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2010年8月31日 (火)

サマーフェスティバル2010

 昨日、ハーヴェイの素晴らしい新作初演をもってサントリー・サマーフェスティバルが終了した。今年はいろいろあったせいか、ほぼ全ての曲が強く印象に残っている。

 さて、以下に書くことは、前提となる情報を持っていない方には、何がなんだか分からないはずだが、個人のブログでもあることだし、今回はご容赦いただきたい。いずれ総括を書いておかねばと思っていた。あまりに微妙な立場だったゆえに、そういう責任がある気がしたのだ。もっと時間をおいた方がいいのかもしれないが、実は明日から海外に出てしまうので、今日の内にすませておかないと詳細を忘れてしまう。なお、この文章は数日で消す可能性もある。

 「事件」の渦中では、なんともやるせない気持になったりもしたが、僕自身もおそらく多くの人を傷つけたことは間違いない。当然ながら自分は被害者ではなく、むしろ加害者という方が適当であって、それを考えると全く気は晴れない。こういう問題は、勝ち負けの次元では考えられないけれども、今回の場合には勝者はどこにもおらず、関わった全員が、中途半端な敗者だった気がする。

 N氏の作品を演奏しないという判断は、最後まで納得できなかった。一方で、僕は企画委員としてパンフレットに名を連ねている「関係者」でもある。主催者の人たちは、一緒に音楽祭を作ってきた仲間だし、彼らの様々な苦労も、ほんの一端にすぎないとはいえ、近くで見ている(ついでにいえば財団の理事長は、僕が勤務する大学の学長だ)。その財団の決定に執拗に異を唱え続けることは、恩を仇で返すことにもなりかねず、少なからず迷いがあった。

 言い続けたのは、中止の理由がない、という単純なことにすぎなかった。それ以上でも以下でもない。当然ながら、N氏の作品は覚醒剤をプロモートするものでは決してない。自分がプログラム構成に関わっていることを脇に置いたとしても、演奏の機会がこうした形でなくなるのは理不尽だと思った。

 もちろん、中止するべきだという「理由」は分からなくはない。この時期に作品を演奏した場合、それがN氏の過去の作品であったとしても、そしてまだ有罪が確定していないとしても、「この主催者は犯罪を軽視している」と誤解する人があらわれることは、十分に予想できるからだ。その人は、いわゆる「クレーマー」的な体質の人かもしれないし、ネタの枯れた週刊誌の記者かもしれないし、文化庁の役人かもしれない。相手ははっきりと見えないけれども、その人が誰かによって様々な状況が生じ得る。

 しかし、やはり誤解は誤解にすぎない。僕の知る限り、全てのフェスティバル関係者は、この犯罪をきわめて重大で、反社会的なものだと見なしている。軽視しようにもできるはずがない。N氏が仮に天才作曲家であろうが、善人だろうが、(もしも有罪であれば)そんなことは全く関係なく、彼の行為は現在の日本の法体系の中では厳罰の対象だと、皆が考えている。しかしだからこそ、必要なのは誤解を恐れて首をすくめることではなく、「誤解」を解くための言葉を持って社会に向かい合うことだと思ったわけである。

 ・・・と、こんな主張をしていると必ず、それはあまりにナイーヴであって、現実社会の厳しさはそんなものではない、という反論が出てくる。コスト、コンプライアンス、リスクヘッジ、社会的責任、公的助成金、二次災害・・・こうした単語を、ほぼ毎日、様々な人の口から聞かされた(ちなみに、そのほとんどは、当事者である財団には属していない人からだ)。こういうことを配慮してこそ賢い大人なのだから「損して得取る」戦略を選ばなければ、というわけだ。

 その通りかもしれない。こうした主張が大きな善意からなされていることを僕は疑わないし、一定の効果があることも認める。誤解を解くための説明を試みるよりも、ともかく誤解されないような態度をひたすら取った方が、最終的なコストはかからないかもしれない。しかし、それによって失われてゆくもの、目には見えなくても、はっきりと失われてゆくものが確実にあることも事実だ。それは何か。

 騒ぎの渦中で、音楽評論家の鈴木淳史さんがこう書いていた。

 「ああ、やっぱりな」。自分がこういう気持ちになったのには、ちょっと驚いた。とても嫌な気分だ。だって、こういう「ああ、やっぱりな」という淀んだ気持ちを多くの人が抱くことによって、世の中はだんだん悪くなる、ということだもの。

 思わず反応してしまったのは「世の中はだんだん悪くなる」という部分だった。一節だけとれば、まるで小学生みたいな文言ではある。企業のリスクヘッジがどうとかいう人から見たら「世の中が悪くなる」なんて、笑ってしまうような幼稚な表現でしかないだろう。でも、それ以外にどんな大切なことがある?

