私の好きな詩や唱歌
元 寇
永井建子(1865−1940)
月下の陣に続いてまた永井健子ですが、この歌も、明治二十五年に発表されました。
明治25年4月発行の音楽雑誌19号が初出のようです。
作詞作曲の永井建子は当時、陸軍軍楽隊の楽手でした。
永井建子は後に、陸軍戸山学校軍楽隊長となってます。
この歌は軍歌か唱歌との分類が曖昧で、軍歌集にも、岩波の日本唱歌集にも収録されています。
この歌の内容は、元寇の弘安の役を描写しています。
2回目の元寇です。
元寇のあらまし
元寇は、鎌倉時代、時の執権北条時宗の頃におこりました。
文永5年(西暦1268年)に、蒙古より使者が国書をもって日本に来ます。
国書の内容は次のとおりです。
蒙古国書 至元三年(1266)八月
読み下し
上天眷命
大蒙古国皇帝、奉書
日本国王
朕惟自古小国之君、境土相接、尚務講信修睦。
況我祖宗、受天明命、奄有区夏、遐方異域、畏威懷コ者、不可悉数。
朕即位之初、以高麗無辜之民久瘁鋒鏑、即令罷兵還其疆域、反其旄倪。
高麗君臣感戴來朝、義雖君臣、歓若父子。計王之君臣亦已知之。
高麗、朕之東蕃也。日本密邇高麗、開国以來、亦時通中国、
至於朕躬、而無一乗之使以通和好。尚恐王国知之未審、故特遣使持書、?告朕志、
冀自今以往、通問結好、以相親睦。且聖人以四海為家、不相通好、豈一家之理哉。
以至用兵、夫孰所好。王其図之。
不宣。
「蒙古国書 至元三年(1266)八月
上天の眷命せる大蒙古国皇帝、書を日本国王に奉る。
朕惟んみれば、古より小国の君、境土相 接すれば、尚努めて信を講じ睦を修む。
朕即位の初め、高麗の辜なき民の久しく鋒鏑につ かるるを以て、すなはち兵を罷め、その疆域を 還し、その旄倪を反らしむ。
高麗の君臣、感戴して来朝せり。
高麗は朕の東藩なり。
日本は高麗に密迩し国を開きて以来、また時に中国に通ず。
朕が躬に至りては、一乗の使の以て和好を通ずるなし。
尚恐らくは王国のこれを知ること未だ審らかならざらん。
故に特に使を遣はし、書を持ちて朕が志を布告せしむ。
冀はくは、自今以往問を通じ好を結び、以て相親睦せん。
兵を用ふるに至りては、夫れ孰か好むところならん。王それこれを図れ。
不宣。」
現代語訳
「蒙古国書 至元三年(1266)八月
上天の眷命せる大蒙古国皇帝、書を日本国王に奉る。
朕思うに、小国の君は、国境を接していれば、古(いしにえ)より修睦に努めたものだ。
まして皇帝は天命を受けて中華を治め、夷狄も威を畏れ徳を敬い、我が国に参上する者は数知れぬ。
朕が即位したとき、高麗では無辜の民が兵乱に疲れて久しかった。朕は国境より兵を引き揚げ、老人子供を帰した。
高麗の君臣は感激して来朝し、形式は君臣であるとはいえ親子のように接してきた。
日本の君臣も、これを知るべきである。
高麗は、東の属国である。日本は密かに高麗と通じ、また時には中華とも通交してきた。
朕の代に至るに、使者を一人も送らず、和を通じることもない。日本国王は、いまだに中華をよく知らないのではないか。
それゆえに朕は使者を派遣して国書を持たせ、志を告げるものである。
願わくば使者を往来し、親睦を深めようではないか。
聖人は四海(世界)を以て家となす。通交しないことは、一家の理ではあるまい。
兵を用いるのは、好むところではない。王もよく考えて欲しい。
不宣。」
不宣とは「志を全て述べ尽くさない」という手紙の結語であり、臣下としての扱いではないことを示す。
但し、対等の立場ではない。元こそが中華であるという認識に変わりはない。
だから、天皇(または皇帝)を「国王」と記し、「大蒙古国皇帝」より一段下げて書いている。
日本は臣下ではないが、格下と言うことである。
参考したリンク
http://f25.aaa.livedoor.jp/~zflag/mirrors/kiryaku/hisindex.html
