法と経済のジャーナル Asahi Judiciary

法と経済のジャーナル Asahi Judiciary 深掘り

証券取引等監視委・佐渡委員長インタビュー

「検察支配」からの解放で監視委が活性化

2010年07月21日

 証券取引等監視委員会の佐渡賢一(さど・けんいち)委員長が7月19日に1期目3年の任期を満了したのを機に同委員長にインタビューし、証券市場監視の現状、監視を含む制裁のあり方、検察不振の原因と改善策まで聞いた。その内容を4回に分けて報告する。=敬称略

(朝日新聞編集委員・村山治)

「検察の呪縛からの解放が監視委の活性化をもたらした」と語る佐渡賢一委員長

 ■「改革」ありき

 ――佐渡委員長就任後、市場に対する監視委のプレゼンスが大きくなっているといわれます。

 「まず、3年間を語る前に言っておきたいことがある。自分がここに来た時、委員会は問題を抱えていた。そこに手を入れたことで、成果が出てきていると自己評価している」

 「もともと監視委は、証券不祥事を踏まえて設置された経緯もあり、犯則事案の摘発を基本にしてきた。その後、市場のニーズに応じていろいろ機能を備えてきたという組織のできかたの経緯もあって、情報の『入り』から『出』までが犯則部門中心に動いていた」

 「そこへ、証券市場の監視という役割から求められるいろんな機能が付加された。証券検査はもともとあったが、開示検査、課徴金調査が新たに加わった。店先に、大きな犯則部門がある。そこが監視委の仕事の材料である情報を全部押さえ、その横に、小さな他の部門が、材料がないため仕事をできず形だけ並んでいるという感じだった」

 「証券検査、開示検査、課徴金調査、犯則調査―それぞれの部門が、それぞれ持っているツールに応じた情報をそれぞれ適切に処理していく。それが全体として監視の機能を高めていく。そういう組織にまずしていこうと考えた。そのために、まず『監視』という大きな上位概念で組織を統一しようとした」

 ■証券市場の暗部に大胆にメス

 証券市場の暗部に大胆にメスを入れワルどもを震え上がらせる一方で、法執行機関らしからぬ積極的な情報発信で、市場のインフラ整備を進める。検察のリードで細々と刑事告発をする存在にしか見えなかった証券取引等監視委員会を、戦闘集団に建て直し、活性化させたのは委員長の佐渡賢一だ。

 知る人ぞ知る敏腕検事だった。89年のリクルート事件で真藤恒NTT会長、藤波孝生元官房長官の取調べを担当。さらに90年の仕手集団「光進」による証券犯罪摘発で主任検事。91年には特捜部副部長として東京佐川急便事件で金丸信元自民党副総裁の5億円ヤミ献金事件捜査を指揮した。東京地検次席検事時代の2001年には鈴木宗男衆院議員の収賄事件の捜査を指揮した。04年には大阪地検検事正として食肉をめぐる不正事件の摘発を指揮した。

 監視委再生のカギは、「検察支配」体制の打ち壊しだった。霞が関の官庁にとって検察は、怖くて巨大な存在だ。検察を知り尽くしている佐渡にしかできない大手術だった。検察の「桎梏」から解き放たれた監視委は大きく羽ばたいた。

 

 ■犯則部門をどう考えるか

 ――佐渡さんが着任する前、監視委の中で「市場監視がまったく機能していない」とのぶつくさが聞こえていましたね。委員長就任早々、佐渡さんが組織改革に乗り出したものだから、法務省や最高検あたりはびびっていましたね。あの時の話ですね。

 「そうそう。監視機能を高めるときに、犯則部門(特別調査課)をどういう風に考えるか、という、監視委の監視態勢に根ざす根本的な問題があったんだ。それまで、犯則部門は、検察への刑事告発という手続きに向けて行われる一過程と考えられていた。つまり、まず刑事告発ありき。それ以外は余分な仕事という考え方だ。それを成功させるため犯則部門だけでなく、監視委の優良資源を集中投下するという考え方だ」

