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黒人夫婦に白い赤ちゃん

 投稿者:斉藤愛輝  投稿日:2010年 7月28日(水)07時39分26秒
  こんなニュースがありました

「黒人の夫婦に肌が真っ白な金髪の赤ちゃん(女の子)が誕生し、世界中を驚かせている。黒人夫婦もかなり驚いたようだが、父親は「赤ちゃんが私の子どもなのを確信している。しかし、なぜ赤ちゃんが白い肌をしているのか理由がわからない」とコメントしている。

この信じられない赤ちゃんの誕生に関して、医師はもちろんの事、遺伝子学の専門家たちも驚きを隠せないでいる。それにしても、どうしてこのような白い赤ちゃんが生まれてきたのだろうか?

インターネットニュースサイト『The Sun』によると、遺伝子学の専門家は「このようなケースは極めて異例ですが、遺伝の法則は非常に複雑です。我々が知らない未知の部分がまだまだ多くあるのです」とコメントしているという。また、この両親の先祖に白人の人物がいた可能性もあるとしているが、その真相は謎のままである。」

http://rocketnews24.com/?p=40564

このケースは、形態の変化が急速に起りえることを示唆するものではないでしょうか。つまり、遺伝子が変異する速度から、進化には長い時間がかかり、創造論者が言うような6000年やそこらでの変異はあり得ないという進化論側の主張に対する反論材料になると思われます。私は、現生生物は神が造られた原種から、洪水後に短期間のうちに今のような多種類に変異してできたと考えていますが、そうした考えを補強する証拠になると思っています。
 

原型を保存したカタツムリの化石

 投稿者:長谷川寿紀(管)  投稿日:2010年 7月 9日(金)13時18分46秒
  世界自然遺産登録を目指す小笠原諸島(東京・小笠原村)の父島南西約500メー
トルの海底で、約3万年前のものとみられるカタツムリの化石が見つかった。
地元のガイド竹沢博隆さん(37)が5月、ダイビング中に発見した。海に沈んだ
鍾乳洞の壁面が崩落して化石が露出し、水深1〜2メートルの海底にほぼ原形をと
どめる約3〜5センチの化石数十個が散らばる。
千葉聡・東北大准教授(生態学)によると、固有種のカタツムリの宝庫・小笠原で、
海中化石が見つかったのは初めて。カタマイマイの一種とみられ、既に陸で見つか
っている化石とほぼ同年代という。「カタツムリの進化などの解明に期待できる」
と話している。


鍾乳洞の壁面が崩落して、中からほぼ原型をとどめる多数の同種のカタツムリの化
石がまとまって見つかったという事は、鍾乳洞が何千年も何万年も架かって出来た
とする教科書の説を否定する材料になります。そんな時間がかかっていたら、カタ
ツムリの殻もボロボロになって原型をとどめる事が出来ません。鍾乳洞の石灰岩の
沈降堆積はもっと短時間のうちに、群生するカタツムリがまとまって閉じ込められ
るほど早くできたものではないかと考えられます。石灰の由来も生物の遺骸の炭酸
カルシウムの沈殿ではなく、地球内部からの急速噴出物由来なのではないかと疑わ
せます。
 

アフリカ大陸に新しい海が誕生する?

 投稿者:長谷川寿紀(管)  投稿日:2010年 7月 4日(日)21時12分7秒
  英国王立協会の科学者によると、アフリカに新しい海洋が誕生しつつあるという。

エチオピアのアファー三角帯で研究を続けている地質学者は、海がアフリカ大陸を2つ
に分断するだろうと言う。もっとも、普通ならこういう大陸の大きな変化には1000万年
はかかるとは思われるのだが、しかし、王立協会の研究者ティム・ライトは、今起きて
いる出来事を「本当に信じられない」と言う。

何百万年というような長い単位で地球の変化を理解してきたライト博士を含む研究チー
ムにとって、エチオピアのアファー三角帯でのこの5年間での変化の規模とスピードは
驚くべきものだった。そこでは、あっという間に大陸に断裂が走り、大地がこじ開けら
れたのだ。2005年に、この地で、たった10日間の間に、60kmの長さに渡り、8メートル
の幅の断裂が開いた。地球内部の奥からの溶融状態の岩石が表面に上がって、大陸の分
断を促しているのだ。地下での爆発は今も続いている。そして、結局アフリカ大陸のそ
の部分は陥没すると思われる。そして、そこには新しい海洋が形成されるだろう。

アフリカ大陸は小さなものとなる

アファーで研究を続けているブリストル大学の地震学者ジェームズ・ハモンド博士は、
一部の領域はすでに海面下にあると言う。そして、エリトリアで大陸は20メートルの幅
で断ち切られているという。「結局、ここは分断するだろう」と、彼は BBC に言った。
「そうして、ここには新しい海ができるだろう」。「この地は2つに引き離され、そし
て、より深い場所に沈んでいく。南エチオピアの地域とソマリアの近辺に新しい島が形
成されるだろう。そして、アフリカ大陸は小さくなり、別の大きな島がインド洋に浮か
ぶことになる。」通常なら海の下で起きるこの「新しい海洋の誕生」を直接目撃できる
ことは非常に幸運であると研究者たちは言う。研究チームは、地球の表面がどのように
形成されていくのかを知る手かがりを得る調査を行ないたいと考えている。地球の形成
を観測することにより、収集される情報が、地震や火山噴火などの天災に関しての理解
を深めることにも関係するはずだと考えている。



我々は大陸が分割したのは6千年前ではなく、もっと新しい4900年前の「ノアの洪水」
と言われる大天変地異のときだったのではないかと考えています。勿論根拠は聖書
です。聖書の記事をその通り起こったものと信じるなら、過去の大陸移動も短期間
のうちに高速で起こったと考えられるようになります。上の記事は大陸移動が今ま
での科学者が考えていたよりも高速で起こったのではないかという推論を補強する
ものです。
 
    (管理人) 参考資料
http://oka-jp.seesaa.net/article/154486721.html
http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20091104_new_ocean_in_africa/
 

洪水の証拠

 投稿者:斉藤愛輝  投稿日:2010年 3月 9日(火)09時19分9秒
  こんな記事がありました。

「6700万年前のヘビの化石が、恐竜の卵と、孵化したばかりの恐竜に
絡みついていたことを科学者たちが発見した。これは、ヘビが恐竜を
食べていたことを示す初めての証拠だ。この化石をもともと発掘したのは、
インド地質調査所の地質学者Dhanajay Mohabey氏で、26年前のことだ。インド北西部のドーリ・ドゥングリ村に露出している石灰岩層から発掘されたが
・・・・
新たに発見されたこのヘビSanajeh indicusの全長は約3.5メートルで、孵化したばかりのティタノサウルス科の恐竜は全長が約46センチだった。・・・

おそらくは、水位が徐々に上がる洪水や嵐が原因で、成体のティタノサウルスが巣を放棄して逃げ出し、その後にヘビが巣に入り込んだと推測されている。

・・・
ヘビにとっては不運なことに、ちょうどそのとき、地滑りが発生して生き埋めになり、やがてその状態のまま固定されたのだろう、とWilson氏は述べている。」

化石は大洪水によってできたというのが、創造論の主張です。
こうした化石の存在は、大洪水によって化石ができることを説明しています。
少なくともこの化石のあった石灰岩の地層は洪水によって一瞬のうちに
出来上がったことを示します。どの地層も洪水によってできたと考えれば、
全地層が洪水によってできたことを推測させ、結局はノアの洪水以外に化石を
作る要因は考えられなくなります。

http://wiredvision.jp/news/201003/2010030322.html

 

進化論の反証 2の続

 投稿者:長谷川寿紀(管)  投稿日:2010年 2月 1日(月)11時17分19秒
  これは進化論の反証 2 の所で述べられた水平地層の続きです。もっとましな写
真を見せろという要望が某掲示板にあったので、一応見つけて貼り出しておきます。
地層が何万年も何億年もかかって積み重なったものであるのにどうして地層の間に
侵食が見られず整然と平行層が作られるのでしょう。何万年も何億年も時間が経過
しているなら風雨の浸食でぎざぎざになり、こんなものが作られるわけがありませ
ん。何事もなくただ地層だけが平行に積み重ねられたと主張する反創造論者は、自
分たちの科学的推論という憶測のナイーブさに気がついていないのでしょうか。
我々はこれらの地層は比較的短時間の間(ノアの洪水の最中)に形成されたものと
考えています。何億年も経っているとは信じません。

二枚目の写真は、水平に積み重ねられた層が断ち切られ、更にその上に土砂が堆積
して層を成したものです。これが何億年もかかって出来たものであると主張するに
は相当突飛な非科学的な説明がなされるものと思います。
 
    (管理人) あと、一枚目の写真では、カンブリア紀の層と言われている地層と、新生代と言われている地層が境界付近で互い違いになっていることを指摘しています。こんな所からも地層によって化石の年代を決める方法が年代決定の手段として意味を成さないことが明らかになります。  