 世間に誤解されないよう、社会的制裁を加える姿勢を派手に見せる方が賢い選択なのかもしれない。確かに、不良(死語?)の集団リンチというのは、手心を加えて軽いパンチを繰り出していた奴が、次には哀れリンチの標的になってしまうものだ。自分も必死で殴らないと・・・少なくとも殴るふりはしないと。が、そんなことの一つ一つによって、間違いなく世の中は悪く、楽しくなくなってゆく。

 ちなみに、痛快だったのは岡田暁生氏だ。岡田さんは僕とは逆に、強硬な「中止賛成派」なのだが、その理由は基本的には「私は、ヒトゴロシと麻薬だけは、絶対に許せないんですよ!」というものだった。それまでに会った人のほとんどが「個人的には演奏してほしいけど、やっぱり・・・今回は仕方ないんじゃない?」とか「ここはひとつ、戦略的に考えた方が・・・」という意見だったから、世間はどうあれ、まずは自分の感覚で問題を捌くという彼独特のストレートな野蛮さが爽快で、激論しながらも青空を見ている気分がした。

 さて、次に芥川作曲賞の司会について。今回の決定に異を唱えている僕が、N氏のいない選考会の司会を務めるというのは、皮肉なめぐりあわせだ。もちろん司会という役割は、自分の主張を勝手に吐露する場ではない。しかし一方で、この問題に何も触れず、ただ単に「審査員が交替しました」というアナウンスだけして先に進むのは、やはり不誠実だ。一体どうするべきか。

 結局、当日の打ち合わせで、最も懇意にしてきた財団の方に、僕なりの表現で事件に触れざるを得ないこと、しかし自分の意見を単に主張する場にはしないからまかせてほしい、という旨を切り出してみた。ヤブヘビという気もしたが、おとなしくアナウンスするように見せかけて、いきなり本番でそのことを切り出すのは、最低限の信義に反するだろう。分かりました、という静かな返事のみをいただいた。しかも彼は、僕の発言に一切の注文をつけなかった。考えてみれば、一週間の殺伐としたあれこれの中で、これはもっとも貴重な感慨を得た瞬間だった。ありていにいえば、感激した。

 そして本番。「覚醒剤」とか「演奏すべき」という言葉は出さなかったが、言うべきだと思ったことは、概ね言わせてもらった。その後、湯浅譲二さんの例の発言が続いたわけだが、後で湯浅さんに伺ったところ、本当はあの時「遺憾だった」と言おうとしたのだそうだ。しかし「遺憾」という語がとっさに出てこず、思わず「もってのほか」という言葉になってしまったのだという。「ちょっとキツイ表現になりすぎた・・・」と苦笑されていた。あの、泰然自若とした巨匠の湯浅さんでさえ様々な逡巡や葛藤があったことは間違いないし、周囲の人の思いも十分に理解していたはずで、ただ単純に主催者を責めようとしたわけではない。

 日程は前後するが、同じように三輪眞弘さんも、厳しい選択を迫られた。やはり「中止反対派」の彼には、究極的には作品を引き上げるという選択肢があった。しかし、そんなことをしたら、とてつもない迷惑を周囲に与える。とりわけオーケストラのガラコンサートは、4曲のうち半分がなくなったら中止せざるを得ないだろう。結局、彼が選んだのは、きちんと演奏は行ないながらも、その会場に作曲者が姿をあらわさない、という苦肉の策だった。現場の誰にも直接の迷惑はかけず、しかし自分なりの意志表示を行なうためには、これ以外の方法はちょっと考えつかない。それにしても、人生に何度あるか分からないオーケストラ実演の現場にいられないのは、さぞ辛かったと思う。

 だから、やはり全員が敗者だったという他ない。もしも唯一良いことがあったとするならば、選考会でも言ったように、この一件を通して、音楽と社会の関係に対して、多くの人が再考を迫られたという点に尽きると思う。きれいごとだろうか。しかしおそらく誰もが、頭の中でサンデル教授のごとき思考実験を何度も繰り返したはずだ。

 僕はと言えば、今はただ反省している。何に対して反省しているのかはよく分からない。が、ともかくあらゆることに対して、もっとベターな道があった気がする。それを考え抜くことができなかったという反省かもしれないし、いろいろと迷惑をかけた人に対する反省なのかもしれない。妙なのだが、気分としてはそれが正直なところで、なんとも他に言いようがない。 

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コメント

この問題の経緯、要点を見事にまとめてくださりありがとうございます。
特に、今回何度も話題になった「麻薬は本当に大犯罪なのか?」という
意見はもとより、「作者と作品は分けて考えるべきだ」などということを
沼野さんは(ぼくもですが)今回まったく問題にしてはいなかった点を
確認できてすっきりしました。
(それらは、また別のテーマとしてよく考えなくてはならないことですが)
また、ぼくの当日の悔しい思いにまで思いを馳せて頂き感動しました。
とにかく、このことを「話題にする」ことすらほとんどできなかったという
のが、ぼくの感想です。
三輪眞弘

投稿: 三輪眞弘 | 2010年8月31日 (火) 18時40分

三輪さん、
はい、まさに「話題にする」ことが最も大きな課題でした。
あの日にもちらっと言いましたが、「369」の再演が質の高いものであったことを、あらためて記しておきます。
作曲者としては無念だったと思いますが、作品はきちんと客席に伝わりました。

投稿: ぬまの | 2010年8月31日 (火) 21時06分

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