 「しかし、検察への刑事告発という手続きは、委員会の仕事である市場監視という機能の中のひとつにすぎない。犯則部門として、監視機能を高めるのに適した事案について犯則手続きでやる。まず告発ありきという発想でなく、事案が犯則に適しているかどうか、の判断はわれわれ自身が行う。犯則事件はわれわれの責任において犯則事件として処理してくよと。犯則処理を独自にやってみて、告発にいたるまで煮詰まれば告発するし、そうでなければ、告発しなくていい、という考え方だ。そういう考えでやっていこうと。自立した機関としてやっていこうじゃないか、と」

 ■「まず刑事告発」の呪縛からの脱却

 証券取引等監視委員会の委員長に就任した佐渡賢一の最初の仕事は、事実上、「検察支配」下にあった監視委を検察から解放することだった。

 当時の監視委は、まず「刑事告発ありき」。監視委の3分の1超の要員を擁する犯則調査部門は、出向検事らが東京地検特捜部の「別働隊」として監視委に寄せられた疑惑情報を一手に抱え込み、行政的手法で市場の透明化を目指す証券検査や課徴金、開示検査部門は、犯則部門の調査が終わるまで指をくわえて見ているだけだった。

 刑事事件で切り取れる疑惑は、市場が抱える複雑で膨大な問題のほんの一部に過ぎない。当時は、判例にあるような簡単な事件だけだった。簡単に「事件」の形で切り取れない構造的で本質的な重要情報は、犯則部門が抱え込んでいるうちに死んでしまうこともあったとされる。

 佐渡の強引ともいえる「整理」は、検察との間に少なからぬ軋轢をもたらした。しかし、まもなく、組織には健全な血流が生まれ、神経組織と筋肉組織が働き始める。監視委は活性化し、組織は生き生きと動き出した。「佐渡革命」の第一歩だった。

 ■「もっと柔軟に」

 ――市場監視の有効なツールは豊富にそろっているのに、なぜか、市場監視の中では決して大きくない告発機能を最優先してきた。それは、検察が摘発するとメディアが大きく扱い、市場への波及効果も大きかったですからね。監視委としても無視できない。無視できないばかりか、告発ありきが当たり前となり、次第にシステム化し、固定化する。確かに、佐渡さんが着任する前、ホリエモン事件のころの監視委は、「検察の下請け機関化」がいわれていました。

 「下請けという気持ちはなかったと思うが、告発へ向けた手続きという方向で考えていくと、告発というのは証拠の問題に帰着する。どうしても公判に耐えられる証拠という発想が先にきちゃう。そうすると、事案に即した処理でなく、小さな事件処理になってくる。そうでなくて課徴金、開示検査、証券検査という多様な機能のそのひとつとして犯則調査を位置づけ。それに適した事案をまさにその手続で行う。責任もってやれば最終的には告発にいくし、あるいは適してなければそこでやめればいいし。もっと柔軟に。はじめから告発一本でやると、市場監視とは関係のないところ(検察)で議論が始まってしまうからね」

 ――法廷での立証に使う証拠の問題ということになると、事実上、その専門家である検察が発言力をもちますね。検察は、公判維持を優先する。検察は、監視委側に、物証集めや関係者供述取りでどんどん注文をつけてくる。刑事司法の素養のない行政マンがこれに対応するのは大変ですね。そして、検察は、有罪をとれるように事件を小さく固く絞り込む。必然的に、事件の背景にある、立証しにくい複雑な疑惑は切り捨てられます。だいたい、そういう話にこそ、市場が抱える構造的で本質的な問題が含まれている。監視委が検察に引っ張られるすぎると、市場監視機能がおかしくなってしまいますね。

 「だから自立することに意味があった。犯則手続は、われわれの責任においてやるべき手続だということ。我々の仕事は、検察の下請けなどであってはいけないんだ」

 ■検察支配の経緯と実際

 ここで、当時の監視委と検察の関係を説明しておこう。

 90年代初めの証券市場のスキャンダルを機に92年に創設された証券取引等監視委員会は、市場の犯罪を積極的に検察に刑事告発することで存在証明をはかろうとした。

 しかし、当時の検察は、監視委の事実調査や法律解釈に信頼をおかず、犯則事件の受理に消極的だった。このときから監視委の「お願い」ベースが始まった。

 刑事告発に向けて両者の関係がスムーズになるのは95年7月、監視委の事務局員と検察当局の財政経済係検事らで構成される「告発問題協議会」が設置されてからだ。

 監視委の犯則調査の過程で法律解釈、事実関係などについて協議し、両者がより緊密に情報交換するための組織。国税当局と検察、公取委と検察の間でも同様の協議組織が作られている。