進化論の反証 4

 投稿者:長谷川寿紀(管)  投稿日:2010年 1月24日(日)03時36分9秒
  写真はクリックすると拡大します。チラノザウルスの化石の大腿骨骨髄の組織写真
です。血管組織や骨組織ばかりか、造血組織の残存構造まで見えます。右の写真に
は、なんと血管内に血球が残っているのまでわかります。その下に電顕写真で確か
に血球らしいことを確認しています。進化論者はこの所見に大変狼狽しています。
問題は、何億年も前に滅んだ恐竜からこうした光学顕微鏡ですら確認可能な組織が
見出されたことです。我々は恐竜は何億年も前にいたのではなく、6千年前にアダ
ムと共に創造され、洪水後に滅亡した種族であると単純に考えていますので、この
発見は何の矛盾でもありません。

発見に対して、進化論しか頭にない学者・研究者たちは当惑の念を隠していません。
 

はじめまして管理人さん

 投稿者:まるちゃん  投稿日:2010年 1月20日(水)05時40分51秒
  『ウィキペディア(Wikipedia)』
プレートテクトニクス より

ヒマラヤ山脈は地球上で最も若い山脈の一つである。現代のプレートテクトニクス理論によると、ヒマラヤ山脈はインド・オーストラリアプレートとユーラシアプレートの間の沈み込みで起きた大陸同士の衝突による造山運動から生じた。

衝突はおよそ7000万年前後期白亜紀に始った。そのころ、インド・オーストラリアプレートは15cm/年の速度で北上し、ユーラシアプレートと衝突した。

約5000万年前、このインド・オーストラリアプレートの速い動きによって海底の堆積層が隆起し、周縁部には火山が発生してインド亜大陸とユーラシア大陸の間にあったテチス海を完全に閉ざした。 これらの堆積岩は軽かったので、プレートの下には沈まずにヒマラヤ山脈を形成した。 今もインド・オーストラリアプレートはチベット高地の下で水平に動いており、その動きは高地に更に押し上げている。 ミャンマーのアラカン山脈とベンガル湾のアンダマン・ニコバル諸島もこの衝突の結果として形成された。かつて海だった証拠として、高山地帯で貝などの化石が発見される。

今もインド・オーストラリアプレートは67mm/年の速度で動いており、今後1000万年の間でアジア大陸に向って1,500km移動するだろうと考えられている。 この動きのうち約20mm/年の分は、ヒマラヤの南の正面を圧縮することによって吸収される。 結果として約5mm/年の造山運動が発生し、ヒマラヤ山脈を地質学的に活発にしている。 このインド亜大陸の動きにより、この地域は地震の多発地帯となっている。


お読みになって頂けたでしょうか?

貴殿の主張される6千年説でヒマラヤ山脈が形成されるには、インド・オーストラリアプレートの移動速度は年速15万センチ(年速1.5キロ)でなければなりません。
そのような高速で大陸プレートが衝突したならば、そのエネルギー(なんと定説の1億倍になる!)はとてつもなくすさまじいものとなります。
超超超巨大地震が絶え間なく起こり続け、地球全体をはげしく揺さぶることでしょう。
プレートは互いに粉砕され造山運動は起きようもありません。

むろん、多くは熱エネルギーに変換されるでしょうから、そこから放出される熱で地表温度はものすごい高熱となります。
少なくともプレートの衝突部分一帯はドロドロに溶けているはずです。

上記、67mm/年は覆しようのない観測的事実です。
ヒマラヤ山脈全体を押し上げる力と、自重による沈み込み及び風化量などを考慮して、厳密に計算され、符号した地質学的根拠に対して、ご自身はどのようにお考えなのかを聞かせて頂けるでしょうか?

私は、創造論対進化論の感情的な対立は嫌いです。
双方から納得のいける意見を聞きたいと思っております。

PS
この板は素性を明らかに〜とは存じていますが、近年の世情にかんがみプライバシー保護の立場からあえてHNで投稿させていただきます。
管理人さんの主張もよく理解できますが、それならば会員専用の板としたほうがよろしいのでは?
併せて納得のいくご回答が得られ、今後も投稿を続けるのならルール通り実名、職業等をお知らせしますが、初回はご容赦いただきたく存じます。
 
    (管理人) この板は聖書にある通り、神がこの地球を6千年前に創られたことを考える掲示板であり、お書き下さった内容はその趣旨と一致しておりません。それを承知でお書きになった趣旨はよく理解しました。しかしあなたの発言は神の創造に関する誤解を説明するのに有益と思われますので、説明をつけて残しておきたいと思います。
インドプレートが現在67mm/年の速度で動いているのはいいですが、これは長い期間一定の速度で動き続けているものではないと思います。大陸プレートというのは灼熱の銑鉄の上に浮かんでいる薄皮のようなものです。ヒマラヤがノアの洪水が起こった5千年前の大異変の際に出来たものと考えておりますので、プレートの移動速度は年速1.5キロどころではなく、時速50キロから90キロ程のスピードでマントル表面上を滑走し、ユーラシア大陸に激突し、短時間のうちにヒマラヤを盛り上げたと考えます。世界で同時にプレートが高速移動した結果ロッキー山脈もこれと同じときに形成されたのでしょう。当然おっしゃるような超巨大地震がノアの洪水の水面下で起こっていたであろうと思います。年67mmの移動は、これからも何万年にわたって続くものではなく、既に減速してそうなっていると考えるのがよいと思います。
次回の発言の際には実名と自己紹介をお願いします。当掲示板は社会の慣習とは独立した運営方針を持っており、ここに書いてもご自分のプライバシーは自分で守るという毅然とした意思をもった方にご発言をお願いいたしております。
 

進化論の反証 3

 投稿者:長谷川寿紀(管)  投稿日:2010年 1月18日(月)00時18分34秒
  下に表示した写真は単細胞生物の鞭毛器官の電子顕微鏡によるスキャン画像です。
生物がわからない人のために少し解説しますと、これは単細胞生物の細胞膜から出
ていて、単細胞生物が移動するときに、これが回転して推進力を作り出します。そ
れがどういう構造になっているのかといいますと、さらに下の図のように、いくつ
かのこの鞭毛を支える目的で特化したたんぱく質が規則正しく集まって、合目的的
な構造を作っているのです。それぞれのたんぱく質が回転軸になったり、動力源に
なったり、鞭毛の複合構造を構成しています。このうちの一つのたんぱく質でも遺
伝子の変異で合成に失敗していたら、鞭毛構造の複合体は構成されず、よってこの
単細胞生物の生態も成り立たなくなります。単細胞生物の器官ですらこのような合
目的性と複雑性を有していますが、これらの構造が神によって一瞬に作られたこと
を否定したい進化論者は、この単細胞生物が有機物質のスープの中で何万年何億年
かかってゆっくり偶然できたのだろうと言っています。そういう進化論者の空想話
に現実性がないのは明らかでしょう。
 
    (管理人) いずれも画像はクリックすると拡大します。
進化論者は必ず勉強と反省のために拡大してご覧下さい。
 

自然は神を伝える

 投稿者:斉藤愛輝  投稿日:2010年 1月16日(土)17時16分18秒
  今朝読んだある書物の文章をご紹介します。

「自然はたえず私達の感覚に話しかけていますから、心を開いているならば
神のみ手のわざにあらわされた神の愛と栄光に強く打たれるのです。・・・
緑の野、大きな樹木、花やつぼみ、過ぎゆく雲、雨のしずく、ささやく小川
天の栄光などはみな私達の心にささやいて、これら一切を創造された神を
知るようにと招いています。」
           エレン・ホワイト「キリストへの道」114p

この文章は聖書の一節を思い出させます。
「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は
被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには
弁解の余地がありません。」ローマ1:20

進化論者の一番の問題点は、神を見ようとしないことです。
科学を通して、神は神の存在と、神が創造主であることを知らせようと
なさっておられるのに、進化論支持者はその肝心の神を否定し、
神を認めたとしても、神が創造者であることを否定します。

それが進化論の致命的な誤りであると私はこれまで
再三述べてきました。創造論を否定する方々は
創造論だけではなく、その前提である創造主なる神をも
否定し、聖書信仰を拒絶しているのです。

実際、私がこれまでネットで関わってきた創造論を批判する
ほとんどの方は、無神論者であり、聖書を拒絶していました。
彼らの本音は、神を認めたくないと言うだけのことです。
科学的証拠がどうのこうのと言いますが、それは表面的なことであって、
根底にあるのは聖書は真実であるとは認めたくないという思いです。

もし創造を示すはっきりした証拠があれば、考えを変え進化論を捨てると
彼らは言いますが、私には信じられません。神を信じてもいいと思え
るなら、今すぐにでも創造論を受け入れることができるはずだからです。
もし神を認める気が少しでもあれば、今でも十分創造論を信じることが
できるのですから、これ以上どんな科学的証拠が必要なのでしょうか。

創造論を否定するのであれば、まず聖書が信頼できる書物かどうかを
検証なさったらどうでしょうか。イエス・キリストがウソを言う人なのか
どうか調べたらどうでしょうか。

