は4つ程度である以上、それほど異常と言う訳でもないのかも知れないが……ではないかと疑うところかも知れないが、それは違う、と、ユキヒトは知っている。

 なぜならば、ファルには恋人がいる。同い年の、それも、少なくとも幼い雰囲気などは持たない少女だ。

「……で、聞きますが。帰ってくるつもりは、やっぱりないんですか、という伝言です」

 急に、表情をすっと真面目なものに変えて、ファルは切りだす。

 と言って、先程までのやり取りが、何もノルンを遠ざけるためだけの演技である訳でもない。どちらかと言えば、あちらの方が本性に近い、と、ユキヒトは思っている。演技派と言うよりは、切り替えの早い奴なのだ、と。

「返事はいつも通りだよ。そのつもりは全くない」

「そうですか」

 素っ気なく答えるユキヒトに、淡々と受け入れるファル。そこには、何度も繰り返したやり取りの空気があった。

「分かりました。ケイガルドさんには、ユキヒトさんは少女との山奥での秘密の生活が捨てられないらしい、とお伝えします」

「お前の場合は、本気でそう伝えるからタチが悪いんだよな……。自分でもそんな事思ってないくせに」

「何を言ってるんですか、いつでも僕は真剣です。真剣と書いてマジと読む男ファルとお呼びください」

「で、真剣と書いてマジと読む男ファル、いい加減にしないと殴るぞ」

「思ったよりも恥ずかしいっ!?」

 ばたばたと騒がしい。本気で一発殴ろうか、と思いながら、ユキヒトはため息をついた。

「……お前、あんまりそう言う事ばかり言ってると、今度お前の彼女が来た時、言いつけるぞ……?」

 ファルの恋人も、冒険者であり、ユキヒトの顧客の一人である。

「この悪魔! 僕に死ねと言うんですか!」

 一瞬の躊躇いもなく、ファルはユキヒトを罵倒した。

「……お前、ある意味すごいな」

 それまでの自分自身の誹謗中傷を棚に上げて、即座に、相手が全面的に悪い、と言わんばかりの面罵を出来るのは、切り替えの早さすらも越えたなにものかではないか、と、ユキヒトには思えた。

「貴方は彼女の本当の怖さを知らないからそう言う外道な事が言えるんです……」

「いや、十分知ってるつもりなんだけどな……」

「不十分です。ええ、もう、間違いなく」

「……あれでか」

 ユキヒトは小さく呟いた。ファルは、寒い訳でもないというのにぶるぶると震えている。

「まあ、でも、嵌まると抜け出せません。蟻地獄並です」

「お前、たくましいよな……」

 突然、けろっとした顔になるファルに、ユキヒトは笑った。

「さて……では、代金です」

「おう」

「あと、これはサービスです。ご所望だった、ミスリル」

 ごとん、と、ファルは無造作にカウンターの上に、その塊を置いた。

 ミスリル。代表的な魔法金属である。

 銀とよく似た光沢を持っているが、魔術的価値は高いものの柔らかく武器に向かない銀とは違い、魔術的価値は銀をもしのぐうえに、鋼よりも硬いという性質を持つ。

 いくつかの鉱山で採取が可能であり、手に入らない、と言うほどに希少なものではないものの、かなり高価な素材であることに違いはない。少なくとも、この様に、おまけ、としてどさりと置くものではない。

「おい、待て。流石にこれは高価すぎる」

「……まあ、これが全部ミスリルだったら、そうなんですけれど」

 今度は、ファルが苦笑した。

「ん?」

「……合金です。ミスリルと鉄の。悪質な商人が混ぜて売ってたんです。混ぜられたんじゃ、ミスリルとしても、鉄としても使えません」

「ああ……なるほどな」

 ミスリルの特性として、他の金属と混ぜたり、不純物の割合が高まると、その魔術的性質を失ってしまう事があげられる。そうなると、少し硬い鉄でしかない。

「……でも、ユキヒトさんなら、何か有効に使えるんじゃないですか?」

「どうだろうな、やってみないとどうにも」

 ファルが一瞬目を鋭くするのに、ユキヒトは穏やかに笑顔で返す。

「……それじゃ、今日は帰ります。剣、ありがとうございます」

「今度は彼女と一緒に来いよ」

「ええと。考えておきます」

 ぽりぽりと頬を掻きながら、ファルははにかむように笑い、席を立った。















 彼は、この世界にあっては、非常に特別な人間であった。かといって、それは、彼が、この世界で並ぶもののないほどの無二の才を持っている、と言う事ではない。

 それは、彼の知識の為のものだった。

 この世界では、魔術と言う便利な技術がごく普遍的に使用されているせいもあってか、学術的な知識の発展が非常に遅れていた。世界はファリオダズマを中心に、天が回っているものだと信じられていたし、物が上から下に落ちるのは、それが当然だと考えられていた。地動説や万有引力と言った、地球では当然の知識が、全く存在しないのだ。この世界にあっては、例えば中学校の理科の教科書でも、禁断の知識の書となるだろう。

 ユキヒトとて、曲がりなりにも最高学府まで進んだ人間だ。この世界では、恐らく、自分こそが最も学術的知識を備えた人間であろうという事は、想像がついた。図らずも、ユキヒトは世界一の賢者になってしまっていたのだ。

 とはいえ、彼は、それを人に教えるつもりはなかった。

 それは、自分だけが知識を独占してしまいたいだとか、特別な人間でいたいだとか、そう言った理由からではなかった。

 世界は、その世界に住まう人々が進めていかなければならない、と思うのだ。この世界にとっては来訪者でしかない自分が、徒に過剰な知識を広めてしまえば、それは、この世界の未来に、夥しい影響を与える恐れがある。蝶の羽ばたきは、やがて嵐を呼ぶかもしれないのだ。ユキヒトには、そんな事に対する責任など、取れはしなかった。

 魔術学院で学んだ際に、魔術、特に魔法陣と科学的知識の重要な関連性にユキヒトは気付き、極めて優れた成績を残していた。

 つまるところ、魔術もまた、一つの技術なのだ。世界の理を理解し、その理の元に術式を組み立ててこそ、効率的で有効な術となる。

 ファリオダズマの魔術は、経験に頼りきったものであり、創造的発展はもはや望みがたい所に来てしまっている。しかし、もしも、彼らが、ユキヒトの持つ科学知識を習得し、それを魔術へと結びつければ、圧倒的な発展が訪れるのは、ユキヒトから見れば明らかだった。

 ユキヒトは、文系の学生であった。必ずしも、元の世界の最先端知識を山ほど抱えていた訳ではなかったが、このファリオダズマの人々とて、知性、という点で、元の世界とそれほど大差がある訳ではない。きっかけさえ与えてしまえば、後は勝手に、研究が進んでいってしまうであろうという事は、想像に難くなかった。

 だからこそ、ユキヒトは、自分の知識を隠した。自分が、技術革命の発祥になるなど、冗談ではなかった。

 ユキヒトは学院の卒業後の進路を、恩のある鍛冶氏の元での修行に決め、その通りに実行したが、学院からすれば、それは極めて優秀な能力の流出であり、未だに、誘いの声がかかるのだ。

 また、魔術と科学の関係性に気づいたユキヒトには、一つ、特殊な能力が身についてしまっていた。そして彼は、その能力にこそ、非常に感謝していた。

「……まあ、とはいえ、並べて世に事は無し」

 ポツリ、と呟くように言って、ユキヒトは、春の暖かな日差しの差す部屋で椅子に座り、カウンターにだらりと突っ伏して、昼寝を始めた。












『艱難辛苦を望んで往く若人へ この剣が君の望む道を切り開かんことを 行人』











[8212] 貴き種族の話
Name: yun◆04d05236 ID:fe1e07cd
Date: 2009/04/25 21:59





 竜はファリオダズマ最強の種族である。

 その通説を否定する者は極めて少ない。

 無理もない事だ。まずもって、単純に質量が違いすぎる。例え力自慢のジャイアントであろうと、自身の質量の30倍以上の巨体から生み出される力にはまず勝てない。更に、体表を覆う硬い鱗。並の剣では、眠っている竜に向けて全力で振り下ろしたところで、剣の方が砕けてしまう。

 そして極めつけは、高い知性と魔力。技術面ではエルフやヒューマンに劣り、特に魔法陣などは文化的にほとんど使用しないものの、その絶対的な魔力量の差で、最高の魔術使いと言う座までつかんでいる。

 ほとんど完全無欠と言っても構わない種族である。しかし、ファリオダズマでもっとも繁栄している種族とは言い難い。

 それは何故か。答えは単純であり、絶対的な数が少ないのだ。

 弱い種族、生き延びるのが難しい種族ほど、種の保存の為に多くの子孫を残すという。強靭な肉体に高い知性、更には長い寿命を兼ね備える竜であれば、ごくごく稀に仲間を増やすだけで種は保存されてしまう。

 竜はそれら全てを含めて、自らを貴種であると自称する。神からの寵愛を受けた種であり、生まれながらに尊い種族なのだ、と。

 とはいえ彼らは、排他的な種族ではない。思い上がった愚者が挑んでくるのを笑って許すような種ではないが、弱きものが助けを請う時、彼らは無償でその絶対的な力を振るう。モンスターの群れに蹂躙されかけた村が、一頭の竜によって救われたというのは、それほどに珍しい話ではない。また、自らが積極的に他の種族と交流しようとはしないが、請われれば公的な場にも姿を出す。その際には、その圧倒的な魔力を使って、ヒューマンと同様の姿をとる。

 また彼らは、宝石などの貴金属類、高価な魔術具などを嗜好することでもよく知られる。

 つまるところ竜は、貴族的な性質を多分に備えた種族であった。

「どうした? その様に妾を見つめて……。いくら妾の美貌に目を奪われるとて、惑うではないぞ、ユキヒト」

 妖艶に微笑むのは、齢百三十を重ねる、正真正銘、純血の竜種の女性である。

 艶やかな銀の髪は、その一本一本が糸のように細く、さらりと長い。綺麗な卵型の顔の輪郭と合わせて、女性であれば誰しもが羨望の溜息をつくほどのものだ。瞳の色はルビーのような赤。竜種には珍しくないものの、ヒューマンには滅多に見られないその色は、姿を変えていても彼女がやはり竜の一族である証明である。鼻筋は綺麗に通り、小さな口元は、意思を感じさせるようにきりりと締まっている。

 その美貌を前に、ややためらいがちな表情で、ユキヒトは重々しく口を開いた。

「シェリエラザード。君が美貌の持主だという事を認めるのはやぶさかではないけれど、女性として見るには少し年齢が足りないかな」

 確かに、美しい。しかし、その美しさは健全な若木のようなそれである。顔立ちも、整ってはいるがまだ幼さが抜けきらない。体つきからも、まだ幼さ故の硬さが取れていない。開花を予感させてはいるが、未だ蕾であった。

 彼女の名は、シェリエラザード。ヒューマンの十倍の寿命を誇る竜族としては、思春期真っ盛りの少女である。ヒューマンの判断基準でいえばあと五年で美女になりそうな彼女ではあるが、竜種である以上、女性としての魅力を存分に発揮するには、少なくともあと五十年は必要なのであった。

「詰まらぬのう……。妾が女として熟する頃には、そなたは男として枯れておるであろうよ」

「シェリエラザードさん……女性が、そう言うような事は仰らないものですよ」

 ノルンが、少し気恥ずかしげにシェリエラザードをたしなめる。それに対して、彼女はころころと笑って見せた。

「相変わらず愛い事を言うのう、ノルン。そなたは妾の許可なく大人になどなるではないぞ。ヒューマンやジャイアントは少し会わぬうちにこの姿の妾の背丈を追い越して面白うない。エルフやドワーフはましなのじゃがな」

「残念ですけれど……ヒューマンは、自分の意思で成長を止めたりできません。竜だってそうでしょう?」

「む……。まあ、そうか。しかし、面白うないのは事実じゃ。何とかせよ」

 長い年月を高い知性を持って生きてきた精神の熟練と、肉体的未熟からくる奇妙なまでの子供っぽさの同居は、幼い竜に特有のものである。

「それで……注文の、礼装用の剣だけれど。出来上がっているよ」

「性急なのはヒューマンの悪い癖じゃ。もう少し、ゆるりと再会を喜ぶ余裕を見せるが良いぞ」

「いや、性急と言われても俺にはこれが商売だからな……。渡して確認してもらうまでは、仕事中だ」

「ふむ……まあ良い。そなたのそう言った生真面目な線引きは、妾も好むところじゃ。妾の剣を持って参れ」

 剣を注文して作って貰ったと言うよりは、本来は自分の持ち物である剣を預けてあったような口振りだ。

 とは言えそれが、尊大にならないのは、貴種として育て上げられた教育の良さの賜物であろう。竜族は、己の力に見合った分だけ誇り高い種族であった。

 ユキヒトが席を立ち工房へ向かうと、例の如く、ノルンがその後ろをとことことついて行く。それを見て、シェリエラザードはにこりと微笑んだ。竜は基本的に穏やかな種族であり、特に弱い者には愛護の念を強く抱く特性がある。ノルンの雛鳥のような行動は、竜族にとっては非常に愛らしく感じるものなのだ。

 工房の棚の上、普段以上に厳重に布を巻いたそれを手に取り、ユキヒトは店頭へと戻った。

 シェリエラザードが差しだす手に、それを恭しく手渡す。彼女は、自らの手で布を解く。

 現れたのは、白を基調とし、金をあしらった文様を施された優雅な鞘。鍔の中心には宝石が誂えられ、柄も鞘に合わせて白。柄頭には小粒の宝石が埋められ、周りはやはり金で覆われている。

 それらは、ユキヒトの作ではなかった。ユキヒトはあくまでも刀剣工房の鍛冶師であり、彫刻や装飾は、自作の武器を少々飾ると言う程度であればこなすものの、本職ではない。

 今回、シェリエラザードの剣において、ユキヒトが担当したのは、その刀身だ。

 彼女は、鍔や鞘の装飾を確かめると、それをすらりと抜いた。その仕草は、熟練した剣士の様に滑らかであり、近寄りがたいほどの整った容姿と相まって、儀式めいた美しさすらあった。

「……ほぅ……」

 シェリエラザードは、その刀身に長く繊細な指を這わせ、初めて吐息を漏らした。

 アダマンタイト製の刀身は、やや青味がかった冷たい光を放つ。直剣、片刃。刀身には竜族言語で彫刻が施されている。柄に覆われて見えないものの、茎にはユキヒトの得意とする魔法陣。効果としては全体の強度を上げるシンプルなものではあるが、魔力との親和性が高いアダマンタイトに施されていることもあり、刀身に一層の凄味を加えていた。

 優雅な外見とは裏腹に、礼装用の剣というレベルには収まらない実戦仕様。それがシェリエラザードの要望であった。

「佳品である」

 愛撫するようにひとしきり刀身に指を這わせた後、シェリエラザードは剣を鞘におさめ、満足気に言った。

 シェリエラザードは、竜族の例に漏れず、眼が肥えている。ユキヒトとしては、己の作った品はあくまで実用品であると考えており、芸術品として評価されたいとは思わないが、その様に自分の剣を眺められるというのも、悪い事ではなかった。

「でも、良いのか? 礼装用の剣なんだろう? あまり実戦的なのもどうかと思うんだが」

「妾は、機能美を愛する。美しい装飾も結構であるが、やはり道具は使えねばならぬ。それに、案ずる事はない。礼装用の剣は、抜かぬことによって礼装用足りうる。抜いてしまった瞬間、たとえなまくらであろうと名剣であろうと礼装用にはならぬ。第一、妾が不埒者の襲撃でもうけ、傷を負うたらどうする。妾を招いたものの体面も傷つくであろうし、その様な事になれば責任問題じゃ」

 事もなげに、シェリエラザードは言う。疑問を覚えない訳ではないが、彼女が良しとするのであればよいのであろうと、ユキヒトは納得する事にした。

「さて、これでそなたの言う仕事は終わった訳じゃな」

「まあそう言う事になる」

「ではこれよりは友と語りあう時間じゃ」

「友、か……」

「何じゃ、不服だとでも申すつもりか?」

 心底以外だという声で、シェリエラザードは言う。傷ついたというよりも、きょとんとしたと言った方が正しいような声だった。

「そんな訳ないだろう。ただ、竜はあまり他の種族に心を開かないと聞いていたんでな」

「そのような事はない。誤解と言うものじゃ。とはいえ、友を選ぶのは何も竜に限った話ではあるまいよ」

「……選んでもらえるほど御大層な人間だとは思っていないんだけどな」

「馬鹿者。そなたはもう少し己を知るが良い」

 柔らかく、シェリエラザードはたしなめる。いかに外見上は子供とはいえ、一世紀を超える時を生きてきた彼女の事、その言葉は無碍にはできない重たさを持つ。

「そなたの作る剣には心が籠っておる。妾など、この剣が言葉を発さぬのが不思議に思えるほどじゃ。その様に佳き品を作る職人は、敬われてしかるべきであるし、わが友とするに何の不服もない」

 財宝の収集家である竜にその様に言われると、流石にむずがゆい。ユキヒトは、少し頬を赤らめた。

「……ところで、じゃ」

 こほんと、シェリエラザードは一つ小さく空咳をして見せた。

「そなた何故、それほどの腕を持っておる?」

「……うん?」

「無論、これがそなたの弛まぬ努力と生まれ持った才の賜物であることを疑う訳ではない。しかし妾の見識からすれば、鍛冶は経験の世界じゃ。故に、名工には長き寿命を持つドワーフが多い。ヒューマンでは、経験が十分に備わる頃には体力が衰えてしまう事が多いのじゃ。そなた何故、それほどの若さにして、熟練の名工に引けを取らぬ腕を持つのじゃ? まして、己で魔術を施す鍛冶師など、そうはおらぬ」

 職人とは本来、専門的なものである。ファリオダズマで理想とされる剣は、ドワーフが鍛え、エルフが魔法陣を施し、ヒューマンが装飾をしたものとされる。ドワーフは魔術を苦手とするし、エルフは力作業を汚れたものとして忌避する。ヒューマンは全てを行うが、それぞれの種族に専門性で敵わないとされるのが一般的だ。

 しかしユキヒトは、剣を鍛え、その上に自分で魔法陣も施す。しかもそれがどちらも、専門とされるドワーフやエルフの一流どころに決して引けを取らないのだ。

「そんなに難しい事じゃない。金属の声が聞こえるんだ」

 ユキヒトは少しだけ意地悪そうに笑うと、ややおどけた表情でそう告げた。

 それを聞いたシェリエラザードは、しばらくきょとんとした後、ふっと小さく微笑んだ。

「職人たるもの、己の技術の秘訣は明かせぬか。もっともじゃな」

 それに対してユキヒトは肯定も否定もせず、笑った。

「とはいえ、珍しいよな。竜族で、そんなに武器職人を評価してくれるって言うのは、さ」

 竜族は、装飾品や魔術用具は嗜好するものの、ジャイアントの様に武具を収集するという事はほとんどない。

 というのも、本来竜族には武装をする必要などそもそもないからだ。

 その鱗を凌駕するほどに硬い鎧も、その爪より鋭い剣も、製作は極めて困難だ。今のシェリエラザードのようにヒューマンの形態を取っている際も、周囲に自身の膨大な質量を転換した、質量を伴う魔力を纏っている。それは、竜の意思一つで結晶化し、最高の盾にも、剣にもなる。そのまま叩きつければ、他の脆弱な種族など簡単に押し潰す事も出来る。

 芸術品の一環として刀剣や鎧を集める者はいても、その機能性を求める竜と言うものを、少なくともユキヒトは知らなかった。

「確かに、妾とて剣を使うよりは元来の姿に戻る方が、戦闘能力としては高い。しかしな、ユキヒト。剣とは、弱き者の向上心の結晶の一つなのじゃ」

「……」

 穏やかな沈黙を保ち、先を促す。満足気に、シェリエラザードは頷いた。

「モンスターに肉体的に勝てぬヒューマンやドワーフも、武器を手にすれば戦う事が出来る。弱さをそのままにして置くものを、妾は許さぬ。それは甘えである。武器を手に取ったものは即ち、己の弱さに克とうとするものじゃ。その心を、妾は尊いものと思う。妾は弱くない。故に、弱き者の事は分からぬ。弱さ故に卑屈になる心など分からぬ。しかし、己が弱さに克とうとするその思いは、美しきものじゃ」

 きっぱりと、シェリエラザードは言って、どうだ、とばかりにユキヒトの目をまっすぐに見つめる。褒められるのを待つ子供のようなその視線にどこか微笑ましさを覚えながら、ユキヒトは微笑んで頷き、肯定の意思を伝えた。

「ところで、今回は一体何の式典に呼ばれたんだ?」

「ふむ。人間とエルフの街が協定を結び技術交換を行うというのでな、立会人として竜の出席を求めてきた」

 外交の締結の際、立会人に竜を立てるのは、珍しい事ではない。古くより竜は他の種族を庇護する立場であるとの姿勢を崩さず、他の種族も概ねはそれを受け入れている。

 とは言え竜の地位も、近年はかつてほどに圧倒的なものではなくなってきている。その象徴の一つが、今のシェリエラザードのように、人前に姿を現す際に人の形態をとる事である。

 実のところを言えば、竜族は遠い昔、一度人の姿をとれば元に戻る事が出来なかった。しかし、ある時から、己の重量を変化させなければ、元の姿に戻ることが可能であると言う事が発見された。とはいえ、人の小さな姿に膨大な質量を詰め込むのには何かと無理を伴い、現在ではその欠陥を補って、周囲に質量を伴う魔力を纏う、という方法で人の姿をとるようになっている。

 それはつまり、質量保存の法則なのだろうとユキヒトは思っている。

 『魔力』という要素は、元の世界には無かったが、このファリオダズマでは、ごく当然のように、物質を魔力に変換する、と言う事が行われている。しかし、おそらくはその物質も、消えてなくなっている訳ではないのだ。目には見えない何らかの形で、魔力以外のなにものかに変換され、空気中に放出されるか何かしているのだろう。

 かつての竜族の変身では、自身の質量を無造作に捨ててしまっていた。その為に元の姿に戻るには、圧倒的に質量が足りなくなってしまっていたのだろうと、ユキヒトは推測している。

「手を取り合うのは良き事じゃ。妾も、停戦協定の仲介などよりはよほど好ましく思う」

 今回の様な平和協定よりも、竜族の仲介を求める事が多いのは、戦争や紛争の終結ないし休止時だ。なぜならば、竜族が立ち会った終戦や停戦の協定を然るべき理由なく破るという事は即ち、竜族の立場を蔑ろにすることであり、その様な事をした瞬間、竜族は傷つけられた誇りの回復の為に行動を起こすからだ。その結果は、他の種族との戦争などより、よほどすさまじい被害を残す事になる。そのため、終戦や休戦の協定に竜の立会人を立てるのは、常識とされていた。

「相変わらず、戦争は多いのか」

「多いな。どうにもこの頃は、北東方面のヒューマンとドワーフがきな臭い」

 種族間の交流は進んでいる。大国の主要都市では、殆ど全ての種族が雑多に住んでいる事が多い。しかしながら、地方へ行けば、未だに種族間の差別や偏見も多く、種族ごとに町や国を作る地域も存在している。

「……ケンカは、嫌いです」

 それまで、邪魔をしないようにとでも言うように静かにしていたノルンが、小さく呟いた。

「妾も必要のない争いは嫌いじゃ」

「……必要な争いなんて、あるんですか?」

 争いの嫌いなノルンが、僅かに不快感をにじませた声でシェリエラザードに問いかける。シェリエラザードは、泰然と頷いた。

「ノルンは、ユキヒトと喧嘩をした事はないか?」

「……? いいえ、ありますけれど……」

「親しき仲でも喧嘩はする。それは、他人と共に生きる以上は止むを得ぬ事じゃ。時には喧嘩をしてでも、己の想いを相手にぶつけねばならぬ時もあろうよ」

「……そう言う事なら、分かる気がします」

「うむ。ノルンは賢いな」

 よしよし、と、シェリエラザードはノルンの頭を撫でた。ノルンは僅かにくすぐったそうに身をよじるが、結局はシェリエラザードのなすままに撫でられていた。

 そのまましばらく、三人はどうという事もない世間話に花を咲かせた。普段はおとなしいノルンも、少しはしゃいだ様子で、諸国を渡り歩くシェリエラザードに、様々な街の話をせがんだ。

 結局そのまま日が暮れて、シェリエラザードは刀剣工房『コギト・エルゴ・スム』に一泊していくこととなった。












「世話になったな。それでは妾は行く。見送りはここまでで良いぞ」

 刀剣工房『コギト・エルゴ・スム』の外、シェリエラザードは見送りに出てきたユキヒトとノルンに告げた。

「気をつけてな、シェリエラザード。いくら君でも、その姿のまま斬りつけられたりすれば、流石に危うい」

「うむ、妾とて分かっておる。案ずるな。妾はまだ死ぬつもりはない」

 にこりとシェリエラザードは笑う。竜は基本的に善意の種族ではあるものの、様々な紛争地に顔を出す事に違いはなく、逆恨みを買う事も少なくはない。

「では、離れておるが良い。危ないぞ」

 シェリエラザードは工房の隣、燃料とする為にユキヒトが樹を切ったため広く開けているあたりへと歩いて行く。何を始めるかを知っているユキヒトは、礼儀正しく後ろを向いた。

「見るでないぞ。こちらを見れば、ユキヒトと言えど許さぬ」

「分かってるよ。もうとっくに後ろを向いてる」

「……そなたは詰まらぬ男じゃ……」

 全く矛盾した事をシェリエラザードは言う。ノルンが、不思議そうに首を傾けた。

「………おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」

 シェリエラザードが、雄叫びを上げる。その瞬間、光が弾ける。ユキヒトは、ぎゅっと、目を閉じた。

『良いぞ。こちらを向くが良い』

 シェリエラザードの声が、上空から聞こえてきて、ユキヒトは振り返った。

 そこにそびえるのは、幼いとはいえ、小さな家ほどの大きさもある竜であった。銀の鱗を全身に纏い、赤い目の竜だ。

 先程シェリエラザードが後ろを向けと言ったのは、服を脱ぐためだ。服を纏ったまま竜の姿に戻ったのでは、服が裂けてしまう。そうなれば、次に人の姿に戻る時に着衣に困る。

 竜の姿になったシェリエラザードの威圧感はやはりすさまじい。しかしユキヒトは、臆する事なく笑った。

「相変わらず、見事な鱗だな」

『そうであろう。三国一の美女と名高い姉上の、百年前の生き写しと呼ばれるこの身じゃ。もったいないのう。そなたがヒューマンでなければ百年後にはまたとなきほどの美を見られたのじゃぞ』

 ヒューマンの身には、スケールの大きすぎる話だ。ユキヒトは苦笑した。

『さて、ユキヒト。妾から友情の証として、これを贈る』

 そう言ってシェリエラザードは、その巨大な手を差しのべた。

「これは……君の鱗か!?」

『うむ。この間鱗が生え変わった折に抜け落ちたものじゃ。持って行くが良い」

 ユキヒトは手を伸ばすのを躊躇ってしまう。

 竜の鱗は最上級の素材だ。もしも仮に売りに出せば、一般的な家庭が数年ほども生活できるだけの値段がつく。もっとも、竜の鱗が売りに出される事は滅多にない。

 竜の鱗を手に入れるには、竜を討伐、ないしある程度の傷を負わせるか、そうでなければこの様に竜自身に贈られるしかない。

 竜は弱者を保護するとともに強者を敬う性質がある為、同族を討伐したとしても、それが卑劣な手段によるものでなければ報復に出る事はないものの、そもそも討伐が不可能にも近い難事だ。

 また、竜に贈られた物を金に換えるなどと言う不敬をする者は、そうそういるものではない。その様な者に竜が己の鱗を贈る事もない。

『良い。そなたは妾の良き友じゃ』

 再度、促すように手を突き出してくるシェリエラザードに、躊躇いがちながらユキヒトは手を伸ばした。

『うむ。その鱗を用いて、佳き剣を作るが良い』

「ありがとう。そうだな。いつかもっと腕をあげたら、その時は自分の最高傑作に挑戦させて貰うよ」

『出来上がったら妾にも見せるが良い。楽しみにしておる』

 竜に戻ってしまった彼女の表情は、流石に読みにくい。しかし、笑っているに違いないとユキヒトには思えた。

『それではな。また会おう』

 傍らに置いてあった、人の姿をしていた際に携帯していた道具や服を入れた袋をつまみあげ、シェリエラザードが羽ばたく。凄まじい風が起こり、ノルンはユキヒトの服をギュッと掴んだ。

『さらばじゃ』

 凄まじい振動を起こし、シェリエラザードが大地を蹴る。そして彼女は、大空へと飛び立った。

 蒼穹に銀の竜が舞う姿は、例えようもなく美しいものだった。

 目が見えないノルンには、それを見る事が出来ない。それを伝える言葉すら、ユキヒトは持たない。それが歯がゆかった。

 何を思ったのか、ノルンは、にこりと笑った。

「とても綺麗な風でした。シェリエラザードさんが飛ぶ時の風が、私は大好き」

 その言葉を聞いてユキヒトは、こみあげてくる何かをこらえる様に、ぽん、とノルンの頭に手を置いた。














『いと貴き竜の幼き佳人へ 貴女の如く強く典雅な剣であらん事を 行人』








[8212] 汝は人狼なりや
Name: yun◆04d05236 ID:fe1e07cd
Date: 2009/05/31 17:06




 そもそも、モンスターとは何か。

 怪物。化物。異形の物。神に祝福されぬ生物。悪魔の産物……。

 様々な言われ方をするものの、いずれも何一つ明確な基準を示してはいない。

 とはいえ、ファリオダズマにはモンスターという存在に対する定義が存在する。

 曰く、魔術的要素を備える生物であり、同種族間以外での意思の疎通を行う事が出来ず、主に他種族に対して害を為す存在であること。

 例えば狼は他の種族と意思の疎通を行う事が出来ず、時として害を為す存在でもあるが、魔術的要素を備えていないためにモンスターではなく獣である。逆に子鬼と呼ばれる事もあるゴブリンは、ごく初歩的な魔術を扱うなど魔術的要素を備え、ゴブリン同士以外での意思の疎通を行うところを少なくとも確認されておらず、他種族に対して非常に攻撃的であることからモンスターである。

 とはいえこの様な定義は、大国の法律に定めるものであり、必ずしも絶対的に浸透しているものとは言い難い。辺境では竜をモンスター扱いする土地もあるし、極端になれば自分の所属する種族以外のすべてをモンスターとして扱うような場所すらある。

 その様な中で、ヒューマンとエルフは比較的モンスターとしては扱われない種族である。

 なぜか。それは、ヒューマンはファリオダズマで最も数の多い知的生物であり、エルフはそのヒューマンと非常に似通った容姿を持つためである。

 多数派は数を頼りに少数派を迫害する。それはいつの世も変わらない事だ。

 そして、見分けがつかないほどに似通っていれば親愛の情もわくが、中途半端に似通ったものはむしろ憎悪を招くというのもまた、一つの真理である。

 獣人種は自らそれを望んだことはただの一度もないが、常にそれを実証してきた。

 獣人にも大きく分けて二種類ある。普段はヒューマンと変わらない容姿をしているが、獣あるいは半獣半人の形態をとる事が出来る種族と、普段から半獣半人の姿をしている種族だ。特に強く迫害されたのは、前者である。隣でごく平凡に暮らしていた青年が、ある夜恐ろしげな獣の姿をしていた。それは確かにヒューマンの感覚では、そして知識がなければ、強い恐怖を呼び覚ます現象であろうが、かつてヒューマンの街では、その様な事が発覚すれば獣人はほぼ例外なく処刑されるという時代があった。