朝廷と執権北条時宗は眉間に皺寄せて、こめかみをぴくつかせながら読んだと思います(笑)
第一に日本国王が駄目です。
これだけで先ず無礼者になります(笑)
日本は天皇の国ですから、半ば象徴化されてはいても最高の権威である事に変わりはありません。
王と貶めて書かれた文書は日本としては許されざる無礼と映ったのでしょう。
小国の君と日本を小国になぞらえてるあたりも蒙古の傲慢驕慢が伺い知れるという物です。
ま、確かに世界最大の帝国でしたが…(^-^;)
高麗では無辜の民が兵乱に疲れて久しかったとありますが…。
高麗に攻めこんで無辜の民の兵乱のきっかけは、蒙古やんけ!とつっこみいれたい所です。
挙句のはてに高麗は朕の東藩として属国にさせてます。
なんだか、高麗と同じように攻めこみまっせと、暗に示唆してるようにも読めますね。
最後の兵を用いるのは、好むところではないというあたりは、恫喝のようです。
この「兵を用いるのは、好むところではない」という語句は、他のホラズムやエジプト、南宋等に送った国書にも書かれていたそうです。
これは儀礼的に使われるものだと解釈する人もいますが、南宋、ホラズムやエジプト等、結局蒙古は侵略軍を派遣しています。
蒙古による侵略は、ホラズムあたりの中東の国々に対し、屠城と言って老若男女問わず皆殺しにする凶悪暴悪な戦をしていたのです。
特に、当時の日本は南宋とつながりが深く、南宋が滅びるとき多くの人々が日本に亡命してきました。
蒙古の事情に詳しい人がいて、屠城の話も朝廷や執権北条氏の耳に入っていたのかもしれません。
あと、日本は文永の役以後の使者を切り捨てた事はいけないことだ!と主張する人もいますが…。
当時には国際法などと言うものは無く、ホラズムやエジプトなど他の国々も国書を持ってきた使節を切り捨てています。
だいたい、当時の使節はスパイ行為をするのも仕事のうちであり、それを見咎めて斬首されるリスクはありました。
殺されるのを覚悟の上で、使節が往来したのです。
で、いやがらせのような文永の役(文永11年、西暦1274年)が始まります。
文永の役では、日本軍は不覚をとりましたが、かろうじて上陸を阻みました。
蒙古高麗連合軍は博多の町を焼き、逃げ遅れた子供や女たちを連行しました。
よく、蒙古高麗連合軍に、「やぁやぁ我こそは!」と名乗りを上げるので直ぐに討たれたと習いましたが…。
敵が外国人であるのが丸わかりであり、外人あいてに日本語通じるとはおもわないだろ?と不思議な疑問を抱きました。
実際、名乗りを上げる場合は、「誰某が敵と戦い討ち取るぞ」と味方に対して周知させて、後の論功行賞の証言を得るためとも考えられます。
また、合戦はいきなり白兵戦になるのではなく、えんえんと弓矢を射掛けるのが常套戦術であり、それは蒙古高麗連合軍も同じです。
弓矢の尽きた蒙古高麗連合軍は留まることなく、本国に撤退しました。
おそらく、威力偵察で日本の出方を見たり、どこにどんな城や町があるのか探ってたのかも知れません。
文永の役の頃の蒙古高麗連合軍は長期に渡る占領をあきらめ、本国に戻りました。
ようやく、蒙古は南宋を攻め滅ぼします。
背後の安全が保障されたので、無視ばかり続ける不遜な日本に対して攻勢をかけるための計画が浮かび上がりました。
前回の文永の役は威力偵察のようなものでしたが、今回は移民も引き連れた大規模な軍団を催したそうです。。
弘安の役の直前に、また、懲りずに蒙古は日本に使者を派遣します。
しかし、文永の役の時の蒙古高麗連合軍の対馬や壱岐の領民への仕打ちの侘びもなく、恫喝的な内容で、使者は全員竜の口で斬首されました。
一説によれば、スパイ行為をしていたようです。
また、文永の役に於ける対馬や壱岐に対する暴虐は、無辜の民を殺害強姦強盗放火なんでもありで、女達の手のひらに穴をあけ、軍船の回りに配置して敵(日本軍)の弓勢を削ぐような残酷なことをしていました。