進化論がどれほど抵抗しても、
創造論がいつまでたっても消えず、今もなお勢力を拡大し続けるのは、
聖書が真実であり、イエス・キリストが真実だからです。
真実に勝てるものは何もありません。だから、私は自信を持って
進化論の誤りと創造論の正しさを宣べ伝えます。

http://http://www.asahi.com/science/update/0501/TKY200905010181.html

 

宣伝

 投稿者:斉藤愛輝  投稿日:2010年 1月11日(月)21時05分9秒
  最近奇特な方が、創造論批判で有名な某掲示板で、当掲示板の
過去の長谷川先生やわたしの記事を紹介してくださっています。
ありがたいですね。

こちらが何も宣伝しなくても、更新が進まなくても
進化論者が懸命に創造論を否定しようとすることで
かえって創造論の普及に力を貸してくださっているように
わたしには見えます。見る人が見れば、進化論の主張の
おかしさがわかって、結局は創造論が広がります。

本当に神様に感謝です。

http://http://www.asahi.com/science/update/0501/TKY200905010181.html

 
    (管理人) はっはっは。まったくです。感謝です。どんどん遠慮せずやってもらいたいですね。宣伝料を払わなくても宣伝してくれるのが愉快です。それどころか過去発言のアーカイヴまで作っているという凝りようです。笑いが止まりません。彼らはそこで自分たちの見解を静かに書いていれば、ここにゴミを撒きに来る必要がありません。どちら様も、この掲示板は創造論を守って信じる人たちに広く情報を提供する目的で開設されていることをご理解賜りますと幸甚です。  

大掃除

 投稿者:長谷川寿紀(管)  投稿日:2010年 1月11日(月)18時51分49秒
  たまっていたゴミを削除しました。

本業が忙しくて連載が滞っていますが、これは当分続きます。
創造科学論の情報に乏しい日本のクリスチャンの為に
最新の知見を提供してゆきたいと思います。
本年もよろしくお願い申し上げます。

なお、当掲示板に書き込んでも、すぐには発言が反映されませんが
それは表示承認待ちモードになっているだけですので以後ご了解下さい。
 

進化論の反証 2

 投稿者:長谷川寿紀(管理人)  投稿日:2009年11月 8日(日)11時56分6秒
  地層は何万年何億年もかかってできたというのが地球が6千年前に神によって6日で
作られたことを信じない人々の主張です。写真をご覧になるとわかるように、これ
が何万年もかかってできたのだそうです。何万年も風雨に浸食され、その上にまた
土砂が堆積するなら、このようなきれいな層状構造は保存されるはずがないのです。
もっと不規則で混乱した地層構造になっていたでしょう。何万年もかかって谷が深
く切り込まれながら、一部の岩石は橋構造となって残っているのを進化論者、反創
造科学論者は説明することが出来ません。
 

進化論の反証 1

 投稿者:長谷川寿紀(管理人)  投稿日:2009年11月 8日(日)11時50分0秒
  アメリカで発見された、三葉虫が人の足跡の下に踏まれて潰れている化石です。  

創造か進化か  解説

 投稿者:長谷川寿紀(管理人)  投稿日:2009年10月 8日(木)08時59分48秒
  下の長文は、19世紀末にセブンスデーアドベンチスト教会の中で起こった霊的覚醒
運動の立役者に数えられるアロンゾ・T・ジョーンズが創造と進化論の問題について
語った説教の訳文です。この内容はキリストを神・救い主と信じる他のプロテスタ
ント教会においても役に立つものであると判断されますのでここに全文を掲載しま
す。長いので二分割としました。
 

創造か進化か 2

 投稿者:長谷川寿紀(管理人)  投稿日:2009年10月 8日(木)08時55分11秒
  さて、皆さん、創造の始めの時の神の言葉は、その言葉が発したことを生みだすための創造的エネルギーを内に持っていたことがおわかりでしょう。イエスが命の道を人々に示すため、また人々を罪から救うためにこの世界においでになった時、彼は繰り返し繰り返し、あちこちで、到る所で、すべての人々に、絶えず、同じ神のみことばはなお内に同じ創造的エネルギーを持っている、だからみことばが語られると、物事を生みだす創造的エネルギーがそこにあるのだということを、実際にお見せになったのでした。

 ところで皆さんは進化論者ですか、それとも創造論者ですか。みことばがあなたに語りかけています。あなたはそれをお読みになりました。あなたはそれを信じると告白しました。あなたは進化論者とは反対に創造を信じます。ところで皆さんは、自分に反対するような創造を信じるつもりがありますか。あなたとみことばの創造的エネルギーとの間に何も――1時間という期間であろうと一切――認めない台の上に今日自分を置くつもりがありますか。

 イエスはある人に、「あなたの罪はゆるされる」と言いました。それがそうなるまでどのくらいかかりましたか。――「ゆるされる」という言葉とその事柄との間にはいかなる時間的長さもありませんでした。「あなたの罪はゆるされた」という同じそのみことばは、今日皆さんに語りかけております。なぜ、皆さんに語りかけられているこのみことばとそのことの成就との間に何らかの時が経過するようにするのですか。皆さんは、つい先ほど、神の言葉と物事の出現との間に一分あるいは一秒でも時の経過を認める人は皆進化論者であると言いました。非常に結構です、そうなのです。それにしがみついていて下さい。さて、お尋ねします。神があなたにゆるしをお語りになる時、どうしてゆるしを得るまで、それがあなたの内で真実になるまで、何日も経過するようにするのですか。あなたは先程の人は進化論者だと言いました。皆さんは何でしょうか。私は知りたいのです。あなたは進化論者である事をやめて創造論者になりませんか。

 本日はここにおいでになる多くの方々にとって特に重要な日となることでしょう。というのは多くの方々がこの質問に対しどちらか一方に決める時だからです。もしあなたがこの家を進化論者として出て行くとすれば危険です。今この時はあなたにとって命か死かという問題なのです。私は、進化論は不信心であると言いました。その通りなのです。ですからもしあなたがこの家を進化論者として出て行くとすれば、あなたの立場はどうなるでしょう。あなたの選択は何ですか。そしてもし、あなたが罪のゆるしを得ないで出て行けば、あなたは進化論者です。というのは、あなたは、みことばが語られた時と事実の成就との間に時を経過させるからです。

 私が読んだことから、みことばが語られてから事のなるまでの間にいくらかでも時を経過させる者は進化論者だということがおわかりでしょう。あなたに対する神の言葉は、男よ、「あなたの罪はゆるされる」、女よ、「あなたの罪はゆるされる」であります。〔コーリス長老:「あなたの罪はゆるされるであろう、と言ってはいませんか」。〕いいえ、ちがいます。「あなたの罪はゆるされる」――強調した現在時制です――「あなたの罪はゆるされる」。私はそうであるのを神に感謝します。というのは、「ゆるされる」というそのみことばの内の創造的エネルギーがあらゆる罪を取り去り、人を新しい被造物に創造するからです。私は創造を信じます。あなたは信じますか。あなたに語られた「ゆるされる」という言葉の内にある創造的エネルギーを信じますか。それともあなたは進化論者であって、私にはどうしてそんなことがあり得るのかわからない、私はあまりにも悪すぎるから、とおっしゃいますか。私は正しい事をしようと心掛けてきたが多くの失敗をした、私には多くの浮き沈みがあった、そして浮くことよりも沈むことの方がずっと多かった。もし、あなたがそのように言うなら、あなたは進化論者です。それは進化だからです。

 多くの人々が清い心を求め続け、なお求め続けています。彼らは、「私は罪のゆるしを信じます。そして私はそれを全部受けようと思いました、もし私が続けられるのが確かであれば。けれども私の心にはあまりにも多くの悪があり、あまりにも多くの勝利すべきことがあるので、私には全く確信が持てないのです」と言います。しかし、「わたしの内に清い心をつくって下さい」というみことばがあるのです。清い心は創造によって生じるのです、他の方法によってではありません。そしてその創造は神のみことばによって成し遂げられるのです。神は次のように言われるからです、「わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け……る」。あなたは今創造論者ですか、それとも進化論者ですか。あなたはこの家を悪い心を持って出て行くつもりですか、それとも新しい心を生みだす創造エネルギーを持つ神の言葉によって創造された新しい心を持って、ですか。みことばはあなたに新しい心のことを語っています。それは、すべての人にまさにその方法を告げています。もしあなたが、みことばが語っていることと新しい心との間に一瞬でも時を経過させるなら、あなたは進化論者です。あなたが語られた言葉とあなたの経験におけるその成就との間に何らかの時を経過させるなら、あなたは進化論者です。

 この家の中には、はい私は信じる、私はそれ(新しい心)を持つのだ、私はみことばがそれを成し遂げる事を信じる、と言った方々がいます。しかしながら、その方々は次の集会まで時を延ばしました。そしてそれが続き何年も過ぎて行くのです。ですからその人々はそれだけの進化論者にすぎません。「非常に多くの人々が信仰と信心の奥義についてためらいつつも、宣言する事〔広く告げることと、それを口に出すこと〕によってそのことを解決することができた。『私はイエス・キリストが永遠に私の嗣業であることを知っています』と」。生みだす力が神の言葉の内にあります。そしてこのことが受け入れられると、創造エネルギーがそこで語られた事を生みだしていくのです。ですから皆さん、キリストが永遠にあなたの嗣業だということを知っていると宣言することにより、信仰と信心の奥義の問題全体を解決することができるのです。