 初代委員長の水原敏博らの陣頭指揮で、監視委は97年3月、東京地検特捜部と合同で、野村証券の総会屋に対する損失補填事件を摘発。同証券による総会屋への利益供与の全容を解明した。さらに日興、山一、大和と4大証券の損失補填を摘発。大蔵接待汚職摘発のきっかけにもなった。

 政界汚職と脱税事件中心の特捜部には複雑な証券取引を解明するノウハウはなかった。監視委は検察でも一目置かれるようになる。

 犯則事件で監視委の存在感を示す、という監視委の創設当時のコンセプトは、当時の市場の情況、監視委に与えられた武器や人員からすれば合理的な選択だった。初代委員長の水原は、そのコンセプトで委員会事務局を鍛え、野村証券事件という大事件を掘り起こした。その成功体験が、逆に、その後の監視委を縛った。

 水原は98年7月、委員長を辞し、元労働総務審議官の佐藤ギン子が委員長に就任。さらに01年7月、名古屋高検検事長の高橋武生が後を引き継いだ。佐藤も、高橋も、基本的には水原の路線を踏襲した。

 米国発のグローバリゼーションと国内市場の成熟。橋本内閣の金融ビッグバン、小泉内閣の新自由主義経済政策もあって市場の規模は拡大し、個人投資家の大量参入で市場の質も変わった。

 日本の法制度の穴をビジネスチャンスと見る外資が進出する一方、違法収益を市場で運用する暴力団など地下経済がベンチャー企業を巻き込んで市場を荒らし始めた。

 監視委の監視対象は大きく広がる一方、課徴金の導入など制裁の選択肢も広がった。監視委は、与えられた武器を駆使し、総力を挙げて市場を歪める要素を取り除かねばならなかった。

 市場に蔓延する脱法的行為が「違法」に進行する前に、まず行政的な手法で規制し、それでもどうにもならない本当に悪質なものだけを刑事告発する体制を確立すべきだった。それが市場の要請だった。

 しかし、監視委では、刑事告発を担当する特別調査課が水原時代以後も、監視委の中で重視されてきた。佐渡が着任したとき、監視委事務局約340人のうち特別調査課は100人超の体制だった。優秀な人材が集められた。

 毎年公表する「活動状況」でも、「組織」の説明に続き、実績報告の真っ先に「犯則事件調査・告発」を持ってきた。(佐渡3年目の10年5月公表分では、実績報告の最初は市場分析調査。犯則事件の調査・告発は、証券検査、課徴金調査、開示検査の次、最後に位置づけられている)

 犯則重視は、監視委の情報システムに象徴されていた。

 インターネット時代を反映し、監視委には膨大な情報が寄せられるようになった。06年度には6000件を超える情報が寄せられた。情報の中には、海外市場や投資ファンドを使った構造的な犯罪はもとより、市場の歪みを修正する端緒になる有用な情報も含まれていた。

 これらの情報は、犯則事件を調査する特別調査課にすべて回された。刑事告発が最優先課題であるため、出向している3人の検事がその中から刑事告発対象になる可能性のある事件をまずピックアップし、課員を投入して調査した。刑事事件の要素が少しでもある情報は特別調査課が手持ちの案件として保管した。

 一方、検察側と監視委の力関係は、告発を受ける側の検察側が圧倒的に優位だった。検察側は、証拠のはっきりした事件しか受け付けない。必然的に、特別調査課の扱う事件は、証拠収集が簡単で判例を積み重ねている小規模のインサイダー取引や価格操縦になる。