 長い長い抗争の歴史は続いたが、少しずつ対話も試みられるようになった。お互いがお互いに嫌悪感を持っていたのは紛れもない事実であったが、それにしてもお互いに与えあう被害がひどすぎた。これ以上の抗争はお互いの種の存続にかかわるというところまで行って、ようやくヒューマンと獣人は一応の和解を得た。

 しかしエルフは獣人を『野卑で品性下劣な蛮族』と忌み嫌い、最後の最後まで獣人を自分達と同等の知的生命と認めようとしなかった。結果、大都市ではヒューマンと獣人がごく普通に隣人として暮らしている現在においても、エルフと獣人は基本的に仲が悪い。

「……しかしそれは不合理と言うものだと思う。違うかな、ユキヒト」

 しかしどんな種族にも変わり者はいる。精悍な狼の顔に知的な銀縁の眼鏡をちょこんと乗せたワーウルフの青年は、滔々と続いた歴史の解説からついに自説の披露へと段階を移そうとしていた。

「我々は共通の言語を使う事が可能であり、交配すら可能なのだ。これはもはや同一の種と言っても過言ではない。少々の見た目の差異などそれこそ個性で片付けられるものだ。そも、エルフは我々を野蛮と言うが、それは常に迫害され、武器を手に取らなければ生き抜くのも難しく、文化的な成熟など望むべくもなかった時代の話に過ぎない。現在アカデミーに学ぶ獣人の数は、相対的に見てエルフやヒューマンに必ずしも劣るものではない。種として獣人が知性的に劣っているなどと言う事は断じてないのだ。もしもエルフが偏見にとらわれ、そう言った事実を鑑みることなく我らをモンスター扱いするというのならば、それこそ品性下劣と言うものだ」

「……アルディメロ。俺としては別に獣人を差別してるつもりはないんだから、講義はエルフの差別主義者の前でやってくれ……」

 延々と語り続けるアルディメロに、ユキヒトは深いため息をついた。

 その態度に、絶好調で自説をぶっていたアルディメロが、若干傷ついたようにうなだれる。

「……過ぎた知性もまた、迫害の因と言う事か」

「……」

 こいつ本当は全く傷ついていないんじゃないだろうかと、いささか疑いの目で見てしまうユキヒトだった。

「……私はアルディメロさんのお話、好きですよ」

「おお、ノルン。汚れなき魂を持つ者。君の様に理性的なものは、君のような歳には非常に珍しい。ご褒美に私の毛でもふもふして良いぞ」

「本当ですか? ありがとうございます」

 例によって椅子に座るノルンの前に、アルディメロは姫君にかしずく騎士のように首を垂れる。ノルンは、その頭のふさふさした毛を撫でて、その感触に微笑んだ。

 ノルンが言う事には、アルディメロの毛は柔らかく、撫でていてとても気持ちが良いのだそうだ。断固として犬よりは猫派のユキヒトにとっては、別に羨ましくない。アルディメロ本人に言えば、私は犬ではなく狼だと言って憤慨するのは間違いないため、あえて口に出そうとは思わなかったが。

「武器を取りに来てるのか講義をしに来てるのか分からなくなる奴だな、お前は」

「無論、両方だ。理性によりこの世の蒙を啓くのは知識人の義務であるが、同時に鉄拳を以ってしか正せぬ非道もある。言葉の力は偉大であるが、言葉しか力を持たぬのでは難しい局面があるのもまた事実」

「……だからってこの剣は知識人の使うものとしていささかどうだろうと思うんだが」

 到底腰に差す事など不可能な、背中に背負う為の大剣。湾曲したそれはシミターと呼ばれる片手剣に近い形状だが、ヒューマンの身では到底片手で扱う事は望めまい。片刃の刀身はぎらりと鈍く光り、抜いただけで山賊も逃げ出しそうな凶悪な剣であった。

「分かっていないな、ユキヒト。剣など暴力的な形であればある程良い」

「乱暴な奴め」

「馬鹿を言うな。これだけ凶悪な武器を持っている相手を暴力で屈服させようなど、馬鹿のやる事だ。故に、この剣を持っているというただそれだけで、無駄な戦闘がいくらか回避できるのだぞ」

「……前にヒューマンの使う片手剣は軽過ぎて木の一本も切り倒せはしないって嘆いていなかったか」

「無益な戦いの回避のためには、少々の威圧は必要であろう。言葉で言って分からぬ馬鹿を理性的に説得するには、聞く耳を持たせねばならぬ」

「理性的に説得、ねえ……」

 ユキヒトは以前、彼と共に道を歩いていて山賊に襲われたことがある。その経験からすれば、ユキヒトとしてはため息をつかざるを得ない。

「『噛み砕くぞ、この屑が』」

「……」

 吐き捨てるように言ったユキヒトの言葉に、ついとアルディメロは目をそらした。

「これが理性的な説得の言葉かね」

「いささか言葉が荒かった事は事実であろう。しかし私の意思はあくまで争いを避ける事にあった。あの状況においては圧倒的な力の差を自覚させることこそ争いの回避のための最善の手段であった」

「……まあ、そう言う事にしておくか」

「そう言う事にしておくも何もそれが事実だ」

 やれやれとユキヒトは肩をすくめる。その態度がアルディメロには少々気に食わなかった様子だったが、食ってかかるような事はしなかった。

 獣人種とヒューマンやエルフが長い長い年月を和解出来ずに過ごした原因は、三つあると言われている。

 一つに、ヒューマンの恐怖心。一つに、エルフの差別心。そして最後に、獣人の短気。

 いかに知性の鎧を纏おうと、その性質までもが容易に変化するものではなかった。

「……でも、実際にはアルディメロさんは乱暴な事をしなかったんでしょう?」

「うん? まあ……山賊は全力で逃げ出したからな。乱暴な事をする暇もなかった」

「じゃあ、アルディメロさんは優しい人です」

 穏やかに笑いながらノルンは断言する。

「……おお、ノルン! 心優しき者よ! 我が感謝はもはや言葉などという不完全な伝達手段をもってしては表わす事が出来ん!」

 跪いて手を取らんばかりのアルディメロを、苦笑いしながらユキヒトは見ていた。

 実際のところ獣人種の短気と言うのは、敵対する者に対してのみ発揮されるものである。

 獣は無為に争わない。食いもしない獲物をとる事もない。群れるのは、そうしなければ生きていけないからだ。それならば、群れの仲間を大切にしない筈もない。一方で自らを害そうとするものは全力を持って排除する。

 野生の本能を人間やエルフよりも強く残す獣人だ。そういった性質も強く持っている。だからこそユキヒトも安心してからかえると言うものだ。本当にただ短気ならば、殴りつけただけでそこそこに太い木をなぎ倒すような男と安心して会話など出来ない。

「それで、アカデミーの方はどうなんだ」

「悪いな。どうにもならん」

 ユキヒトの言葉に対してアルディメロは、即座に冷たい声で切って捨てた。

「全くこの世は不思議に満ちている。しかし解き明かせない不思議はない。それには何よりも諦めぬ信念と情熱が必要だと言うのに……。魔法に頼り過ぎればヒトは堕落する」

 アカデミーとはこの世界の学術機関である。最重要技術である魔法研究も、非常に盛んにおこなわれている。そう言った意味で、ユキヒトが学んだ魔術学院との交流も深いのだが、魔術学院が魔術の行使などの実践を重んじるのに対して、アカデミーはその理論を解き明かそうとする機関だ。そこには似て非なる性質があった。

「何故と問いかける事をやめてはならぬ。確かに究極の根源においては、その様に定まっているのだと結論せざるを得ない事もあるかも知れぬ。しかし我らは未だそこに至ってなどおらぬ。皆が何故この程度の段階で、問いかけをやめてしまうのか。私には分からん」

「……」

 ユキヒトは曖昧な笑顔を顔に張り付けたまま、それを聞いていた。

 ユキヒトの生きていた世界、魔法の無い世界でも、彼のような者たちが世界を進めて行ったのだろうかと思う。

 そして同時にひどく申し訳ないような、自分が不正をしているような気持ちにもなる。

 自分はおそらく彼の様々な問いにヒントを与えられる。彼にとって喉から手が出るほどに欲する知識を、大量に持っている。

 しかしそれを開示してはならないのだ。たとえ彼が見当違いの方向へ走っている時であろうと、それをそうと教えてはならない。

 そして彼ならば、いつか自分が誤っていたことに気付き再び別の方向へ走り始められる。ユキヒトはそう信じている。

「おお、そうだノルン。ユキヒトから果実酒を馳走になる約束をしているのだが、取ってきてはもらえんか?」

「……はい、分かりました」

「一人で大丈夫か?」

「大丈夫です」

 アルディメロの言葉に従って、ノルンはゆっくりと立ち上がると、家の奥へと向かって行った。

 パタンと扉が閉められるのを確認して、ユキヒトは口を開いた。

「……察するぞ。あの子は鋭い」

「良いのだ。ノルンには聞かせたくない話をしたいと言う事をあの子自身が理解してくれるならば、それが一番良い」

「俺としては、ノルンには聞かせたくない話はしたくないな」

「私のわがままだ。付き合ってくれ」

「……仕方ないな」

 やれやれと、ユキヒトは胸の前で腕を組んだ。

「……いつまで、こんな山奥に閉じこもっているつもりなんだ」

「分からない。ノルンがもう少し丈夫になって、町でも暮らせるようになるまでかな」

「……あの子は賢い。が、賢すぎて少々臆病な子でもある」

「……」

「事情は知らぬでもないが、結局のところそれはノルンの為にもならぬのではないか」

「……」

 彼がこういった事を言い出すのが、予測できなかった訳ではない。かと言って答えを用意していたのかと言うと、そんな事もない。

 お互いに言葉はない。沈黙だけがその場を支配していた。

「時間が必要なんだ。時間が解決してくれるはずだし、時間以外によっては解決されない問題なんだ」

「それは違うぞ、ユキヒト。問題を解決するのはいつでも意志の力だ。例え今は問題に向き合うだけの心になっておらずとも、いつか時が来れば向き合わねばなるまいよ。そうして乗り越えて初めて、問題は解決されるのだ」

「耳が痛いな」

 彼の言う事はいつでも正しい。だからこそ、彼の言う事を聞きたくない事もある。ユキヒトは苦く笑った。

「……それでも、今はまだ難しい。ノルンも……俺も」

「……仕方がないな」

 ふぅーっと、細く長くアルディメロは息を吐いた。

「責めている訳ではないのだ、ユキヒト。ヒトは己の事を己で決する権利を持つ。ユキヒトが真にそれを望むと言うのであれば、この山奥の時間の止まったようなこの家でただ静かに暮らしていくのもまた良い事であろう。ノルンもまた、それに反対するような事はあるまい」

「分かってる。ただ、まだ……今は……」

「……すまないな。金剛石が泥の中に埋もれていると知れば、掘り出したくなるのがヒトの性と言うものだ。たとえその金剛石が泥の中で、再び輝く時を自ら待っていると知っていたとしてもだ」

「ありがとう、と言っておくよ」

 なんだかんだで彼は、ユキヒトを高く評価してくれている。照れ隠しに笑いながら、ユキヒトは返事をした。

「……ごめんなさい、ドアを開けてください」

 それからしばらく沈黙の後、ドアの向こうからノルンの声がした。

 なぜわざわざドアを開けさせようとするのかと少しだけ訝しく思いながら、ユキヒトは言われたとおりにドアを開けてやった。

 そこには、お盆にアルディメロ所望の果実酒だけでなく、いくらかのつまみになるものと、生のフルーツや絞り器、そして少しのお菓子といったものを満載にして運んでいるノルンが立っていた。

「二人だけで楽しむなんて不公平です。私にもジュースを絞ってください」

 にっこりと笑って、ノルンはそれをカウンターに置いた。

「おお、ノルン。すまなかった。そんなに重いものを少女に持たせて大人二人が座っているなど、実に無神経。許してくれ」

「いいんです。私だって、おうちの中のお手伝いくらいできるんです」

 早速世話を焼こうとするアルディメロをやんわりと押しとどめて、ノルンは定位置である自分の椅子に座った。

 二人の為に果実酒をつぐと言う事はない。それは何も二人が昼間から酒を飲もうとしているのを批判するためではなく、こぼしてしまう可能性が高いからだ。

 初対面の人間が思うほどに何もできない訳ではないノルンだが、ごく普通の人間が当たり前にする事全てを簡単にできる訳でもない。

「……オレンジでいいか?」

「はい!」

 好物のジュースを前にして弾んだ声を上げる少女に、大人二人はこっそりと目配せをしあい、苦く笑った。











 アルディメロはその後しばらく果実酒を堪能した後、日が傾かないうちに刀剣工房「コギト・エルゴ・スム」を出た。

 山奥とはいえ、何日も歩かなければ人里にも出られないような真の僻地ではない。山道を小一時間も行けばふもとの村にたどりつける程度のものだ。そこから馬車を使えば、比較的大きな街へ行って買い物をし、その日のうちに帰ってくることも不可能ではない。

 酒に強いアルディメロの事、少々の果実酒程度で山道を踏み外すような事もない。ユキヒト作の凶暴な剣を背に、揚々と帰って行った。

「……」

 アルディメロを見送った後ノルンはユキヒトの背中に顔をうずめる様に後ろからぎゅっと抱きついた。

 ごめんなさいと小さく呟く彼女に、何も謝る事はないんだと返して、ユキヒトは彼女の頭を撫でた。












『常に賢き人狼へ 貴方と共にこの剣が力の正しき使い道を示さん事を 行人』







[8212] 蓼食う虫も食わないもの
Name: yun◆04d05236 ID:fe1e07cd
Date: 2010/09/01 19:06

「……のわあああああああああああああああ!!」

 とんでもない声をあげて、少年がドアを開け室内に突入するなり、そのままカウンターを乗り越えて住居部分につながるドアへと突撃していった。

「いいですか!? 僕はここに来ませんでした!」

 叫びつつ、少年は家主の了解も得ずに住居部分へと逃げこんでいった。家主とて止める間の無い、まさにそれは疾風迅雷の動きであった。

「……ノルン」

 事態の割には落ち着いた声で、ユキヒトは同居する少女に呼びかけた。

「何でしょうか?」

 盲目の少女もまた、自らの定位置であるお気に入りの椅子に座ったまま、ゆったりとした声で返事をする。

「無理があるな」

「はい」

 二人が頷き合ったところで、こんこん、と、上品に扉がノックされた。

「どうぞ、あいています」

「お邪魔するわ」

 現れたのは、長い黒髪が目を引くヒューマンの少女だった。

 一言でその容姿を表現するならば、「隙のない近寄りがたい美人」と言ったところだ。

 その黒髪は相当に気を使って手入れをされているのだろう。傷んだ様子など全く見せず、闇を糸にしたような見事な漆黒だ。さらりとしたその髪は背中の半ばまで伸ばされている。肩にかかる髪を背中に流すしぐさなどには、年齢以上の女性らしさを備えている。

 全体としてすらりとした少女で、背も高い。顔立ちも、ほっそりとした輪郭と言い、ややつり気味の目元と言い、どこか冷たい印象の、年齢よりは良い意味で年上に見える美少女である。

 少女は、ノルンとユキヒトを順番に視界におさめた後、居住部分へとつながるドアに目をやりつつ口を開いた。

「ここに逃げ込んだ私の下ぼ……恋人を引き渡してくれないかしら」

「自分の恋人の事を下僕って言いかけなかったか」

「そんな些細な事はどうでもいいと思わない?」

 取り繕うでも誤魔化すでもなく、心の底からそんな事は些細な事だと考えている声で言うと、少女は一つ溜息をついた。

「引き渡さない場合は、貴方も敵とみなすわ」

「自分の恋人の事を敵扱いしていないか」

「些細な事ばかりを気にかける人ね」

 詰まらないと言う様に目を細めて、じろりとユキヒトを睨みつける。整った容貌をしているだけに、そういった冷たい表情が、彼女には殊の外似合った。

「とはいえ俺たちは事情も知らない恋人同士の喧嘩でどちらかに加担するような事はしたくない。勝手に逃げ込んだファルがどこにいるのかは分からないけど、入って探してもらっても一向に構わないぞ」

「ありがとう。それじゃ早速」

 そう言うと少女は、居住部分につながるドア……ではなく、自分がつい今しがた入ってきた、外へとつながるドアを開けた。

 そこには、こっそりと抜き足でどこかに逃げ去ろうとしている、先程逃げこんできた少年、ファルの姿があった。

「ファルくんのそう言う姑息で抜け目のない所、私は好きよ」

「……ブレンヒルトのそう言う理不尽なレベルで鋭い直感が僕は脅威だと思ってるよ」

 ブレンヒルト。それが少女の名前だった。

 ファルの恋人であるヒューマンの冒険者。刀剣工房『コギト・エルゴ・スム』の顧客の一人であり、冒険者としての実力は恋人であるファルにも引けを取らない。

 ブレンヒルトは、じわりと汗をかきながらじりじりと後退しようとする恋人に無造作に近づきながら、物憂げに息をつきつつ言った。

「直感な訳ないでしょう? 私は貴方の気配なら、それこそ髪の毛一本が床に落ちているのすらも見逃さないわ」

「泣きそうだ! でも感動のせいか恐怖のせいかは分からない!」

「貴方が眼から体液を垂れ流す理由なんて知る訳ないわ。歓喜じゃない?」

「知らないとか言いながら勝手にレベルアップさせるな! あと体液を垂れ流すとか言うな! 涙がものすごく汚らしい物みたいだ!」

「何を言っているの。涙なんて魔術による解析によれば所詮汗や……」

「その先を女子が口にするのは絶対に止めろ!」

「女というものに対して幻想を抱きすぎね。これだからまともに女の子と付き合ったこともない男は」

「現在進行形でその男と付き合ってる女にだけは言われたくないな! ついでに僕の女の子に対する幻想はお前の手によってものすごい勢いで破壊され続けている!」

 こそこそと逃げ出そうとしていた割には随分と白熱した口調で、ファルは次々と突っ込みを入れて行った。しかしブレンヒルトはと言えば、涼しい顔をまるで崩そうとしない。

「ところで剣の作製を依頼に来たわ」

 これまでの流れを一切無視した上で、ブレンヒルトはユキヒトへと向き直って言った。

「ファルくんの剣の出来はとても良かった。そう……思わず取り上げて主に私が使ってしまうくらいに」

「……方向性としては同じでいいのか?」

「そうね。ただ、もう少し長めのものが良いわ。それと私はあまり直刀は好きでないの。あと、ファルくんは突きも結構多用するけれど、私はほとんど使わないわ」

 ファルに対する扱いはひとまず無視をして、ユキヒトはブレンヒルトの注文を頷きながら聞いていた。そのファルはと言えば、ブレンヒルトの注意がそれたように見えるものの逃亡を再開する様子はなく、恐る恐る部屋の中へと入ってきた。

「素材は? 鉄でいいのか」

「鎧亀の甲羅は用意したわ。後は少しだけれどオリハルコンも」

 オリハルコンは、武具素材として広く使用される魔法金属である。

 ミスリルほどの魔術に対する親和性はないものの、ミスリルとは違い合金にしてもその性質を失わないという特質を持ち、また金属として見れば硬度そのものはそれほど高くない事から、主に鉄やその他金属との合金として使われる事が多い。

 その性質から必ずしも武具を丸ごと作れるだけの量が必要と言う訳ではなく、汎用性は高いものの、どの金属と混ぜ合わせるか、またその比率をどうするかによってがらりと仕上がりを変えてしまう奥の深い素材でもある。

「……同じ仕様と思わせておいて微妙に上質に仕上げようとするのは何のこだわりなんだ」

「私負けず嫌いなの」

 ブレンヒルトの態度は、あくまでも淡々としていながらそこかしこに悪意が漏れ出る。ここまで来ると、ファルと付き合っているという事実でさえも彼に対する壮大な嫌がらせなのではないかとすら思えた。

 とは言え注文は注文である。その背後に明確に犯罪の影でも見えていない限りは、断る理由もない。

「それじゃあ報酬だが……」

「前回から違いは?」

「ない」

「じゃあいいわ。覚えているから」

「……そうか」

 こうやって遮られない限りは、ユキヒトは例え常連客相手であっても報酬の説明をする。

 金がなければ生きていくのは極めて困難だが、かといってそれで人間関係を壊すような事はしたくない。だからユキヒトは、報酬についてはしっかりと説明した上で仕事を引き受ける事にしていた。毎回遮られようと省略する事はないし、前回から変わっていれば例え相手がそれを拒もうとも説明する。

「それで、ファルは何か注文はあるのか?」

「いえ。今日の僕は単なる付添いです」

「……付添いってのが追われて逃げ回るって言う意味も持ってたってのは今日初めて知ったよ。で、理由は一体何なんだ」

「だってファルくんったら私が家で待っててねって言うのに勝手に外に出ているんだもの」

「三日間の探索に出るのに彼氏を家に閉じ込める彼女がいるか! 結構全力を出さないと脱出もできなかったぞ!」

 ユキヒトの問いかけに答えたブレンヒルトに、ファルが再び全力で突っ込みを入れる。

「食料と水は用意したわ」

「そう言う問題じゃないうえにそれはもう三か月前の話だろ。何でまた今日になっていきなりそれで僕を責め始めたんだよ……」

「ユキヒトさんのところにはノルンがいるってことを意識したら、つい」

「一体それのどこがトリガーなんだ!」

「私のせい……ですか?」

 自分を責めるような口調ではなく、むしろきょとんとしたと言ったような声色で、ノルンが言う。

「貴女が引き金になってファルくんが私に追われることになったというだけのことよ。もしも貴女が存在しなければ今日ファル君が私に追われる事にはならなかったというただそれだけのこと」

「お前のせいだとか断定するよりもさらにたちが悪い!」

 まったくもってその通りだったが、ノルンはくすくすと笑った。

「あいかわらずお二人は面白いです」

「貴女を楽しませてあげようなんて考えた事は、私、これっぽっちだってないわ」

 あくまで冷たく素っ気なく、平坦な声でブレンヒルトは告げる。そこには何かを取り繕うという意思は、かけらほども見られない。

 それでもノルンはひるまない。相変わらず楽しそうに、くすくすと笑っていた。

「嘘でもいいからそこはノルンちゃんを楽しませてやろうとしていたってことにしてくれよ……」

「随分とノルンを庇うわね。これは、制裁が必要かしら」

「待て! なんで僕の方じゃなくてノルンちゃんの方を向いて言う!」

「え、だってそっちの方が効果的じゃない」

「お前どのレベルで僕を苦しめたら満足するんだよ!」

 到底恋人同士である二人の会話とは思えないが、この二人の会話は、概ねいつもそのようなものであった。稀にファルに行くべき被害が飛び火する事はあり、そう言った時は流石に抵抗するものの、ユキヒトは実行に移そうとしない限りブレンヒルトがどれだけ物騒な事を言い出しても気にしない事にしていた。

 問題は、ブレンヒルトが余り冗談を言う性格ではなく、ファルがうまくフォローを入れてくれなければかなりの確率で被害が来ることだったが。

 その時、再びノックの音が部屋に響く。

「はい、どうぞ」

 鈴を鳴らすような声でノルンが答え、扉が開く。

「……あれ、今日ってば千客万来」

 入ってきたのは、身長30センチほどの小さなヒトだった。その背中には小さな羽根が生えており、空を飛んでいる。

「とりあえずはじめまして。あたいってばフェアリーのデジレ。以後よろしくお見知り置きのほどっていうんだっけか、こういうとき」

 ふわふわと飛んでファルとブレンヒルトの傍まで寄ると、フェアリーはぺこりと頭を下げた。

 フェアリー族。ヒューマンよりはるかに小さくひ弱な種族だが、その分平均的に高い魔力を備える。ノックも、扉を開けたのも、どちらも魔術を使ってのことだ。そうでなければこの様に小さな生物に、部屋の中に響くほどのノックをすることも、ヒューマン用に作られた扉を開ける事も出来るはずがない。

「あら、ご丁寧にありがとうございます。はじめまして、私はヒューマンのブレンヒルト・ディングフェルダー。ミュンファーに生まれ現在ベルミステンの冒険者協会に所属しています」

 ブレンヒルトは、柔らかく微笑み、礼儀正しくゆったりと一礼をすると、穏やかな口調で名乗りを上げた。

 驚愕の変わり身だったが、それに対して指摘を入れる者は誰もいなかった。

「僕はヒューマンのファル・オーガスト。クレイトスの生まれで現在は同じくベルミステンの冒険者協会所属です」

「おやや。あんたたちこそずいぶんご丁寧なお人たちだね。となるとあたいもちゃんと名乗んなきゃだめかしらん。あたいってばデジレ・エイジェルステット。フォリスタワルト大森林生まれ、ベルテチカの冒険者協会に所属の冒険者なんだわ」

 こちらはどちらかと言うと純朴に、先程同様にぺこりと頭を下げる。元々礼儀であるとかそう言ったものと縁の深い個性ではないのだった。

「ユキヒト、ユキヒト。あたいってば剣の注文に来たんだけど、この人たちもそうかしらん?」

「ああ、そうだ」

「そっかそっか、ご同業だもんね、そりゃ当り前だ」

 今度はユキヒトの顔の前まで飛んでいくと、あっけらかんと言う。

「デジレさんは、フェアリーの割に随分と……開放的なんですね?」

「ん? あたいってばつまはじき者だからね。エルフさんたちと一緒に毎日毎日森林浴って柄じゃなかったんだわ。まあたまには森に帰らないと魔力が補給できなくて干からびて死んじゃうけどね。その点ここはお気に入りだわさ。ヒトの手が入り過ぎてないさね」

 遠慮がちに言葉を選びつつ指摘するブレンヒルトに対して、からからとデジレは笑う。

 フェアリーとエルフは、余り故郷の森から出ようとしない。特にフェアリーは森にいる間はその加護を受ける事ができ、相当の魔法を遣う事が出来るが、森を出た瞬間からその加護を失い、通常の種族なら何もせずとも魔力は体力同様少しずつ回復するはずが、少しずつ魔力を消耗し、流石に一日や二日といった時間でそうなる事はないものの、最終的にはデジレの言う通り干からびて死ぬ。

 その存在自体を大きく魔力に依存し、森の持つ生命力や魔力と同調する事により生きていくことのできる種族。それがフェアリーだ。

 特性からしてそもそも森の外に出る事は少なく、そして森の中という狭いコミュニティーで生き続けたことから育まれたのか、閉鎖的な気質を有する種族であった。
 
「んで、ユキヒト。ミスリルが手に入ったからこれで短剣作って」

 にかっと笑うと、デジレは背負っていた袋から、鈍い光を放つ金属を取り出した。

「ちんちくりんってのもたまには役立つもんだわ。あたいってば武器やら作ってもらうのに材料費の安いこと安いこと。ま、流石にミスリルで作ろうと思うとちょっとかかるけどね。短剣が精一杯」

 実際、デジレの取り出した金属の塊も、ヒューマンであれば短剣など到底作れるような量ではなかった。せいぜい食事用のナイフでも作れるかどうかという量だ。

 しかし、フェアリーならば十分短剣を作れる。デジレの言は全く正しかった。

「細かい事はあたい分かんないし、全部お任せ。んじゃまよろしく」

「え? もう行ってしまうんですか?」

「ごめんよノルン。あたいってばここんとこしばらく街暮らしだったからさ、久しぶりの自然でテンション上がってるんだわ。森があたいを呼んでる! あとでもっかい来るから、その時ね!」

 残念そうなノルンに対して、少しも躊躇することなく告げると、デジレは入ってきた時同様、魔術で扉を開けてさっさと出て行った。

「……落ち着きのないフェアリーね」

 とたん、表情がすとんと抜け落ちたブレンヒルトが、容赦のない批評をした。

「お前のその芸はいつ見ても見事だと思う」

「私の売りだもの」

 ユキヒトのちょっかいに、怒るでもなく平然と返す。

 ブレンヒルト・ディングフェルダー。冒険者協会の前に学んでいたスクールでは優等生の呼び声高く、また面倒見が良く、相談に親身に応える優しさ、また間違いを堂々と正そうとする芯の強さから後輩の人気も高い人物だった。卒業の間際になって付き合いだしたファルとも、実力はあるがどこか落ち着きの無い所のある彼を良く支える、出来た恋人という関係で見られていた。

「良く知らない相手に隙を見せるだなんて、油断としか思えないわ。ひとまずは警戒心や敵愾心を持たれず、なおかつ与し易いとも思われずよ」

 そのための、親しみやすさと芯の強さを兼ね備えた優等生と言うキャラ作りだとは、本人の公言するところである。

「……の割には、ファルには随分厳しいよな」

「警戒しても仕方のない相手に自分を飾って一体何処で休めって言うのよ。ファルくんはそう、いわば私の安息の聖域。フェアリーにとっての森にも等しいわ」

「だったらもうちょっと優しくしてくれよ……」

「それじゃあ安らげないじゃない」

「冷酷だ!」

 ファルの呟きを、心の底から心外だと言う表情で否定するブレンヒルト。そのやり取りをユキヒトは苦笑して眺めていた。

 必ずしも恋愛経験豊富とはいえないユキヒトとしては、この二人がうまくいっているのかいないのかという事について正確な判断を下す事は出来ないが、それでも少なくともファルは、一人でユキヒトと会う時はそれなりに惚気るのだ。

 二人の馴れ初めについてなど詳しく聞いた事は流石にないが、どうやら最終的にはブレンヒルトからファルに迫ったらしいという事は、何かの拍子にファルの口からそれらしいことを聞いた覚えがあった。ブレンヒルトの言葉も、随所にちりばめられた悪意を丁寧に取り除いてやれば、ファルに対する惚気と取れる事を言っていない事もない。そうやって考えていけば、これで結構お互いに好きあった仲なのだとも思われた。であるならば二人が繰り広げるこれもまた、壮絶な痴話喧嘩なのであろう。

 人の個性は千差万別。ましてその個性同士の結びつき方など、ただ一人の物差しで測れるはずもなかった。
















 しばらくして、デジレが戻ってきた。その際には再びブレンヒルトは優等生の仮面を完璧にかぶっており、デジレもそれを少しも疑っていない様子だった。親しげな様子で、冒険者同士情報の交換などしていた。

 デジレもまだ十分成熟したという年齢ではない事もあり、珍しく年の近い相手が多くいたため、ノルンも終始楽しそうに話をしていた。やがて夜が近づくと、客の三人は刀剣工房『コギト・エルゴ・スム』から出て行き、ユキヒトはノルンの為に夕食を用意した。