 あなたのような罪深い肉のうちに、神はどのようにして現れることがおできになるのかということの中には奥義があります。しかし、覚えて下さい、今問題は、その奥義についてではありません。問題は、創造にそのようなことがあるかということです。あなたの内に清い心を創造できる創造主にとってそのようなことがあるでしょうか。それとも、物事一切はただ進化なのでしょうか。たった今も、また、この日より世の終わりに至るまで、セブンスデー・アドベンチストの間にこの問題は存在するにちがいありません。あなたは創造主を信じますか。そしてあなたが創造主を信じる場合、神はどのようにして創造すると信じますか。――もちろん、あなたは言います、神の言葉によって、と。たいへん結構です。では、神はあなたのためにみことばによって創造をなさいますか。あなたは進化論者に相対する創造論者ですか、それとも創造論者に相対する進化論者ですか。いかがでしょうか。

 別のことですが、みことばは「清くあれ」と言います。神がかつて「光りあれ」と言われると光がありました。イエスが、らい病人に「清くなれ」と言われました。すると「直ちに」清くなりました。彼は今あなたに言われます、「清くあれ」。すると今どうでしょうか。皆さん方全員何と言いますか。〔声;「そうなった」。〕ではあなたの魂のためにその創造のみことばに自分をゆだねなさい。聖書の中であなたに告げられている神の言葉の中の創造エネルギーを認めなさい。聖書の中の神のこの言葉は、今日ここであなたにとって高き宇宙に世界を呼び出し、闇に光をもたらした時と、また、らい病人に清めをもたらした時と同じだからです。今日あなたに語られたその言葉は、もし、あなたが受け入れたなら、キリスト・イエスにあってあなたを新しくします。語られたその言葉があなたの心の空虚な暗い空間にもし受け入れられたなら、そこに神の光を生みだします。罪のらい病で悩まされたあなたに今日語られるこの言葉は、もし受け入れられたなら直ちにあなたを清くします。そうさせなさい、そうさせなさい。

 私はどのようにして清くされるのでしょうか――「清くなりなさい」というその言葉の持つ創造エネルギーによって。ですから、「あなたがたは、わたしが語った言葉によって既に清くされている」と書かれているのです(ヨハネ15:3)。清くされていますか。あなたはこの瞬間から創造論者になるつもりはありませんか。それとも、進化論者であり続けるつもりですか。

 これがいかに祝福された事かおわかりでしょうか。あなたがみことばを読み、その言葉を受け入れて、その言葉を思い巡らすとき、それはあなたにとって常に何ですか。おお、それが創造です!創造エネルギーがあなたの内にその言葉が語っている事を生みだしているのです。そしてあなたは創造の力の臨在そのものの中に生きるのです。創造はあなたの命のうちにあって進められていきます。神はあなたの内に、義、聖、真理、忠実――あらゆるよいもの、慈愛深いものを造り出されるのです。

 ですから、このようであるなら、あなたの安息日遵守は実体のあるものです。というのは、安息日は創造の記念日であるからです――それを守る人は創造主を知っているというしるし――そして、創造の過程に精通しているからです。しかし、あなたが進化論者であれば、必ずやあなたの安息日遵守はまやかしです。

 あなたが、神の言葉を日毎にあなたの命の中の創造エネルギーとして認識しない限り、あなたの安息日遵守はまやかしです。なぜなら安息日は創造の記念日だからです。それは、「わたしとあなたがたとの間のしるしとなって、主なるわたしがあなたがたの神(すべてのものの創造主)であることをあなた方に知らせるためである」(エゼキエル20:20)。

 エペソ人への手紙第2章8節から10節に、次の言葉を私たちは読みます、「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それはあなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それはだれも誇ることがないためなのである。わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである」。

 あなたは、何か良い行いを成し遂げる事を自分に期待する必要はありません。あなたはずっと努めています。進化論者は努力します。それを完成することのないまま常に努めています。自分が失敗することがわかるのになぜ良い行いをしようとするのですか。お聞きなさい。その内に創造エネルギーを持っているみことばにより、創造主ご自身により創造されるのでなければ、あなたの内にはどんな種類の善も、今から世の終わりに至るまで決してありはしないでしょう。そのことを忘れてはなりません。あなたはこの家を出て行くとき、良い行いに歩みたいでしょうか。良い行いをするためにイエス・キリストにあって造られていることによってのみ、それはなされ得ます。努める事をお止めなさい。創造主をごらんなさい。そしてその創造の言葉を受けなさい。「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにさせなさい」。そうすれば、良い行いが現れてくるでしょう。あなたはクリスチャンになるでしょう。それから、あなたは創造主と共に生き、創造のエネルギーの臨在の内にいるのですから、クリスチャンに属する喜び、静かな平安、そして真正の強さを持ち、築き上げていくことでしょう。

 「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが良い行いをして日を過ごすようにとあらかじめ備えて下さったのである」と、神があなたに告げるとき、創造主を認めなさい――創造されたものでない行いには何の注意も払わずに、あなたの内に創造される良い行いだけを認めなさい。主によって創造されるもの以外には何の良いものもないからです。

 さあ、あなたはキリスト・イエスにあって新しく造られたのです。神がそう言っておられます。そうであることを神に感謝しなさい。なんですって!その聖句に関してあなたは進化論者となるつもりですか。その聖句は現在時制です、「わたしたちは神の作品である」。わたしたちは良い行いをするようにキリスト・イエスにあって造られたのです。あなたは造られましたか。みことばが語られました。それは創造する言葉です。神の言葉とあなたが新しく造られることとの間にどのくらいの時間を経過させるつもりですか。最初の創造においてみことばと物事との間に一分でも時間の経過を認める人は進化論者であるとみなさんは言いました。キリスト・イエスにあって良い行いをするように人を造られるという神のこのみことばに対して、あなたは今、どうあるのですか。ここではあなたがたは進化論者になるのですか。さあ、皆創造論者となりましょう。

 このように、栄光のうちにあって主にお会いする備えには、うんざりするほどのあきあきするような過程を要しないということがおわかりになりませんか。非常に多くの人々が自分自身を見つめています。彼らは本質的に主にお会いする用意を完全にするためにはとてつもなく長い時間をかけねばならないことがわかっています。もしそれが進化によってなされるなら、決して成し遂げられることはないでしょう。しかし、創造によってなされるならば、確実にすみやかに成し遂げられるでありましょう。私が先に引用したみことばは、ここにいるだれもが自分自身に当てはめることができるのです。「非常に多くの人々が信仰と信心の奥義についてためらいつつも、宣言する事〔それを口に出すこと〕によってそのことを解決することができた。『私はイエス・キリストが永遠に私の嗣業であることを知っています』」と。

 私たちがどれほどの進化論者であったかおわかりですか。やめようではありませんか。さあ、今、創造論者となりましょう。そして、そうすることによって完成されましょう。真実な安息日遵守者となりましょう。主を信じましょう。主はゆるしを語られます。彼は聖を語られます。それを創造なさいます。あなたの内に主がそれを創造なさるがままにしましょう。進化論者である事をやめて、主の創造のみことばがあなたのために働くままにしましょう。そのみことばが発したことをあなたの内に成し遂げるため、創造のエネルギーが働くようにいたしましょう。そしてあなたがこの家を去る前に、神はあなたに主に会う備えをさせることがおできになります。実際そのことの中にあってこそあなたは主にお会いするのです。そしてあなたがこのようにして主にお会いしたとき、また、このようにして日々主にお会いする時、そのときあなたは主にお会いする用意ができたのではないでしょうか。あなたは信じますか。みなさんは、神が語ったとき世界が造られた事、神が語ったときみことばによって光が生じた事、そして神が語ったときらい病人が「直ちに」清められた事を信じています。しかし自分に関しては、みことばが語られる時と、事実が完成される時との間にかなりの時間が経過しなければならないと考えています。おお、なぜあなたは進化論者になろうというのですか。創造、創造、――それが事実なのです。

 みなさんも私も人々を宴会に招かなければなりません。私たちはすべての人々に、「さあ、おいでください。もう準備ができましたから」と言わなければならないのです。私自身用意ができていないのに、すべて準備ができましたと言って人を招くことがどうしてできるでしょうか。それは始めから偽りです。私の言葉は人々に届かないでしょう。それは空しい音にすぎません。しかし、おお、私たちを準備させ、私たちを罪から清め、良い行いをするように私たちを造ったみことば、神が定めた進路に太陽が捕らえられるごとく私たちをしっかりととらえるそのみことばの創造のエネルギーが、その招きの中にあるならば、――そうすれば、私たちが出て行って、悪の内にある世に向かって、「さあ、おいでください。もう準備ができましたから」と言う時、彼らは聞くでしょう。彼らはその招きの中に、羊飼いである神の声の調子を聞くことでしょう。そして、彼らを新しい被造物にするための、招かれている宴会に備えさせるための、創造のエネルギーを彼ら自身のために求めて主のもとに行くようにと励まされることでしょう。