 構造的でより市場にとって深刻な影響を与えている犯罪は後回しになり、時効になってそのまま埋もれてしまうことも多かった。宝の持ち腐れとなっていたのである。

 特別調査課は、検察からの出向検事が業務を取り仕切り、検察と同様、「保秘」を徹底した。保秘は監視委内の行政調査部門に対しても徹底された。行政の職員は、業界とつながりがあり、調査の秘密が漏れる恐れがあると疑ったのだ。しかも、出向検事は、親元に気を遣い、検察からの調査要請は優先的に引き受ける。特別調査課は事実上、検察の「分室」のような存在になっていた。

 特に、2006年に特捜部が摘発したライブドア、村上ファンド事件で、監視委側の不満が膨らんだ。

 このころ、出向検事は事務局長や特別調査課長にも詳細な報告を上げず、特捜部と極秘に折衝した。

 監視委の行政部門には行政部門の仕事があった。本来は、ライブドア事件の背景にある証券発行市場の法的インフラの不備などを、事実に基づいて改革する必要があった。

 しかし、情報がないため、大きく出遅れ、批判を受けた。本来は、一定の保秘のもとに部内の情報交換が行われなければいけなかった。

 佐渡が委員長に就任したのはこのころだ。

 佐渡は委員長着任早々、大手術に乗り出した。監視委の運営コンセプトを、検察中心から、行政的手法を重視する体制に改めたのだ。

 まず、情報の流れを完全に改めた。それまで特別調査課に集中していた情報を、市場分析審査課がまず、違法性や市場への影響の程度などに応じて、特別調査課、課徴金・開示検査課、証券検査課に割り振ることにした。それぞれの課は、審査課から渡された情報をそれぞれの権限で調査、処理するが、各課の調査内容は上級幹部が総合的に掌握し、各課の調整を行う。

 その結果、情報が、それぞれ権限の異なる課で流通するようになり、課徴金や証券検査も活発に業務を遂行するようになった。

 佐渡は、出向検事に対しても、厳しかった。従来の検察中心の運営にこだわった特別調査課の検事を事実上、解任し、後任に監視委勤務経験のあるベテラン検事を据えた。大手術だった。

 ■果断

 ――そういう監視委の問題点を、いつ知ったのですか。事務局のご進講で「内部告発」があったのですか。(笑い)

 「いや、だれも何もいわない。だけど、すぐわかった。しかも、ちょうど、これはもう、一気に変えてしまわないといけないと思った事件があった」

 「弁護士がかかわった株価操縦を特別調査課が検察と連絡しながら調査していた。証券会社が多数、詐欺にひっかかっていた。証券検査課が、証券会社がなぜひっかかったのか、証券会社のコンプライアンスの問題として証券検査を入れたいという話になった。ところが、証券検査と特別調査の間でいつ検査を入れるかの調整ができない」

 「従来、特調が調査に入ってしまった場合は、調査・捜査活動に影響を与えないように、ほかの部門は、終わるまで見守るーという慣例ができていた。調査・捜査は事実上、終わっていた。関係者が海外逃亡していたからね。捜査の邪魔になる話ではない。ところが、そういう調整さえできない。何なんだ、と思った」

 ――証券検査の担当者が話しに行ったら、きっと、出向検事がダメといったのでしょうね。でも、本来は、犯則部門がダメといったって、捜査の邪魔になる要素が小さければ、証券検査は自分の仕事をすべきです。

 「それまでの監視委の文化がそうなっていた。証券検査も、検事にいわれちゃうと、何もいえない。最高意思決定機関の委員会にも問題があった。本来、そういう話は、上のレベルで調整しなければいけないのに、やっていなかった」

 ――おかしいですね。

 「そういう問題が出てきて、とにかく、ここは、法律で与えられたいろいろな権限を適切に行使していないことがわかった。犯則中心の組織のあり方を変えなければだめだと思った。問題の所在がわかれば、だいたい、それで解決なんだ」

