■□■□■ 蒙古からの国書/元寇(オロモルフ)■□■□■

◎NHKの元寇の番組への批判があちこちにあります。
 オロモルフはNHKのその番組を見ていないのですが、蒙古からの国書をどう判断するか――で意見が分かれるようです。
 しかし、大部分の人は、肝心の国書を読まずに発言しているようです。
 これでは議論になりませんので、蒙古から来た最初の国書を掲示いたします。

(そもそも、蒙古の国書を読まないで、それへの日本の対応が良かったとか悪かったとか、どうして言えるのでしょうか?)

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上天眷命
大蒙古皇帝奉書
 日本國王朕惟自古小國之君境土相接尚務講
 信修睦況我
祖宗受天明命奄有區夏遐方異域畏威懐徳者不
 可悉數朕即位之初以高麗無辜之民久瘁鋒鏑
 即令罷兵還其疆域反其旄倪高麗君臣感戴來
 朝義雖君臣而歡若父子計
 王之君臣亦已知之高麗朕之東藩也日本密邇
 高麗開國以來亦時通中國至於朕躬而無一乘
 之使以通和好尚恐
 王國知之未審故特遣使持書布告朕志冀自
 今以往通問結好以相親睦且聖人以四海爲家
 不相通好豈一家之理哉以至用兵夫孰所好
 王其圖之不宣
    至元三年八月 日

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(読み下し文)

上天の眷命(けんめい)せる
大蒙古皇帝、書を
 日本國王
に奉る。
朕惟(おも)んみれば、古より小國の君、境土(けいど)
 相接すれば、尚(なお)務めて信を講じ睦を修む。
 況(いわ)んや我が
祖宗、天の明命を受け、區夏(くか)を奄有(えんゆう)
 す。遐方(かほう)異域の威を畏れ徳に懐(なつ)く者、
 悉(ことごと)くは數うべからず。朕即位の初め、高麗
 の辜(つみ)なき民の久しく鋒鏑(ほうてき)に瘁
(つか)るるをもって、すなわち兵を罷(や)め、その
 疆域を還し、その旄倪(ぼうげい)を反(かえ)らしむ。
 高麗の君臣、感戴して來朝せり。義は君臣と雖(いえど)
 も、而(しか)も歡ぶこと父子の若(ごと)し。計りみ
 れば、王の君臣もまた已にこれを知らん。高麗は朕の
 東藩なり。日本は高麗に密邇(みつじ)し、國を開きて
 以來(このかた)、また時に中國に通ず。朕が躬(み)
 に至りては、一乘の使のもって和好を通ずるなし。
 尚恐らくは王國のこれを知ること未だ審らかならざらん。
 故に特に使を遣わし、書を持ちて朕が志を布告せしむ。
 冀(こいねが)わくは自今以往、問を通じ好を結び、
 もって相親睦せん。且(また)聖人は四海をもって家と
 爲す。相通好せざるは、豈(あ)に一家の理ならん哉(や)。
 兵を用うるに至りては、夫れ孰(たれ)か好むところな
 らん。王それこれを圖(はか)れ。不宣(ふせん)。
   至元三年八月日

眷命(慈しみ思う)
區夏(天下)
奄有(すべての土地の所有者となる)
遐方(遠方)
朕即位の初め高麗の〜(フビライが皇帝になって高麗を配下にしたこと)
鋒鏑(刀と矢=戦争)
旄倪(老人と子供)
東藩(東方の従属国)
密邇(まぢかに接する)
一乘(車一両)
不宣(述べ尽くしていない=友人間の手紙の末尾に使う語)

*****

(意訳文)

天の慈しみを受けて最高の位についた、
大蒙古国の皇帝が、書を、
 日本の国王に送る。
 朕思うに、昔から小国の王は国境が接する国とは
 修好につとめるものである。
 ましてや、朕の
先祖は、天の命によって世界の所有者となっている。
 遠方の異国でも朕の威力を畏れ徳を慕うものは数え
 切れないほどである。
 朕が即位したばかりのころ、高麗(朝鮮半島)の民
 が戦乱に疲れていたので戦争をやめて講和し、
 老人と子供を故郷に帰らせた。
 高麗は感謝して朝貢に来た。
 朕と高麗とは、君と臣の関係だが、喜びあうこと
 は父子のような間柄である。
 おまえやおまえの重臣、その家臣たち(*)も、この事は知っているであろう。
 高麗は朕の東方の属国である。
 日本は高麗に接した国で、建国以来しばしば中国に
 朝貢に来た。
 ところが、朕の代になってからは、ただの一度も来ていない。
 おそらくは、
 おまえの国は世界の情勢を知らないのであろう。
 したがって使いを派遣し、国書を持たせて、
 朕の意思を知らせる。
 いまから親交を結ぼうではないか。
 聖人は世界を一家と考える。
 親交を結ばないのは、一家とは言えないことである。
 朕も軍事力を使いたくはない。
 よく考えなさい。
 それでは・・・。
   至元三年八月日