 少しはしゃいだ気持ちだったためか、ノルンは普段よりも多めに食べて、風呂に入るとすぐに疲れが出て眠ってしまった。

 ユキヒトは、自分の部屋でランプに明かりをともし、手紙を書いていた。

「……」

 黙々と、今日この日にあった事を手紙にしたためていく。

 手紙の受け取り手も、ファルやブレンヒルトと同じく、ベルミステンに住み、二人の事も知っている。

 ベルミステンは、この地方の中心都市だ。ユキヒトの学んでいた魔術学院もそこにある。自然、知人も多くそこに住んでいた。

『……そう言う訳で今日は2つ依頼があったけど、それを除いてはおおよそいつも通りの一日だった。ノルンも元気だ』

 すらすらとそこまでは書き終わる。そこから、ユキヒトは少しだけ考えて、続きをしたためた。

『いずれはそっちに戻りたいと思う。すぐに、という訳にはいかないけれど。それじゃあ、また手紙を書く。元気で』

 少し緊張したものの、何とか文字をにじませずに書く事が出来た。ユキヒトはペンを置いて、小さなため息をついた。












『情深き人の少女へ 対となるべき剣を持つ対となるべき者と永き時を共に過ごさん事を 行人』






[8212] エルフと死霊
Name: yun◆04d05236 ID:fe1e07cd
Date: 2009/06/21 23:04





 銀は、貴金属としては金と並ぶほどに有名であり、電気伝導率や可視光線の反射率が極めて高いなど、有用な性質を持ち、その美しい光沢から歴史上常に愛好され続けてきた金属である。

 また、月や女性の象徴とするなど、どこか神秘的な意味を人間はその金属に見出してきた。

 鉄には神秘のにおいがない。それは、鉄と言うものが日常に溢れた金属であり、また、太古から武器として用いられてきたという生々しい事実に基づくものであろう。鉄は実用的な金属であり、そこには徹底した現実がある。

 半面、銀は主に装身具や貨幣などとして用いられてきた。

 それは、その美しさや希少性から日常用品として用い難かったのもさることながら、武具や農具にするには銀が柔らかすぎる物質であったことも一つの原因だろうとユキヒトは思う。

 そう。銀は柔らかい。その柔らかさ故に、宝飾品として用いる時でさえ一般に純粋な銀は用いられず、合金の形で加工される。そんな物質が武器や防具として使われるはずがない。

 銀が武器として用いられる状況はただ一つ。悪魔退治である。

 銀はその神秘性から、悪魔退治の魔術具としてしばしば登場する。鉛の銃弾では死なない狼男も、銀の弾丸を撃ち込まれれば死ぬのだ。

 魔術など存在しない、あるいは存在が確認されていないユキヒトの世界においても、銀は魔的な要素を見出された素材であった。

 魔術が日常の技術として存在しているファリオダズマでも、銀はやはり魔術と大きく関連付けられる金属である。

 ミスリルやアタマンタイトとなど、魔術への親和性が極めて高く、その存在それ自体が魔力を放つ金属を魔法金属と呼ぶ。銀はそれらとは違い、自ら魔力を放たないという意味において魔法金属ではないが、魔力を増大させる触媒の役目を果たす、魔力の伝導性が高いなどの性質を備えている。

 その為に、ファリオダズマでは、銀を武器や防具として用いることがある。ファリオダズマでは銀は比較的ありふれた鉱物であり、それほど値段も高くないため、銀で武具を作ったところでとんでもないほどの値段になる訳でもない。

 とは言えそれも、魔術師の使用する魔術具としての場合がほとんどであり、剣や槍など、直接相手と打ち合う為の装備に向く金属ではない。

 しかし今、ユキヒトが鍛えているのは、極めて珍しい純銀製の剣であった。

 剣を打つのは楽しい。一心に鎚を振るい、思うような形が出来上がっていく過程など、思わず笑みがこぼれてしまう。

 それでも、今回の仕事にユキヒトは喜びを覚える事が出来なかった。

 普段よりもさらに細心の注意を払い、最高の出来のものをとの思いはある。決してつまらない訳でも、やりたくない訳でもない仕事だ。

 ただ、その剣の使われようを思う時、ユキヒトは堪らない気持を抱えてしまう。

 依頼人の名前はシオリ・ヨイノマ。

 『死霊憑き』のエルフである。











 知られている限り、ファリオダズマは二つの大陸と、その周辺に浮かぶ数多の島とで構成されている。

 航海技術はさほど発達していない関係から、まだ見果てぬ遠い海の彼方には未知の大陸が存在する可能性もあるが、現在のところまだそれを探しに行こうという気運は盛り上がっていない。今のところは大陸内部で争うのに忙しく、外にまでは目が向いていないというのが実情だ。

 大陸の周囲に浮かぶ島は、それぞれが大陸の中の国の領土であったり、独立した国家であったりする。そして、後者の例の一つとして、カミツ諸島とよばれるいくつかの島を領土とするカミツ国がある。

 カミツ諸島は大陸から比較的遠い事もあり、独特の文化を持っている。

 ユキヒトはその国に行った事はないし、その国出身の者の知り合いもそう多くはないが、伝え聞くところによれば、どうにも元いた世界の日本と共通するところが多い。

 今回注文された純銀の剣も、形態としては明らかに日本刀だ。

「……シオリさんは、今日いらっしゃるはずですね」

 珍しく、ノルンがそんな確認をする。その声は、どこか沈みがちな暗いものだった。

「ああ、そうだな」

 ユキヒトはそれに相槌を打ちながら、ちらりと扉の方を見た。

 今日来るはず、それは確かな事だ。ただし、死んでさえいなければ。

 シオリはユキヒトの知り合いの中で最も死に近しい存在だ。

 性格は無謀と言うにはほど遠いし、実力のほども確か。健康上の問題を抱えている訳でもない。それでもなお、彼女の持つ事情は重すぎた。

「……」

 ノルンが不安を感じているのが、ユキヒトにも分かった。しかし、気休めを言う事も出来ない。

 シオリはその抱えている事情から、夜にやってくることなどあり得ない。そしてその性格からいって、約束の日に連絡一つよこさないなどと言う事も考え難い。

 つまり、後数時間の間に現れなければ、何らかの深刻な事情を彼女が襲っているという事になってしまう。そしてその可能性は決して低くない。

 祈るような気持ちで、扉を見つめる。

 しかし、未だにノックの音は聞こえてこない。ユキヒトは小さく溜息をついた。

 来るかどうかわからない相手を待つというのは、かなり苦しいものだと思う。とはいえ彼女に罪はない。むしろ彼女は常々言っている。約束の日に自分が現れなかったなら、どうか自分の事はその日を境に忘れて欲しいと。

 そんな風に簡単に割り切れる訳はないが、だからと言ってこちらから何かを出来る訳でもない。それはもどかしい事だった。

「……昼食にしようか?」

「ごめんなさい、まだお腹がすきません」

「そうか」

 半ば以上答えを予想しながら投げかけた問いかけには、予想と全く違わない答えが返ってきた。

 元々食が細いのに加え、心配事があると食事に手をつけなくなるのがノルンだ。そのせいでまた体を弱くすることもある。

 そうして、ただじっとノックを待つ時間がすぎる。ただ待つ時間は長い。しかし、ノルンもユキヒトも、会話を楽しんでいるような心持ではない。時間とともにかすかな焦りにも似た感情にじわじわと侵されながら、その時をひたすらに待つ。

 そうしてどれほどの時間が過ぎたか、コンコンと控え目なノックの音が部屋の中に響いた。

「はい、どうぞ!」

 普段では考えられないほど大きな声で、ノルンは入室を促した。

 入ってきたのは、黒いフード付きの外套で顔や体をすっかり覆った人物だった。

「……久しぶりね。どうにか今回も再会できて、とても嬉しいわ」

 言いながら、その人物はフードを外した。

 大陸出身の者と比べて、ややふわりと丸い輪郭。垂れ気味の眼は黒曜石の様に黒い。髪を肩までも届かないほどに短くしているのは、趣味と言うよりは動きの邪魔にならないようにするためだと聞いている。

 そして、その耳は種族の特徴をあらわして、長くとがっていた。

「シオリさん……」

 ノルンは立ち上がり、とことこと近づいて行って、手探りでシオリの位置を探り当てると、きゅっと抱きついた。

「甘えん坊さんなんだから」

 シオリはノルンのしたい様にさせながら、ふわりと笑って頭を撫でた。

「ノルン、シオリさんは遠くから来て疲れてるんだ。外套くらいは脱がせてあげなさい」

「……ごめんなさい」

「いいの」

 そう言って、離れようとするノルンを逆にぎゅっと抱きしめる。

「……ここのところはどうしてたんだ、シオリさん」

「うん。普段と変わらないわ。傭兵稼業よ」

「……」

「大丈夫。余り強力な『死霊』は、このところ現れていないから、怪我もしていないの」 

 高い魔力を持つ者が死んだ時、ごく稀にその魔力が発散されきらず現世に留まってしまう事がある。一般に深い恨みや悔恨を持って生に執着しながら死んだ場合にそうなりやすいとされ、他の生物に害を為すような存在になる事も少なくない。それを『死霊』と呼ぶ。

 死霊は生前のような知性を残さない事がほとんどである。ただ本能的に、ある種の魔力に惹かれて集まってくるとされ、ファリオダズマに無数に存在する迷宮には、死霊が集いやすい魔力が満ちた迷宮も存在し、その中には死霊が群れをなしている。

 それとは別に、滅多に生まれるものではないが、死霊を引き付けやすい魔力を身にまとってしまっている者も存在し、そう言ったものを『死霊憑き』と呼ぶ。

 魔力は体質の問題であり、そう生まれついてしまったものは、決して死霊憑きと言う運命から解放される事はない。

 いついかなる時に死霊が現れるかは分からない。そして、死霊は理性を持たず、怨念ばかりを抱えた存在だ。死霊憑きの殆どは、そう長くは生きられず、死霊に殺される。

 そして、死霊憑きは一つの場所に留まる事を許されない。

 死霊憑きに呼び出された死霊は無差別に害を為す。一つの場所にとどまれば、死霊憑きだけではなく、その周囲に被害が及ぶ。

 死霊憑きである事が周囲に発覚すれば、恐ろしいほどの迫害が待っている。下手をすれば私刑により殺されかねない。その為死霊憑きの殆どは、必要最低限以外では人との接触を断つ。そして最後には、誰にも知られず独りで死ぬ。それが死霊憑きの宿命だ。

 シオリは、優しくノルンの体を離すと、外套を脱いだ。

「……剣を取ってくる」

「うん。よろしく」

 今回はノルンはついてこない。シオリの側から離れようとしなかった。

 先天的な体質でハンディキャップを負っているという共通点があるせいなのか、ノルンはシオリに懐いている。その半面で、ひどくシオリに対して遠慮もしているのをユキヒトは知っていた。

 ハンディキャップの為に自らできる事が制限され、周りの人間に手助けをしてもらって生きているノルンと、ハンディキャップは身体的な能力に影響を及ぼさないものの、その為に人の中で生きていけないシオリ。どちらがより苦しいのかは、ユキヒトには分からない。

 丁寧に白い布を巻いたその剣を手に取る。

 彼女の願いで、鋭く、鋭くその剣を鍛えた。柔らかな金属で出来た鋭いその剣を携えて、ユキヒトは戻る。

「お帰りなさい」

「……ノルン、今日は一体どうしたんだ」

 戻った先に待っていた状況に、ユキヒトは苦笑した。

 ノルンはシオリの為に出したらしい椅子に、ぴたりと自分のお気に入りの椅子をくっつけて、狭い訳でもない部屋の中で彼女にぴったりと寄り添うように座っていたのだ。

「……本当、どうしたのかしら。赤ちゃん返り?」

「赤ちゃんじゃありません」

 言いながらも、ノルンはシオリから離れようとしない。確かにその様はどこか、母親の指を必死で握る赤子のようでもあった。

「……注文の剣だ」

「うん。ありがとう」

 布を解くと、中から出てきたのは、ただただ無骨な黒い鞘だ。

 剣を飾らないでほしいというのも彼女の希望。

 彼女は静かに、左手でそれをとると腰のあたりに構え、右手で柄を握った。

「……しっ!」

 鋭く、小さく気を吐くと、彼女はそれを突然に抜き放ち、ユキヒトへと斬りつけた。

 ユキヒトは、反応するでもなく静かに、その剣の軌跡を見ていた。

 放たれた刃は、ユキヒトの首のわずかに左の空間を鋭く切り裂いた。

「祓い給え 清め給え 神ながら守り給い 幸え給え」

 きん、と音をさせて剣を鞘におさめながら、シオリは小さな声で、呟くように唱えた。

『オオオオオオオオオオォォォォォォォォ……』

 ユキヒトの背後へと突然に現れていた不気味な影が、呻くような声を残して霧散する。

 それこそがシオリの抱える呪い。『死霊』だった。

「ごめん、また迷惑をかけたね」

「いいんだ。こんな事迷惑だとは思っていない」

「でも、流石ね。私に斬りつけられて少しも動かないなんて。ちょっとでも動いてたら、首が危なかったのよ?」

「鋭すぎて動けなかったんだよ」

 冗談めかしてユキヒトは笑う。それにつられるように、シオリは少しだけ微笑んだ。

「……ごめんね、ノルン。また私、貴女達を巻き込んじゃった」

「……」

 ノルンは何も返事をせず、シオリの腹に顔を押し付ける様に、ぎゅっと抱きついた。

「ありがとう、ノルン。この世で私を赦してくれるのは、貴女とユキヒトだけ」

 その髪を梳かすように撫でながら、シオリは穏やかに笑った。

「ユキヒト、ありがとう。とてもいい出来ね。抜いた瞬間、ちょっとぞっとしちゃったくらい。本当に清浄な魔力。私の実家に奉納してある宝剣にだって見劣りしないわ」

「誉めすぎだろう」

 照れ隠しに少しぶっきらぼうに言うと、シオリは曖昧に笑う。

「……少しはゆっくりして行ってくれるんだろう?」

「でも……」

「……すぐに行っちゃ、嫌です」

 抱きついたノルンがきゅっと力を入れる。シオリは困ったようにその頭を撫でる。

「ありがとう。少しゆっくりさせてもらうから」

 諦めたような、安心したような、微妙に力を抜いた表情で言うと、シオリは優しくノルンの体を引き離した。ノルンはと言えば、少し不安そうな顔をしながら、迷惑になると思ったのか自分の椅子へと大人しく座った。

「無茶はしてないか?」

「大丈夫。自分の力は見極めているつもりでいるから。……でも、私が学んだ道とはずいぶん違う使い方になってしまっている」

「……何が違うもんか。シオリさんの剣は邪を祓う剣だろう。むしろ本来の使い方だよ」

「『祓う』と言うのなら、何よりも祓わなければならないのは、私自身なのにね」

「……シオリさんは、悪いものなんかじゃありません」

「……」

 抗議するように言うノルンに言葉を返す事はせず、シオリはノルンの頭を撫でた。

 シオリは元々、剣を神体として奉る神社の神主の家柄だ。剣を以って死霊を祓うというだけの事であれば、それは彼女にとっても本望であったことだろう。しかし、その死霊を自分が集めてしまうとなれば、それは全く話が違う。

 死の穢れを何より忌むはずの神社に生まれてしまった『死霊憑き』の彼女。自分が『死霊憑き』であると知った時、彼女にどれほどの絶望が襲ってきたか、ユキヒトには想像することしかできない。そして恐らくは、その想像ですら生温いのだろう。自分がそれまで生きて築いてきた常識が自分を全て否定してくるのだ。それは世界が崩壊するにも等しい衝撃であったことだろう。

 『死霊憑き』は、魔力の小さい幼い時期には発覚しない事が多い。しかし年を経て魔力が増大してくると、それに伴い死霊を呼び寄せるようになってしまう。シオリの実家は剣を以って穢れを祓うという家であり、シオリ自身幼いころから剣の扱いを学んでいる。そして、幸か不幸か、シオリはその道に類稀な才能を発揮した子供であったという。

 本来であれば奉納の剣舞として、そしてごく稀に『穢れ』に取りつかれた者の『祓』としてのみ使われるはずだった技術は、今や彼女の命を支えるものへと変わり、皮肉にもますますの磨きをかけられている。

「どう? 暮らし向きに変わりはない?」

「相変わらずだよ」

「そう。何よりね」

 彼女がこの静かな暮らし向きを何よりも羨んでいるという事実をユキヒトは知っている。言葉に困る事もあるが、出来る限りありのままに答えることが誠実だろうとユキヒトは考えている。

「どうなんだ、最近の世間は?」

「……少し騒がしい。商隊の護衛とか、盗賊団の討伐の依頼が増えてる」

 シオリの稼業は傭兵だ。金で依頼を受けて仕事をするという意味では冒険者に非常に近しいところがあるが、冒険者が主に迷宮の探索やモンスターの討伐を生業とするのに対して、傭兵はヒト同士の争いも範疇とするという違いがある。また、冒険者はそれぞれの街の組合に登録をしなければ正規の職業として認められず、かなりの管理を受けるのに対して、傭兵ギルドは単に仕事を紹介する以上の事をほとんどしない。余程評判が悪い傭兵には仕事を回さず、さらに悪くなればかなり荒っぽい『制裁』も加えるが、それだけだ。

 決して争いを好まないシオリがそのような職についているのは、他に術がないからだ。

 身元を明らかにせず、住所も定めず、ふらりと現れては仕事をしてすぐに去る。そのような生活をせざるを得ないものが、まともな職に就ける筈もない。

 静かな暮らしを望む者が、荒事の中でしか生きていく術を見いだせず、そして相応の技術を持ってしまっている。ままならないものだった。

 それからしばらくは、ただ穏やかに、日常の話が続いた。









 にこやかに談笑を続けていた三人だったが、ふとシオリが窓の外を見て言った。

「……もう、日が傾き始めているわ。楽しい時間って、本当に短いのね。それじゃ、私はもう行くわ」

 日が傾いていると言っても、まだ夕方ですらない、昼下がり程度の時間だ。ユキヒトは慌てて立ち上がった。

「もう少し、良いんじゃないか」

「だめ。黄昏時は、逢魔時よ。昼はヒトの時間、夜は魔の時間。黄昏時は誰そ彼の時。出逢ったものがヒトか魔かも分からなくなる、昼でもなく、夜でもない時間帯。ヒトの時間でもなく、魔の時間でもないその中間こそ、ヒトと魔が最も出逢ってしまいやすい時間なのよ。私の『死霊』も例外ではないわ」

「……」

「それじゃあ、私はもう行くわ」

 名残惜しさを振り払うようにきっぱりと言うと、シオリが立ち上がる。

「ありがとう。それじゃあまたいつか、会える時がくるまで」

 そう言って笑うと、シオリはドアへと向かう。ユキヒトは、とっさにその手を掴んだ。

「……一晩、泊まって行ったらどうだ? 一晩くらいなら、俺が番をしていてやるから」

 もうずいぶんと安心して寝た事なんてないんだろう、という言葉は飲み込んだ。それは余りにも残酷すぎる言葉だと思った。

「そうです! そうして行ってください!」

 ノルンもユキヒトに同調して、彼女には珍しい、必死の表情でそう言った。

 シオリはそれに対して、少し嬉しそうな表情で微笑むと、首を左右に振った。

「ありがとう。とても嬉しい。だけど、そう言う訳にはいかないわ」

「何でだよ、俺たちならそんな事、全然迷惑には思わない」

「……貴方の彼女に悪いもの」

 穏やかに返された言葉に、ユキヒトは押し黙る。シオリは、ゆっくりと続きを口にした。

「貴方は誰にでもとても優しいし、それは貴方の大きな魅力だけれど……。貴方が選んだのは私ではなくて彼女なんだから。他のどんな女よりも、彼女に優しくしてあげないと。彼氏がどんな女にも優しいって言うのは、彼女にとっては欠点よ?」

「……彼女に後ろめたい事をする訳じゃないし、彼女はそれくらい分かってくれる」

「彼女に後ろめたい事はしてくれないんだ?」

 冗談めかした口調で言うと、シオリはくすくすと笑った。

「分かってくれるのと、不満に思わないって言うのは、必ずしも等号で結べるものではないのよ」

 きっぱりと、何かを断ち切るようにシオリはそう言った。

「……さようなら。またいつか、会いましょう」

 そう言って出ていくシオリを、ユキヒトはもう引きとめることはできなかった。








 自分ならばきっと彼女を救えたのだろうとユキヒトは思う。

 例えばほんの数時間でも、安心して眠れる時間。例えば『死霊憑き』であることを知っても変わらずに傍にいてくれる相手。どちらも彼女が求めてやまず、そしてユキヒトが彼女に与えてやらなかったものだ。

 シオリは好ましい女性だと思う。しかしそれでも、ユキヒトが選んだのは彼女ではなかった。『死霊憑き』であることは関係なく、もっと惹かれる人がいた。それだけの事だ。シオリもそれを分かっている。だからこそ、線を引き、決してユキヒトに甘えようとしない。

「ねえ、ユキヒトさん」

「何だ、ノルン」

「……もしも、もしも私がいなくて、ユキヒトさんが私を守ったりしなくて良かったら、ユキヒトさんは、シオリさんを選んでいましたか?」

「ノルン。ノルンのその言葉は、同時に四人のヒトを侮辱している。ヴァレリアと、シオリさんと、俺と、ノルン自身だ」

「……ごめんなさい。でも……いつか、私がいたんじゃ選べない事を選びたい時が来たら、その時はきっと、私の事は忘れて、ユキヒトさんのしたい様にして欲しいの」

「……馬鹿な事を言うなよ」

「約束してください。そう言う時が来たら、自分を優先するって」

「……」

「私、きっと、一人でも生きていける様になるから」

「……分かった。でも、そんな寂しい事を言わないでくれよ。一人で生きていけるようになったらもう俺は要らないみたいじゃないか」

「そんな! 違います!」

「分かってるよ。でもな、ノルン。俺だって嫌々ノルンの世話をしてる訳じゃないんだ。大切な相手から、自分の事は忘れろとか一人で生きていけるようになるとか言われる身にもなってくれよ」

「……ごめんなさい。ありがとうございます」

「後ろの方はいらないな。別に感謝される事じゃない」

「……少しだけ、泣いていい?」

「泣きたいなら、いつでも泣けばいい」

 ユキヒトがそう言ってやると、ノルンはユキヒトに抱きついて、わっと泣き出した。

 おそらくは、甘えることでしか生きていけない自分と、甘えることを禁じて生きている人との境遇を思って。ノルンは大きな声で、泣き疲れて眠ってしまうまで、存分に泣いた。










「清浄なるエルフの巫女へ この剣が貴女の闇を斬り裂き一筋の光とならん事を 行人」











[8212] 鍛冶屋の日常
Name: yun◆04d05236 ID:fe1e07cd
Date: 2009/08/30 19:02










 ファリオダズマには科学が発展していない。

 それは純然たる事実であり、それ以上でもそれ以下でもない。

 だがしかし、それを補って余りあるほどの技術である魔術が発展している。その為に、必ずしもユキヒトが元いた世界にあった科学的な道具の代用品がないという訳でもない。

 例えば、ファリオダズマには冷蔵庫がある。

 冷やす事で生鮮物を長持ちさせようという発想は、決して奇抜なものではない。問題はそれを実現できるかどうかだ。

 熱するのは簡単だ。火でも燃やせばよい。しかし冷やすとなると、これはなかなか難しい。ユキヒトの世界、ユキヒトのいた日本だとて、冷蔵庫が一般の家庭にまで行きわたったのは、歴史と言う観点で見ればほんのごく最近の事に過ぎない。

 しかしファリオダズマでは、冷蔵庫は決して珍しい器具ではない。ごく当たり前の道具として一般家庭に行きわたっている。

 と言うのも、ファリオダズマの冷蔵庫は、魔術を使ったものだからだ。

 内部に冷気の魔法陣を施した箱。それがファリオダズマの冷蔵庫である。

「……うーん……」

 ユキヒトは、自宅の冷蔵庫を眺めながら、唸り声を上げた。

 中身が乏しい。

 金がない訳ではない。確かに豊富にあるとも言えはしないが、食べ物に困るほどではない。しかしながら、人里離れた山の中に暮らすユキヒト達にとって買い物とは一大事であり、そうそう気軽に行くようなものではない。

 とはいえもはや流石に限界だ。これから下手に天気が崩れて山を降りられなくなろうものなら目も当てられない。買い物への出かけ時だった。

「ノルン、明日は街へ買い物だ」

「……分かりました」

 不承不承、ノルンは頷く。

 普通の子供と違い、ノルンは買い物が嫌いである。というよりは、街中が嫌いなのだ。

 目が見えない彼女にとって、周りに何があるか分からない環境と言うのは非常にストレスがかかる。万に一つ、保護者とはぐれようものなら、自力で家に帰る事すらままならない。かと言って、一人で留守番をしていられるほど、買い物とは気軽に短時間で終えられるものでもない。結局、ノルンは苦手な街中に定期的に出かけざるを得ないのだ。

「果物もいっぱい買ってやるから」

「約束ですよ」

 なだめるように言うと、少しつんとした声でノルンは答える。しばらく前に果物を使い果たしてしまった事で好物のジュースにこのところありつけていないノルンは、いやいやのふりをしながら、抑えきれずに頬を緩めていた。

「……何がおかしいんですか、ユキヒトさん!」

 それを微笑ましいと思いくすくすと笑ったユキヒトは、自分の半分ほどの年の少女に思い切り叱りつけられたのだった。









 早朝にユキヒトはノルンを連れて出発する。木々の葉は青々と良く繁り、夏の太陽の恵みを受けて生き生きとしているようにも見える。太陽の昇りきらない今であればこそ涼しいが、昼にもなれば相当に暑くなりそうな、良く晴れた日だった。

 普段は家の中で杖など付かずに歩くノルンだが、外出に当たっては木の杖を利用する。家の中で躓かずに歩けるのは、ノルンがその家に慣れ親しんでいる事と、目の見えないノルンの為、家の中は極力躓くようなものの無いよう、よく整理されており、家の構造自体も工夫されているからだ。

 一歩家の外に出れば、そこは山の中である。当然、道も良く整備されているとは言い難い。それどころか、下手をすれば足を踏み外して滑り落ちかねない。ノルンにとっては危険極まりない場所だ。

 ノルンに同情する者は多い。しかし、ノルンは別に同情など求めない。彼女は、目が見えないのは不便だろうと言う人間に、大体はこう返す。

『空を飛べないヒトは鳥にとっては不便な生き物かも知れませんが、でも空を飛べないと言って愚痴を言うヒトに会った事はありません』

 その台詞を初めて聞いた時、ユキヒトは締め付けられるような苦しみを味わったものだった。

 ノルンの言っている事が間違いだと思う訳ではない。しかし、それを言うならば、同じヒトである相手は持っているのに自分は持っていないと愚痴を言うヒトの、なんと多いことか。ノルンが普通のヒトと自分を、それこそ鳥とヒトの様に区別して認識しているのだとすれば、それは悲しい事だった。

 ノルンは右手で杖を操りながら、左手をユキヒトとつないで歩く。山道を歩くノルンの速度は、非常に遅い。整備されていない山で足を踏み外せば怪我は免れないし、運が悪ければ大きな怪我、さらに悪ければ生死に関わりかねない。正直に言えば、ユキヒトが背負って歩いた方が速いが、それはしない事にしている。

 ノルンにも自尊心はある。独立心は、むしろ強い方ですらあるだろう。

 出来ない事は多い。出来ない事を出来ると強がって無理をするほどに聞き分けがない訳ではないが、出来る事を出来ないと甘えるような事を良しとしない負けん気の強さも持っている。ファリオダズマに来てから大半の時を共に生活してきた少女の事だ、ユキヒトはその程度は理解していた。

 山の麓には小さな農村がある。特筆する事など何もないような、ただただ平凡な田舎の農村だ。野菜や卵ならばこの農村でも手に入るが、魚や肉、調味料や日用品を揃えようと思えば、流石にそれは難しい。

「おう、ユキヒトさんかい、久しぶりだな。今日は買い物かい?」

「ええ、今日は街まで」

 声をかけてくる村人に、ユキヒトは笑顔で返事をする。ユキヒトの生きていた現代日本とは違い、娯楽が少ない分コミュニティー内の人間関係は濃密だ。嫌われればそれほど恐ろしい事はないが、逆に好かれればこれほど頼もしいものもない。

 盲目の少女を引き取って二人で暮らしているという状況が、ともすれば誤解を呼ぶことはユキヒトも重々承知していた。だからこそ、この村の人々には、ある程度事情を説明してある。

 ノルン自身がかなりしっかりとした態度でそれを肯定した事もあって、村の人々には基本的に好意をもって受け入れられている。血の繋がりなどは一切ない事もその時に説明しているが、今では仲の良い兄妹の様に見られている。

「またガキどもにおとぎ話を聞かせてやってくれよ。ユキヒトさんのは聞いた事がないからってガキどもが喜ぶんだ」

「そうですね、また今度」

 ユキヒトのおとぎ話は、元の世界のものだ。不思議なもので、類似した内容のものもファリオダズマに多く存在しているが、やはり細かい点が違っている事も多い。子どもたちには、目新しい事も多いユキヒトのおとぎ話はなかなかに好評なのだ。

「何か買ってくるものはありますか?」

「今日のところは別にないな。ありがとよ」

 街への買い物は一日がかりの大事だ。村から誰かが行くことになれば、ついでの買い物を頼まれる事も珍しくはない。

 村人と別れ、乗合馬車の停留所へ向かう。

 田舎ではあるものの、朝と夕の一日二回、街へと向かう馬車はある。そうでなければ、生産した農産物を売る事ですら困難だ。

「……やれやれ、やっぱり暑くなってきたな」

「……はい、そうですね」

 まだ完全に日が昇ったとはいえないが、それでも朝日と呼ぶには躊躇するほどに高く昇った太陽は、容赦なく地面を熱する。木々や農作物が盛んに吐き出す水分で辺りは蒸し暑く、ただ歩いているだけでも汗をかく。

 ノルンは暑さに弱い。元々体力に乏しい彼女の事だ、立っているだけで体力を奪われるような暑さに強いはずもない。

「もうちょっとで停留所だ、がんばろうな」

「はい……」

 停留所には、申し訳程度ではあるがベンチと屋根があり、影になっている。じりじりと太陽に焦がされながら歩くよりは、幾分ましだ。

「……ふぅ……」

 ようやくたどり着いた停留所で、ノルンは大きく息をつくと、すとんとベンチに座る。

 停留所には他に人もいない。今日は街へ買い物に行くのはユキヒト達だけらしい。ユキヒトもノルンの隣に腰をおろして一息ついた。

「水はいるか?」

「欲しいです」

「少し待っててな」

 停留所の近くには井戸がある。ユキヒトは水をくみ上げると水筒に詰めて、それをノルンへ持っていった。

「ほら。冷たいぞ。あんまり急いで飲んじゃダメだからな」

「はい」

 素直に頷くと、ノルンはゆっくりと水を口に含む。

 ノルンは、自分の体が脆弱であることを知っている。

 無理のない事だ。元々、決して丈夫に生まれた訳ではないうえに、目が見えないせいでまともな運動も出来ない。消化器もあまり強くないのか食は細いし、すぐに体調を崩す。

 だからこそ人一倍自分の体に気を使うし、人の言う事を素直に聞いて無理をしない。

 忍耐と従順とは、彼女の個性であると同時に、生きるための手段でもある。無論、彼女自身がそんな事を計算している訳ではないだろうが。

 しばらくすると、乗合馬車がやってくる。街へ向かう馬車、と言っても、この村と街を真っ直ぐに繋いでいる訳ではない。同じような村をいくつか回り、街へと向かうのだ。そのせいで街と村との距離の割には時間がかかってしまうものの、それはやむを得ない。