 これが今、世界史の中において私たちがいる所なのです。神の印は人々に印されつつあります。しかし、覚えて下さい。神はあらゆる汚れから清められていない人にその印を押すことは決してありません。神は良くない物、本物でないものにその印を押そうとはなさいません。みなさんは全く不義であるものに義の印を押して下さいと主にお願いするつもりですか。――あなたにはそのようなことをする厚かましさはないでしょう。あなたは、神は非常に正しい方であるのでそのようなことはなさることができないことをわかっています。それならば神はあなたを清くなさらねばなりません。そうすれば神はその印をご自分の作品に押すことができます。神は、ご自分の印をあなたの作品に押すことはできないのです。神の印は神ご自身が是認した文書にのみつくものです。神のご品性をあなたの心に書き付けていただきましょう。そうすれば神はその印をそこに押すことがおできになります。神の創造の言葉があなたの心の内にその目的を成し遂げたときにのみ、神はあなたの心の上に是認の印を書くことがおできになります。

 私たちは何という神のご臨在の内にいるかおわかりでしょう。このような主題を半ば究明するのにもどれほどの時間がかかるか、ある程度おわかりでしょう。しかし、兄弟方、私たちが立ち止まる時は、創造のなされる場に立ち止まりましょう。もはや進化論者にならないようにしましょう。神があなたに語られた言葉と、その事のあなたの内での成就との間に一瞬も経過させないようにしましょう。こうして創造のなされている場に生き、創造主と共に歩み、創造の力によって支えられ、創造のエネルギーによって感動さされているそのような人々でもって、神は短い間に世を動かす事がおできになります。

 もし、みなさんが最初、今日のような場合にこれは奇妙な主題だと思われたとしても〔この日は祈祷週の最終日であった〕、今はまさしく現代の真理である事がおわかりでしょう。世のすべての男女は創造論者か進化論者かのどちらかです。進化論は不信心であり、死です。創造論はキリスト教であって、命です。創造、キリスト教、そして命を選びなさい。そうすればあなたは生きる事ができるでしょう。創造論者でのみありましょう。永遠にそうでありましょう。そしてみなさん、アーメンと言いましょう。

 レビューアンドヘラルド
1899年2月2l、28日、3月7日
(井深光子 訳)
http://www.gem.hi-ho.ne.jp/sabbath/short/creation.html
 

創造か進化か

 投稿者:長谷川寿紀(管理人)  投稿日:2009年10月 8日(木)08時52分51秒
  A.T.ジョーンズによる説教
 私は今日の午後、進化論という題で話をするつもりです。皆さん方によく注意して聞いていただきたい、そして、皆さん方は進化論者であるのかないのかを自分で見出していただきたいのであります。最初に、私は皆さん方に進化論とは何であるかについて書いてある物を読んでみます。それを聞いていくと、皆さん方は自分が進化論者であるのかないのかおわかりになるでしょう。これらの引用文はすべて、主な進化論者の一人によって書かれた進化に関する論文からコピーしたものです。ですから、その定義と同様に彼がすすめている論議はすべて正確です。

 「進化論は漠然としたものからはっきりしたものへ、単一から多様への少しずつの変容として世界の起源を表し、そのようにして変質させられるべき世界自体にその過程の道筋が内在するはずだと仮定する理論である」。
「進化論はこのように進展とほとんど同意義である。それは、より低いものからより高いものへ、悪いものからより良いものへの変容である。このように進展とは我々の感覚によって判断されるような、存在の内にある、増し加わった価値を指すものである」。

 さて、これら三つの叙述における特殊な点に注意していただきたい。進化論は、より低いものからより高いものへの、悪いものからより良いものへの漸進的な変容として世界の起源を表すものです。そして、この過程は、このように変容されるべき世界自体の中に内在すると仮定します。それは、物事は自分で良くなるということであります。そして、それをより良くする原因はそれ自体であるということであります。そしてこの過程は「我々の感覚によって判断されるような、存在の中の増し加わった価値である」と記されてあります。それは、あなたが、自分がより良くなったとわかるのは、あなたがより良いと感じるからだというのと同じであります。あなたは進展があったことを知る、それはあなたがそう感じるからです。あなたの感覚があなたの標準を規定します。あなたの知覚が、悪いものからより良いものへのあなたの進展を規定します。

 さて、悪いものからより良いものへの進展という事柄において、あなたの感情は何か係わりがありますか。もしあるとすればあなたは何でしょうか。今日の午後ここにいる方々で、その感情によって経験の価値、進展を測る方はみな、進化論者であります。その方が四十年間ずっとセブンスデー・アドベンチストであったとしてもそれに関係なく、その人は全くの進化論者であります。そしてその人のキリスト教一切、宗教の全体は、事実のないただの告白、力のない単なる形式であります。

 さて、私は、べつの方法で何が進化であるかについて読んでみます。そうすると皆さん方は、それが無信仰だということがおわかりになります。そうして、もしあなたが自分は進化論者だと気がつくとき、同時にあなたは無神論者なのだということがわかるはずです。「進化の仮説は、物事の始めあるいは創始に関する多くの疑問に答えることを目標としている」。それは、「我々の父祖と生命の根源の性質に対する古い感情を復興するのを助ける」。

 進化論という教理の設立に対して最も多くのことをなしたこの種の科学の支流の一つは、私たちの地球の過去の歴史における想像できないおびただしい期間という概念を作った新地質学であります。この主題に関する主要なもう一人の著者が言うように、これらのおびただしい想像もできない期間というものは、進化の過程における「人の起源を理解するために必要欠くべからざることなのである」のです。それゆえに、なしとげられてきた進展は、数えることのできない年月を通してであったというわけです。しかしながら、この進展はその発端から現在の状態まで一定しておらず、一貫しておりません。多くのものが上がり下がりしています。大いなる美と均整のある多くの時代があり、そして大変動あるいは爆発が起き、それ以前のようにばらばらになってしまったことであろう、また再び物事のその状態からある過程が始まり、再び作り上げられたのであろう、というのです。多大な時間がこの過程において流れた、そしてそれが進化の過程――下等なものから高等なものへ、悪いものからより良いものへ――なのです。

 ところで悪い状態からよりよくなるというあなたの進展の過程はどのようなものであったでしょうか。「多くの上がり下がり」を通してですか。善――神のものである良きわざ――をするための力をあなたが得たのは、あなたが初めてキリスト教を告白した時から今に至るまで、上がり下がりの長い過程を通してでしたか。時には自分がよくやっており、すべてのことがすばらしく喜ばしく、明らかに大変な進歩をした様に見え、次に何の前触れもなく大変動と爆発が起って、何もかもだいなしにしてしまったのではないでしょうか。それにもかかわらず、そのすべての上がり下がりにもかかわらず、あなたはもう一度努力を始める、そうして長々と続くこういう過程を経て、あなたは今日あるところに至っているのです。そして、そのすべてを「振り返って見て」、感覚によって判断するとき、自分はなにがしかの進歩を残すことができるとあなたは考える、それがあなたの経験ですか。それが、あなたが進歩する方法ですか。

 言い換えれば、あなたは進化論者ですか。言い逃れてはなりません。正直に真実を告白して下さい。というのは、私は今日の午後あなたを進化論者から抜け出させたいのです。そこから抜け出る方法があるのです。そしてこの家に進化論者としてやってきた人は皆、クリスチャンとなって出て行くことができるのです。ですから、もし、私が進化論者について描写するときは、それは大変はっきりしているので、あなたは自分がわかるでしょう。ただわかったと言って下さい――それが自分であると認めるのです――それから神が与えて下さった歩みに従って行くのです。そうすればあなたは完全に抜け出します。しかし、私は率直に申し上げます。もし私が描き出したものがあなたの経験であったなら、もしそのような種類の進展をあなたのクリスチャン生涯において成し遂げてきたなら、あなたは進化論者なのです。あなたが認めようと認めまいとそうなのです。とにかく最上の道は、それを認め、それを止め、クリスチャンになることです。

 さて、さらに別の観点について読みましょう。「進化は、それが続くかぎりは永遠の事柄のように見える」。そしてこのように「仮定することによって」、「創造の概念はそれが適用されてきた生物の領域から排除される」。さて、もしあなたが、神の国に到達することが疑いもないような進展が自分のうちになされねばならないとする基本的な考え方で自分を見ておられるなら、もし、あなたが、それはあなたの内に内在しており、それを正しく働かすことができ、そしてそれを働かすことができた時にはそれを正しく司ってすべてのことがうまくいくようになるだろうと思っているなら ――もし、自分の進歩をこのように期待し、見守り、注目しつづけているなら、あなたは進化論者です。進化とは何かについてさらに読んでみます、「進化の教義が、創造の教義に完全に対立するのは明らかである……。全体として世界の形成に適用されるものとしての進化の考えは、直接の創造的意志という考えに反対する」。