(*)君臣という言葉が三箇所にあり、別の意味に訳されていますが、これは多くの訳者の解釈に従ったものです。

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注1 漢字は一部当用漢字にしてあります。

注2 これは到着した年に東大寺の僧が写したもので、現在東大寺図書館蔵。高麗史にある記録より詳しいそうです。

注3 至元三年とは西暦一二六六年で、高麗を介してこの国書が日本に届いたのは二年後の文永五年(西暦一二六八年)。高麗が逡巡して遅れたらしい。

注4 北條時宗が生まれたのは一二五一年ですから、この国書が来たとき時宗は満十七歳で、その年に執権になりました。

注5 元寇は一二七四年と一二八一年。

注6 元としては、日本からの返書如何にかかわらず攻めるつもりで、準備に入っていたそうです。

注7 国書を運んだ使者の主な役割は日本の国内情勢を探ることで、したがってどの使者も帰さない方が良かったのかもしれません。まあそれは無理だったでしょうが。

注8 日本側は、元の横暴によって朝鮮半島が悲惨な状態になっている事は知悉しておりましたから、この最初の国書が来る前から九州の防衛準備に入っていたそうです。

注9 最初の元寇の五年前にすでに、蒙古と高麗は対馬の日本人を拉致して、国書への返事を強要しています。強引無類なやりかたです。日本人が怒ったのは当然です。

注10『国書の解釈』
 最後から三行目の「用兵」の前後は、誰が読んでも脅迫文ですが、それ以外は、当時の高麗人が元皇帝の奴隷としてこき使われていた事を知っているかどうかで、解釈がまったく違ってくると思います。
 高麗が立派な独立国だったと思っている人にとっては、「用兵」以外は、
「私たちと仲良くしましょう。そうすれば高麗と同じように面倒をみてあげます」
 ――と言っている事になるかもしれません。
 しかし、高麗人が奴隷だった事を知っていて読めば、
「貢ぎ物を持ってきて俺たちの奴隷になれば生かしておいてやるが、そうしなければ皆殺しだ」
 ――という意味だと、すぐに分かります。

注11 大蒙古の皇帝が日本の国王に書を与える形になっていますが、国王とは皇帝よりずっと下の位です。また、文では自分たち(大蒙古皇帝や祖宗)を一段上に書き、日本の天皇を王と表現してその下のコマに書いてあります。
 ですから、聖徳太子以来大陸の王朝と対等であるという矜持を持っていた日本人にとっては、冒頭の書式で大きな屈辱を感じたことでしょう。
(なお最後の日付は三字下になっています)

注12 「老人と子供を故郷に帰らせた」とありますが、これを逆に言うと、奴隷として役に立つ人間は帰さなかった、という事になります。つまり、役に立つ人間は生かしておいて奴隷にする。それ以外の人間は本当は皆殺しだが、お慈悲によって殺さないでやる。・・・まあこういった意味だと思います。

注13 当時の世界で、蒙古に攻められても独立を守った国は、日本を含めて三か国のみだと言われます。
 日本以外では、ベトナムとジャワです。この二国は、熱帯のジャングルや酷暑や海があって元軍も苦戦したのですが、完全に追い払ったのではなく、一部占領されたりしましたし、また貢ぎ物は贈っています。
 元に攻められてもまったく占領されず、貢ぎ物も贈らなかった国は、世界で日本だけでした。
 北條時宗に率いられた当時の日本は、じつによくやったと思います。

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《文献》

 以上の書き下ろし文や意訳文は、知人の伊藤雅子氏よりいただいた資料を参考にしました。

(1)歴史研究会(編)『日本史史料〔2〕中世』岩波書店(1998)
(2)佐伯弘治『モンゴル襲来の衝撃』中央公論新社(2003)
(3)青木和夫他『文献史料を読む――古代から近代――』朝日新聞社(2000)
(4)村井章介『アジアのなかの中世日本』校倉書房(1988)


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