「失礼します」

 断りを入れて、馬車へと乗り込む。中には五人ほどの男女が既に乗っていた。

 ノルンの杖と、手を引くユキヒトを見て、何人かがじろじろと無遠慮な視線をノルンに向ける。

 内心でユキヒトはため息をつく。彼らは、目の見えない彼女ならばその視線に気づかないと思っているのだろう。だがそんな事はない。ノルンは実のところ、非常に視線に敏感だ。一体どうやってそれを察知しているのか、ユキヒトにすらいまだ分からないが、彼女は自分に向けられる目を実に正確に把握する。

 現に今も、つないだ手に一瞬だけ力が入った。

 それはささやかな傷なのだろう。少し時間がたてばそんな事があった事も忘れてしまうような、些細な些細な出来事だろう。しかし心についた傷はなかなか治らない。そうやって彼女の心がどれくらいの傷を負ってきたのか。それを想像する時、ユキヒトの心は穏やかではいられない。

 小さな葛藤を乗せたまま、馬車はことことと動き出した。

 









「いらっしゃーいっ!」

 ユキヒトがその店に足を踏み入れた瞬間、大声が彼を出迎えた。

「えらい久しぶりやん。どないしてたん? うん、ノルンちゃんは今日もかわいくてええなあ。あっはっは」

 質問をして置きながら答えさせる気など毛頭なさそうな勢いでまくしたてると、何がおかしいのか一人で大笑いをするのは、ドワーフのハリエッタ。ユキヒトにとっては馴染みの人物の一人だった。

 くりくりとよく動く大きな目と、健康的によく焼けた小麦色の肌。ずんぐりとした体形は子供のようなそれであるものの、顔立ちは立派に成人した女性だ。そのギャップにユキヒトははじめ戸惑ったものだったが、それも昔の話。今ではすっかりとなれたものだ。

 ドワーフ。ヒューマン、エルフに次ぐファリオダズマ第三位の人口を誇る種族だ。

 寿命はエルフとほぼ同等であり、ヒューマンのおよそ三倍。背丈は成人してもヒューマンの半分ほどしかないが、体は頑健、また手先も器用であり、職人としてファリオダズマの中でも重要な位置を占める種族の一つである。

「こら、ハリエッタ。お客さんに向かってお前はなんちゅう口をきいとるんや」

 奥から現れたのは、背丈はハリエッタとほぼおなじであるが、初老に差し掛かった男だ。豊かなひげを蓄え、年の割にはがっしりとした体つきをしている。典型的と言ってよい姿のドワーフであった。

「ええやん、ユキヒトとはギブアンドテイクやろ? おとんもそんな堅い事言いっこなしやで」

「商売人として線は引かなあかんっちゅう話や。そんなんやったらお前の独立も当分先やな」

「ええもん、別にまだそんな焦って独立するつもりもないし」

「親のすねかじって生活しとるんを恥ずかしいと思わんのか!」

「立ってるもんは親でも使え言うやん」

「ええい、口の減らん」

 ぽんぽんと言葉を投げ合っているが、特段険悪な雰囲気と言う訳ではない。口が減らないのはお互いさまで、大陸南西部出身者の常であった。

 ハリエッタとリクド。ユキヒトが懇意にしている、鉄鋼業を営むドワーフの親子である。

 古の時代より鉱物と共に生きてきたのがドワーフ種族だ。鍛冶師も多いが、鉄鋼業から彫金、果ては鉱山業まで、金属のある所にドワーフの姿はあると言っても過言ではない。

「客だと思ってくれてるなら注文を聞いてくれないかな」

 くすりと笑ってユキヒトは言った。

 どうやら本日は二人とも好調なようだ。放っておくといつまでもじゃれ合っているだろうと判断して、ユキヒトは声をかけた。

「おお、すんませんな。で、今日は何が入用でっか」

「カミツの鋼と、銀と……アタマンタイトも少し」

「毎度おおきに」

「……カミツの鋼を仕入れられるのはこの辺りじゃリクドさんくらいだよ。本当に助かる」

「わしかてあんさんに教えてもらわなんだら、カミツの鋼なんちゅうもんを難儀してまで仕入れよとは思いまへんでしたけどな」

 カミツとユキヒトのいた日本との共通点の多さから、もしやと思い調べてみれば、カミツではたたら吹きによる製鋼がおこなわれていた。幸か不幸かそれにより生産される良質な鋼は大陸であまり知られておらず、生産量の割にそこまで高価なものではない。入手には少し手がかかるものの、ユキヒトの剣が他の刀剣工房よりすぐれた品質となる一つの要因になっていた。

「しかしまあ……あれは見事な鋼ですなあ……。仕入れはできても、うちじゃ作れまへんわ」

「製鋼法まで詳しくは知らないから、俺にも分からないけどね」

「売ってはくれるんでっけど、製鋼法は門外不出や言うて教えてくれんのですわ……。まあ職人が赤の他人にほいほい技術教えとったらおまんまの食い上げでっけどな」

「ごもっとも」

 いいあって、にやりと笑い合う。

 リクドは鉄鋼の仕事に誇りを持っている。様々な金属を組み合わせ、要求した通りの合金を生み出すその手腕は見事なものだ。ユキヒトも、魔法金属を他の金属と混ぜて使う時には、彼に意見を聴くことが多い。

 そんな彼に、よそで作られた鋼を仕入れて貰う事には流石に遠慮もあったが、カミツの鋼の質の高さを知ったリクドは、むしろ研究を行う為に手に入れるつてを作りたいと積極的に動いてくれた。おかげで今は、ユキヒトも比較的楽にカミツの鋼を手に入れられる。

「はぁ、相変わらずの金属バカっぷりやわ」

 その職人同士の会話に、心底うんざりとした、という声が横から割って入った。

「大体鉄鋼って暑くて汗臭いし何もええことあらへん。この際おとんの代で廃業にして……」

「アホ言うな!」 

 ハリエッタの愚痴を最後まで言わせず、リクドが一喝する。

「お前、うちの一家は十代前から続く鉄鋼の一族やぞ! わしで廃業なんかしたらご先祖様に申し訳がたたへんやろが!」

「ご先祖様言うたかてもう死んでるやないの……。何を遠慮せなあかんのかうちには分からへんわ」

「……お前、本気で言うとるんか……?」

 リクドが声を低くする。普段のじゃれあいとは明らかに違う空気に、ユキヒトは一瞬ひるんだ。

「ハリエッタさん」

 一瞬の沈黙を、可憐な声が打ち破った。

「……だめですよ。人が大切にしているものを茶化すような冗談は」

「……ん、ちょっと言い過ぎやったわ。ごめん」

 やんわりと、しかしきっぱりと言い切ったノルンに、随分と年上のハリエッタが素直に頷き、自分の父親に頭を下げる。

「……分かっとればええんや」

 少し決まりが悪そうにリクドは言うと、ふいとよそを向いてしまう。

「リクドさんも、本気じゃないって分かってるんですからそんなに怒らないでください」

「……かなわんなあ」

 リクドも、ノルンの決して強い訳ではない口調に苦笑して、すまんかったな、とハリエッタに謝る。

 ノルンは奇抜な事を言わない。それでもたまにただの一言で争いを納めてしまう事がある。

 それは、音だけの世界に生きる彼女ならではの、敏感な聴力と間の取り方からくるものだ。

 声から感情や心理を見抜くのはお手の物。ノルンに対して口先だけの嘘は通用しない。そして、沈黙すらも彼女からすればコミュニケーションの一つである。

 やれやれ、とユキヒトはため息をつくと、ノルンの頭にポンと手を置いた。

「後で、屋台でジュースを買ってあげよう」

「本当ですか? ありがとうございます」

 ノルンはそう言って、にこりと笑うのだった。












 それからユキヒト達は結局リクドやハリエッタと昼食を共にし、昼過ぎに日用品と食料の購入の為に市場へと向かった。

 市場と言っても、ちゃんとした店舗が立ち並んでいる訳ではなく、大半が屋台であったり、適当に設置した台の上に商品を並べたてた程度のものだ。

 それと言うのも、この市場で物を売っているのは、本職の商人と言うよりは、近隣の村の農家の人間が大半であり、商品は自分たちで作った作物がほとんどだからだ。

 決して商売が上手ではない者も多いが、人情味と活気には溢れている。便利だが無機質なやり取りになれたユキヒトにとっては、煩わしくもあり、また楽しい事でもあった。

 ノルンが、握っている右手をきゅっと握る。ヒトが多い状況では、ノルンは無意識に全身がこわばる。ユキヒトは意識して手を握り返した。それに気づいたのか、ぴくりとノルンの手が震え、それから少し力が抜ける。

「さて……じゃあまずはジュースの屋台に行こうか」

「……いいえ、後にしましょう」

「ん? どうして?」

「……もっと喉が乾いてた方がおいしいです」

 こういうところはやはり子供だ。おかしいと思う気持ちと、ほっとするような気持ちが同時にこみあげてきて、ユキヒトは少し笑った。

「また笑いました!」

「違う違う、馬鹿にしてるんじゃないんだよ」

 むくれるノルンの機嫌を取りながら、ユキヒトは歩みを進めた。ノルンがこうして素直に感情を表に出す事は、実のところあまり多くない、と言うよりは相手を選ぶ。せいぜいユキヒトと、シオリと、あとはなんだかんだと言ってファルくらいのものだ。ファルの場合は、それが親しみからなのかどうなのかは微妙なところではあるが。

 冷蔵庫はあるとはいえ、そうそう長い間生鮮食品を保存できる訳でもない。どうしても買い込むのは保存に向いた食品が中心になってしまう。それでは流石に味気ないので、数日以内に使う事を前提に新鮮さが売りの食材も少しは仕入れる。

「……醤油がないのは辛いんだよなあ……」

 この国には、魚を生で食べる風習がない。刺身が好物のユキヒトとしては辛いところだ。醤油にしても、カミツにならば似たような調味料があるかも知れないが、流石にそれを手に入れようという情熱までは湧いてこない。

 ファリオダズマに来て何が辛いと言えば、料理の味だ。ユキヒトは決して美食家ではなかったが、やはり料理の基礎ががらりと変わってしまうのはなかなかに辛いものがある。ノルンに料理ができる筈もなく、慣れない食材と調味料を使って慣れない料理をユキヒトが作るものだから、時々奇妙な味のものを作り上げてしまう事がある。魔術学院時代にある程度料理を学んでいなければ、今頃食事が作れずに困ったことになっていただろうとユキヒトは思う。

 とはいえ、ファリオダズマの食材も、元の世界と極端に違う訳ではない。同じようなものが多く、ただたまに見た事もないような食材が出てくるだけだ。それにも慣れ、最近ではようやく失敗作もそうは作らないようになってきていた。

 食が細いノルンの為にもおいしい料理をという気持ちはあるものの、そうそう簡単に料理の腕など上達するはずもなかった。

「……さて、そろそろジュース用の果物を選ぼうと思うけど、何が良いんだ?」

 食材や調味料、少し前に割ってしまった皿などを一通り購入した後、ユキヒトはノルンにそれを尋ねる。

「……桃がいいです」

 しばらく、腕を組んで唸りながら考えた後で、ノルンは顔をあげてそう言う。いかにも苦渋の決断と言う表情に、ユキヒトは笑いながら告げた。

「一つに絞らなくていいんだぞ?」

「桃とスイカとビワとブドウと……!」

「流石に欲張り過ぎだ」

 止まりそうにないノルンの勢いに、ポンと頭に手を置く。うー、と、ノルンは唸るような声を上げた。

「そうだな、三種類までだ」

「じゃあ、桃と……ううん……」

 桃はどうやら最優先らしい。買って貰う果物に真剣に悩む姿は年相応のもので、ユキヒトにはそれが少し嬉しかった。

 ファリオダズマでは、「大人」になるまでの期間が短い。義務教育もなく、農家などでは幼いころから手伝いをする事もあるし、ヒューマンであれば十五、六ともなれば職人としての修業を始めたり、どこかに奉公に出るのが当たり前だ。そう言った事情から、ファリオダズマではユキヒトのいた日本よりも幼いころから、ヒトは大人びた言動を取り始める。

 それを不憫に思ってはならないとユキヒトは思っている。この世界にはこの世界の正義や倫理がある。そうやってこの世界は回っているし、ユキヒトにはそれを覆すだけの力もアイディアもない。ならば来訪者として大人しくこの世界の理に従うだけだ。

 それでもユキヒト自身の常識が変化する訳でもなく、こういった形でユキヒトにとって年齢相応と思える振る舞いを見た時、心が落ち着くのは止めようのない事だった。

 まだしばらくは結論が出そうもないノルンを見ながら、ユキヒトは穏やかに微笑んだ。












 結局ノルンが選んだのは、桃とビワ、そしてオレンジだった。

 散々に迷った挙句、店先で匂いまで確かめてから決めた。店主も流石に驚いていたが、なかなかに理解のある人物で、余計な事は言わなかった。それがユキヒトとノルンにとっては、何よりもありがたい事だった。

「さて、夢中でノルンが果物を選んでいるものだから、帰りの馬車を逃してしまった」

「……ごめんなさい」

「冗談だよ。元々一泊してもいいかくらいの気持ちでのんびりしてたんだから」

 からかって言った言葉でしゅんとしてしまったノルンに、ユキヒトは髪をくしゃっと混ぜる様にして頭を撫でる。

「急ぎの仕事も今はないしな。たまには街もいいもんだ」

「……街は、騒々しくて、好きじゃありません」

「うん。でも、騒々しいってことは、ヒトが生きてるってことだろ。しんとしてるのは心地が良いけど、それは誰もいないって言う事でもあるからな」

「……」

 ユキヒトの言葉に、ノルンは少しうつむく。

「さて、久しぶりにバゼルさんのところで泊まろうか」

「……はい!」

 少し元気を取り戻したノルンの手を取って、ユキヒトは慣れた道を歩く。

 ユキヒトの住む村と街をつなぐのは、朝夕に一本ずつの馬車だけだ。それを逃してしまえば、街に留まらざるを得ない。

 宿泊施設には気を使わなければならない。ノルンのような人間に対して、ファリオダズマは十分に配慮の行き届いた世界とはとても言えないのだ。

 バゼルは、この街で宿屋を営む鳥人種の男だ。街で一泊する事になった時は、ユキヒトとノルンは常に彼の宿で世話になっていた。

 石畳の道をゆっくり歩く。整備された道は歩きやすい反面、転んだ時が危なくもある。田舎の泥道であれば、服が汚れる事はあっても大怪我にはつながらない。ただ、整備されていない分転びやすくもある。いずれにせよ、ノルンにとって道を歩くという行為は、常人にとってのそれとは大きく異なる事だった。

 やがて二人は、一軒の宿屋の前に立つ。看板には一対の大きな翼が描かれている。『白翼亭』。それが、その宿の名前だった。

 ユキヒトがノックをしようと手を挙げた瞬間、内側から突然にドアが開かれた。

「ようこそ」

 中から現れたのは、看板に描かれたとおり、白い大きな翼を背中に負ったヒトだった。

 金色の髪は緩やかにウェーブがかかっている。整えればそれなりに洒落た髪形にもなるのかも知れないが、適当に伸ばされたそれはまさに鳥の巣であった。

 どことはなくゆるんだ雰囲気の男だ。その癖それが不潔であるというような印象でもないのは、顔立ち自体がやや幼げな整い方をしているからであろう。

 獣人の中でも、鳥人種の個体数は少ない部類に入る。それというのも、鳥人種は実のところ、その大きな翼の割に空を飛ぶことができない。鳥人種は生まれながらに背中に巨大な邪魔物を二つも背負っているのだ。平和な時代ならばともかく、獣人とヒューマンの大戦争時代、それで生き抜いていくのは非常に困難だったらしく、その時代が終わった後、明らかに鳥人種は他の獣人と比べて人口が少なかったという。

 かつて鳥人種は、もっと体が小さく、魔術を使用してではあるが、飛ぶことが可能だったとも言う。

 その能力が失われたのはなぜだったのか、混血が原因とも、大気中の魔力がかつてと比べて減ったのだとも言うが、確かな原因は分かっていない。

「……この店はノックされると崩壊する呪いでもかけられてるんですか? 毎回毎回、何でノックする寸前にドアが開くんですか」

「失礼だなー。私が誇るこの安寧の城がそんなぼろ屋に見える? 単に私は私の宝を守るために周囲に完璧な結界魔術を施しているだけだよ。常連客の到来なんて十分も前から察知してる」

「公共の道に私的な結界を張らないでください」

 おっとりとそんな事を言うバゼルは、実のところかなりの魔術の使い手だった。ユキヒトと同じく魔術関連機関から引く手数多だが、全てを断って街で宿屋を営む変わり者だ。

「とーちゃん、おきゃくさん―? あ、ユキヒトさんとノルンちゃんだー!」

「お、ロック。どうした、まだ風呂に入ってないのか? かーちゃんに怒られるぞー」

 とことこと家の中から出てきたのは、バゼルをそのまま小さくしたような、くりくりとした目の少年だった。がおー、と、何の真似なのか両手をあげて脅すバゼルに、ころころと笑いながら足に纏わりつく様に、ユキヒトは少し微笑んだ。

「で、どうしたんだ風呂は」

「えっとね、今かーちゃんがマオねーちゃんとリュク兄ちゃんとバネットとファーと入ってる」

「あー、そっか。流石にそりゃ入れないなあ。じゃあ後でとーちゃんと入ろうな」

「うん、入る!」

「よしよし、偉いな」

 ごしごしとやや手荒に頭を撫でる父親に、ロックは気持ちよさそうに目を細めた。

「……どうでもいいですけれど、相変わらず鳥人種の人口問題に一家族で挑戦しているような家ですね」

 ロックは実にバゼルの5番目の子供で、現在のところバゼルには7人の子供がいる。あっはっは、と、バゼルは能天気に笑った。

「えっとねー、冬にはまたおとうとかいもうとがふえるの!」

「そうか、またお兄ちゃんになるんだな、ロック」

「うん!」

 嬉しそうに言うロックは、大家族に育っただけあって人懐こく、騒がしいくらいに明るいのを好む子供だった。

「しかしまあ……少しは自重したらどうなんですか、バゼルさん」

 ロックにしてもまだ5歳、その下に既に三人目となると、絶え間なくと言って過言ではない。しかもこの男は、子供が増えてくると自分の宿を改装して家族のスペースを広げてしまう。商売が成り立つのが不思議な宿であった。初回の改装は三人目が生まれた後、二回目は五人目、つまりロックが生まれた時だったと聞いているユキヒトは、そろそろ三回目の時期だろうと読んでいた。

「いやあ、奥さんが一人っ子で寂しがり屋さんなんだよねえ」

「どう考えてもそれは理由になってないでしょう」

「ふふふ、独り身だからってひがまない事だね」

 とても七人の子供がいる父親の表情とは思えない、恋人自慢をする学生の様な笑い方と表情で言うバゼルに対して、ユキヒトはため息をついた。

「ひがみじゃないですよ。ついでに独り身……はまあ独り身ですけれど、相手がいない訳じゃありません」

「ああ、ベルミステンにいるとか言う」

「ええ、まあ」

「さて……戯れはこれくらいにして。ようこそお客様、『白翼亭』へ。親鳥の翼の中に眠る雛鳥のような安らいだひと時をお過ごしいただけたならば何より重畳」

「お世話になります」

 バゼルの宿『白翼亭』。亭主とその家族は親しみやすく賑やかだが、その反面客室は落ち着いた装いの上、亭主の魔法により防音にも優れ、穏やかに行き届いたサービスを提供する宿だった。

 人嫌いという訳ではないが、見知らぬ他人と接する事に苦手意識を持っているノルンにとっても、室内に入れば外の気配を感じないですむその部屋は、ユキヒトと共に住まう今の家と同じようにくつろげる、数少ない場所だった。

「ノルンちゃん、今日は一緒にご飯食べる?」

 父親の足にしがみつきながら、にこにこと笑ってロックは言った。一瞬、ノルンが言葉に詰まる。その躊躇に気づいて、ユキヒトはすぐに言葉をはさんだ。

「ああ、今日はいろんなところ歩いて疲れたからな、一杯ご飯用意しておいてくれよ」

「とーちゃん、一杯ご飯用意しておいてね!」

「お客さんの希望じゃ断れないなー。まあ、期待しててよ」

「そう言う訳で、今日はみんなで食事だ。良いよな、ノルン?」

「……」

 少しだけ複雑な顔をして、しかし結局は微笑み、ノルンは頷いた。











 鉄を打つ。

 一意に、専心に、一心に、不乱に鉄を打つ。

 迷いがあれば、乱れがあればそれは必ず手に現れる。手に乱れがあれば駄作しか生み出されない。

 駄作を人に渡してはいけない。この時代、ヒトは剣に己の命を託している。まして、自分が生み出すのは量産品ではなく、全てが受注生産。己を見込んで依頼をくれた相手に対して、命を懸けて貰うに相応しい出来でなければ決してそれを渡してはならない。

 生きている限り、ヒトは迷わずにはいられない。心を乱さずにはいられない。だが、剣を打つ時、その迷いは忘れなければならない。ただ、風の無い湖面の様な心で、ひたすらに剣を打たなければならない。

 それを教えてくれた人に、もう会う事は出来ない。しかしその教えは、ユキヒトの中に確実に生きて、残っていた。

 かぁん、かぁん、と、澄んだ音が響く。その度に少しずつ、ユキヒトの世界が狭くなっていく。様々な過去も、未来も、全てが削られて行って、ただ剣を打つ現在、この小さな工房だけがユキヒトの世界の全てになって行く。

 ……マダ……マダ……モウスコシ……モウスコシ……。

 囁くような声が、ユキヒトに聞こえる。

 ……温度は……?

 ダイジョウブ……ダイジョウブ……。

 ……もう少し、か……。

 囁く声に返事を返し、ユキヒトは再び鎚を振るう。

 ユキヒトが期せずして身につけた力、それは声なき声を聴く力だった。

 ファリオダズマには、魔術というユキヒトの元いた世界とは異なる理がある。しかしそれと同時に、ユキヒトのいた世界の科学の理もまた存在する。そしてそれは相互に密接に関係している。

 ファリオダズマには、魔力に対して深い理解を示す人物はいる。その反面、科学に対する知識は非常に疎かだ。

 双方の知識を身につけ、その相互関係に気づいたユキヒトは、全ての物質には魔的な性質と科学的な性質の双方が備わっている事を知った。そして、全ての物質は、外的な要因に対して物理的な反応だけではなく魔的な反応も返している。注意深く「耳を澄ませ」ば、本来言葉を発する事などないはずの物質からも、その魔的な反応を読み取ることができる。

 物質に対する魔的、科学的な理解がある程度以上に深い場合、そして極端なまでに集中している状況下であれば、という但し書きはつくが、ユキヒトはいわば、物質と会話ができるのだった。

 鍛冶師としての経歴が短いユキヒトが高品質の剣を生み出せるのは、その能力によるところも大きかった。ある程度素質はあったらしく、その能力を自覚する前も筋はいいと誉められてはいたものの、鍛冶に関するありとあらゆる複雑な要因を全て読み切れる様になるには、三年間は短すぎる。

 極端なまでの集中力を必要とする関係から、ここぞと言うタイミングで使用しなければとても体力が続かないため、量産に向くような力ではない。だからこそ、ユキヒトは作る剣を受注生産の一品物に限っていた。

 もっとも、量産品を作らないと言うのは師に当たる人物もそうだった。責任も持てないような数打ち物に誰かが命を託しているなどぞっとする、とは彼の言葉だ。

 とはいえ流石にそれだけではなかなか食っていくのは難しい。そのため、包丁などの日用の刃物も生産し、それを売って金を稼いでいるのも師から譲り受けた生活手段だ。

 ユキヒトが今打っているのは、自分用の剣だった。

 ユキヒトは決して荒事が得意と言う訳ではないが、人里離れた場所に住む以上、ある程度自営の必要は生じてくる。元の世界では剣道を少し齧った事があったのが幸いし、少しは剣が使えた。

 とはいえそれで食っていく気もなかったユキヒトの事、あくまで自分の身を守るため、という程度の実力でしかない。平和な日本に生まれ育ったユキヒトの事、それ以上の力をつけるつもりもなかった。

「……さて、今日はこのくらいにして、ちょっと手の込んだ料理でもするかな……」

 一息をつけて、ユキヒトはゆっくりと立ち上がった。
















『いつか、断ち切らず受け入れるだけの強さを 行人』










[8212] 柔らかな記憶
Name: yun◆04d05236 ID:fe1e07cd
Date: 2009/09/29 01:50



 夏の終わりは、どこか寂しい。

 あるいはそれは、夢中で遊び続けた夏休みが終わる頃にもっと遊んでいたいのに、と考えていた幼いころの思い出を引きずっているからなのかも知れないが、長かったはずの日差しが短くなっている事に、あるいはふと気づいた風の涼しさに、ああ今年もこの季節が来たのだと少し感傷的な気持になるのは、自分ばかりではあるまいとユキヒトは思う。

「随分とたそがれた表情をしているんですね」

「ん……?」

 急に頭の上から声がして、ユキヒトは思わず首をのけぞらせて上を見た。

 落ち着いたブラウンの瞳が、覗き込むようにユキヒトを見下ろしている。やや鋭い切れ長の目だが、険があると言うほどではない。ほっそりとした輪郭で、全体的に鋭い印象はあるが、威嚇するような空気ではない。真上から見下ろされているおかげで、枯葉色の髪が覆いかぶさるように垂れてきている。

「ああ……こりゃ恥ずかしいところを見られたかな」

「恥ずかしい? 何故ですか?」

「……だって、川沿いの土手道で夏の終わりの夕方にたそがれた表情で座り込んでるんだぞ? 思春期真っ盛りのスクール生みたいじゃないか」

「夏の終わりはいつもどことなく寂しいものですから。それほど気にしなくても良いのでは?」

 意志の強そうなきりりとした顔を少しだけ緩めて、彼女はそう言った。

「まあでも、この体勢のまま話をするのも間抜けだな……。座ったら?」

 座っている自分を見下ろしている相手に、首をのけぞらせて話をしていると言う無理のある状況がいい加減おかしくなってきて、ユキヒトはそう勧めた。

「そうしたいのも山々ですが、私は警邏の途中ですので」

「硬いなあ。ほんの五分十分、一般市民と憩いの時間を持ってたからって文句は言われないだろう?」

「ほんの二月前に小隊長に昇格したばかりですから。普段以上に真面目に振舞っているのです」

 それは事実で、二月前にはユキヒトや彼の家主もそれを祝ったものだった。嬉しそうにしながらも、少し緊張した面持ちで、自分に務まるだろうかと呟いていた彼女だったが、どうやら立派にこなしているらしい。

 座ってゆっくりする気配はないと踏んで、ユキヒトは自分が立ち上がり、ヴァレリアと向き合った。

 ヴァレリアは、この街の騎士団所属の治安維持部隊の小隊長だった。ユキヒトのいた日本でいえば警察官に近い職業だったが、モンスターの大発生などの際には街の防衛に駆り出される事もある、なかなかに過酷な仕事である。小隊長とは、五人の部下をまとめる指揮官で、それほどに高い地位にある訳ではないものの、二十少しの年齢で、まして女性がその地位に就くのはなかなかに珍しい事だった。

 警邏中といった言葉の通り、腰には剣を佩き、簡易のものではあるが鎧を身につけている。

「嘘つけ。ヴァレリアはいつだって何か理由を見つけて真面目に振舞うんだろ」

「理由をつけなければ真面目に振舞えないんです。根が不精な性格をしているもので」

「知らないなら教えてやるけど、そう言いながらいつも真面目に振舞う理由を見つけてくるやつの事を真面目な奴って言うんだよ」

 そうやって言うと、ヴァレリアはくすりと笑った。

「それにしても、学院が休暇中とはいえ、少しくらい勉強してはどうなのです。図書館はあいているはずですよ」

「ぼちぼちはやってるよ。今日だって図書館帰りなんだ」

「ああ、それは失礼」

 律儀に頭を下げるヴァレリアに、ユキヒトはにやりと笑った。

「まあ、嘘なんだけど」

「嘘ですか! なぜ嘘をつくんですか!」

「……しいて言うなら、真面目すぎて人を疑う事を知らない知り合いが面白いリアクションを取るから……?」

「私ですか! 私の事なんですか!」

「どうだろうな」

 言うまでもないだろうと思いながら、ユキヒトは激昂するヴァレリアを軽くあしらった。

 ヴァレリアは非常にまじめな性格で、嘘が嫌いだ。とはいえこの様な他愛のないものは、嘘というよりは冗談に類すべきもので、彼女自身も本気で怒っている訳ではない。

「全く……私はそろそろ行きます。叔父さまとノルンにはよろしくお伝えください」

「分かったよ。……ああ、ヴァレリア」

「何ですか」

 立ち去ろうとするヴァレリアに声をかけると、生真面目な彼女はくるりと全身で向き直る。

「今日は確かにさぼってたけど、そこそこに勉強もしてるのは本当なんだ。だから、心配しなくてもいい。仕事がんばってな、サー・ヴァレリア」

「……はい!」

 二月前に与えられたばかりの称号をつけて呼ばれたのがくすぐったかったのか、ユキヒトが真面目に勉強をしているのが分かって安心したのか、それともユキヒトに労われたことが嬉しかったのか、ヴァレリアは少しはにかんだ表情で返事をした。

 年上の女性にそう言った表情をされるのがどこか照れくさく、ユキヒトはそっぽを向いて手を振った。









 ユキヒトの日々は、おおむね平和で幸せだった。

 ファリオダズマに迷い込んだのが一年と少し前。ある日目を覚ますとそこは薄暗い洞窟の中で、その上突然怪物に襲われたという最悪に近い迷い込み方ではあったが、幸いにも助けてくれた人物は無口で無愛想ながら根は親切な男で、帰る場所も行く先もないユキヒトを自分の工房に住み込みで働かせてくれた。その上今は、工房で働きながら魔術学院に通う為の学費まで工面してくれている。無論学費はユキヒトが借りているだけという形であり、卒業後には利子をつけて返す事になっているが、見ず知らずだった人間に快く金を貸してくれたことを、ユキヒトは心から感謝していた。

 ユキヒトが世話になっている男はオルトという鍛冶師で、腕の方は上々らしく、たまにではあるが一流と呼ばれる冒険者や、貴族階級の者までが刀剣の作製を依頼に来ることがある。幾らなんでもただ面倒を見て貰う訳にも行かなかったユキヒトは、弟子入りするような形で彼の仕事を手伝っていた。