 それが進化論を作った人々によって定義されている進化です――世界が生じてすべてのものがその中にあり、それ自体の内にあるということ、そして、世界にある状態をもたらした原則は、それ自体の内に内在し、存在するすべてを生みだすために十分であるということ。ですから、物事の性質において「進化は創造とは正反対である」のです。

 ところで、世界とその中にあるすべてのものがそれ自体から生じてきたということを皆さん方は信じてはおりません。皆さんは、自分がそのような進化論者ではないことを知っておられます。なぜなら皆さんは神があらゆるものを創造されたと信じているからです。今日この場にいる方々は、神がすべてのもの――世界とその中のあらゆるもの――を創造されたことを信じるとおっしゃることでしょう。進化はそれを認めません。進化には創造の余地はありません。

 ところで、創造に全く公然とは反対しているわけではない、さらに別の進化の観点があります。私が皆さんに先程お読みしたような進化論を作った人々は懐疑論者――信仰のない人――以外の者にはなろうとはしませんでした。懐疑論者というのはまさに信仰のない人なのです。たとえある人が信仰を持とうとしたとしても、実際に持たない限り、懐疑論者(不信心者)です。もちろん「懐疑論者」という言葉は、今日ではずっと狭められています。私が皆さんにお読みした進化論を作った人々はそのような人々でした。しかし彼らがそうした教えを世界に広げた時、クリスチャンであると告白する人々、信仰を持っていると告白する人々、創造を教える神の言葉を信じると告白する大勢の人々がおりました。自分自身で神の言葉を理解しておらず、神の言葉を本来あるべき姿で知っていなかったそれらの人々、彼らの信仰は力がなく、信仰の単なる形式にすぎなかった人々――私はあえて言いますが、それらの人々は芽を出したこの新しいものに引き付けられ、新しい科学に倣って一般的になりたいと望み、しかしまた、神の言葉と信仰の道を全く捨て去りたいとは望みませんでした。彼らには、神なしでやっていける、どこにも創造というものはなかったと言う準備はありませんでした。そこでその人々は、創造者がいるある種の進化論を形作りました。そのような観点が有神的進化論と呼ばれます。それは、何らかのかたちで神が物事をスタートした、がその後、そのものは自分で進展してきている、というものです。神が始めた、そしてその後成し遂げられた一切の事を完了する事は自分でできた、というわけです。とにかくこれは一時の方便でしかありません――見掛けを保つ為のもくろみ――そして「創造論的仮説から進化論的仮説への変換という観点」以外は、本当の進化論者によってはっきりと述べられていることです。それはただの進化論にすぎません、というのは、創造と進化の間に中間地帯というものはないからです。

 あなたがこのような種類の人でないにしても、そういう人は大勢います、セブンスデーアドベンチストの間にさえも――しかし以前ほどに多くはありません。主に感謝しましょう。彼らは、我々には罪をゆるして下さる神がいなければならないと信じ、その神は我々を正しい道にスタートさせてくださるが、その後は怖れおののきつつ自らの救いを達成しなければならないと信じているのです。したがって彼らは常に恐れおののいていますが、どんな救いもなされません。というのは、彼らには彼らの内にあって絶えず働いて「願いを起こさせ、かつ実現に至らせ……(それを)よしとされる」神がいないからです(ピリピ2:12、13)。

 さて、ヘブル11:3には、この世界が「神の言葉によって」造られた――一つにされ、調整され、建てられた――こと、「したがって、見えるものは現れているものから出てきたのではないこと」を悟るのは、信仰によってであると記されています。我々のいる地球は岩で造られたのではなく、人間は猿、尾なし猿、また「失われた環」から造られたのではなく、なおまた尾なし猿、猿、また「失われた環」はオタマジャクシからできたのではないし、またオタマジャクシは最初に逆のぼればもともと原形質から造られたのではないのです。ちがいます!「この世界は神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのではない」のです。

 ところでなぜ、見えるものは現れているものから出てきたのではないのでしょうか――それは、ただそれらを作る物が現れてはいなかったからです。そして、それらのものが現れていなかった理由は、それらの物は全然存在していなかったからです。それらは存在していませんでした。世界は神の言葉によって造られ、神の言葉がその特質です。神の言葉は、その言葉が語られると事物を存在させるばかりでなく、そのものを作る材料とか、そのものを構成する物をも生じさせるという特性を持っています。

 皆さんは、もう一つの聖句をご存じかと思います。「もろもろの天は主の言葉によって造られ、天の万軍は主の口の息によって造られた……主が仰せられると、そのように……なったからである」(詩33:6‐9)。ここで私は皆さんにおたずねします。みことばが語られてから、物事がそのようになるまで、どのくらい時間がかかりましたか。物事がそのようになるまでどのくらいの時間が過ぎましたか。〔声;「時間はかからなかった」〕一週間もかかりませんでしたか ――〔声:はい〕。六つの長い時の期間もありませんでしたか――〔声:はい〕。創造主を認めてさえもなお、進化論は数えきれない時代、または「六つの長いはっきりしない時の期間」が、神が仰せになってから後、見えるものの形成までに過ぎ去ったということを保持しています。しかしそれは進化であって、創造ではありません。進化は長い過程によります。創造は語られた言葉によります。

 言葉を語ることによって神が世界を創造されたとき、「光あれ」と言われました。ところで「光あれ」という言葉と光が生じるまでの間にどれくらいの時間を経たでしょうか。私はこのことを皆さんに正しく理解していただきたいのです。そうすれば皆さんはご自分が進化論者であるのか創造論者であるのかがおわかりになれるからです。このことについてもう一度質問させてください。みことばが語られた時と、その事実の実現との間に六つの長い期間がありませんでしたか。皆さんは、はいとおっしゃいます。一週間もなかったのですか――はい。一日もありませんでしたか――はい。一時間もありませんでしたか――はい。一分間もありませんでしたか――はい。一秒でさえも、ですか――はい、全く。神が「光あれ」と仰せになった時と、光の存在との間には一秒もありませんでした。〔声:「みことばが語られるやいなや、光がありました」。〕はい、そうだったのです。私はこれを厳密に繰り返します。皆さん方の頭の中にこのことが固く据えられるように、私がさらに質問をおしすすめていくとき、皆さんが今はそれでいいではないかとすることのないように。さて、神が「光あれ」と仰せになったとき、光の輝くまでに一秒もなかったということははっきりしましたか。〔声:「はい」〕よろしい。それでは、神の言葉と約束の出現との間に、いくらかでも時が経過したとする人は進化論者です。もしその人が、数えきれない時代にさらに数えきれない時代を重ねれば、それは一日を要したと考える人以上の進化論者であるにすぎません。彼は同じ進化論者ですが、もっとはなはだしいのです。

 次に、神は「大空があるように」と言われました。それからどうなりましたか――そのとおりになりました。神が「……おおぞらがあって、水と水とを分けよ」と言われて、大空があるようになるまでにどのくらい時間がかかりましたか。それは瞬間的になされましたか――そうです。それでは、みことばが語られた時と、事実の存在との間に非常に限りなく長い期間があったとする人は何でしょうか。進化論者。みことばが語られたのと物事自体の存在との間に一日または一時間あるいは一分という時間があったとする人、その人は創造を認識していないのです。

 主が「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」と仰せになった時、また、「地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」と言われた時、「そのようになった」。それから神は天に二つの大きな光を置き、また星をも造られました。そして神が語られると「そのようになった」のです。「水は生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ」と言われると、そのとおりになりました。「地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜とはうものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ」と神が言われたとき、そのようになりました。神が言われると、いつもそのようになりました。これが創造です。

 おわかりでしょうか、進化論者にとっては、神の言葉をわきにおいて、何の信仰も持たないのは全く論理的であり、十分理にかなっているのです。進化論そのものが創造に対立するからです。進化論は創造に対立し、創造は神の言葉によるゆえに、進化論は神の言葉に対立するのです。もちろん、本当のあるいは本来の正統な進化論者は、みことばに何の立場も与えていませんでした。また、中途半端な進化論者――物事の始めに創造と神の言葉を持ち込む人々――も、同様でした。何事かを造り上げるのには数えきれない、無限とでもいうような長い時間がかかるのだというのが進化論であって、創造とはかけはなれたものなのです。

 真正の進化論者は、創造は瞬間的でなくてはならないと認めています。しかし、彼は瞬間的な行為を信じませんから、創造を信じないのです。創造は瞬問的なものであって、それ以外のものは創造ではないということを忘れないで下さい。もし瞬間的でなければ、進化なのです。それでは最初の時の創造にもう一度触れますが、神が言われるとき、そのみことばの内にはその言葉が言っていることを生みだすための創造的エネルギーがあるのです。それが創造です。神の言葉は、きのうも今日も永遠に同じだということは、永遠に生き続けるということです。神の言葉はその内に永遠の命を持っています。神の言葉は生きているものなのです。その内にある命は神の命――永遠の命です。ですから主イエスが言われたように、それは、永遠の命の言葉なのです。物事の性質の中にそれは受け継がれ、永遠に残るのです。それは永遠に神の言葉であり、その内には永遠に創造的エネルギーがあります。