 ――あとは決断だけだったわけだ。それで、具体的に、どうシステムを変えられたのですか。

 「うん。要は、情報だ。情報の流れを正常化した。まず、監視委に入ってくる情報を、特別調査課が見る前に、市場分析審査課が最初に見ることにした。そこの判断で、われわれに与えられている4つの機能を扱う各課に振り分ける。各課はそれぞれのツールを使った調査に入る。フレッシュな情報に基づいてそれぞれが仕事をするから、どんどん成果が上がってくる。そして調査をやっていると、自分たちの課で扱うより、別のところでやった方がいいな、というものも出てくる。そこで、特別調査課や開示検査から課徴金調査へ事案を移管する。逆のケースもある。そういう風にして、それぞれの機能に一番あった事案を処理する体制にした」

 「だから、組織の中での、蛸壺に入らない、横串的な仕事をする意識が生まれた。そういう相互的な発想で仕事をするという関係になってきた。それぞれのツールがうまく回り始めた」

 「もともと事務局も、同様の疑問を感じていたから、解決の方向が決まれば動きは早かったね」

 ――さほど、難しい話じゃなかったように聞こえますが、犯則部門を中心とした情報の流れ、業務の流れをいじるとなると、検察との関係も整理しなければいけない。10数年来、監視委のお願いベースできていましたからね。人を出してもらい、証拠収集も、検察に迎合してきた。それらを、がらっと変えた。実際、消極的抵抗をする出向検事もいた。そしたら、佐渡さんはその検事を異動させちゃった。荒療治でしたね。あのころ、法務省や最高検は「佐渡さん、過激すぎるよ」とブーブーいっていた。耳に入っていたでしょう?(笑い)

 「まあ、ちょっとの間はね。その文化で育ってきたのが向こう(検察)にもいる。そういうもの変えたときに、『なんだ』と反応するやつはどこにもいる。でも、まあ、しばらくすりゃあ、理解される話だと思っていた。出向検事は、委員会にとってこれまで以上に強力な戦力となって元気に働いている。他の職員との関係も良好だ。一回り大きくなったと実感している。いまはむしろ、検察から『ここで検事を育ててくれ』という感じだよ。検察の中の一線の検事で、監視委への出向希望が一番多いんだから」

 ――結局、検察を含めた情報流通改革だったわけですね。監視委に寄せられる全ての情報が、特別調査課に入った。刑事事件になるのは、比喩は適当でないかもしれませんが、立証が簡単な市場の上澄みだけ。刑事事件とするには難しい、逆に、市場にとっては影響の大きい構造的な話が埋もれていた。証券検査や開示検査でその情報を使って調査すれば、市場の歪みを原因究明や透明化、ルール強化などに役だった可能性がある。その検査の中から、犯則事件が見つかる可能性だってあった。

 「そう。そういうところの意識改革というか。一種、告発機関みたいな感じの桎梏がとれたときに、すごくみな元気になった」

 ――監視委の職員の目が輝き始めたのは、はっきりわかりましたよ。佐渡さんの大改革で血の巡りがよくなったんだなあ、と思っていました。

 「ちょうどうまくみんなの気持ちに合ったのではないか。やりがいがある、という気持ちになったものだから」

 「特に、出向検事の意識改革が第一だった。それは浸透したし、検察側も理解してくれている、出向検事は現在7人。犯則以外の部門にも配置している。その部署に求められていることにきちっと応えられるのが検事。国家の法律家としての検事の役割だ。検察の仕事をそのまま持ち込んでくるのはだめだ」

 ■成果 エフオーアイ事件

 ――そういう組織変更にぴたりとはまったような事件はありますか。

 「このあいだ摘発したエフオーアイがそうだ。内部情報と思われる告発文が寄せられた。市場分析審査課が粗々見て、『犯則マターかな』と判断して特別調査課に回す。告発文に具体性があるので基礎調査係の会計士らが、エフ社の財務分析をし、銀行調査をした」

 「大手電機メーカーとの『取引』を調べたら、メーカーの連絡先がエフ社の関連会社になっていた。メーカーに問い合わせが行くと、ばれるから、必然的に連絡先を身内にせざるを得なかったんだ。それで、本当におかしいな、ということになり、本格的に調査した。ただ、この時点では、刑事告発するかどうかはわからない」