 衛兵のヴァレリアはオルトの姉の娘、つまり姪に当たる女性で、時折工房に顔を出す関係からユキヒトとも親交があった。

 魔術学院にも気のいい友達は多く、おおむね平穏な人間関係を築けていた。

 夢見がちな性格をしていた訳ではないユキヒトではあるが、ゲームか漫画の中にしかなかったような世界で過ごす事に、興奮がない訳ではない。とはいえ実際に過ごしてみれば、住み慣れた現代日本との違いは歴然としており、かつての友や家族とも会えなくなった状況、帰りたくないと言えば嘘になる。

 無駄かも知れないとは思いながら、帰還の為の道を探ってもいる。魔術学院に入学し魔法を学んでいるのも、元はと言えばその目的の為だった。

 しかし、学べば学ぶほど、異世界へと通じる道を開くなどという魔法は荒唐無稽であることが分かるばかりだ。

 諦めたわけではない半面で、着々とこの世界で生きるための足場を固めてもいる。ユキヒトは堅実な性格をしていた。

「ユキヒトさん、お帰りなさい」

「ただいま、ノルン」

 戸をあけたとたんにとてとてと寄ってきたのは、オルトの娘のノルンだ。生まれつき目が見えず、体も決して頑丈とはいえない少女で、性格はやや内向的ではあるものの、決して暗いであるとか、ひねくれたと言うようなところはない。父親に似たのか、物静かではあるが優しく、素直な子供だ。

 母親は、やはりあまり体の強い人ではなかったらしく、ノルンを生んだ時に亡くなってしまったとユキヒトは聞いている。オルトがユキヒトを家に住まわせる気になったのは、ノルンの世話をし、話し相手になってくれる者を望んだと言うところもあるのだろうと、ユキヒトはヴァレリアから聞いていた。

「オルトさんは?」

「お父さんはお仕事中です」

「そっか」

 手伝いに行かなければと思いながら、ノルンを伴って家の中へ入る。

 鍛冶に限った話ではないだろうが、職人の道は厳しい。一年以上修行のような事をしているユキヒトとて、未だに出来るのは雑用のような仕事が殆どだ。一人で剣を打つなどまだまだ先の話に思えた。

「ノルン、ついて来ちゃダメだぞ」

「……お父さんのお仕事、おそばで聞いていたいです」

「ダメだって。怒られるのは俺なんだぞ」

 なぜか工房で鉄をたたく音を聴くのが好きなノルンが、抗議するような声で言うのをユキヒトはきっぱりと拒絶した。

 オルトはノルンが工房に入るのを嫌がる。仕事の邪魔という事もあるが、それ以上に危険だと言う。確かに目が見えないノルンがふらふらと歩いていて安全な場所であろうはずもない。ユキヒトもオルトの方針に大いに賛成で、事あるごとに侵入を試みるノルンを撃退すると言う重要な役割を任されているのだった。

「……」

「大人しくしてたら、またジュースを作ってあげるから、な」

 今日も今日とて、ノルンの抗議の沈黙を、好物のジュースで買収にかかる。

「……約束だよ」

 少し迷ったそぶりを見せながらではあるが、ノルンはそう言った。その言葉さえ引き出せればもう勝ちだ。ノルンは、父の教育が良かったのか、約束を違えることはしない。もちろん、こちらが約束を破った時には、ノルン本人だけでなく、父親のオルトにもこっぴどく叱られる事になるが。

「ああ、約束だ」

 忘れないようにしないいけないなと考えながら、ユキヒトは工房へと入って行った。ノルンは、もう追うようなそぶりは見せなかった。

 工房へ続く扉を開けたとたん、熱い風が吹きつけてくる。中へ入ると、ユキヒトは素早く扉を閉めた。

 かぁん、かぁんと、規則正しく鉄を打つ音が響く。ユキヒトが入ってきたことに気づいているのかいないのか。いや、気づいているのは間違いない。扉が開けられ、外の冷たい空気が流れ込んだはずなのだ。温度は鍛冶にとって重要な要素の一つだ。無論、扉を開けて閉めた程度の事で作っている刀剣が駄目になると言うものではないが、彼ほどの鍛冶師が工房の中にそれほどの変化が起きて気付かないはずはない。少なくとも、彼は工房の扉が開けられ、そして閉められた事は察知したはずだ。

 とはいえ、刀剣を鍛えている最中の彼はそれに完全に没頭している。工房の扉が開けられた事、閉められた事を察知したと言っても、その意味をいちいち考えたりはしない。ただそれが今鍛えている剣にどれほどの影響が出るかという事にしか、彼は関心を払わない。

 声をかけて自分の存在を知らしめることは、邪魔にしかならない。ただ、彼が自分の存在に気づいた時にいつでも指示を出せるよう、静かに部屋の片隅で待機しながら、彼が剣を鍛えるのをじっと見つめる。

 必要な技術は教えるがそこから先は天性の感覚だ、とは彼の言葉だ。教えられた通りの技術を身につけ、習った通りの手順で剣を鍛えれば、そこそこの品はできる。二流の使い手ならば十分に満足する程度の出来の剣だ。それ以上を求めるならば、それを越えた所にある言葉に出来ない何かを掴むしかない。

 片隅にいるだけでも、どこかぴりぴりしたような空気を感じる。いつも以上の、鬼気迫るようなオルトの仕事ぶりだった。

 自分が提案したことの重さを、今更ながらにユキヒトは知る思いだった。

 オルトが今鍛えているのは、ヴァレリアの剣だった。小隊長の就任祝いに一振り贈ってはどうかと、ユキヒトがオルトに提案したのだ。初めは渋るオルトを不思議に思ったものだった。珍しく、何故なのかと問うても明確な答えを示さない彼にユキヒトは多少苛立ったものだったが、苛立ち紛れに本気で追及して、ようやく引き出した一言にユキヒトは言葉を失ったものだった。

 曰く、『彼女が死ぬ時に握っていたのが俺の鍛えた剣だった、そんな事になったら俺はどうすればいい』と。一瞬怯んだユキヒトだったが、覚悟を決めて返した。『彼女が死ぬ時握っていたのが、オルトさんの鍛えた剣じゃなかった。そうなった時に後悔しないでいられるんですか』と。

 一瞬、ぽかんとした表情をしたオルトだったが、しばらく思慮をめぐらせるように目を閉じ、ゆっくりと目を開くと呟いた。『それは許せんなあ』と。

 そうして始まったヴァレリアの剣の鍛造だったが、それは完全にユキヒトの手が出せる領域の出来事ではなかった。普段から仕事中のオルトは恐ろしいほどの集中力を見せるが、今回はそれ以上だった。

 使い手が命をかけるに値するものしか依頼人に渡さない。それがオルトの信条だったが、今回の剣は彼にとって大切な姪の命を守るためのものだ。力が入らない訳もなかった。

「ユキヒト。相槌を打て」

「……良いんですか」

「お前が言い始めた仕事だろう。責任を取れ」

 いつの時点からユキヒトが工房に入った事を認識していたのかは分からないが、オルトは当然のように指示を出してくる。ユキヒトは、それに従って、剣をはさんでオルトと向かい合うような位置に座った。

 オルトが鎚を振るうその合間に、ユキヒトも鎚を振り下ろす。剣に魂を込めろ、とオルトは教える。小手先の技術だけで本当の剣は打てないものだ、と。

 その教えの意味するものがすべて理解できている訳ではないが、今この剣を鍛えている間だけは、彼の教えの通りにできるだろうと感じる。

 かぁん、かぁんと鉄を打つ音が響く。その度に生真面目で融通の利かない女衛兵に贈る剣ができていく。ユキヒトにはそれが嬉しかった。











 人間の英知の最大の結晶は何かと問われれば、ユキヒトはためらわずに、それは言語であり、次点は文字だと答える。

 いかに革新的な技術や学説も過去からの情報の伝達がなければありえない。人間は、過去を受け継ぎ未来へと遺す事で他の動物たちと決定的に変わったのだとユキヒトは考えている。

 書物は、その言語と文字を用いて過去の知識を封じた英知の塊である。図書館が例外なく静かであるのは、知性を持つ者であれば誰しも、その長い時にわたって過去の偉人達が残してきた英知に敬意を払わずにいられないからだ。

「……いや、そんな訳なくてそれがルールだからなんだけどな……」

 暇つぶしに、友人の一人が言いだしそうな大仰な表現で図書館が静かな理由を考えてみたが、大して時間も潰れなかった。やれやれと一つ肩をすくめると、ユキヒトは再び魔法陣の教本に目を落とした。

「……やっぱり、間違いなさそうだな……」

 そのページに書かれているのは、炎の魔法陣を強化するための技術についてだ。

 炎の魔法陣と風の魔法陣は相性が良い。ただし、風の魔法陣が強すぎる場合はその限りではない。

 その教本には、炎の魔法陣にどの程度風の魔法陣を取り入れるのが有効かについて論じてある。しかし、何故炎の魔法陣と風の魔法陣の相性が良いのか、それについては触れられていない。おそらくは、いや確実に、分かっていないのだろう。

 その法則自体を発見するのはさほど困難ではなかっただろう。実際に、炎に向けて風を送れば火は大きくなり、しかし小さな火に風をぶつければ火は吹き消されてしまう。魔法陣でも同じことが起こると言うただそれだけの事だ。

 結論から言えば、炎の魔法陣が強化されるのは、風の魔法陣のせいではない。

 燃焼とはつまり、発熱と発光を伴う酸化反応であり、燃える物質と酸素が存在している事が必要条件である。魔術による炎と通常の燃焼が違うのは、『燃える物質』が魔力によって代用されると言う点になるだろう。とは言え魔術も自然法則を完全に無視するものではなく、風の魔法陣により空気を集めることが、結果として酸素の供給となり、炎の勢いが増すのだ。

「……つまり、『酸素』の要素を持ってる魔法陣さえ見つけられれば、もっと効率よく炎の魔法陣を強化できる訳だ」

 その為には、酸素と関係がありそうな魔法陣を調べ、共通点を探るのが良いだろう。ユキヒトは、思いつく限りの魔法陣を調べ始めた。

「……いくつも魔法陣を並べて何をしているのだ。炎に……こっちは風か。これは水。こっちは……毒? 共通点が良く分からんな」

「アルディメロ。図書館では静かに」

「言われずとも周囲に勉学中の徒がいない事は確認している」

 ぬっとあらわれたのは、ヒトの体に狼の顔をした獣人、ワーウルフのアルディメロだ。

「アルディメロ、残念ながら目の前に勉学中の真面目な学生がいるぞ」

「真面目な学生とな。どこにいる」

 わざとらしくきょろきょろと辺りを見渡すアルディメロに、この野郎と小さく呟いてユキヒトは笑った。

 ふとしたことから知り合ったアルディメロは、恐ろしげな外見とは裏腹に理知的な性格の男だ。理知的ではあるが頭が堅い訳ではなく冗談も通じる、ユキヒトに取っては気の許せる友の一人だった。

「それで何か用か」

「ふむ。また師が学院に協力を依頼すると言う事でな、取次ぎを頼もうかと思っている」

「俺の知っている先生でよければ」

「頼りにしている」

 学ぶことに対して真摯なアルディメロの姿勢は、現代日本で勉学を強制され、大学に入ってからは自主的な休講を当然の権利の様に行ってきたユキヒトに取っては、どこか眩しいものだった。

 当然のように教育を受けることができる事、その尊さを知らなかった訳ではない。だが、それも所詮は「学んだ」事だ。勉強をする事が出来ない環境というものにユキヒトはおかれたことがなかった。勉強が嫌いなわけではなかったが、かといって強制されなければそうそう好んでした訳でもないだろうと言う気持ちもあった。

「しかし……お前はよく珍妙な発想をするな。その癖それが的外れにならない。不思議な事だ。今回のこれとて私にはよく分からんが、何かしら意味があるのだろう」

「意味があるかどうかは、やってみないと分からないけどな。それに俺は魔術学院の人間だ。効果があれば原理だのなんだのはどうでもいいんだよ」

「ふぅむ……私としては、因果の律を解き明かすことこそが最も効率的であると感じるがな」

「そっちはお前に任せるよ」

 実のところを言えば、ユキヒトはアルディメロの言う事の方が正しいと思っている。経験則のみを頼りに小さな進歩を繰り返すよりは、経験から法則性を発見する方がよほど大きな事だろうと。

 しかし、ユキヒトの持つ知識は、余りにこの世界の常識からはかけ離れ、進みすぎていた。ユキヒトとてそれを自分の為に少々役立てることはするものの、世界に大きく知らしめるような事はしたくなかった。

 結果、ユキヒトのスタンスは、アルディメロの様にこの世の真理を解き明かそうとするものではなく、今ある技術をとりあえず前進させると言うものにならざるを得ないのだ。その方法にアルディメロが求めてやまない知識を利用するのだから、矛盾と言えば矛盾であったかも知れない。

 口は良くないものの、何かと気にかけてくれる良き友人であるアルディメロ、その彼にすらユキヒトは秘密にしなければならない事が多すぎる。

 それが悲しくないと言えば嘘だった。









「たそがれた表情で川辺に座るのがこのところの貴方の流行りなのですか?」

 先日と同じ川辺に座っていると、先日と同じように頭上から声が降ってきた。

「まあ、そう言う時期だってあるだろ。オンナノコだけじゃなくてオトコノコだってそれなりに複雑なんだよ」

 そう言って笑ってみるが、我ながらどうにも弱々しい笑いになってしまったと言う事は自覚できた。

「故郷の事……ですか?」

「……半分は、そうかな」

 オルトとノルンには、正直にこことは違う世界から来たのだと説明をしていた。保護された時のこの世界にはありえないような洋服や、ユキヒトの様々な知識から、オルトとノルンはそれをある程度信じてくれた。そして同時に、余りそう言ったことを公にしない方が良いという助言をくれた。

 迷信がはびこるこの世界では、異世界からの旅人などというものがどう祭り上げられるか分かったものではないし、逆に不気味に思われてしまえば最悪私刑もあり得る。

 ユキヒトは、オルトとノルン以外には、事情があって故郷には戻れないし故郷の事もあまり喋りたくない、という事で通していた。それはオルトの姪でありノルンの従姉であるヴァレリアにも同じことだった。

「……」

 黙って、ヴァレリアはユキヒトを見下ろした。口を開きかけてはまた閉じるという事を何度も繰り返す彼女に、ユキヒトは笑って見せた。

「俺は、そこで安易な慰めの言葉を口にしないのがヴァレリアの良い所だと思ってるよ」

「……口が下手で、不器用なだけです」

「そうだな。でも、口が下手で不器用なのがヴァレリアのいいところなんだ」

「褒めていません!」

「俺にとっちゃ最大級の賛辞だ」

 いくつか言葉を思いついたのだろう。それを口にせず飲みこむのは、確かに器用なやり方ではないのだろうが、ユキヒトに取っては心地の良いものだった。

 何を言ったところで、ユキヒトの事情を深く知らないヴァレリアでは、口先だけの慰めにしかならないのだ。無論それはヴァレリアのせいではなく、事情を話せない、話さない自分の側の問題だとユキヒトは思っていた。

 安易な慰めを口にして、却って無神経に相手を傷つけることを避ける心、それは不器用ではあるかも知れないが純粋な優しさだとユキヒトは思う。こういったところはやはり、ノルンやオルトの親族なのだとそう思えた。

「全く……ユキヒトは、自分を心配している相手を茶化す悪い癖があります」

「心配してくれるんだな?」

「当たり前でしょう」

「……」

 臆面もなく、照れもなく堂々と言い放つヴァレリアに、むしろ自分の方が恥ずかしくなって、ユキヒトは少し赤面した。

「何を照れているんですか。大切な友人が沈んだ表情をしていれば心配をするのが当たり前でしょう」

「……かなわないよ」

 からかいがいのある初心な相手だと思っていると、純粋すぎてこちらの方が赤面させられてしまう。そんな相手だから、秘密を隠しているのは心苦しい。ユキヒトは苦笑いをした。

「大したことじゃないんだ。全部俺自身の気持ちの問題でしかない」

「そうですか」

 言って、ヴァレリアはユキヒトの隣に腰をおろした。

「いいのか? 真面目な小隊長」

「困っている市民の力になるのは衛兵の大切な仕事です。……何より私自身がそうしたいのです」

「そうか。ありがとう」

 仕事だからなのかなどと言う下らない難癖をつけるような事はしない。ユキヒトはくすりと笑った。

「……」

 ただ黙って、川の流れをぼんやりと見つめる。ユキヒトの住んでいた日本ではなかったような、きれいな水の流れだった。

「……昔、俺の住んでいた街ではさ」

「……」

「こういう風に川が街の中を流れてて。川岸には桜や柳が生えてて、春は満開の桜が綺麗だったし、夏の緑の葉をつけたところも良かった。秋は風が気持ち良かったし、冬はちょっと寒かったけど雪が舞ったりするのを見てるのが好きだった」

「良い場所だったのですね」

「……若いカップルが良くデートなんかしてて。よくカップルで座ってるんだけど、どういう訳だかそれぞれのカップルが同じ間隔をあけて座ってるんだ」

「……それは、何というか、奇妙な風景ですね」

「客観的に見れば、今の俺達も似たような感じかな」

「なっ!?」

 そうしたところでどうなるものでもないだろうに、ヴァレリアは素早く立ち上がった。

「相変わらず、こういう冗談には弱いんだな」

「分かっているならやめてください!」

 顔を真っ赤にしてヴァレリアは怒鳴る。

「そんな事言っても、お前もう二十……うおっ!?」

「女性の年齢を口にする時は、それなりの覚悟を持ってください」

 剣の切っ先をぴたりとユキヒトの喉元に合わせ、ヴァレリアは完全に据わった目をして言う。

 独り立ちが早いファリオダズマでは、結婚も比較的早い。種族によっては男性よりも女性の方が体が大きく力が強い事もあるためか、それほど男女で権利に差はないのだが、ヒューマン種族では社会に出て一線で活躍する女性というのはさほど多くない事も関係して、十七、八で結婚する者が多い。二十歳を過ぎて独身の女性ヒューマンは、口さがない者には「嫁き遅れ」「売れ残り」などと称される。

 十分に生活を出来る仕事を持っているヴァレリアの場合、単純な比較はできないだろうが、それでも古くからの友人のうちかなりの割合が結婚して子供を持っているものも多く、残っているものも秒読み状態の者がかなりの数となれば、心中に期するものがあるのは当然だろう。

 ファリオダズマに来て一年少しのユキヒトには、そのあたりの機微は未だ十分には掴めていなかった。

「……申し訳ありませんでした」

「分かれば良いのです」

 纏う空気はまだやや刺々しいが、ひとまずヴァレリアは剣を鞘に納めた。ユキヒトは、ひとまず胸をなでおろしつつ、座るように促す。ヴァレリアは、まだ少しむっつりとした表情ではあるが、大人しく座った。

「あの街に帰りたくないって言えば嘘になるけど、俺はこのベルミステンも結構好きだよ。ちょっと雰囲気も似てる気がする」

「……ユキヒトが嫌でなければ、ユキヒトの故郷の事を時々でいいので話してください」

「退屈だろ?」

「いいえ。とても楽しいですよ」

 そんなもんかねと呟いてユキヒトは頭をかいた。

「……住みなれない街で生きていくのは大変な事だと思います。ですが貴方には貴方に力を貸してくれる人がたくさんいるのですから、そう言う人を頼れば良いと思います。微力ながら、私も力を貸します」

「……ヴァレリアにはいつも助けてもらってるよ」

「はて、そんなに力になった覚えはありませんが?」

「……」

 落ち込んでいる時にさりげなく側にいてくれる、そんなにありがたい存在が他にいるかと、流石に照れくさくて言葉にはできず、ユキヒトはごろりと横になった。

 生真面目な小隊長は、どうやらしばらくは付き合ってくれるらしかった。その厚意に甘えて、ユキヒトは無言で目を瞑った。












 溶けた金属を目的とする形の鋳型に流し込んで冷やし固める鋳造と比べて、金属を叩いて形を整える鍛造は圧倒的に手間がかかる。

 しかし、鍛造に比べて鋳造では金属内部の空隙が大きくなり、強度が高まらない。日用品であれば手間をかけて強度を高めなくとも十分に使用できる。しかしそれが武器となると、生半可なものを持ち歩いていたのでは、それこそ命にかかわる。

 ファリオダズマでは武器を必要とするものは数多い。モンスターは時に街へと襲撃を仕掛けてくることもあり、常備兵力はかなりを備えなければならないうえに、各地の「迷宮」を探索する冒険者も相当の数に上る。街から街へと貿易をする商人は、盗賊、モンスター双方に備えるために傭兵を雇うのが普通であった。

 その一方で、優れた鍛冶師の数は多いとはいえず、その生産できる武器の数も限られている。結果、軍の上層部はともかく、兵卒に支給品として与えられる剣は、ひどい場合は鋳造の三流品である事すらある。

 ベルミステンはそれなりに豊かな街であり、流石に鋳造の剣ではないものの、それでもそれほど時間をかけて作られた訳ではない二流以下のものが支給される。幸いにと言うべきか武具の交換は手続きをとり、審査を通れば可能だ。ヴァレリアも流石に支給された剣には不満があったらしく、一年間貯金をして作ったという自前の剣を携行している。

 だがそれにしたところで、新米の衛兵が一年間で貯めた金で作れる程度の剣だ。はっきり言ってしまえば、二流品である。ヴァレリアの生真面目な性格は実の所、昔から通っていた剣術道場で培われたという側面もあるもので、剣の実力のほどはかなりのものである。そのヴァレリアの実力に剣がついて行っているとは言い難かった。

「……仕上がりだ」

 知り合いの鞘師に依頼して作らせた、白いシンプルな鞘にその剣を納めると、オルトは呟くように宣言した。

「良く手伝ってくれた、ユキヒト。この出来なら胸を張ってヴァレリアに渡せる」

「……」

 そんな言葉をかけられたのは修業を始めてから一度もなく、ユキヒトは思わず呆然とした。

「良い剣になった。気持ちの籠った良い剣だ」

 直剣、両刃。刃渡り約八十センチ。幅広の剣身で重量はかなりのものではあるが、その分丈夫だ。鉄にオリハルコンを混ぜた合金製で、その特徴であるやや赤味がかった色をしている。実戦のみを想定された剛剣であった。

「……それはオルトさんがヴァレリアを大切に思ってるから」

「それは違うぞ。二人……いや、三人分の気持ちだ。ノルンの奴、ここのところ仕事中はずっと祈ってたんだ、知ってたか?」

「いや、知りませんでした。何でオルトさんは?」

「娘の事くらい知ってる」

 長く、溜息をつくようにオルトは息を吐きだした。

「少しばかり疲れたな。次の休みにでも渡してやろう」

「喜びますね」

「昔からお転婆だったが、今になっちゃあれはもういっぱしの剣士だ。さて、ちょっと今日は根を詰めすぎたな。寝る。晩飯はいらんぞ」

「分かりました。お疲れ様でした」

 首をごきごきと鳴らしながら、オルトは工房から出ていく。

「ユキヒト。ここまで手伝わせたのは初めてだが、お前は筋が良い。あれにとっちゃ、人生で二番目に大切にする剣になるだろう。ありがとうよ」

「……二番目?」

「一番はまだ作られてない」

 何の事やらと首を捻るユキヒトに、オルトは微笑を見せた。














「……これを、私に……?」

 喜ぶというよりは呆然としたように、ヴァレリアは言った。

「何だ、嬉しくなかったのか? おいユキヒト、残念だな、失敗作らしいぞ」

「そんな訳ないでしょう!」

 わざとらしくがっかりしたという声を出すオルトの言葉を、ヴァレリアは大声で中断させた。

「この赤味がかった色、この魔力、間違いなくオリハルコンが使われています。現時点では魔法陣は施されていないようですが、それはつまり使い手が好きに魔法陣を選択できるという事です。なんらか特殊な効果をつけるもよし、剣としての完成度の高さを活かすために強度や切れ味を高めるもよし、選択肢はいくらでもあります。使いこなして見せろと言わんばかりの挑発的ですらあるような剣です。剣を志す者がこれを渡されて、心が震えないはずがありません!」

「相変わらず、剣に関しては大した鑑定眼だ」

「……すみません、少し興奮してしまいました」

「まあ気に入ってくれたなら何よりだ」

「しかし、こんな高価なもの……」

「妙な事を言うな。それは売り物じゃない。だから値段もないし、値段がないものは高価とはいえない」

「そうは言っても……」

 なまじその剣の価値が分かるからこそ、生真面目なヴァレリアは素直に受け取らない。ユキヒトにも気持ちは分からない訳ではないが、流石にじれてきて口を出した。

「それは、初めてオルトさんが俺に本格的に手伝わせてくれたものなんだ。ヴァレリアに渡すために全力で打った。それは、ヴァレリアの為の剣なんだ」

「ユキヒトが……?」

 問いかけるようにオルトを見るヴァレリアに、オルトは頷いて見せた。

「ユキヒトさんは、すごく一生懸命でした」

「……」

 続けて、ずっと静かに座っていたノルンが、駄目を押すようにきっぱりと言った。ヴァレリアはその言葉を聞いて、しばらく剣を見つめていたかと思うと、ゆっくりと顔をほころばせた。

「オルト叔父さま、ユキヒト。ありがとうございます。この剣に恥じない使い手になります」

「気負うなよ。剣なんて所詮道具だ。だが、それをお前に渡したいがために打っ倒れるぐらい真剣に鍛冶に取り組んだ男がいるんだってことは忘れてやるな」

「……ユキヒトさん、三回もお仕事中に水分不足で倒れちゃったんです。お水を飲むのも忘れてお仕事をしてたんです」

「いや、あんなに長時間手伝いをしたのは初めてだったから、ペースがつかめなかっただけだ!」

「そんなに慌てて否定したんじゃ、全力で肯定してるのとおんなじだろうが……って、ヴァレリア、お前ももういい年なんだからそれくらいで真っ赤に……うおっ!?」

「叔父さまと言えど、女性の年齢を安易に口にする者には相応の報いがあってしかるべきです」

「おいノルン、何とかしてくれ!」

「お父さんが悪いです」

「なんとっ!?」

 実の娘に裏切られて、オルトは悲痛な声を上げる。この状態になったヴァレリアに先日痛い目にあわされたばかりのユキヒトも、この時ばかりは被害が及ばないようにこそこそと小さくなっていた。

「この恩知らずどもめっ!」

「問答無用!」

 半ばは照れ隠しのヴァレリアに追われるオルトを、ユキヒトはノルンと一緒になって笑っていた。









「……大切な思い出だって、いっぱいある」

 言い聞かせるように、ユキヒトは呟いた。

「楽しかった事なら、思い出してもつらくはなくなってきた。もうちょっとだ。もうちょっとなんだ。だからもう少しだけ、待っててくれないか……」

 ユキヒトは手元の手紙に目を落とした。

 ヴァレリア・ロイマー。流麗な文字で、手紙にはそう署名がされていた。









「最愛の姪へ 不肖の弟子が君に剣を贈るまで君の身を守らん事を オルト」






[8212] 夜に生きる
Name: yun◆04d05236 ID:fe1e07cd
Date: 2009/10/21 22:12



 真夜中、ユキヒトは明かりを灯し、注文を受け付けるカウンターに座っていた。

 当然というべきか、常ならば傍らで椅子に座っているノルンの姿はない。基本的に規則正しい生活の彼女はこの時間、すでに深い眠りの中だ。

 ふと、明かりが消える。しかしユキヒトは慌てない。そのまま静かに佇んでいる。

 部屋の中は暗い。わずかな青白い月明かりだけが、カーテンを引いていない窓から部屋の中を照らしている。

 その月明かりの中に、影が落ちる。しかし、光に照らされるものは何もない。実体のないまま、影だけが唐突に出現する。

 それは影ではなく、黒い霧であった。室内に突如現われた黒い霧を見て、それでもユキヒトは小さくため息をつくだけだった。

「……依頼の品は出来上がってる」

「それは素敵だ。世の中には約束の刻限を守れぬ馬鹿どもが多すぎる」

 霧の中から声が響く。言葉に対して、ユキヒトはやや皮肉げに唇の端を持ち上げて見せた。

「それはどうだか知らないけど、約束の刻限を真夜中零時にする馬鹿なら俺の目の前に居る」

「どうした鍛冶屋、随分機嫌が悪そうだな」

 はじめはもやもやと何の形もとって居なかった霧が、徐々に人の形を成していく。それを見ながらユキヒトは一つ欠伸をした。

「知らないんなら教えてやるけど、ヒューマンってのはこの時間は睡眠の真っ只中なんだよ。お前だって用事があるから真昼間に日差しを完全に遮った密室で会おうって言われりゃ不機嫌になるはずだ」

「化け物相手にいい口の利き方だ。がぶりと行かれても知らんぞ」

 無言で、ユキヒトは左手を上げる。そこには、先日鍛えた自分用の剣が鞘に納まったまま握られていた。

「はっはっはっ! それでいい、それでいいぞ鍛冶屋!」

「ユキヒトだ。名前で呼べよ、ヴァンパイア」














 ヴァンパイアは『最もヒトに近いモンスター』と言われる種族だ。

 モンスターの定義に『同種族間以外での意思疎通を行えないこと』という項目がある。ヴァンパイアはヒトと共通の言語を用い、会話をすることは可能である。それにも関わらず、『会話をすることは出来てもあまりに思考に違いがありすぎるために意思疎通が出来ない』などという苦しい理屈をつけてまでモンスターとされるのは、その特殊な繁殖方法に原因がある。

 通常のような男女の交わりでも繁殖することは出来る。しかし、ヴァンパイアをヴァンパイアたらしめている最大の要因ともいうべき、もう一つの繁殖方法がある。

 それは、『吸血』である。ヴァンパイアに血を吸われた者はヴァンパイアになる。それも、元の種族の特性を残したまま、ヴァンパイアとしての特性を備えることになる。

 太陽や流水に弱い。霧や蝙蝠に身を変えることが可能である。魅了の魔術により魔への抵抗が弱いものであれば傀儡に出来る。異常なまでの回復力を誇り、心臓に白木の杭をはじめとする破魔の武器を打ち込む以外の手段ではそうそう殺すことが出来ない。そして、吸血した相手を自身と同じヴァンパイアにする。そういった特性だ。

 それは確かに一般的なファリオダズマの住民からすれば『不気味』な特性であるのだろう。彼らが主張するとおり、仮にヴァンパイアとそれ以外の種族が隣り合って暮らしていたとして、共存できるのかといわれれば難しい物があるのは間違いない。生活の時間帯からして既に方や昼の太陽の下、方や夜の月の下と別れてしまっている。他方が休んでいる間、他方は積極的に活動しているのだ。かみ合うはずもない。

 また、ヴァンパイアに寿命は存在しない。正確には、存在するのかもしれないが寿命により死んだヴァンパイアというものは現在までの歴史の中で確認されていない。その死因のもっとも大きな割合を占めるのは他者による殺害であり、大きく離された第二位は自殺である。害を為すものとされて討伐されるか、いつまで経っても訪れない終わりに絶望して自ら命を絶つか。それがヴァンパイアの宿命である。長短はあれ時間は有限であると考えるほかの種族と、命という物に対する考え方は当然大きく違ってくる。 