 ですからイエスは地上におられた時に、「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」と言われました。イエスが語った言葉は神の言葉です。永遠に続きます。そしてその中に語ったことを生みだす創造的エネルギーがあるのです。

 新約聖書に語られているように、このことはキリストの生涯における多くの出来事によって示されています。私はそれらをすべて引き合いに出す必要はありませんが、一つ二つについて述べてみるつもりです。そうすれば皆さんはこの原則を把握することができるでしょう。覚えておられるでしょうが、山上での説教の後、イエスは下って来て、そこで一人の百卒長に会いました。彼は「主よ、わたしの僕が中風でひどく苦しんで家に寝ています」と言いました。「イエスは彼に『わたしが行ってなおしてあげよう』と言われた」。その百卒長は言いました、「わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただお言葉を下さい。そうすれば僕はなおります」。イエスはそばにいた人々の方を向いて言われた、「イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない。」

 イスラエル人は聖書を持っていました。彼らは神の言葉を知っていました。彼らは、聖書の民、神の民であることを誇りにしていました。彼らはそれを読み、会堂で、「わが口から出る言葉……わたしの喜ぶところのことをなし」と説教しました。彼らはその言葉を読むとき、それはみな正しい、事はなしとげられねばならない、我々はその必要性を見る、だからそれをしよう、我々がみことばの言うことを成し遂げようと言いました。それから彼らは、それを成し遂げる為に最善を尽くしました。彼らにとって長い時間がかかりました。本当のところあまり長すぎて、彼らは決して成し遂げはしませんでした。みことばを真に行なうことがあまりにも大変だったので、彼らの中のもっとも偉大な人をして次のように叫ばせました、「もしひとりの人でも一日の間律法全体を守ることができれば、そして一つの点においても落度が無ければ――それどころか、もしひとりの人でも安息日遵守に関した律法の一つでも守ることが出来れば――そうすればイスラエルの患難は終わるだろう、そして遂に救い主がおいでになるだろう」。ですから彼らはみことばが言ったことを行ない始めたにもかかわらず、あまりにも時間がかかるので成し遂げることがありませんでした。彼らは何だったのでしょうか。

 「それ(わが言葉)は、わたしの喜ぶところのことをなす」と言った神の言葉がありました。それは創造的な力をもってこのように語られたのです。イスラエル人は、神の言葉の創造的エネルギーを認めると告白したにもかかわらず、彼らの生活においてはそれを度外視して、わたしたちがしましょう、と言いました。彼らは自分たちを、みことばと自分たちが同意する点まで達する過程として見ました。彼らは何だったのでしょうか。皆さんは自分がそのようなところにいたのではないかと言うのを恐れますか。彼らが進化論者であったと言うのを恐れないで下さい。彼らはそうだったからです。それに皆さん方の多くがそうだからです。彼らの方向は創造とは反対でした。創造はなんの関係もありませんでした。彼らは何の被造物をも造りませんでした。新しい生命がその内に形作られたりしませんでした。物事は神の力によって完成されたのではありませんでした。それらはすべて彼ら自身のものでした。彼らは創造を決して信じなかったので、創造主を拒否し、彼を世の外で十字架につけました。それは進化論がいつもすることです。「進化論は創造への直接的反対である」ことを忘れてはなりません。

 さて、イスラエル人の中の信仰について述べられた時、イエスはこのような人々について述べたのでした。ここに一人のローマ人がいました。その男はイエスの教えを無視した人々、ユダヤ人の間で育ちました。その百卒長はイエスのおいでになった場所の周辺にずっといました。彼が話すのを見、彼の言葉を聞き、その効力を見ました。ついに彼は、あの方が何を語ってもそうなる、彼があることを言われるとそれが成し遂げられる、さあ、わたしはその益にあずかろうと言いました。それで彼はイエスのところへ行きました。そして聖書に書かれているように申し上げました。イエスは、事を成し遂げるためにイエスの言葉が持つ力についてその男が考えている事をよく知っていました。ですからイエスは応じられました。「よろしい、わたしが行ってあなたの僕を癒やして上げよう」。ところが百卒長は、「とんでもありません、主よ、あなたはおいでになる必要はありません」と言いました。おわかりでしょうか、この男はみことばの中に何か力があるのかないのかという事をためしていたのです。ですから彼は、「ただお言葉を下さい、そうすれば僕はなおります」と言いました。イエスは、「あなたの信じたとおりになるように」と答えました。「すると、ちょうどその時に僕はいやされた」のです。「そのようになるように」という言葉が発せられた時、その僕はどのくらいかかって癒やされましたか。20年ですか――いいえ。彼が完全に癒やされるまでに多くの浮き沈みを経なければなりませんでしたか。正直に言って下さい。――いいえ違います。みことばが語られたとき、その言葉は語った事を成し遂げました。みことばと同時にそれは成し遂げられました。

 また別の日に、イエスが歩いておられると、一人のらい病人が離れたところからイエスを見て、それをイエスと認めました。彼もまた神の言葉の創造的エネルギーという祝福された真理をつかんでいました。彼はイエスに、「みこころでしたらきよめていただけるのですが」と言いました。イエスは立ち止まって、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言いました。「すると、らい病が直ちに去って、その人はきよくなった」(マルコ1:41、42)。私たちはみことばが語られた時と成し遂げられた事実との間に一瞬もおくことを認めません。「直ちに」そのらい病人はいやされました。

 さて、皆さん、創造の始めの時の神の言葉は、その言葉が発したことを生みだすための創造的エネルギーを内に持っていたことがおわかりでしょう。イエスが命の
 

ダーウィン映画

 投稿者:斉藤愛輝  投稿日:2009年 9月15日(火)22時51分15秒
  ダーウィン映画がアメリカで上映を見送られたというニュースがありました。


 9月13日時事通信
 「チャールズ・ダーウィンを描いた映画「クリエーション」が、米国での上映を見送られる公算となった。・・・ 映画は、ダーウィンが著書「種の起源」を記すに当たり、キリスト教信仰と科学のはざまで苦悩する姿を描く内容。・・・米配給会社は「米国民にとって矛盾が多過ぎる」と配給を拒否した。米国人の多くが「神が人間を創造した」とするキリスト教の教義を固く信じている。ある調査では、米国で進化論を信じるのは39%にすぎず、ダーウィンにも「人種差別主義者」との批判があるという。」
  http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090913-00000041-jij-int


 私としては、進化論のPRは映画に始まったことではないので、上映しても大きな問題はないと思うのですが、アメリカは私の想像以上に過激なのかも知れません。

 このニュースの面白いのは、進化論者が今や創造論者をそうとう意識しているという現実です。創造論の勢いが衰えず、盛んになっているという間接的な証拠ではないかと思います。それは、私にとっては黙示録の預言の成就を考えさせます。

 ヨハネの黙示録14:7「 大声で言った。『神を畏れ、その栄光をたたえなさい。神の裁きの時が来たからである。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい。』」

 世の終わりが近づくと、創造者として神を礼拝するようになるのです。ただの神、愛の神ではなく、創造者としての神です。創造論が注目を集めるのは神の計画です。進化論者のあらゆる努力にもかかわらず、創造論は決してなくならず、むしろこの先ますます盛んになります。

 このニュースを見て、聖書の正しさを知り、預言を学び、神に立ち返れという神のメッセージを読み取る人がどれだけいるでしょうか。

 創造論者として、単に科学に目を留めるばかりではなく聖書にももっと目を留めたいと思います。

http://http://www.asahi.com/science/update/0501/TKY200905010181.html

 

需要はある

 投稿者:長谷川寿紀(管理)  投稿日:2009年 7月 3日(金)05時55分58秒
  なんか最近2ちゃんねるの宗教版に当創造論再評価HPを揶揄するスレが立ち、当
職が長い間メインテナンスをしていないからやる気が無くて放置しているんだろう
などという発言があり、少しばかり心を痛めております(苦笑)。そもそもHPの
本体の最新の更新は私がVAにいた時であり、その後2007年に新任地の病院に移っ
て以来何もしておりません。フリーサーバーの営業が停止したところはリンク切れ
も発生していることが指摘されております。そういうことを2ちゃんねるに書いて
わざわざ教えてくれた人には感謝をしたいと思いますが、こちらも病院のてんかん
病棟の管理の仕事もあり、リサーチもしており、その上にある教団の不正を叩くた
めのバトルをしておりまして、なかなか創造科学のHPのメンテナンスのための時
間が取れない状況です。書くべき話題は山ほどありますが、改まって書いてまとめ
る時間が無いという状況をご理解願います。しかし、進化論との戦いもいつかは必
ずやらなければならない事であると認識しておりますので、なんとか時間をとって
メインのHPの補修と内容の追加をしたいと思っております。ご協力とご理解を頂
けますと幸甚です。
 