 ――粉飾の中身は架空売上ですよね。

 「ものを作っても売れない。出荷を装って品物をトラックでぐるぐる回って隠し倉庫に入れる。架空売上に対応する『売上収入』は、ファンドの出資金や銀行の融資で当てる。売掛金と回収がすごく離れている(時間的に)。そもそも架空なんだから、どうしたってそうなっちゃう。回収を装うため、銀行融資とか出資でカネをもってきては辻褄を合わせていたわけだ」

 「伝票も巧妙に作っていた。しかし、現場に足を運び会社の実情を見ればわかったはず。従業員の大半は中国人。出勤しないと、その日の仕事がわからない。近所の食堂で聞くと、何作っている会社かわからない、といっているらしい」

 ――外部監査や引き受け証券、東京証券取引所が気づかなかったというのは、やはりお粗末ですね。

 「でもね、外部監査や上場審査のチェックはデータ中心だから、書類の辻褄が合ってしまうと、見破れないんだ」

 「実際は、自転車操業で業績を膨らませてはいるが、ニューマネーは出資金と融資金しかないから資金調達が難しくなって、上場して市場でカネ集めするしかなくなった。M証券の前に2社ほど他の証券会社を当たったが、断られた。M証券の上場申請もスムーズにいかず長引いた」

 「会社側は、資金に困って、国税に収入がないのに税金を払いすぎた、と税金の還付請求をした。24億円。その時点で会社側は事実上、粉飾を認めているわけだ」

 「国税当局は簡単に還付に応じない。2つの相反する請求が同時に行われていた。先に上場審査が通ったので、還付請求は取り下げた」

 ――こういっては悪いが、漫画、落語の世界ですね。何で、そんな上場が見逃されるのか。やはり問題ですね。

 「それもそうだが、本件は、上場時に60億円ぐらい株式発行している。1年後のロックアップ条項がまもなくくる。そうすると、株の売買が活発に行われ、投資被害がさらに拡大する。新たな投資被害が出る前に市場から退場させるには、どの手続がいいか」

 「そこで、初めてどの手続を使うか選択する。やはり、もっとも強力な手続きの犯則がいいでしょうと」

 「さらに、市場へのメッセージを早く出さないといけない。事前に東証には連絡できないので、市場が始まる前に事実上、捜索に入ったことが報道されるようにした」

 ――確かに、あの事件は、朝のテレビニュースでも映像が流れていた。

 「捜索に入ってから、すぐ報道されるような時間―午前7時ぐらいの着手をめざしていた。そうすれば市場が開く午前9時前に、東証がいろいろ準備することが可能だ。犯則手続きではあるが、公表してからは東証との手続きを綿密に行ったので、上場廃止までの手続きは早かった」

 「最初から犯則=告発ではなく、監視で犯則手続を使うのがもっとも適切な事案について犯則でやる。その結果、告発する事件になればいい、という発想だ」

 ――着手までに検察との協議は?

 「しない。そこで相談してもしようがない。しても、何か得られるものはない。向こうが責任もっていない。監視活動としての犯則手続きについては何の責任ももたない」

 ――そうですね。それはよくわかる。これまでだと、検察とは、国税と同じように、強制調査に入る時から綿密な協議をしてきた。最初は監視委側から手続きをスムーズに進めるためお願いして協議をしてもらった。そういう経過だから、検察から注文が厳しくなり、がんじがらめになっていた。

 「そのころは、まさにうちは告発機関だったんだ。そうでなく、いまは監視機関。その監視機能のひとつに犯則手続きがあるということに変えた」

 「現在の犯則調査の開始は、事案にもよるが、まずわれわれの責任においてやる。ほとんど検察に相談なしでやっている。告発に適したものかどうか証拠収集は徹底してわれわれの責任でやって。無理だなと思えばそこでやめる、当然やるべきとなればそこから検察との協議が始まる」

 ――検察側からみると、コペルニクス的転換だ。

 「といって、決して検察には迷惑をかけていないんだよ。逆に言うと、そこまでは、われわれの責任だから。告発するかどうかの段階では、こちらの責任で徹底的に調査した内容をもとに検察と議論するので、むしろスムーズに動いている」

 ――告発を受ける側は、自分の仕事に都合よく考えがちですからね。佐渡さんが着任されるまでの監視委は、告発機能が主役で監視機能は附属装備との位置づけだった。それがいまは、トータルの監視機関になった。そのひとつのツールとして告発があるということですね。