また、山に逃げ込んだ領民が、赤ん坊の泣き声で高麗の軍兵が聞きつけるので窒息死させてしまったとか、当時の記録にあります。
なんか沖縄戦を思い出しますね。
どうか、元寇における対馬壱岐の人たちの辿った状況を、沖縄戦と同じくらい授業で取り上げて欲しいですね。
彼らの子孫が、韓国人朝鮮人中国人モンゴル人て事も強調しておきます(笑)
モンゴル人はともかく、のりのりで侵略してきたのは特定アジアの国々でもあります(笑)
ま、想像するにしても、反吐がでそうな行為です。
記録には、高麗国王に日本人の捕虜200人を奴隷として送ったともあります。
文永の役の侘びもなく、しれっと国書持たせて行かせることが自殺的行為だと私は思いますね(苦笑)
弘安の役(弘安4年西暦1281年)では、文永の役の事を踏まえ、日本軍は敵前上陸阻止をねらって、えんえんと海岸線に沿って石塁を築いていました。
大きさは立て3m幅2mで、弓矢を射やすくされた陣地でした。
なんども蒙古高麗漢人連合軍は上陸しようとしますが、日本軍の雨のような矢に射すくめられてしまいます。
又、蒙古連合軍の弓は短弓で射程距離や威力に問題があり、揺れる船上からの射撃では日本軍に有効な射撃が出来ませんでした。
確かに日本軍陣地を突破するには、近代兵器でないと突破するのは無理だと思います。
蒙古連合軍は先発の高麗人主力の東路軍と、南宋人からなる江南軍の二つの軍に分けて攻撃してきました。
先着の東路軍は単独での上陸を試みるも橋頭堡の確保が出来ず、江南軍の来援を待ちます。
弘安の役の蒙古連合軍は屯田兵を用いて、日本に移民しながら侵略する意図があったようです。
なかなか上陸できず、九州北部の海で漂うばかり。
疫病が発生し、じょじょに蒙古連合軍の勢力を弱めていきます。
なんとか壱岐で東路軍と江南軍が合流しますが、それでも上陸作戦は失敗しました。
侍とかは合戦で白兵戦で戦うものだというイメージが先行しますが、実際にはアウトレンジで打撃を与える弓矢が中心です。
矢が尽きてしまうほうが、戦に破れることなのではないかと思います。
ともあれ、弘安の役では蒙古連合軍は上陸かなわず橋頭堡も獲得することもなりませんでした。
長らく九州北岸で遊弋してるうち、船は腐ってきます。
夜になると頻繁に日本軍のゲリラが船に這い上がって襲撃します。
日本刀は敵蒙古連合軍の刀を壊してしまうほど威力があり、それこそ刃が立たない状況だったようです。
(昔の中国の武器は鋳物が多いので切れ味がない。鋼に鍛えた太刀相手では、もろく折れる時もある)
上陸できない、疫病発生、船底が腐る、夜には日本軍ゲリラが跳梁跋扈する。
弘安四年の夏から秋にかけて、ぷかぷか浮いてたわけです。
そこで、台風襲来。
夏から秋にかけては現代でも台風シーズンです。
長く遊弋していたため、蒙古連合軍の軍船は船底から弱っていたのかもしれません。
あっという間に、蒙古連合軍は壊滅してしまいました。
海辺は敵の溺死体で歩ける程だったそうです。
文永の役、弘安の役、二つの侵略作戦が失敗したのにもかかわらず、クビライ皇帝は様子を伺います。
しかし、東南アジア方面の侵略作戦もあり、ついに3度目の日本への侵略が行われる事はなくなったのです。
この歌の背景
で、この元寇の歌ですが、明治19年に発生した長崎騒動が影響していたのだと思います。
明治19年、清国海軍の艦隊が長崎へ入港しました。
表向きは親善ですが乗組員の素行が悪く、長崎の人々と衝突したそうです。
まだ日清戦争もはじまっておらず、清国水兵は小日本と侮って乱暴騒ぎを起こしました。
長崎の警察署も襲撃されたようです。
そんな背景の中、日本の仮想敵国としても清国は大きくクローズアップされて行きます。
この元寇の歌も、過分にその時代背景の空気を孕んだ作品かも知れませんね。