第4回 : ジュディ・ガーランド


1922年  ミネソタ州に誕生。幼少の頃より歌唱力が優れていたといわれる。
1929年  二人の姉と共にガム・シスターズとしてデビュー。
1935年  メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MRM)と専属契約。
13歳にしてプロデューサーと肉体関係を持つことで契約をつかんだといわれる。
同役を演じるにあたってダイエットが命じられ、覚醒剤(アンフェタミン)を常用するようになる。
1939年  ミュージカル『オズの魔法使い』でアカデミー特別賞を受賞。
演技力・歌唱力ともに注目を浴び、人気が爆発するも、過密スケジュールのため覚醒剤(アンフェタミン)に加え、睡眠薬(セコナル)を常用するようになる。
当時は薬の害がまだわかっておらず、会社が服用を勧めていたという。
1941年  19歳で作曲家のデヴィッド・ローズと結婚。2年後、離婚。性に奔放でバイセクシャルでもあった彼女と夫では、合わなかったと自身が語っている。
その後次々とミュージカルや映画で主演を務め成功するが、徐々に神経症と薬物中毒の症状が出始め、精神が不安定になる。
1945年  映画監督のヴィンセント・ミネリと結婚、翌年、長女ライザ・ミネリを出産。
1947年  精神と体調不良により遅刻や欠勤など仕事に支障が出始め、2週間の精神病院入院をし、自殺未遂を起こす。
その後も精神不安定により問題を起こし、MGMを解雇される。
1951年  シドニー・ラフトと3度目となる結婚。
1954年  映画『スタア誕生』でアカデミー主演女優賞にノミネートされたが、受賞を逃して再び生活が荒れる。
1961年  7年ぶりに映画へ。『ニュールンベルグ裁判』でアカデミー主演女優賞にノミネート。
ライブをアルバムにした『Judy at Carnegie Hall』がグラミー賞を受賞する。彼女の歌の集大成とも言われ、アルバム・オブ・ザ・イヤー、最優秀女性歌唱賞を受賞。
しかし、薬物中毒と神経症は悪化。
1965年  シドニー・ラフトと離婚。その後2回、通算5回結婚している。
1969年  6月22日 睡眠薬の過剰摂取で死亡。
性に奔放で同性愛についても理解を示していた彼女の死は、同性愛者たちに非常なショックをもたらし、未だに同性愛解放運動の場では「虹の彼方に」の曲がかけられている。
第4回:ジュディ・ガーランド(1)
 
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