 「各課と(特別調査課と)の連携がよくなった。むしろ、ちゃんと議論してこれは課徴金の事案だな、とか証券検査に移した方がいいかな、という議論が活発になって。担当している職員も、ほかのツールを意識しながらやるという仕事の仕方になってきた」

 ■転機

 ――そういう意味でも、やはり、「佐渡革命」は正しかったわけだ。逆に、検察の方が、従来の特捜スタイルでの経済事件捜査に自信を失っているようにも見えます。経済環境、社会環境が激変し、検察がそれについていけていない面もあるのでしょう。市場統治の基本は「自治」ですよね。本来は、企業の内部監査で脱法行為をチェックし抑止する。そこが見落としたら外部監査、取引を仲介する証券会社、取引の公正さを監視する証券取引所、監視委の順でチェックし、脱法行為を止めるのが理想です。
 制裁システムのラストリゾートである検察と、その手前のところで市場監視と行政制裁を担う金融庁・監視委の棲み分けを整理し、監視と制裁をスムーズに動かすことは大事ですね。

 「カギのひとつは課徴金だね。むしろ課徴金を活用することによって、犯則手続で処理すべき案件との境界線が明瞭になってきた。それまでは、課徴金で処理してもいいような事件まで検察に持ち込んでいた。なんでこんなものを持ち込んでいるんだ、とやめさせたケースもある。そんなものを犯則でやろうとしたら、検察との間でいろいろ議論になるに決まっている。そういうことでもごたごたしていた。犯則事件として取り掛かった以上は何とか告発したいという発想になっていた」

 「いまは、情報を、その情報処理に合った部門に適切に配転し適切に処理するようになった。だから、いまは、犯則で持ち込む事件はまったく問題がなくなった。課徴金をうんと活用してもらった方がいいんだ」

 ――ところで、佐渡さんを監視委の委員長に起用したのは、当時の但木敬一検事総長だった。但木さんは、検察が出動せざるを得ないほど症状が悪化する前に、行政的手段で不正を予防し、または、芽のうちに摘み取るべきだと考えていた。市場監視の最前線に立つ証券監視委が証券検査や課徴金という手法を拡大、充実すべきと考えたのだ。そのために監視委に新しいリーダーとして佐渡さんを送り込んだ。但木さんからそういう話はありましたか?

 「ない、ない。検察時代は、この役所にまったく興味はなかった。まあ、来てみたら、組織ができた経過、歴史的なものと最近になって求められている役割と、新しく付加された機能がきちっとなっていない――ミスマッチがあるなとすぐ感じたけどね」

 ――私の印象でいうと、佐渡さんは、検察にいるときから、市場の問題、世の中に起きていることにアンテナが高いように見えたが。

 「市場とかそういう関心はなかったんだ。そのときどきに、配置された部署をできるだけ元気にさせるというか。部署の目的が実現するような、手が打てるなら打とうという発想なんだ。検察現場の一線の事務処理を離れてからは、ずっとそういう発想でやってきた」

 

 佐渡 賢一(さど・けんいち)
 1946(S21)年9月生まれ。63歳。北海道旭川市出身。早稲田大法学部在学中の68年に司法試験に合格。69年4月、司法修習生。71年、検事任官。大阪地検を振り出しに、函館地検、横浜地検、仙台法務局(訟務検事)、東京地検八王子支部を経て82年3月に最初の東京地検特捜部入り。宇都宮地検を経て87年3月に再び特捜部。91年4月、特捜部副部長。94年4月、東京高検検事。95年4月、同特別公判部長。97年4月、東京地検刑事部長。98年6月、最高検検事。99年7月、秋田地検検事正。2000年6月、最高検検事。01年4月、東京地検次席検事。02年10月、京都地検検事正。04年1月、大阪地検検事正。05年4月、札幌高検検事長。06年5月、福岡高検検事長。07年7月に退任し、証券取引等監視委員会委員長に就任。今に至る。

 ▽インタビュー2回目「地下経済とのあくなき戦いゴールはまだ見えない」はこちら。

このページのトップに戻る