 しかし、ユキヒトは思う。果たして彼らは本当に『モンスター』であろうかと。

 もとより、ファリオダズマで言うところの『ヒューマン』しか居ない世界で育ってきたユキヒトである。顔が狼であるとか、身長が一般的なヒューマンの胸までしかないであるとか、耳が尖っているというだけのことでも、ユキヒトからすれば特殊なことだ。果たしてそれらとヴァンパイアの特性との間で、どれほど違いがあるというのか、と思うのだ。

 吸血を行うことで種族を変えてしまうという特性は確かに恐ろしいものではあるかもしれないが、ヴァンパイアにはヴァンパイアのルールがある。無差別な吸血を行う者は、ヒトからはもちろん、同族からも粛清の対象とされる。ヒトに友好的なものが多いとは言えないが、かといってヒトと積極的に敵対しているわけではない。それがヴァンパイアという種族だ。

 ヒトの側にも、ヴァンパイアと対話して関係を築こうという動きがないわけではない。そもそも、かつては獣人とヒューマンとてお互いに憎しみあい、滅ぼそうとしあっていた時期がある。それを思えば、ヴァンパイアとの和解とて、決して空想事ではないと信じる者が、ヒトの中には居る。

 ユキヒトとしては、そこまで強硬な信念があるわけではないのだが、相手次第では商売にも応じるという姿勢を見せている。実のところ、ほとんどの国家ではヴァンパイアとの取引を禁じる法律はない。そもそも意思疎通が出来ない相手と定義されている建前上、モンスターの一種であるヴァンパイアと取引を行うなどということは、通常では想定されない事態だ。動物との取引を禁じる法律がないのとそう変わらない。

 とはいえ、モンスターの中でも例外的な存在であるヴァンパイアと取引があることが公になれば良い印象をもたれないのは当然だ。ユキヒトとしても、そこには多少考えるところがないわけではない。

 オルトゥーレと名乗るヴァンパイアがユキヒトの元を訪れたのは、三月ほど前の深夜だった。就寝中に突然起されたユキヒトは驚いたし、それ以上に危機を覚えもしたのだが、オルトゥーレはまずは名乗り、自分にユキヒトを害する意思は一切ないと前置きをした上で、ヴァンパイアであることを明かした。

 驚きながらも用件を問うたユキヒトをオルトゥーレは気に入ったようで大いに笑い、その後剣を一振り注文したのだった。

「化け物から話しかけられたヒトの反応はそう多彩なものではない。無論貴様の反応も想定されるパターンの一つに過ぎなかった。しかし、極めて珍しいパターンの一つだ」

 そして今、オルトゥーレは出逢いの時を思い返し、上機嫌に笑った。

 いまやオルトゥーレは黒い霧などではない。完全にその姿を現していた。

 ぞっとするほどの美貌を備えた青年だ。金色の髪は奇麗に撫で付けている。形の良い鼻に、すらりとした輪郭。薄い唇には色気すら漂う。どこをとっても完璧としか言いようのない顔立ちであった。

 しかし、眼だけがその中で異様な雰囲気を醸し出している。赤い瞳と言えば、竜族の一般的な特徴と同じであるが、竜のそれが生気を伴うルビーの輝きであるならば、目の前の青年の瞳の色は、生命から零れ落ち、濁ってしまった血のそれであった。

「お気に召した様で何よりだよ。で、普遍的な反応をされたらどうするつもりだったんだ」

 つまり、逃げるなり、実力で排除しようとするなりの反応をされた場合だ。

「さあな。相手に同情すべき点があるなら見逃してやる」

「物騒な奴だな」

「忘れるなよ、私は『化け物』だ。貴様らヒトがそのように決めた」

「俺が決めたわけじゃない」

「だから私もヒトであるからと一括りの対応をしないようにしているわけだ」

 ヴァンパイアには、通常のヒトの感性では理解できないほど突飛な、あるいは少しずれた行動原理を持つ者が少なくない。そしてそれは、長く生きたヴァンパイアほどそうなっていく傾向にある。

 総じて彼らは退廃的であり、享楽的であり、刹那的であり、破滅的である。永遠とも言える時間が、ヒトとは異なる精神と理論を少しずつ育んでいくのだろう。

「それで、なんでその化け物がヒトの武器を作らせるんだ」

「ふん。ヴァンパイアの生は伊達と酔狂で出来ている。意味などない」

 オルトゥーレはくくくと喉を鳴らすように笑う。

「ヴァンパイアってのは難儀な奴らだな」

「時に縛られるヒトの子らには分かるまいよ、我らの愉悦と絶望が」

「……愉悦と絶望、ね」

「そう。愉悦と絶望だ。我らは永遠に生き続けられる愉悦と、永遠に生き続けなければならない絶望をともに抱えて生きている」

「……死なないわけじゃないんだろう」

「ある程度力のあるヴァンパイアなら、明確な自己の、あるいは他者の意思によってしか死ぬ事が出来んのだ。意志とはつまり、望みと言い換えてもいいな。他者、あるいは己が死を願わぬ限りは、生きていかねばならんのだ」

 ヴァンパイアは基本的に不死の存在だ。彼らには実のところ、食事も睡眠も必要ない。魔力さえ適度に補給していれば、ヴァンパイアは死ぬ事がない。ヴァンパイアの多くは、魔力の巡りの良い地に本拠地を築いてその中に魔力収集のための魔法陣を作る。中には、迷宮を占領し、その中に住まう低級の魔物を魅了によって傀儡とし、自らの住処を守る番兵に仕立て上げるヴァンパイアもいる。

 吸血は、もっとも効率の良い魔力の吸収方法であると同時に、魔術的儀式としての側面が強い。種族変更という、ヴァンパイアに固有の魔法といってもよい技能を使用するための儀礼だ。

「貴様は永遠を望むか?」

 唐突な問いかけに、少し考えた後、ユキヒトは左右に首を振った。

「ふん。何故だ。古来よりヒトの願いといえばおよそ不老不死であろうよ」

 オルトゥーレはつまらなさそうに、吐き捨てるように問いかける。ユキヒトは左手に握ったままだった剣をカウンターに置くと、小さなため息をついた。

「俺は期日の決まってない課題はいつまで経っても解決できない人間なんだよ」

「貴様に限らん。およそヒトというものはそういうものだ。故にヴァンパイアに職人は存在しない。我らは何も生み出さぬ。我らは何も遺さぬ。何故なら我らに未来はない」

「……」

「我らにあるのは膨大な過去と、いつまでもだらだらと続く現在のみだ。我らは未来を生きることなどない。我らはただ現在のみを生きる。意地汚くもただただ生き続けるのだ」

 ヒトが何かを遺そうとするのは、いつか自分に終わりが来ることを知っているからだ。自分という生命が終わってしまったとしても、自分という存在がかつてあったことを証明するために、ヒトは自分のいなくなった未来に何かを遺そうとする。

 ヴァンパイアにそのような必要はない。何故ならばヴァンパイアはいつまでも生きることができる。永遠を生きることができるものに、生の証を遺す必要はない。何故ならば、証を遺すまでもなく、生きているのだから。

「いつか我らの過去が我らを押し潰すその時まで我らは生きなければならぬ。我らは未来を思わず、ただ今このときの退屈をどうしのぐかのみを考えている。貴様もヴァンパイアになり1,000年も過ごせばわかる」

「俺はヴァンパイアになるつもりはない」

「賢明な判断だ。実に詰まらん。愚かな選択は愚かであればある程に面白い。私はとうに、理で考えることに飽いている」

「……そうか」

 伊達と酔狂で生きているという言葉に偽りはないのだろう。この目の前のヴァンパイアがどれほどの年月を生きてきたのか、ユキヒトは知らない。しかし、その眼には限りないほどの疲労が宿っている。おそらくは、途方もないほどの時間を彼は過ごしてきたのだろう。

 どれほどの出会いと、そして別れを繰り返してきたのか。あるいは、他者と交わることを絶ってどれほどの時間が経ったのか。

「鍛冶屋、私の頼んだ剣を持ってきてくれ」

「……ここにある」

 カウンターに隠れる位置に置いてあったその剣を、ユキヒトは取り出した。

「手際の良い事だな」

 そう言って手を突き出してくるオルトゥーレに、ユキヒトは剣を渡さず、それを鞘からゆっくりと抜いた。

 すらりと抜いたその剣身は、冴え冴えと白い。刺突を目的とした幅の細い剣であり、尖端こそ鋭く研ぎ澄まされているが、本来の刃に当たる部位はなまくらである。材質は破魔白金と呼ばれる金属で、魔力の流れを乱す性質をもつ、魔法破りの素材であった。その為魔法陣を施すことはできず、代わりというべきか剣の腹には文字が刻まれている。『主よ、憐れみたまえ』。依頼通りに刻んだ一節ではあったが、およそその依頼人に似合うものとは思えない。

「何故、この文字を?」

「ふん。何度も言わせるな。ヴァンパイアの生は伊達と酔狂。意味などない」

「……そうか」

 あくまで言い張る依頼人に、ユキヒトは細くため息をつく。

「一つ、確かめなきゃ、これの引き渡しはできない」

「ほう?」

「……その剣、自分の胸に突き立てるためのものか?」

 ヴァンパイアは生半可な方法では死なない。首を刎ねようと、胴を真二つに断ち切ろうと、ヴァンパイアは再生する。例えその体を焼き、灰にして数か所に封印しようと、灰を集めてしかるべき魔力が備われば、ヴァンパイアは復活する。ヴァンパイアを殺すには、破魔の呪具をその心臓に突き立てるしかない。

 格の低いヴァンパイアであれば、白木の杭で十分事足りる。しかし、長い年月を経て強大になったヴァンパイア、ヴァンパイアロードと呼ばれることもある上級の実力を備えた者たちは、それでは死に切らないという。強力な呪具を用いて心臓から流れ出す魔力を破壊して、ようやく彼らは死に至る。

 オルトゥーレがどれほどの実力を持つヴァンパイアなのか、正直なところユキヒトには分からない。しかし、狂気を帯びたその瞳が完成されるまで、途方もないほどの時間が必要であろうとは、薄々と感じていた。

「私はまだ死ぬ気はない。生きることに飽いてはいるが、死ぬことにも興味をそそられはしない」

「なら、これは何のために?」

「それを知ることを勧めはせんな。知ることは関わることだ。ヒトがヴァンパイアの世界と関わって良い事など何一つとしてない」

「なら依頼に来るな。迷惑な奴だな」

「くくく。貴様のその物言いを私は気に入っているぞ」

 その笑みには、怪しい魅力があった。ともすればそこに引き込まれそうになってしまう。魅了の魔術を使うヴァンパイアと相対するのは、ただそれだけで精神を消耗することだった。

「なに、ヴァンパイアからヒトにちょっかいを掛けることはない。下手なことをすれば掟に背くことになるからな」

「別に、好奇心で知りたいわけじゃない。自分の作ったものがどんな風に使われるか、それを知らずに渡すことはできない」

「それは依頼を受ける前に聞くべきことだな」

「話したか? 初対面の鍛冶屋にそんな事を」

「否だ。なかなかに理知的だな、貴様は。実に詰まらん」

 オルトゥーレは再び喉を鳴らすように笑うと、物憂げに顎に手をあてる。

「……同族狩りさ」

 少しの沈黙の後、オルトゥーレは言った。

「我らには我らの掟がある」

「らしいな」

「我らの掟には同族殺しの罪というものがある。その罰は処刑と決まっている。今回の罪人はなかなかに大物なのでな。それなりの武器を用意しなければ殺すことが出来ん」

 ヴァンパイアにはヴァンパイアの社会がある。いや、ヴァンパイアはヴァンパイア同士としか社会を形成できないとも言えるのかもしれない。

 いずれにせよ、その司法が極めて特殊なものであるのは間違いがない。

「……同族殺しか」

「面倒なことだ。だがそれがよい。どうせ暇潰し以外にする事などあろうはずもない。ならば手がかかれば手がかかるほど良い」

「暇潰しで、自分と同じ種族の相手を殺しに行くのか?」

「忘れるなよ、私たちは化け物だ。同じ姿をしているからといって、同じ常識を求めるな」

「……そうか。じゃあ、聞くだけ無駄かもしれないけど一応聞かせてくれ。なんだってあんたたちは、自分たちでルールなんか作って自分たちを縛るんだ? それも暇潰しなのか?」

 永遠に死なない種族であるならば、他の物の事など無視をしてただ己の楽しみのためだけに生きればよさそうなものだ。その質問を耳にすると、オルトゥーレは、ほう、と、感心するように目を細めた。

「ヴァンパイアは個としては狂った者ばかりだが、種としてはなかなかにまっとうだという事さ。天敵は増えないに越したことがない」

「……何の事だ?」

「貴様、ヴァンパイアと戦いたいと思うか? 狡猾で魔力は高く、霧や蝙蝠に変身してうろちょろと逃げ、殺しても殺しても復活し、挙句うかつに噛まれれば自分がヴァンパイア化の憂き目にあうような相手と殺し合いをしたいと思うか?」

「まっぴらごめんだな」

 うんざりした気持ちで、ユキヒトは答えた。誰が好き好んで、そんな相手と戦いたがると言うのか。

「しかもそいつらは、恐ろしく酔狂で何をしでかすか分からんときたものだ。そんな奴らとまともに戦えるのは、同じヴァンパイアくらいだろう。殺しても死なないのはお互いさま、思う存分にお互いの弱点、つまり心臓だけを狙って攻撃しあえる。霧や蝙蝠に変身して逃げるならば同じ姿になって追いすがり、噛まれたところですでに自分もヴァンパイアだ。ヴァンパイアと戦うのにこれほど都合のいい存在がほかにあるか」

「……」

「……我らは別に最も強い種族ではない。が、おそらくは最も相手にしたくない種族だ。同族であっても、そんな敵はこりごりなのだよ。我らは数を増やすのもまっぴらごめんだ。まして自分を殺しに来るかもしれん様な厄介な同族は積極的に排除せねばならん。基本的に我らは自分が可愛い我儘な種族なのだよ。可愛い可愛い自分を脅かすかもしれん存在を、なるべくならば増やしたくないのさ。生きている間はとりあえず生きていたいし、いい加減飽きて生きたくなくなれば勝手に死ぬ。そして仲間にするものは極力しっかりと選んでそれと心に決めた者を同族にする。元々の繁殖力は極端に低い種族だからな。自然に子を為そうと思えば、夜毎に交わっても五十年はかかる。そういう種族なのだよ」

「……何とも」

 筋が通っているような、はたまた論理がすっかり破綻しているような、それは奇妙な種族だった。

「むしろ私は、何故私の依頼を受けたのかを聞きたい。ヴァンパイアの依頼など、何故受けるのだ。無視するなり、逃げるなりすればよかろうよ」

 にやりと笑うと、その鋭い牙が見える。

「なんとなく、だな。あんたは不法侵入はしたけど、きっちり名乗って自分の正体も明かしたうえで依頼をした。不法侵入と時間のことは、あんたの事情を考えればある程度仕方ない。それは誠実な態度だったと思う。だからだ」

「貴様は面白いな」

「そうか? 当たり前のことを当たり前にしようと思ってるだけだ」

「相手によってその『当たり前』の変わる者のなんと多いことか」

 くっくっく、とオルトゥーレは肩を震わせる。

 ユキヒトには『常識』がない。ファリオダズマでの常識をユキヒトは知らない。だからこそ、会話ができる相手であれば、例えそれがヴァンパイアであろうとも、その考えるところを知りたいと思える。それは時に、ファリオダズマの住民からすれば途方もない事でもある。

「退屈ばかりの生ではあるが、時として興味深い者に出会うこともある。それこそが我らヴァンパイアの絶望なのかもしれんな。誰と会っても、どんな親交を結んでも、その相手は必ず自分より先に死ぬ。我らは必ず取り残される。それを逃れたければ、相手をヴァンパイアにしてしまうしかない。そして、ヴァンパイアにしてしまったが最後、変わらずにはいられん。結局のところ我らは、どこまでも孤独だ」

「……ヴァンパイアになってもならなくても、ヒトは変わっていくさ」

「ヴァンパイアにしてしまえば、その変り方すらも変えてしまう。いや、歪めてしまう。気に入ったものが歪んで壊れていく様は……実に絶望的だ」

 オルトゥーレはそう言って、深くため息をついた。

「詰まらん事を言ったな。感傷的になるとはまだ望みを捨て切れていないという証拠か。つくづく救いようがない」

「……お前さえよければ、また来いよ。ヴァンパイアになるのはまっぴらごめんだけど、時々話くらいならしてもいい」

 オルトゥーレの疲れた目は、それでも諦めきれないからこそなのかも知れない。諦めてしまえば、そこには絶望すらもない。

「ヴァンパイアを家に招くな。災厄が運び込まれるぞ」

「迷信だろ?」

「そうでもない。掟に背かずに相手をヴァンパイアにするための条件の一つが、その相手から家に招かれる事だ」

「一つってことはそれだけじゃないんだろう」

 ユキヒトのいた世界では、『ヴァンパイアは招かれなければ家に入れない』という話もあったということをユキヒトは思い出していた。まったく違うようでもあるファリオダズマと元の世界ではあるが、共通点も奇妙なほどに多かった。

「ヴァンパイアに心を寄せるな。ヴァンパイアにされるぞ」

「……そうか」

 さらりと答えるオルトゥーレの目には、自嘲とも何ともつかない何かが宿っている。

「実のところな」

「……ああ」

「私が殺しに行く相手は、お前によく似た男だったよ。ヒトであった頃はな。相手がヴァンパイアだと知ってなお恐れず、蔑まない男だった。奴と出会ったとき、私はまだいささか若かった。この永遠ともいえる生に、寄り添ってくれる友を求める程度にはな」

「……」

「そういう事だ。つまりは、そういうことなのだ」

 オルトゥーレは、事実や真実、そういったものを語るのを恐れるように、婉曲的な話し方をする。

「まったく上等な状況だ。どちらの結末にしろ、贖罪になる」

 くっくっくと、喉を鳴らすようにヴァンパイアは笑う。

 それは無邪気とすら言えるような、心底楽しそうな笑い声であった。だからこそ、ユキヒトの常識はひどい違和感を訴えた。

「……ヒトにはわからない、か」

「その通りだ。だから理解しようとするな。光は光、闇は闇。それで良いではないか」

 夜や闇。そういった属性に身を置く者をユキヒトはもう一人知っている。その人も、このヴァンパイアのように、どこか疲れた諦念を身に纏っている。

 夜に生きるとはそういう事なのかも知れなかった。しかしユキヒトは、それをそういうものだと認めることに抵抗を感じた。

「お前が、自分は『闇』だというのなら」

「うん?」

「……昼でもなく、夜でもない時間、逢魔時にまた会おう。昼は昼、夜は夜かも知れないけど、その間で、一瞬だけでも交わるはずだ」

「……」

「それに、俺の剣は俺が修理する。もし本格的な手入れが必要になったら、俺のところに持って来い。俺が生きてる間くらいは、俺がこいつの面倒は見る」

「そうか。私はこの剣の持ち手として貴様に認められたか」

 ユキヒトが差し出す剣を、オルトゥーレは恭しく受け取った。

「ふむ。良い出来だ。礼として金のほかにも一つ、私から貴様にくれてやろう」

 ひとしきり剣を眺めると、オルトゥーレは言った。それに対して、ユキヒトは首を左右に振った。

「依頼に対する報酬は金だけ受け取ることにしてる。……友人からの贈り物なら、遠慮せずに受け取る」

「それで貴様が満足するのなら、そういう事でいいだろう。くれてやるのは、呪文のようなものさ。もっとも、私が奴に殺されていれば何らの意味を持たぬことになるがな」

「……呪文?」

「不心得者のヴァンパイアが貴様の前に現れたなら、言ってやれ。四十四公が一、オルトゥーレ・ル・ヴィスを恐れぬのか、とな」

「四十四公……?」

「意味は、ある程度ヴァンパイアに詳しい者に聞けば教えてくれるだろうよ。高慢きちなヴァンパイアが真っ青になって逃げる姿は、実に面白いものだぞ」

 くっく、と、喉を鳴らすように、しかしかすかに愉快そうに笑う。

「ヒューマンの一生など、我らヴァンパイアからすれば、ほんの泡沫の夢のような儚いものだ」

「そうかもしれないな」

「だが、夢は夢であるからこそ良いのだ。夢を永遠にしようとしてはならんな。その代償が私のこの様だ」

「……」

「玉響、私は夢を見る事にしよう。また来る。死んでいなければな」

「……死から一番遠いヴァンパイアが、良く言う」

 その言葉に返事はせずに、オルトゥーレは現れた時と同じように、黒い霧になる。

 霧が晴れた後には、何も残らない。それこそ、彼こそが夢であったかのようだった。

「……まったく、まともな顧客はちっとも増えないな」

 ユキヒトは苦笑して呟いた。









『夜に生きる者へ 例え絶望が貴方を襲ってもそれが貴方を壊してしまわぬ事を 行人』








[8212] 剣神の憂鬱
Name: yun◆04d05236 ID:fe1e07cd
Date: 2010/04/05 01:39








 剣という武器は、世界のありとあらゆる地域に存在する。

 文化や風習、技術力にその地域で産出される素材、ありとあらゆる要素を超えて、それでも剣という武器が存在しない場所はない。

 剣はある意味で最も原始的と言える武器の一種であり、そしてもっとも洗練された武器でもある。

 また、どこにでもある武器でありながら、地域によって全く異なる形状を持つ武器でもある。同じ『剣』でありながら、それでも全く同じ剣は存在しない。

 主に刺突に使用されるレイピアの類もあれば、扱いに高い技術と体力を要する長大なツーハンデッドソードもある。盾とともに使用する片手剣が発達した地域もあれば、斬撃に適した長剣が主要な武器である国もある。

 それらを扱う剣技もまた、その土地によってそれぞれ異なる。更に、ファリオダズマでは、文化などの違いだけではなく、種族という絶対的な差異により、剣自体も剣技もまさに百花繚乱といったありさまで、数えきれないほどの剣とそれを扱うための技術が存在する。

 その中で、剣同士、一対一で戦うならば、もっとも強いとされる種族と剣、そして剣技が存在する。いささか反則的ではあるが、という但し書きはつくものの。

 その種族は、アシュラ種族。三面六臂と、絶え間ない闘争を特徴とする種族である。










「それで、私の依頼の剣はどこにあるのかな」

 にやりと笑って、今回の依頼人、アシュラのマーリートが言った。

 背は高い。元々ユキヒトはヒューマンの平均より少し高い程度の身長だが、それでもマーリートはユキヒトより頭一つ分ほども抜き出ている。

 体つきはややほっそりとしている。かといって貧弱なわけでは決してなく、引き締まってしなやかな筋肉は、いかにも敏捷そうな印象を与える。

 そして、アシュラをアシュラたらしめる、三つの顔と六本の腕。三つの顔は、今はどれも同じ、にやりとした笑顔を浮かべている。

「できているが……流石に、今回は疲れたよ」

 やれやれ、と、疲労の色が濃いぐったりとした表情をして、ユキヒトは答えた。

「まあ、私も自分の剣を一度にすべて新調するのは、流石に初めてだ」

「六振りも依頼するなよ……。この工房は俺しか職人がいないんだからな」

 アシュラの剣技は、最低三刀流、多くて六刀流という、あまりにも特殊なものだ。

 『闘うために生まれてきた』とも称される種族が彼らだ。死角はきわめて少なく、文字通り『手数』ではどんな種族にも劣らない。竜のようなそもそも問答無用の種族を除けば、その戦闘能力はファリオダズマに数多く存在する種族の中でもかなり高い位置に君臨する。

 アシュラは特殊な種族だ。ほとんどの種族は、種族同士で集まって生活をする。交流が進んでいる現在では、都市部においては数多の種族を見る事が出来るが、それでもやはり、その都市のルーツとなる種族が人口の比率として高い事がままある。田舎へ行けば今でも、ほとんどが同一の種族で暮らしている集落などいくらでも見られる。それに対して、アシュラは定住をしない。一族か、せいぜいが二、三十人ほどの集団で移動し、主に傭兵業で身を立てて生活する。ただひたすらに剣技を磨き、闘いの中に身を落とし、闘争の中で死んでいく。そういった、極めて特殊な種族だ。

 彼らに与えられる二つ名は多い。『闘うために生まれてきた種族』、『放浪する種族』、『最強の傭兵』、『破壊者』…。それらの二つ名は、その種族の特性をよくあらわしている。

「依頼をして迷惑がられる工房も珍しい」

「迷惑だとは一言も言っていないが……まあ、依頼を六度に分けてくれると非常に助かる」

「次回からは考慮するかな」

「ぜひそうしてくれ」

 軽口をたたきあって、お互いにくすりと笑うと、ユキヒトは一振りの剣をカウンターの上に置いた。

「とりあえず、一振り目だ」

「うむ」
 
 刀鍛冶と言えども、専門というものが存在する。

 ファリオダズマにはさまざまな種族が生活し、それぞれ体格も文化もかなり異なる。当然、剣にも大きな差が生じることになる。

 注文を受ければ大抵の刀鍛冶はそれに応えた品物を作るものの、それぞれに得意な剣、というものがある。ツーハンデッドソードの作製が専門の刀鍛冶にレイピアを依頼しても、そうそう高い品質のものを作れるものではないのだ。

 ユキヒトが主に扱うのは、オーソドックスな中剣、ないし長剣で、『斬る』ことを目的とする類の剣だ。

 そういった意味では、今回の依頼はユキヒトの専門の範疇という事になる。しかしその剣は、『非常に特殊』と分類される剣だった。

 刃は、ごく当たり前の、真っ直ぐでやや幅は狭く鋭い両刃だ。しかしその剣には、通常のような柄がなかった。

 柄があるべき刃の根元は、そのまま籠手になっている。籠手の内部には握りがあり、使用者は籠手をはめて、その握りで刃を固定する。

 拳を振るうようにふるわれるその剣は、通常の剣術とは異なる軌道を描く。ただしその反面、手首を固定するその装備は使用者への負担も大きく、使用者の少ない剣だ。

 アシュラ種族には、その剣の使い手が少なからず存在する。それを編み出したのはアシュラ種族だ、とする説もある。確かに、アシュラの六本の腕がそれを装備した時、複雑怪奇なその斬撃を回避できるものは、そうそういない。

「……」

 マーリートは、黙ってそれを腕にはめると、しばらくしげしげとそれを眺めた。

 しばらくそのまま静止していた彼は、ふと視線を上げると、じっとユキヒトを見詰めた。

 ユキヒトは、視線に応えるように、残り五振りの、最初のものと全く同じ剣を取り出す。

 マーリートは、差し出された剣を順番に腕にはめていく。

 そして彼は、ゆっくりと腕を動かし始める。滑るような動作で、その六本の剣が空を切っていく。滑らかではあるが、決して素早い動きではない。しかしそれは止まることなく、一つ一つ、確かめるように、どこか儀式めいたその動きは続いた。

 有機的に複雑に絡み合う動き。ユキヒトは、それを眺めながら、マーリートと対峙している自分を思い描いてみた。

 一太刀目、真っ直ぐに振り下ろされる剣は、下がってよける。受け止めれば残り五振りの剣を止めるすべがない。下がったところに、次の剣が突き出されてくる。

 その突きは弾いて対処する。次の一撃は薙ぎ払い。それもやはり下がってかわす。とはいえ、下がり続けても攻撃が途切れるわけもない。今度は自分から打って出る。真正面からの唐竹割。しかしそれは、念入りに二振りを交差して受け止められる。

 剣を受け止められたまま、さらに追加の斬撃が来る。下がってかろうじてかわすものの、もはや手が残っていない。追撃がさらに続いて、詰み。到底かなわない、という結論が残った。

「良いな」

 やがて、ゆっくりと動きを止めると、マーリートは呟くように言った。

「相変わらず、見ていて目が回りそうな剣術だよ。なんでそれで剣同士が当たらないのかが分からない」

「それの為だけに生きていれば、これくらいの事は出来るようになる」

「……それの為だけに、ね」

 ただ闘争の中に生き、死んでいく種族。その行動原理は、他の種族には理解しがたいのも事実だ。しかし、当のアシュラ種族はといえば、それを当然のこととして、疑問すらも抱かない。

「ところで、ノルンはどうしたんだ?」

 ふと、マーリートがその場にいない少女の名前を口にする。それに対して、ユキヒトは少し表情を曇らせて答えた。

「……ここのところ、少し調子が良くない」

「……そうか」

 刀剣工房『コギト・エルゴ・スム』を訪れる客は、基本的にユキヒトにとって見知った顔ばかりである。山中に居を構えているのだ、ふらりと客が立ち寄るはずなどない。客は基本的に、ユキヒトの師であるオルトからの時代の顧客か、あるいはその顧客に紹介されて訪れる者ばかりだ。

 そういった者たちばかりだから、当然のことながらノルンの事も皆知っている。

「不憫な娘だ。己の魔力に蝕まれている」

「もう少し成長すれば、ある程度は耐性もできる」

「……その通りだ」

 自分に言い聞かせるようなユキヒトの言葉を、あえて否定するようなことはせず、マーリートは頷いた。

 ヒトは何かを失ったとき、それを補うために別の何かの能力を高める事がある。生まれつき目が見えないノルンは、鋭敏な耳や鼻と、そして高い魔力を持っていた。

 魔力というものは、個人の資質によりその量や質に違いはあれど、ヒトであれば誰でも持っている力だ。それを用いた魔術は、ファリオダズマでは日常を送るために不可欠な技術である。

 しかしながら、高すぎる魔力は、種族によっては有害になる。

 フェアリーのように魔力に依存して存在する種族もあるが、ヒューマンに限って言えば、特に幼少期に高い魔力にさらされるのは好ましくないとされる。例えそれが、自分の発する魔力であろうとも。

 とはいえ、一般的な子供であれば、少し体調を崩しやすいであるとか、せいぜいがその程度のものである。しかしながら、ノルンの場合は少し事情が違った。

 元々が盲目であるために体を鍛えることがままならない。そうでなくとも、一般的な子供より体が弱いのだ。体調を崩せば長期化しやすいし、下手をすれば深刻な事態にもなる。

 原因が生まれついてのものであるために、有効な対処法もこれといってない。成長し、魔力への耐性をある程度高めた段階で、ゆっくりと体質の改善に取り組むしかない。

「生まれついての宿命というのはあるものだ。幸せなものであれ、そうでないものであれ、それを避けることなど出来ん」

「お前、運命論者だったのか」

「別に運命論ではない。全てがあらかじめ定まっていると考えているわけではないが、それでも不可避の何かもあるのだろうよ」

「そうか」

 澄ました顔のマーリートは、ゆるゆると微笑んでみせる。無駄のない端正な顔立ちと体つきの彼は、黙ってそこに立っていれば、それこそどこか神聖な気配すら漂う。戦場では、文字通りの血の雨を降らすとは思えないような、静かなたたずまいだった。

「……前から聞いてみたかったんだが、どうしてアシュラってやつは、それこそ運命にそう決められてるみたいに、揃いも揃って闘いに行くんだ?」

「運命にそう決められているのさ」

 少し遠慮がちに切り出したユキヒトに、さらりと笑ってマーリートは返す。流石にユキヒトも言葉を失って、きょとんとマーリートを見返した。

「すまないな。冗談だ。運命ではなく、我々は我々の意思で戦場に赴いているのさ」

「それは何故なんだ」

「……宗教、というのがいちばん近い概念かな」

「なんだって?」

 宗教は確かに、時として……いや、かなりの頻度で、戦争の原因となる事がある。

 献身的な、敬虔なものほど、自分よりも信仰を大切にする傾向がある。それは決して悪い事ではないのだろうが、一部の者がその思考を少し誘導すれば、それは容易に違う価値観への敵対心へと燃え上る。

 宗教的にはいい加減にもほどがあるといわれる現代日本で育った若者であるユキヒトだ。信仰の為、という言葉は、ある種で最も理解に遠い部分にある。

「近い概念というだけで、別に特定の教義に従って闘うわけではないが、我々という種族は、常に探究しているのだ。戦場において、究極の剣というものを、な」

「……究極の剣」

「それはあるいは個によって違うかもしれず、あるいは全ての個に通じる普遍的な何かかも知れん。我らの始祖たる存在は、それの体得者だったともいう。そして我らは、いつまでもそこに向かって歩き続ける存在なのさ」

「ロマンチストなんだか物騒なんだか」

「どちらかといえば物騒な方だ」

 呆れてものも言えないとはこのことで、自覚しているならどうにかしろとユキヒトはため息をついた。

「とまあ、一般的なアシュラならこういうのだろうが、私は少し考えが違う」

「ん?」

「貴様はアシュラが厨房で包丁をふるうような生活をできると思うか」

「……」

 手と顔が一般的な種族の三倍ずつあるから、作業も他の種族の三倍を行なう事が可能かといえば、そういったわけでもあるまい。

 顔が三つあるとはいえ、思考は一つだ。マーリートが六振りもの剣を操るのも、『それの為だけに生きて』来た結果だ。

「結局のところ、我らのような歪な種族は、闘いくらいでしか役に立たないのだ。とはいえそれを認めるのも癪だから、求道的な思想を幼いころから施して、それに気づかないように闘いに没頭させるのさ」

「……それじゃあなんでお前はそれに気づいたんだ」

「知らん。いつの世にもどの社会にも、変わり者は生まれるんだ」

「そうかい」

 しかし果たして、それは幸せな事であろうかとユキヒトは思った。

 はるかな昔から、アシュラ種族はその生き方をしてきた。他の種族にとって理解ができずとも、アシュラ種族にとってはそれが最善であったという事なのだろう。

 闘いに優れる種ではなく、闘いしかできない種。それを自ら認めるのは、苦痛を伴う事ではないかと思われた。

「……それに、ある程度察しの良いものや、年長者なら、薄々気づいているだろうよ」

「なんだって?」

 どこか諦めたようなその言葉を、ユキヒトは思わず聞き返した。

「他のすべての種族から見て不自然な思想であるにもかかわらず、アシュラ種族だけにとっては自然。そんな事が本当にありうると思うか?」

「それは……確かに」

 種族によって価値観や文化はさまざまに異なる。それは事実だ。しかし、ともに社会を形成できる程度には共通した感性を持つ知性体同士だ。本当に、完全に理解できない思想など、そうそうあるはずがない。

「気づきたくないだけ、見なかったことにしたいだけ。個人ではよくある事だ。種族としてそれをやっているというのはどうかと思わないでもないがね」

「……普通に生きていけばいいんじゃないか? 闘いほど才能を発揮できなくても、普通に生きていくのに困るほど不器用なわけでもないだろう」

「普通……普通、ね。私はそれでも構わないと思うが、多分、無理なのだろうなあ」

「何故だ?」

「いつから続いているかも分らん種族のしきたりを変えようというのに、反発がないはずがないさ。そこそこの不満や、漠然とした寂寥を感じている者がいるとして、それでもそれなりに生きているんだ。変えられるはずがない」

「マーリートが個人的にしきたりから外れるなら?」

「それも無理だろう。私が仮に幸せに生き、それが種族に伝わったとすれば、混乱が生まれる。許されるはずなどないさ」

 ヒトには、変えようとする力と、元のままでいようとする力の両方が備わっている。長くそうであったものほど、元のままでいようとする力は強く働く。

 長く続いたという事は、利点があるという事だ。それでうまくいっているものを、あえて崩す必要はないと感じるのがヒトだ。少しの違和感や不満よりも、大多数の安定を優先するのは、種族として決して誤った事とはいえないだろう。

 個人というものを大切にする価値観の世界から来たユキヒトには、時としてそれが行き過ぎているように見える事もある。しかし、現代日本と比較して、『生きる』ということの難しさが格段に違うファリオダズマの現実を知るほどに、ユキヒトの常識で物事を図ることの無意味さも感じる。

「……」

 不満はないのか、と問うのは残酷な事に思われた。不満を押し殺して種族の為に、などという美談ではない。不満を表に出せば、命が危ない。

「マーリート」

 思わず、ユキヒトは口を開いていた。なんだ、と問い返すマーリートに、何かの考えがあるわけではなく、いつの間にかユキヒトの口は言葉を紡いでいた。

「剣の稽古をつけてくれないか」












 ユキヒトは、元の世界での高校時代、剣道部に所属をしていた。

 全国区で有名になるような選手ではなかったものの、県大会ではそこそこに名前も知れていた。当然、段位も持っている。

 それなりに自信もあったのだが、ファリオダズマで冒険者や衛兵といった仕事に就いているものと剣の稽古をすると、決まって同じ評価をされた。

 曰く、決して下手なわけではなく良く修練して洗練されているが、貴族剣術に近く実戦に向かない、との評価だ。

 その評価を、ユキヒトは苦笑しながらも受け入れざるを得なかった。

 剣道では有効部位さえ打たれなければ、一本にならないのだ。たとえば肩であるとか、足であるとかそういった部位はそもそも有効部位ではなく、そこを狙う技もなければ、そこへの攻撃に対する防御も修練していない。

 一方で、現実的には、足や腕を狙うのは有効な手段だ。腕に傷を負えば武器を振るうことは難しくなる。足にダメージを負えば、それまでどおりの足さばきは困難だ。

 とはいえ、実戦剣術が差し迫って必要なわけでもないのがユキヒトの立場だ。改めて剣術道場に通うなどの事はしていない。体をなまらせないために、剣道時代の修練をある程度こなしてはいるが。

 修練用の模擬剣は、二振りしかない。ユキヒトとマーリートで一振りずつだ。マーリートは、これでは自分の本領は到底発揮できないと冗談交じりに苦情を言ってきたが、ハンディキャップだと言ってユキヒトは取り合わなかった。

 本来の武器ではないとはいえ、マーリートは十分に強かった。

 そもそもからして、ユキヒトの振るう剣より、マーリートの剣は、速い。

 単純な事実であるが、それにより生まれる差は大きい。それは、同じタイミングで同じ部位を狙った場合、マーリートの剣の方が先にユキヒトに届くという事だ。

 もっとも、そんな相内覚悟のような攻撃をマーリートは仕掛けてこない。ユキヒトが迂闊な攻撃を仕掛けてくれば、その速い剣を活かして捌き、反撃に移れば良いのだ。

 一方で、ユキヒトとしても、それを理解したうえで、攻撃を仕掛けざるを得ない。

 そもそも受けに回れば、相手の方が技量も剣速も上なのだ。反撃もできずに防御に全力を尽くすことになり、どこかで破綻して負けるのが落ちだ。

 ユキヒトは、へその前あたりに左手が来るように両手で剣を持ち、剣先の延長線上が相手ののど元に来る程度の高さで保つ。剣道の中段の構えだ。

 貴族剣術と言われようと、実戦に向かないと言われようと、下手に我流で形を崩せば無残な事になるのは、剣道を学んだ時期に十分理解している。通用しようとしまいと、ユキヒトはただ自分の型を思い切りぶつけるだけだった。

 一方でマーリートは、ろくに構えもせず、だらりと剣をぶら下げているだけだ。

 ちなみに、六本の腕のうち、左右を向いている四本は腕組みをして邪魔にならないようにしている。今は、正面の左右の腕だけを使う、という意思表示だ。

 マーリートが構えを取らないのは、ユキヒトを侮ってのことではない。元々、その自然体こそが彼の戦闘態勢なのだ。

「……やああああああああっ!」

 剣道の試合であるまいし、声を発する必要などないのだが、染みついた習慣はそう簡単に除けるものではない。気勢を発して、ユキヒトは踏み込みつつ、正面から剣を振り下ろした。

 流石に、面、などと声を発することはしない。いくらなんでも、打つ部位を声に発するのは、剣道を知らないこちらの世界の人間には奇妙に過ぎる。

 反撃ができないわけではなさそうであったが、マーリートは様子見をするつもりか、ひとまずは右手に持った剣でそれを受ける。

 ユキヒトの両手での一撃を、マーリートは右腕一本で涼しい顔をして受ける。アシュラ種族は、筋力にも優れた種族だ。

「はあっ!」

 ユキヒトは負けが見えている鍔迫り合いに持ち込むことなく、すぐさまひきつつ、相手の左の胴を薙ぎ払う。

 剣道の胴は、通常、相手の右の胴を払う。左側を払うのは逆胴と呼ばれ、頻繁に用いられる技ではない。ユキヒトにとっても、慣れた技ではなく、違和感がある。

 それでもあえて逆胴を打ったのは、マーリートが右腕一本で剣を持っているからだ。普通の胴打ちでは、右手一本で受け止められる恐れがある。同程度の技量、筋力であれば、そのまま押し切って体勢を崩すこともできるかもしれないが、マーリートは筋力も技術もユキヒトを上回る。右手一本で抑えられる可能性は高かった。

 そして、そうなれば、ユキヒトの両手をマーリートが右手一本で抑えているも同じ状況だ。すぐさま詰め寄って、左の拳が来るだろう。剣の稽古といっても、これは剣道ではないのだ。

 一方で、左の胴打ちを防御しようと思えば、マーリートも両手で剣を持つか、あるいは右手一本で受けるのだとしても、右手と剣が邪魔になって左手は動かせない。追撃を封じつつ、一度間合いをあけるための選択だった。

「ふむ」

 一つ頷くと、マーリートは素直に剣の持ち方を両手持ちに変え、ユキヒトの逆胴を受けた。そのまま引いて間合いを取るユキヒトを追撃するでもなく、ユキヒトと似た、両手持ちの中段の構えをとった。

「悪くはないが、いささか消極的だ」

「そいつはどうも」

 にやりと笑って、講師的な物言いをするマーリートに、ユキヒトは少し獰猛に笑い返した。

 ユキヒトは基本的に穏やかな人間だ。争いを好む、などという特性は持ち合わせていない。しかしそれでも、剣を持って相手と対峙する時、闘争心を持たないでいるわけではない。

 県内ではそれなりに知られた選手だったユキヒトだ。負けず嫌いな面も持っている。

 マーリートは、ユキヒトに合わせた中段の構えをとっている。ユキヒトにとっては、それがありがたい。その構えからならば、どういった動きがあるか、ある程度は予測がつくうえ、攻略も慣れている。

 ……一手、指南してもらおうか。

 ユキヒトは、口の中だけで小さくつぶやいて、鋭く踏み込んだ。

 板張りの道場と違って、だん、という小気味のいい音がするわけではないが、ずしりとした土の感触を踏み締めながら、小さく、マーリートの剣を握る右手首辺りを狙った。

 マーリートは、すっと静かに一歩退きながら、剣を上段に振りあげる。狙われた小手をかわすと同時に、攻撃の姿勢にもなる合理的な動きだ。それだけに、ユキヒトにも予想がつく。

 そのままその剣を振り下ろしての面打ちか、それとも、その面打ちを防ぐために腕を上げたところで胴を抜くか。選択肢は大きくその二つだ。

 だが、ユキヒトはその二択に付き合わない。マーリートの剣速を考えれば、こちらの動きを見てから対応を変えることもできるだろう。むろん、一瞬遅れるだろうからそれを防げないわけでもないだろうが、かなり体勢を崩される。そうなればかなり苦しい。

 元々当たると思っていなかった小手打ちだ。止めるのもたやすい。すっと剣先を上げ、マーリートの喉元に剣先を合わせる。

 刺突が目的ではない。突きは腕も体も伸ばしきってしまう。かわされた時がかなり危険な技術だ。ただ、喉元に剣を突き付けられて、自由に動くことはできない。

「小癪だな」

「なんとでも言え」

 無理はしないという判断なのか、マーリートは後ろに下がってそれをやり過ごす。ユキヒトも追撃は難しく、やはりとどまった。

「……普通の中剣を使うのは久しぶりだったが、思い出してきたよ。そろそろ、こちらから行くぞ」

「……来い!」

 ユキヒトの踏み込みとは違い、ゆらりと静かにマーリートは前進する。しかしそれは、気迫に劣るという事を意味しない。ユキヒトは、気おされて後ずさりをしたくなるのを、かろうじてこらえた。

 再び構えは右腕一本に。左足で踏み込みながら、斬り落とすような肩口への斬撃。それは両手で持った剣でしっかりと受け止める。

 そのまま、ぐいっと剣を押しつけてくる。両足をしっかりと踏ん張り、ユキヒトはそれにあらがう。

 次の瞬間、押しつけられていた剣の圧力が弱まる。マーリートが、右足を一歩踏み出してきた事で、体勢が変わったためだ。

 そして、この状況で体勢を入れ替える事の意味が、ユキヒトにも分かる。圧力が弱まったのをいいことに素早く鍔迫り合いから逃れ、後ろへと下がる。

 ユキヒトの予想に違わず、マーリートが左の拳を突き出してくる。鋭い一撃だったが、予想をしていればよけられないほどでもない。マーリートの拳が空を切ると同時、ユキヒトはその手を狙って剣を振り下ろす。

 それはマーリートも織り込み済みだったのだろう。素早く拳を戻すと、今度は両手で剣を握る。

「ハッ!」

 短い呼気とともに、右脇にやや低く構えた位置から、思い切り振りあげるような、剣道にはない軌跡の剣。

 鋭い。よけようとしてよけられるものではない。覚悟を決めて、重心を落とし、その一撃を剣で受ける。

 ぎぃん、と、鈍い音。凄まじい衝撃がユキヒトを襲う。一瞬、体が浮いたような気すらした。

 それが錯覚だったか事実か、それは分からない。しかし、ユキヒトは勢いに負けてよろけた。

 その時に、勝負はついていた。なおも数手、繰り出される剣をユキヒトは回避するものの、一度崩れた姿勢を取り戻すには至らず、ぴたりと喉元に剣先を突き付けられ、負けた。

 その瞬間、ぱちぱちぱち、と、拍手の音が響いた。

「ノルン! 寝てないとダメだろう」

 あわてて拍手の音の方を見れば、そこにいるのはノルンだった。流石に寝まき一枚で出てきたわけではないが、それでも少し厚手のローブを羽織っただけの姿で、ユキヒトがあわてるのも無理はない恰好だった。

「だいぶ、気分が良くなりました」

「病気はかかり始めと治りかけが肝心なんだ。無理してまたしばらく寝込むのは嫌だろう?」

「じっとお部屋の中にいるのも不健康です」

「まったく……」

 こんな軽口が出るようならば、確かにかなり良くなっているのだろう。とはいえ、安心はできない。マーリートを促して、ユキヒトはノルンをつれて、すぐに家の中へ戻った。

 素直に部屋に引き下がるつもりがないらしいノルンの様子に、ユキヒトは諦めて、せめて、と、少し厚手の膝かけをノルンにかけた。

「なんで出てきたりなんかしたんだ?」

 責めるつもりはないが、無理をしてほしくはない。ユキヒトはノルンに、理由を尋ねた。

「……ユキヒトさんとマーリートさんが、楽しそうだったから」

「……なんだと?」

 声を上げたのは、マーリートだった。

「お二人はとっても、楽しそうでした」

「……」

 確信めいた声で、きっぱりと言い切るノルンに、マーリートは押し黙って、その六本の腕をそれぞれ二本ずつ腕組みをした。

「楽しそう……そうか、楽しそうか……」

 しばらく、マーリートはぶつぶつと呟いて、何か考え込むような顔をした。

「どうしたんですか? あんなに楽しそうだったのに、楽しくなかったんですか?」

「……」

 ノルンの問いかけに、マーリートはしばらく沈黙していたが、やがて、くすくすと笑い始めた。

「くっく……。まさか、こんな幼子に教えられるとはな」

「?」

「楽しかった。ああ、楽しかったぞ、ノルン。ユキヒトと剣の稽古をして、私は楽しかった」

「そうですか」

 何よりだ、というように、ノルンはにっこりと笑った。

 その笑顔を見て、マーリートは、あっはっはっ、と、豪快に笑った。











 それからしばらく雑談を交わした後、マーリートは、清々しい表情をして去って行った。

「……マーリートさん、ご機嫌でしたね」

「……ノルンのおかげだよ」

「はい?」

 きょとん、と、ノルンは首をかしげる。今回のところは、ノルンが何かを察して立ちまわったわけでなく、純粋に感じた事を口にしただけだったらしい。

 マーリートが感じた事を、なんとなくユキヒトは悟っていた。

 運命やしきたりといった複雑な何かではなく、もっと簡単で、大切なもの。それにマーリートは気づいたのだろう。

「……後でジュースを作ってあげような。元気になったなら、少し何か食べられるか?」

「……すりおろしたリンゴなら」

 殆どジュースと変わらないじゃないか、と笑いながら、作ってあげると約束をして、ユキヒトはノルンの頭を優しく撫でた。

 上機嫌な様子のユキヒトに、ノルンも嬉しくなったらしく、元気にはい、と返事をした。















『剣の道を往く求道者へ 貴方が求めるものを見失わないように 行人』











[8212] 光の射す方へ
Name: yun◆04d05236 ID:7d24e2c9
Date: 2010/08/30 02:33






 とある昼、依頼もなく暇を持て余したユキヒトは、注文を受け付けるカウンターで本を読んでいた。

 ファリオダズマでは本は貴重品である。機械が発達していないこの世界では、印刷の技術も当然発展してはおらず、本はすべて手書きの写本である。加えて紙もまだ大量生産に至っていない。その為に書物は非常に高価な代物で、図書館や研究機関、そして上流階級の家くらいにしかないものなのだ。

 決して裕福なわけではないユキヒトが本を読めるのは、時折遊びに来るアルディメロに頼んで借りているからだ。アルディメロは獣人の中では名家と呼ばれる家の出で、母親が無聊の慰めに上流階級で話題の物語本などを集めたりするものだから、ファリオダズマでは珍しくなかなかの量の書物を所有している。

「ふぁ……」

 ユキヒトは小さく欠伸を漏らす。本の内容も、暇を持て余した上流階級の婦人に向けて書かれたものであり、ユキヒトが熱中するような内容ではない。しおりをはさんでカウンターに本を置くと、ユキヒトはひとつのびをした。

 ノルンも今日は、退屈のあまりか、体調が悪いわけでもないのだが昼寝をしている。

 差し迫った仕事もなく、買い物に行く用事もない。どうにも気が抜けてしまい、ユキヒトも、少し午睡をたしなもうかと腕組みをして椅子の背もたれに体重をかけた。

 静かで穏やかな時間、何を考えるわけでもなく、ただぼんやりとした思考。うとうととユキヒトの意識が薄くなってきたところに、こんこん、と、静かなノックが響いた。

「……はい、どうぞ」

 寝ぼけた声を出さないよう、一拍置いて少し意識をはっきりさせてから、ユキヒトは返事をした。

 返事を聞いて、ドアが開く。

 立っていたのは、ユキヒトよりはやや年上に見える男と、顔を長い布で覆って隠した女だった。

 男の方はヒューマン種族らしく見える。やや厳めしい顔立ちと体格で、金色の髪は短く刈り込んでいる。人相が悪いとは言わないものの、決して愛想の良い顔立ちではない。夜道で行き会えば、誤解であろうと警戒してしまいそうな男だ。

 女の方は、顔を布で覆っているのに加え、何のつもりか鎧を身に纏っているため、どの種族かは分からない。体格的にはヒューマンとさほど変わりない。脇には、何に使うものなのか小さなボードのようなものを抱えている。

 鎧といっても、流石に戦場で騎士が身につけるような全身鎧ではない。もしそうであったなら、小柄な男なのか、それとも女なのかは判別が難しかっただろう。とはいえ、胸当て、腰当てに籠手まではめて、迷宮探索に乗り出す冒険者レベルの装備である。

 工房に訪ねてくるのに適した格好とは到底思えず、ユキヒトはひそかにカウンターに隠した剣を引き寄せた。

「……オルト殿のお弟子、ユキヒト殿の工房で間違いないだろうか」

 男の方が、ユキヒトの警戒をよそに問いかけてくる。その声は落ち着いたもので、とりあえず強盗に押し入った者のようには感じられなかった。

「そうですが、貴方は?」

 師を知っているからといって、警戒を解いて良い理由にはならない。主に鎧姿の女に注意を向けながら、ユキヒトは問い返す。男の方は、ひとまず武装をしているようには見えない。

「ファッタで鎧鍛冶をしている、ゲールハルト・ボルクというものだ。わが師とオルト殿が懇意にされており、いくらか交流があった」

「……なるほど」

「……彼女の恰好で警戒されるのは分かる。今から、事情を説明しよう。アンゲリカ」

 ゲールハルトと名乗った男が声をかけると、女は顔に巻いた布を外し始めた。

 そこに現れた顔に、ユキヒトは苦笑いをしながらその格好の理由を納得した。

 豊かな黒い髪が目を引く。ややたれ気味の、優しげな紫色の眼をしており、愛らしさの漂う顔立ちの女性だった。

 だが、彼女にちょっかいをかけるものは少ないであろうと思われた。何故ならば、彼女の肌は、ヒューマンのものとは全く違う青いものだった。

「……ダークエルフ種族」

「ああ。……とはいえ、貴殿に偏見はないようで、安心だ」

 ダークエルフ種族は、種族の名が示すように、エルフに似た整った容姿と、高い魔力を特徴とする種族である。しかしながら、エルフはダークエルフを近縁の種族として認めてはおらず、このように呼ぶ。すなわち、「魔族」と。

 ダークエルフは、ヒトとして認められるようになって最も歴史の浅い種族だ。それより以前、「魔族」という呼称は他のすべてのヒトの間で公的に使われていたもので、その扱いはモンスターに準じるものだった。

 魔族はその傲慢さゆえに他の種族と対立し、結果、滅ぼされた。根絶やしにされる寸前であったが、竜種のとりなしによりヒトとして迎え入れられることになり、その際にダークエルフという種族名を与えられたのだった。それが、百年前の出来事である。

 ヒューマンからすれば長い百年という時間も、種族によっては短い。当時の戦争に参加した者が生存している種族も数多く、ダークエルフの地位向上は、まだまだ先の話になりそうな情勢であった。

「依頼は、彼女の剣」

 重々しく、ゲールハルトは口を開いた。

「彼女が生き延びるために必要な、優れた剣を打ってほしい」

 彼は、ユキヒトの目をじっと見つめながらそう言った。

「……ついては、彼女の闘いを見てほしい。一緒に来てはもらえないだろうか?」













 ファリオダズマでの庶民的な娯楽の一つが、「剣闘」である。

 剣闘士と呼ばれる奴隷身分の者が、獣やモンスター、時としては剣闘士同士で戦い合う姿を見、あるいは賭け事をする娯楽で、大抵の大都市には剣闘に使用されるコロシアムが存在する。

 現代日本の感性を持っているユキヒトにとって、剣闘が見物して面白い催しとは思えず、また周囲に剣闘を好む者もいなかったため、深くは知らなかった。

 ゲールハルトが連れていたのは、剣闘士の一人、アンゲリカという名のダークエルフだという。

 今、一行は、ゲールハルトの乗ってきた馬車で彼の居住地であるファッタへと向かっていた。

 今回はノルンも連れてきている。ファッタはそれほど遠い街ではないとはいえ、片道で三日ほどはかかる。留守番をさせることはもちろん、どこかに預けるにも不安がある日数であった。

「……しかし、お前たちは優しいのだな」

「ん、何がです?」

 突然に言うゲールハルトに、ユキヒトは問い返した。ゲールハルトは、その厳めしい顔を少し崩す。

「アンゲリカが言葉を発しないことに、何も言わない」

 ゲールハルトの言葉に、アンゲリカは困ったように笑った。その様子を見て、ユキヒトはゆっくりと口を開いた。

「……聞く必要がある事ならば、そちらから教えてくれるでしょう。聞く必要がない事なら、好奇心で触れていい事じゃない」

「好奇心を抑えるのは困難な事だ」

 馬車を器用に御しながら、ゲールハルトは会話を続ける。

「……実のところ、俺もアンゲリカからそのことは聞いていない。彼女にも聞かないでいてくれればありがたい」

「分かりました」

 始めから聞くつもりはなかったのだが、相手が確認を求めてくるならば応じるのに何の不都合もない。ユキヒトは頷いた。

 アンゲリカは確かに全く言葉を発しない。とはいえ、無表情というにはほど遠い。

 小さなボードを常に小脇に抱えており、コミュニケーションはそれに文字を書いて行う。必然、目が見えないノルンとは直接やり取りをする事が出来ず、ユキヒトが「通訳」をしてやらなければならないが、基本的にアンゲリカは善良な人間性を持っているようで、目の見えないノルンに何かと気を使っていた。

 ノルンにしても、直接のコミュニケーションは限られているものの、彼女の人間性には感じるところがあるらしく、穏やかに接している。言葉など些細な問題だとユキヒトは思っていた。

 ゲールハルトとアンゲリカがどういう関係なのかは分からない。だが、少なくとも彼女が身につけている鎧はゲールハルトが作ったものだという。どういった方向でなのかは知らないが、浅からぬ関係があるのだろう。

「……これは言っておこう。俺とアンゲリカの関係だが……そうだな、俺は彼女のスポンサーといったところだ」

 二人の関係についてユキヒトが思いを巡らせていたのを感じ取ったわけではないだろうが、ゲールハルトは自分たちの関係をそう表現した。

「スポンサー?」

「俺は彼女が勝てるように何かと手配をし、彼女の試合で賭けをして儲ける。彼女は俺のサポートを受けて勝利し、自分を買い戻す為の金を手に入れる。そういう関係さ」

 嘘だと直感的にユキヒトは思った。確かに表面的にはそういった関係なのかもしれないが、ただそれだけの関係ではないだろうと感じる。そもそも、ゲールハルトが、金の為にそうやって動く人間にはあまり思えなかった。

 とはいえ、自分でそういうものを嘘だと否定する理由もない。ユキヒトは口をつぐんだ。

 二人の本当の関係は何なのだろうかとユキヒトは思う。ゲールハルト本人が言うような関係には思えないが、かといって男と女という雰囲気でもない。どちらかといえば、保護者とその庇護下にあるものという気配ではあるが、到底血縁があるようには思えず、また、ゲールハルトが時折見せる遠慮したような態度の意味がよく分からない。

 当たり前の見方をすれば、鎧鍛冶とその常連顧客である剣闘士という関係と見るべきであろうが、それにしては随分とゲールハルトがアンゲリカに対して肩入れが強いようにも思える。

 ユキヒト自身にも思い入れの強い顧客は何人か存在する。彼らの為となれば、伝手のある職人を訪ねるくらいのことはするだろう。それはさほど不自然な事でもない。しかし、それにしたところで、ゲールハルトのアンゲリカへの接し方は丁寧なもので、到底被差別的な種族であるダークエルフの、それも奴隷身分である剣闘士に対するものとは思えなかった。

 現代日本という、完全な異世界から来た人間であるユキヒトにとっては、種別差族というものは今一つピンと来るものではないものの、教育というものが一般市民まで完全に浸透しているとは言い難いこの世界では、偏見や差別意識というものが現代日本と比べてかなり強いものであることは分かっていた。

 アンゲリカはといえば、ゲールハルトの言葉を聞いて、肯定するでも否定するでもなく、黙って落ち着いた表情をしている。

「……剣闘士については、詳しいかな」

「いえ、剣闘はあまり好きではなかったもので」

「少し説明しておこう。……良いかな、アンゲリカ」

 あまり愉快な話ではないのだろう。ゲールハルトは、当事者であるアンゲリカに確認をとった。彼女は、ゆっくりと頷いた。

 剣闘士はコロシアムに売られた奴隷である。剣闘士から抜け出すためには、コロシアムから己を買い戻さなければならない。

 剣闘士には少なくはない給金が与えられる。自分の試合に賭けられた金の総額のうち、一定の割合が給金として与えられるため、人気のある剣闘士になれば収入もかなりのものになる。また、自分の試合、自分の勝ちに限り、剣闘士自身も一定の金額の賭けをすることが認められている。

 剣闘士は人気と実績に応じてクラス分けがされる。ある程度上位のクラスになれば、コロシアムの外に住居を移すことや、街からの一定期間の外出も許される。アンゲリカは、街からの外出を許された剣闘士だという。

 剣闘士の生は過酷である。実力のないものは、あっという間に死を迎える。例え実力があろうと、日々苛烈になっていく争いに、いずれは限界を迎える。自由を勝ち取る剣闘士というものは、ほとんど存在しない。

 巧妙なのは、ほとんどいないというだけで、全く存在しないわけではない事だ。

 人気が出れば、より過酷な闘いへと向かわされる。その為には、優れた装備を求めなければならない。激しい闘いでは、装備の消耗もかなりのものになる。その為に給金は使われ、自分を買い戻すための貯金はなかなかに進まない。しかし、ほんの一握りではあるが自らを買い戻すことに成功する剣闘士もいるという事実が、剣闘士たちを夢という名の見てくれの良い鎖で縛る。コロシアム側にとっては良くできているが、ひどいシステムだとユキヒトは思った。

「……剣闘士などというのは耳触りを良くした言葉でしかない。実際には、剣奴という言葉の方が適切だろう」

「……剣奴、ですか」

 淡々と語るゲールハルトに、ため息交じりにユキヒトは言葉をこぼした。

 ノルンもゲールハルトの話を聞いている。元々がファリオダズマの住民であるノルンは、ある程度剣闘士の境遇について知っていたのか、眉をひそめるものの、言葉を発することはしなかった。

 アンゲリカは、そのノルンの手をきゅっと優しく握った。

「……」

 驚いたようにノルンは目を開いて、何かを言おうと口を開き、結局やめて、アンゲリカの手を握り返した。

「アンゲリカはあと少しで自分を買い戻せるというところまで来ている」

「そうなんですか」

 街からの外出を許可されるという事からも、上位のクラスにあることは分かる。この大人しく優しげなダークエルフの少女は、相当な実力を持つ戦士だという事だ。

「それだけに、ここからの闘いはかなり困難になる。スポンサーとしても最大の山場だ」

「……一つ、聞いても構いませんか」

 あくまでスポンサーだと言い張るゲールハルトに、ユキヒトは問いかける。ゲールハルトがゆったりと頷くのを確認して、ユキヒトは質問を口にした。

「彼女が自分を買い戻した後、どうするつもりですか?」

「……さあな。彼女の事は彼女が決めるだろう。それだけさ」

 一瞬の沈黙の後、何気ない口調で、興味なさげにゲールハルトは言った。

 アンゲリカは何も言わず、ただ淡く微笑んでいた。













 ファッタは、元をただせば大きな金鉱山のそばにドワーフが作った街で、特産品は当然のように金細工であった。

 ファリオダズマでは、銀はありふれた鉱物であったが、その反面金は希少な金属で、銀が庶民の日常のアクセサリーにも使用される身近な金属である半面、金細工を身につけることができるのは、貴族や大商人、豪農といった一部特権的な階級のみであった。

 それだけに有名な金鉱山をすぐ近くに持つファッタという街は、情勢の安定しない群雄割拠の時代には相当の争いに巻き込まれた土地である。その名残か、傭兵の一大拠点としても有名であり、かなり平和になった今の時代でも住民の気性はやや荒々しい。

 そんな街だけに、剣闘は非常に盛んで、コロシアムも大規模なものであった。

 ファッタについた翌々日、ユキヒトとゲールハルトは、アンゲリカの試合の見物の為、コロシアムに来ていた。

 ノルンは、ゲールハルトの家に置いてきた。それなりに不安もあったが、しばらくの間ノルンを一人で置いておく不安と、コロシアムに連れていく不安を比べた時、天秤が上がったのは置いておく方だった。幸い、面倒見を買って出てくれたゲールハルトの弟子だというヒューマンの少年は、人間性に問題もなく、半日の間預ける程度であれば信頼してもよい相手であった。

「……すごい熱気だ」

 アンゲリカの試合は最終の少し手前の時間帯に予定されている。それは、それぞれが昼の腹ごしらえも終え、帰宅を控えて最も盛り上がる時間帯である。

 広いコロシアムの事、アンゲリカの試合のみを執り行うわけではないが、その試合がコロシアムのメインリングで行われるという事実は、紛うことなく、彼女の試合がその日のメインイベントであることを意味していた。

「賭けごとは嫌いか?」

「何も分からないのに賭けるほど好きじゃないってくらいですかね」

 全く賭けようとしないユキヒトに、ゲールハルトが問いかける。ユキヒトは苦笑して答えた。

「そういう貴方も、別に賭けてはいないみたいですね」

「アンゲリカの試合の前に、資金を減らすのもばかばかしい」

 つまりは、勝てないらしい。ユキヒトは苦笑を深くした。

「……ノルンを、つれてこなくてよかった」

「確かに、あの子には少々刺激がきつかろうな……」

 飛び交う歓声の内容は、決して上品なものとはいえない。負けた腹いせに賭けていた剣闘士に罵声を浴びせる者、血を見た興奮からか街中で聞けば衛兵を呼ばれそうなことを口走る者、様々である。

 気のせいなのか実際にそうなのか、空気に血の臭いが混じっている気がする。嗅覚も敏感なノルンであれば、きっと耐えられないだろうとユキヒトは思う。

「……俺も、余りこの空気は好きになれそうにない」

「何よりだ。剣闘に一人新たに巻き込まないで済む」

「……」

 その様に言うのならばなぜ、アンゲリカのスポンサーなどをやっているのか。問いかけることはできず、ユキヒトはふと遠くのリングに目を向けた。

 偶然にもそこでは、一人の剣闘士が、豚の顔をしたモンスターであるオークの首をはねていた。湧き上がる、歓声と罵声。

 ユキヒト自身にも、モンスターとの交戦経験はある。命を奪ったことも、一度や二度ではない。それをやむを得ないと割り切る程度には、ユキヒトはこの世界に順応していた。

 それでもどこか、この光景にはユキヒトの心をささくれ立たせる何かがあった。ユキヒトは、すぐにそれから目をそらした。

「そろそろ、時間だ」

「ああ」

 始めから他の試合で賭けをするつもりがなかった二人は、かなり前からアンゲリカの試合が行われるリングに陣取り、良い席を確保していた。

 試合が近づき、観客がほかのリングから次々と集まってくる。メインイベントと位置付けられているだけに、やはり注目度はかなり高い様子だ。

 始めはざわめいていた観客たちだが、その時が近づいてくるに従って、少しずつ静かになっていく。緊張感が広まっていくのが、ユキヒトにも分かった。

 やがて、剣闘士の入場を知らせるファンファーレが鳴る。そのファンファーレも、これまでの試合のおざなりなものとは明らかに異なっていた。

 音楽が最高潮を迎えたところで、入場口から選手が姿を現す。その姿に、ユキヒトは唖然とした。

「なんだ、あの恰好は……?」

 短い、剣というよりは大型で肉厚なナイフといった風情の得物と、バックラーと呼ばれる形の腕に装着する丸盾。ここまでは良い。しかし、その他は、普通とはいえない恰好であった。

 胸と腰まわりを申し訳程度に覆うだけの超軽装備。その鎧のほかには一切の衣類をまとわず、ほとんど半裸といっていい状態だ。まだしも、ユキヒトの工房に来た時に身に着けていた軽装鎧の方が、装備としてましだ。夜の街の女たちでもこれほどの恰好はしていまいというその姿に、ユキヒトは思わず茫然とした。

 そのユキヒトをよそに、観客たちは大きな歓声を上げる。それに対して、アンゲリカは手を挙げることで応え、歓声は一層大きくなる。

「……剣闘士の装備は、あの程度のものしか許されない」

 いまだに衝撃から抜け出せないユキヒトに、ゲールハルトが告げた。

「俺では彼女の手助けとなる装備は、作ってやれないのさ」

 ユキヒトは言われて思い返す。今まで目に入ってきた男の剣闘士たちにしても、似たような姿ばかりだった。剣や盾も粗末なものであったから、そもそも鎧を買えないのだろうと深く考えてはいなかったが、どうもゲールハルトの口ぶりからはそれとは別の事情があるように思われた。

「……何故、剣闘士の装備はああなんだ?」

「……剣闘士の多くは、昼のコロシアムとは別に、夜には夜で別の仕事がある。女であれば特に、な」

 質問に対する答えは直接的なものではなかったが、十分だった。

「自ら望む者だけだ。確率は低いが、そこで見初められてコロシアムから買い取られる剣闘士もいる」

「……そうか」

 極力押し殺した声で、そう返事をするのがやっとだった。リングでは、アンゲリカが入場し終わり、より大きくなった歓声にこたえているところだった。

 やがて歓声がやむと、再び入場のファンファーレ。そして、アンゲリカが入場したのとは逆の再度にあるゲートが開かれる。

「……トロール!?」

 のっそりと現れたその姿に、ユキヒトは驚きの声をあげる。

 トロールは、極めて厄介な部類に入るモンスターの一種だ。

 容貌は醜く、巨体。力は極めて強く、ヒューマンであれば一発殴られただけでも無事では済まないが、知性はさほど高いとはいえない。

「……三体!?」

 続けて現れた巨体に、ユキヒトはまたしても声をあげる。

 平均的なヒューマンであれば、一体のトロールに対して五人以上の数的優位を保つ。それができない場合は、逃げるのが普通だ。

「あの程度なら、心配ないさ」

 しかしゲールハルトは、こともなげな落ち着いた声でそういっただけだった。

 にわかには信じがたいと思いながらも、ユキヒトに何ができるわけでもない。ゲールハルトの落ち着きを信頼し、まずは様子を見た。

 のっそりと、トロールがアンゲリカに近付いていく。周囲をヒトに囲まれているためか、気が立っているようにも見える。

「ヴォオオオオオオオオオオオオオオ!」

 雄叫びをあげ、トロールの一体が手に持つ棍棒を振りあげ、突撃する。原始的な武器だが、知能が低い代わりに力の強いモンスターには使い勝手の良いものだろう。

 そして、トロールはモンスター、魔力をもつ生物である。知性が低いとはいえ、己の武器を魔力によって強化する、という技だけは使いこなす。木製の棍棒とはいえ、トロールがそれを振るえば、鋼鉄の鎧すら砕け散らす凶器となる。

 勢いよく振り下ろされた棍棒は、しかし、アンゲリカに当たることはなかった。

 派手な衝突音を残して、トロールの棍棒は、石で出来たリングに叩きつけられ、リングが破壊される。

 次の瞬間、棍棒を持つトロールの右腕が、空を舞った。

「ヴォオオオオオオオオ!?」

 悲鳴のような大声をあげ、トロールが勢いよく血を噴き出させる自らの腕を押さえる。

「……速い」

 それをしたのは、当然のことではあるが、アンゲリカだ。彼女は、棍棒を下がってよけるのではなく、むしろ間合いを詰めながらぎりぎりのところで回避し、トロールの振り下ろされた腕を斬り飛ばし、素早く離脱して見せた。

 その一連の動きが、尋常でないほどに速かった。目で追うのがどうにか、といったレベルだ。

 とはいえ、ほとんどの種族では致命的であるそのダメージも、トロールであればまだ決め手に欠ける。

 トロールは、斬られた腕を拾い上げると、耳障りな声でわめき散らしながら、その切断面を合わせる。

 それは決して、ダメージから来る錯乱によるものではない。現に、トロールが手を離しても、右腕は落ちる事がなかった。それどころか、トロールは確かめるように右手の指を握り、開いて見せた。

 相対するアンゲリカは、驚くでもなく冷静に、リングに転がる棍棒を、トロールから離れた位置へと蹴飛ばした。

 巨体と怪力。それは確かに脅威ではある。しかし、モンスターにとってその特徴は、珍しいものとは到底言えない。トロールを『極めて厄介な』モンスターにしている要因は、その異常な回復力、いっそ再生力といった方が正しいようなそれであった。

 腕を切り離したとしても、見ての通り回復してみせる。殺すには、ちまちまとダメージを与えて失血死させるか、首を落とす、心臓を貫くなど、再生力が追いつかないレベルの損傷を与えるしかない。それにしたところで、巨体と強靭な体を持つトロールにそれだけのダメージを与えるのは、容易な事とは到底言えない。

 トロールも、知性が低いなりに、見くびっていたらしい目の前の小さなヒトが容易ではない敵であることに気づいたらしく、三体がそろって身構える。腕を切り離した二体以外は棍棒を持っているし、素手のトロールにしたところで、殴り飛ばされれば盾で防いだところで相当のダメージを受けるだけの怪力だ。状況は、最悪といってよかった。

 しかし、アンゲリカは焦っていなかった。それどころか、ユキヒトの家や馬車の中では決して見せる事のなかった表情で、にやりと笑って見せた。そして、その「金色の」瞳を大きく開き、敵を獰猛に睨み据えた。

「え?」

 周囲が歓声をあげて恐ろしい喧騒であるにもかかわらず、ユキヒトが思わずこぼした声をゲールハルトは耳ざとく拾って見せた。

「……知らなかったのか。まあ、若いヒューマンなら無理もないな。あれが、闘いのときのダークエルフ種族だ」

 かつて傲慢さの為に全てのヒトと敵対した種族、ダークエルフ。結果として敗れたダークエルフは、しかしながら、ファリオダズマに二つ存在する大陸のうち、ユキヒトが現在住まうユラフルス大陸に当時四つ存在していた大国のうち、二つに深刻なダメージを与えるに至った。結果として二国は合併することで存続を図ることとなり、現在のユラフルス大陸には大国と言えるものは三つになっている。

 単に傲慢なだけではなく、相応の力を持った種族。個体数も含めた種族の総合力としてみれば、竜種にすら対抗しうるとまで言われていた種族だ。

 アンゲリカが、空を仰ぎ、口を大きく開く。それはあたかも、獣が咆哮するかのような姿だった。ただしやはり、声はない。

 獣が走る。そして虐殺が始まった。











 それからの展開は、一方的なものだった。

 一体のトロールは、一瞬に右腕と右足を切り落とされ、何が起こっているのかも分らない顔のまま首を落とされた。二体目は、振りあげた棍棒を振り下ろすより前に、心臓を貫かれた。そして三体目、初めに腕を切り落とされたものは、両手両足を斬られたまま放置され、失血により死んだ。

 熱狂する観衆に手を振って応えると、アンゲリカはリングを後にした。しばし呆然としていたユキヒトだが、ゲールハルトに促され、移動を開始した。

 ゲールハルトは、窓口で賭けの勝ち分を受け取ると、衛兵になにやら身分証を提示し、地下への階段へと向かう。ユキヒトはその後ろについて行った。

「……勘違いしないでほしいのだが、あれがアンゲリカの本質、というわけではない」

 ユキヒトがやや混乱しているのを理解していたのか、ゲールハルトはそう語りかけた。

「剣闘士はある程度観客を楽しませなければならない。自分の試合の賭け金が多くなければ、いつまで経っても自分を買い戻すことなどできはしない。そして、剣闘を楽しみにしている観客は、多かれ少なかれ、残酷で無残な結末を楽しむところがあるのさ」

「……だから、それに合わせて?」

「それもあるだろうな」

「それも?」

「……あとは自分で確かめてくれ」

 階段を降りきったところには、一人の衛兵が立っており、その横には、頑丈そうな格子状の扉があった。扉は二重になっており、二重の扉の先には同じように衛兵が立っている。

 先程と同じようにゲールハルトが身分証を見せると、衛兵は頷いて懐から鍵を取り出し、扉を開錠した。

 扉と扉の間の空間に入ると、入ってきた側の扉が施錠される。それを確認してから、逆側の扉が開錠される。随分と厳重な警備だった。

「ここは?」

「剣闘士たちの控室だ」

「……」

 控室というよりは、雰囲気は明らかに牢屋に近い。剣闘士はやはり奴隷身分なのだと、それを実感させる作りだった。

 慣れているのか、ゲールハルトは黙々と歩いていく。ユキヒトはその後ろをついて歩きながら、陰鬱な気分を隠しきれなかった。

 平和な日本に生まれ、こちらの世界に来てからも、基本的にはある程度教養の高い人間との交流が多かった。奴隷制があることは知っていたが、それをあからさまに感じることもなかった。今は剥き出しの現実に直面させられている。ユキヒトの感性からすれば、苦痛だった。

 逃げ出したくなるような気持と、逃げてはいけないという理性が混在する。ただ今まで見ないで済んでいたというだけで、これは紛れもないこの世界の真実の一面だ。否定したところで、そこにあるもの。この世界に確かに存在するものだ。

 だからこそユキヒトは、その薄暗い牢屋のような場所を、ゲールハルトの後を追って歩く。この世界に生きる一員として、美しくはない現実からも、目を背けてはいけないと思うのだ。

 やがて二人は、一つの扉の前に行きつく。

 頑丈そうな鋼鉄の扉だ。しかしその頑丈さは、侵入者から中で生活する人間を守るためのそれとは異なり、明らかに、中の人間の脱出を妨げる類の極めて重苦しい扉だ。

 ゲールハルトが扉をノックする。がんがん、と鉄をたたく耳障りな音がして、ユキヒトは思わずしかめっ面をした。ゲールハルトは、返事を待たずに扉を開く。

 少し不躾ではないかとは思ったものの、抗議するような筋合いでもなく、ユキヒトはゲールハルトの後に続いて、独房のようなその部屋の中へと入って行った。

 扉から想像ができる通りの、殺風景な部屋だった。かろうじて部屋の隅に椅子が置いてあるだけの、まさに何もない部屋だった。

 その部屋の真ん中に、少女がぽつりと立っていた。

 やや上向きの瞳は、何を見ようとしているのか、明らかに部屋の中のものに焦点はあっていない。遥か彼方の何かを見るように、ぼんやりとした目で、彼女はそこにいた。

 ゲールハルトは部屋に入ると、呆然と立ち尽くすアンゲリカのそばに座る。

「座ってくれ。しばらくは何をしても無駄だ」

「……」

 金色の瞳の彼女は、魂の宿ったヒトであることを感じさせないほどに虚ろな目のままに、ただ彫像のようにそこに立っていた。よく見ればかすかに上下している胸や、僅かに動くことのある指だけが、彼女が生きている事を示す証だ。

 促されるまま、ユキヒトは腰掛ける。椅子もない殺風景な部屋の事、木の床に座るとひやりと冷たかった。

 何かする事があるでもなく、ユキヒトはただ、アンゲリカの顔を見ていた。

 その金色の瞳の奥で、彼女は一体何を考えているのか。あるいは、考えることすらも放棄して、ただただ空白でいるのか。少なくとも、それがトロール三体を瞬く間に葬ったあの戦士と同一の人物であるとは、到底信じられなかった。ユキヒトは、吸い寄せられるようにその金色を眺めていた。

 どれほどの時間が過ぎたか、金色の瞳が、ゆっくりと閉じられた。そして彼女が次に目を開いたとき、その瞳の色は紫に戻っていた。

 ユキヒト達がそこにいたのを認識していたのかいないのか、彼女はゆっくりと部屋の中を見回すと、困ったように笑った。

 ゲールハルトが会話用のボードを渡すと、アンゲリカはそれに何事かを書き込み、ユキヒトへと見せた。

『ごめんなさい』

 そこに書き込まれた言葉に、ユキヒトは困惑した。

 彼女は一体、何を謝っているのか。どう返事をしていいのか分からずに沈黙していると、アンゲリカは再びボードに書き込みを行なった。

『怖かったでしょう?』

 何を言っているんだと、思わずユキヒトは呟いた。何も考えずに発してしまった言葉に、アンゲリカは疑問を覚えたらしく、少し眉を寄せた。

「怖かったかって? 怖かったよ。残酷だとも思った。ノルンを連れて来なくて本当によかったと思ったし、話も聞かせてやれないと思った。全部本当だ」

 自分が興奮しているのがユキヒトには分かった。考えなしに話してしまって、相手を傷つけるようなことを言ってしまっている。それでも言葉が止まらなかった。

 アンゲリカが、傷ついたというよりはどこか寂しそうに、泣き出しそうに、自嘲するように口元をゆがめる。その表情に、ユキヒトはますます自分が苛立つのを感じた。

「だけどそんなことはどうでもいいんだ。それでもあなたは、優しいヒトだ」

 よく分からないというように、アンゲリカは表情に疑問を浮かべる。

「あなたは優しいヒトだ。……あなたは悪くなんかない。あなたのしたことは恐ろしい事だったけれど、俺はあなたを恐れない」

 その言葉を聞いて、自嘲するようなさびしげな笑みが、少し優しく変わった。

 ユキヒトは宣言するようにそう言って、真っ直ぐにアンゲリカの目を見た。

「……教えてほしい。あなたがどうして戦う事になったのか。どうやって、その戦い方を身につけたのか」

 真摯な目をまっすぐに受けて、アンゲリカはゆっくりと頷いた。










『ダークエルフが戦争に敗れたのは、私が生まれる前の事です。ですから私には、戦争の前のことはよく分かりません』

 アンゲリカは、一文字一文字をゆっくりと書き連ねていく。思い出すことが苦痛となるような記憶は、言葉にすることですら心を刻む。まして、文章に書き起こさなければならない彼女ならば、ただ記憶を相手に伝えることも苦行のような作業であろう。

 それを理解してなお、ユキヒトはそれを止めず、じっと彼女の話を『聞く』。

『私が生まれたときには、ダークエルフは「敗北した種族」でした。今にして思えば、私の生まれた静かな村は、どこかおびえたようなそんな空気の村でした』

 逃げのびたダークエルフ達の小さな集落。彼女が生まれたのはそんな場所だった。

 かつて世界を敵にした傲慢なダークエルフは、自信を砕かれてひそかに生きていた。もっとも、そんなことを知らない子供たちは無邪気に遊びまわっていたのだが。

 静かに隠れた、閉じた世界。しかし、それしか知らない子供たちにとっては、光に満ちた優しい世界だった。

『ですがそれも、そう長くは続きませんでした。いえ、戦争が終わってから私が生まれるまで七十年、隠れ続けていられたのですから、とうとう見つかってしまいました、というのが正しいかも知れませんね』

 かつての大戦争の後、ダークエルフはその種族のみで集落を形成することを禁じられた。少数でありながら国すらも傾けた種族だ。固まって過ごしていれば、いつまた他のヒトたちに牙を剥くか分からない、という事だ。

『もっとも、その日、私たちの集落を襲ったヒト達が、そんな追い詰められた考えを持っていたとは思えませんが』

 当時のアンゲリカには知る由もなかったが、竜種のとりなしで絶滅は免れたものの、他のヒトからダークエルフに向けられる目は、温かいものではありえなかった。

 ダークエルフは奴隷身分。現在も続くそれは、世間一般では当たり前のものとされている価値観だ。

 実のところダークエルフへの差別は、恐れの裏返しであろうとユキヒトは考えている。平等の権利など与えれば、いつの間にやら立場を逆転しかねないほどに強いダークエルフ種族を恐れるあまり、対等などありえないとことさらに差別するのであろう、と。

『あの日、私たちの集落を襲ったのは、盗賊の群れなどではありません。正規の軍隊です』

 悲劇的なのは、一般大衆だけではなく、公的な権力ですらダークエルフへの差別を隠そうとしない事だ。悲しい事ではあるが、それがファリオダズマの一面の真実でもあった。

 文化や思想はユキヒトのいた世界と比べれば未熟。平等や自由といったものは、いまだ一部の知識人の間だけで唱えられる理想に過ぎなかった。

『ダークエルフの奴隷は、高額で取引されるそうです』

 ことさらさらりと書いて見せたその文章だが、ピリオドを打つ時に彼女の手が震えるのをユキヒトは見逃さなかった。

『私は、父と母に逃がされて、森の中に隠れていました。父と母は森の茂みに私を隠して、決して声を出さず、周りに誰もいなくなるまでここから出てこないように言いつけました。……体の小さな私は隠れていられましたが、その後、近くに隠れていた両親は見つかってしまいました。そうなることが分かっていたから、あえて両親は私とは別の場所に隠れたんでしょう』

 連れ去られていく両親に思わず追いすがりたくなった幼い少女は、しかし両親の言葉に従って、声を押し殺して森の茂みに伏せてそれをただ見ていた。

『その時から、私は声を失いました。どうやったら声が出せるのか、私はその時に忘れてしまいました』

 無理もない事だろうとユキヒトは思う。その不条理な恐怖が彼女をどれだけ傷つけたのか、他人には決して分からないことだった。

『夜が来て、朝が来て、そしてまた次の夜が来るまで、私はそこで震えていました。何かを食べたり、飲んだりしたい気持ちは少しもなかったけれど、それでも確実に体は弱ってきて、そのままでは死んでしまう事を私は悟りました』

 意識が朦朧として来て、彼女はとうとうその場から立ち上がり、動き始めたという。

 どの方向に、どれほど歩いたのはか分からない。ただ、夜が明けるころになって、結局彼女は動けなくなった。

『眠りたいという気持ちもありませんでしたが、ただもう体は動きませんでした。意識を失うときに、私はきっと自分が死ぬんだと思いました』

 しかし結果として、彼女は死ななかった。次に目を覚ましたのは、粗末な寝台の上で、結局彼女はとらえられたのだという。そして売られたのが、今の闘技場だ。

『父と母が助けてくれたこの身なのに、私には知恵も力も足りなさすぎた。だから私は、こんなところで死んではいけないんです。生きて、何か意味のある事を為さなければならない。そしてできれば、両親を取り戻さなければならないんです』

 決意を込めて、彼女はそう続けた。ユキヒトは、ギュッと歯を食いしばって、彼女の綴る彼女の人生を、目に焼き付けるようにじっと読み続けていた。

『私は高価な奴隷でしたから、闘いに出される前に訓練を受けました。すぐに死んでは、元が取れないという事のようでした』

 彼女が聡明だったのは、その闘技場の思惑を見抜いたこと、そして自分を鍛え、装備を整えるのに金を使うのを躊躇わなかった事だ。

『最初のうちしばらくは、ほとんど貯金をしませんでした。お金を払って闘技場の戦闘講習を受けたり、武器を買い替えたり。昔傭兵や兵隊をしていた闘技場仲間と親しくなって、戦い方を教えてもらったりもしました』

 彼女の経緯からして、兵隊をしていたものに対して、好意を抱けるはずはない。それでも彼女は、生き延びるために手段を選びはしなかった。

 そうして彼女は、実戦的な戦い方を次々に学んでいった。長い剣は取り回しが難しい。重く大きな盾は動きを鈍くし、体力の消耗を大きくする。数々の試行と訓練の末に身に着いたのは、乱戦に優れ、長時間の戦闘が可能な戦い方と武器の扱いだった。

 十分な実力を身に付けたと思ったときから、彼女は勝ち方に拘りはじめた。どうすれば、観客が熱狂するか。どうすれば、自分の試合が盛り上がるか。大切な自分の体に致命的な傷を負わないように気をつけながら、彼女は試合のたびに周囲を観察した。

 答えを見つけるのはさほどに難しくなかった。土台、剣闘は日ごろのストレスを解消するための見世物だ。であるならば、日常からかけ離れるほどに望ましい。

『楽しい事ではありませんでしたけれど、それでも生きてここまで来れました。あともう少しで、私は私を取り戻すことができる』

 そうやって体と心を傷つけながら、彼女は生きてきた。語るべきことはもうないと、会話用のボードを置いてアンゲリカはため息をつくように長く、一つ息を吐いた。

「……ありがとう。つらい記憶だったと思うけれど」

「……」

 書くのに疲れたのか、ゆるゆると首を左右に振ってアンゲリカは意思表示をした。気にするなと言う事なのだろうとユキヒトは理解した。

「あなたの今の剣を、見せてくれないだろうか」

 一瞬だけ、アンゲリカは躊躇するそぶりを見せ、それから鞘ごとユキヒトに自分の剣を渡した。

 ユキヒトはそれを両手で丁寧に受け取ると、まずは鞘から抜かずにそれを観察した。

 鞘におさめたまま攻撃を受け止めることもあるのか、いくつも傷がある。柄に巻かれた布は、余程使いこまれているのだろう、手垢で真っ黒になっている。

 鞘から剣身を抜き出す。そこには、想像した通りの剣があった。

 手入れが丁寧にされていることは見ただけでよく分かる。しかしその刃は、使い込まれて細かい傷を幾つ負っている。手入れのおかげでまだ使い物になる範囲だが、このままでは遠からず、本職の鍛冶師であろうと修復不能なレベルまで傷んでしまうであろうことは想像に難くなかった。

 短いが幅広の剣だ。いかにも頑丈そうなそれは、切れ味と言うよりは重量を活かして叩き斬るような使い方をする類のものだ。

「……」

 そっと、剣身に触れてみる。数えきれないほどの命を奪った凶器であることは間違いない。しかし、ただそれだけで片付けられない何かがあるのも確かだった。

「……これまで使った剣は、どうした?」

 何故そんな事を聞くのか、というように少し不思議そうな顔をしてから、アンゲリカはボードを手に取った。

『宿舎に保管しています。……壊れてしまったものも多いけれど』

「分かった。依頼は確かに受けた。あなたが使うのにふさわしい剣を、きっと用意する」

 そしてユキヒトは、一つ頷いてそう言った。

 ゲールハルトを促して、控室から出る。重たい扉を閉め、ゆっくりと通路を歩く。

「……何故、彼女の過去を問うたんだ」

 やや咎めるような声で、ゲールハルトは言った。

「必要ならばそちらが語るまで待つと、それは嘘だったのか」

「……魂を込めて剣を打つためには、それなりに相手の事を知らなきゃいけない」

「しかし……」

「そして、まだ足りない」

 きっぱりと言い放つと、ユキヒトはゲールハルトの顔を睨みつけるように見た。

「嘘をついているのはあなただ。あなたと彼女の関係、今こそ本当のことを言ってもらう」

「……」

「彼女の過去を聞いたことはない、か。確かに本当かもな。だけど、知らなかったってわけでもないだろう。彼女の過去を初めて知ったにしては、あなたは落ち着きすぎている」

「……」

「別に、責めるわけじゃない。今のあなたが彼女の味方だってことを疑うわけじゃない。彼女の過去に触れたくなかったのは、あなた自身じゃないのか?」

「鋭いんだな」

「過去に触れたくないのは、こっちも同じでね。なんとなく、同じ匂いがしたんだよ」

 自嘲するように言って、ユキヒトはうつむいた。

「……彼女は強いな。あんなつらい事を、ちゃんと他人に話せるし、今の自分を前に進ませられる」

 それに比べて自分はと、憤るように独り言を呟く。

「剣には、魂を込めないといけない。そのヒトの戦い方や剣に対する扱い、その剣を持って何を思い、何のために戦うのか。それを知らずに、本物の剣は打てない」

 ゲールハルトはなおしばらく沈黙していたが、力を込めて見つめると、やがて諦めたように溜息をついた。

「言葉にするだけなら、大して長い話にもならない。彼女が集落から出て気を失ったのを見つけたのが、私だったというだけのことさ」

「……」

「当時の私はまだ若く、思慮も十分ではなかったし、それなりに正義も信じていた。まさか、自分の所属している部隊が、盗賊だか奴隷商人まがいの事をするとは思っていなかったんだ」

 憔悴したように肩を落とし、ゲールハルトはポツリポツリと語った。

「言い訳がましいどころか言い訳でしかないが、ダークエルフが集合して生きるのは禁止されていたし、そういう意味であの集落は不正だった。解散させるのは法にかなった正当な作戦だった。とはいえ、解散させるだけだと本当に思っていたんだ。まさか国の正当なる軍が、ダークエルフを戦利品の用に売り飛ばすなど、考えてもいなかった。彼女にしたところで、体力を回復させるまで保護して、両親を探すなり施設に預けるものだと信じていたんだ」

 まだ基礎訓練の終わったばかりの理想に燃える新兵だったゲールハルトは、衝撃を受けた。

「それから二年は軍に勤めたが……まあ、良いところではなく悪いところばかりが目に付いた」

 結局軍にはなじめず、やめることになった。ゲールハルトは故郷のファッタに戻り、鎧鍛冶の職人に弟子入りをして次の人生を歩み始めた。

「彼女を見つけたのは、ほんの偶然だった。友人が強引に連れていくものだから仕方なく闘技場に足を運んで、そこで彼女を見つけた。あれからもう随分と長いときはたっていたが、ずっと彼女の事が気になっていた。成長してはいたが、あの時の彼女だと、すぐに気づいたよ」

 罪滅ぼしなんだろうなあと、ゲールハルトは呟く。大きなはずの体は、肩を落とすものだから、随分と小さく見える。

「私にとっての、過ちの象徴なんだ。だから彼女が自分を取り戻すまで、私はもう前に進むこともできない」

 格好の悪い話だよと言って、ゲールハルトははっきりそうと分かる自嘲の笑みを浮かべた。

 ユキヒトには、それを笑う事は出来なかった。











 過去と向き合うのは簡単な事ではない。

 まして一度背を向けて逃げてしまったことに、もう一度向かい合うのは難しい。

 それを超えなければ前に進めないと思っていても、嫌そう思うからこそ、超えるのが難しいそれに挑戦するのは苦しい。

 過去から学び、未来へとすすまなければならない。その通りだ。誰にでもわかる道理だが、誰にでも実践できる事でもない。

 過ぎてしまった事だから。もう同じ事は起こらないから。仕方のない事だったから。

 いくつも器用に言い訳を考えて、ヒトはどうしても嫌な過去から目をそらす。

「……だけどもう、終わりにしなきゃな」

 何通も重なった手紙を前にして、ユキヒトは独り言を言う。

「逃げるのはもう、終わりにしなきゃな」

 もう一度言って、ユキヒトは羽ペンを手に取った。























 過去を超えて未来へ進むヒトへ あなたの過去の闇をあなたの未来の光が照らしますように 行人







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