良い知らせ

 投稿者:長谷川寿紀(管)  投稿日:2009年 5月26日(火)20時10分29秒
  韓国政府が創造科学の研究の為の予算を科学研究機関のために立てたそうです。詳
細がわかればここにもお知らせします。科学にはまだわからないことがある、理論
では説明できないことがあると認めますと、進化論など実に矛盾の塊、一貫性を持
った論理を持たないパッチワーク(つぎはぎ)の疑似科学です。斉藤先生の御説明
の通りです。そんな進化論を教条主義的に受け入れることを潔しとしない人がID
の方に向かうようになるのが現在のこの分野の流れです。その意味では韓国の科学
教育は日本の硬直した教育よりも成功しつつあるのかもしれませんね。こういう環
境では進化論のほうが聖書にあっているなどという暴論を吐くリベラルクリスチャ
ンが現れる余地は少ないと思います。

頭の悪い反創造論者、反創造科学論者たちが、この知らせを韓国をバカにするネタ
に用いなければいいと思うのですが。まともな理性と常識のある人はそういうこと
はしないだろうと信じてここに報告します。
 

常識が通用しない進化論

 投稿者:斉藤愛輝  投稿日:2009年 5月24日(日)23時14分46秒
  長谷川先生がきちんとお答え下さっているので、
あえて答えるまでもないのですが、私も一言書かせてもらいます。

 >タンパク質がどれだけ変性しやすいかご存じないのでしょうか。

タンパク質が変性しやすいことを知っているのであればなおのこと、
化石化しないためには、時間がより短い方が起こりえる確率が高いと
考えるのが常識なのではありませんか。8千万年前も8千年前も
同じ確率だというのであるならば、地球の歴史が46億年でも6000年でも
進化はどちらも十分起こりえると言ってもよくなるはずです。

 起こりえないことを起きると言い張って、無理に説明を試みるよりも、
素直に起こりえないことを認めて、違う説明を考える方が、より合理的で
常識的判断だと私は思います。

 この問題で明らかになったのは、進化論者が
「進化があった」という仮説の枠から逃れられず、子どもでも分かる常識を
否定して、いかに進化を盲信しているかという事実です。

 日本の進化論者はもっと一般常識を働かすべきです。
常識を働かせた海外の進化論者達は、これまでの主張を翻し、
ぞくぞくと創造論側に立つようになっています。
インテリジェント・デザイン説の拡大に見られるように、
それが最近の動きです。

ちなみに、創造論に関する著作がある久保有政氏が
最近新しい本を出したので紹介しておきます。
「天地創造の謎とサムシンググレート」(学研)
インテリジェント・デザイン理論について詳しく書いてあるので、
興味のある人は一読をお勧めします。

 生命が自然発生する確率がゼロであることや、種内変異にとどまらない
いわゆる大進化が一例も観察されていないことを考えると、
確率の常識からすれば、決して進化論はあり得ません。
進化論は、決して起らないことを信じているので、
これは一種の信仰です。

進化論とは彼らの言うような科学的証拠に基づくものではなく、
実はただの信仰にすぎません。
しかも、それは創造論者の信仰と違って、神ぬき、聖書抜きの信仰ですから、
その信仰には裏付けも無ければ、愛も希望も救いもありません。
何の意味もない信仰です。

「進化論の根底にあるこの“信仰”は、知性と思想を持つ存在(神)が
その目的にあわせて万物を創造されたとする創造論の“信仰”に比べると、
理に合わず、信じがたいことがわかります。」東京工業大学阿部正紀教授

 「進化論は、創造論よりもさらに大きい“信仰”がなければ、受け入れることのできないものです。」法政大学山形俊夫教授

「私は長いこと、本当の科学者はそのような会(創造科学研究会)に
入るべきでないと考えて、避けていました。しかし、ある日、
創造科学の視点に立ってこれまでの出来事を見てみました。
すると、進化論の主張がトリックに満ちていることが見えてきたのです。」
              東北大学高橋清博士

http://http://www.asahi.com/science/update/0501/TKY200905010181.html

 

恐竜のミイラ

 投稿者:井手 光  投稿日:2009年 5月14日(木)16時29分27秒
   はじめまして。九州で公務員をしているものです。はっきり言いまして、進化論者です。
で、2007年のハドロサウルスのミイラの件ですが。ちょっとググって見たところ、
ミイラ化したもので、それからタンパク質が検出され、鳥類に近縁であるらしい。という
ようなものでした。
 それで斉藤様。なぜ6000万年前のミイラはありえなくて、4〜5000年前のミイラ
なら簡単なのですか?タンパク質がどれだけ変性しやすいかご存じないのでしょうか。
どちらの場合でも、かなりの条件がそろわなければ、自然にミイラ化して保存されたりは
しないでしょう。たとえば、エジプトのミイラは当時の最先端の技術の結晶です。それを
条件のいい墓所などに保管しても、ぼろぼろになります。ましてや自然界では。
言いたくはありませんが、IDなどの論者は論敵に証明できないことは、自分にも証明でき
ないにもかかわらず、無条件に自分の得点と主張する傾向があるように思います。
この掲示板は「科学的」に論ずる場だそうですが、斉藤様の論は科学的な証拠を挙げたもの
とは思えませんが。
 
    (管理人) 井出様。公務員と言うだけでは不十分です。何の機関に所属しているのかまで明確に自己紹介してください。それがない場合進化論者であろうと無かろうとここでは任意削除の対象になります。ご注意願います。
常識で考えますと、条件がそろってようやく5000年前のミイラが残りうるのであれば、まして偶然でも条件の揃い得ない自然界では6000万年前の生き物のミイラが残る可能性は皆無でしょう。これは現象を再現する証明ではなく、創造論者の科学的推論です。その意味においてこれは進化論の科学性と同等です。もちろん創造科学論者の得点として認定してよいと思います。
 

必要悪

 投稿者:山本英朗  投稿日:2009年 5月13日(水)23時44分22秒
  はじめまして、

進化論者が進化の証明、証拠と信仰している科学的な?モノなど全て都合のよい解釈でしかありません。

この先、進化論が「虚構だった」と次々と暴かれて行くでしょう、
なのでその時、進化信仰者の意見を聞いてみたいと思います。

例えば先の恐竜、化石化していない部分など、どのように解釈、辻褄合わせをするのか実に興味があります。

掲示板の趣向から踏み外すかもしれませんが進化信仰者の言い分をもっと聞いても良いと思います。

進化などありもしないのでどう屁理屈を並べても必ず疑問、矛盾が残ります。
理屈の通った理論など唯の一つも無いので進化論の「いかがわしい」が克明に晒されます、

反対に創造の正しさが「強まる」為にも創造批判者の存在も「有り」と思うのですがねぇ・・・
 
    (管理人) 山本様。創造科学の掲示板にようこそ。出来ればルールに従いもう少し詳しい自己紹介をお願いいたします。
創造論批判者の意見もあってよいというお考えには賛成です。ただ現状でそのようにしていないのは
創造論批判者に無制限に発言を許せば、この掲示板の容量では間に合わないであろうということと
そういう大規模な議論をする事が出来る時間的余裕が当方には無いということです。私は合衆国の
専門医資格を持つ神経内科医師であり、正業が忙しくて、このHPの運営のみに対応できないという
こともあり、発言者の資格をローカルルールによって制限して、掲示板の目的を達する事を意図して
現在に至っています。これが最善の方法ではないということで、何かよいお考えがありましたら、進んで
検討いたしたいと思います。
 

化石化していない細胞

 投稿者:長谷川寿紀(管理人)  投稿日:2009年 5月11日(月)01時51分1秒
  斉藤先生

話を雑音から元に戻しますが、何千万年も前の化石から細胞やたんぱく質の一部が
見つかったと言うのは創造科学にとっては朗報です。細胞膜や細胞形質は脂質やた
んぱく質から出来ていますが、これが何千万年も分解しないで今日まで残ったとは
思われません。普通の状態でも微生物による分解を受けて消滅してしまいます。進
化論者はどんな言い訳をするのでしょう。砂岩層が無菌状態だったとか都合のいい
ように話を作り上げるのではないかと思います。
 

発言ルール遵守の要請

 投稿者:長谷川寿紀(管理人)  投稿日:2009年 5月10日(日)07時22分26秒
  当掲示板は上記の設置趣旨に従い、創造論に関心の無い方、天地創造の神を信じる
意志の無い方の発言は御遠慮願います。

最近、無神論者や反創造科学論者が当掲示板に活発なストーカー投稿をしておりま
すが、こうしたイレギュラーな投稿は妨害行為の証拠として管理人預かりとしてい
ます。当掲示板のルールに従った発言をお願いいたします。ルールに従って発言・
質問をなされる方がここで不都合な扱いを受ける事は断じてありません。
 

当掲示板の趣旨の再確認

 投稿者:長谷川寿紀(管理人)  投稿日:2009年 5月 4日(月)01時52分43秒
  >それから、前にも書いたが、科学に「なぜ」と問うても答えられないのだよ。
>もし本当な話なら、科学者は必死で原因を探っているでしょう。
>貴方の根拠は聖書のみで、およそ科学的再検証などしていないのだよ。
>宗教的信念での話なら、何も言うことは有りません

科学は「なぜ」から始まり、原因や因果関係を探求するものです。科学にWHYを聞
いても答えられないのはまだ答えが見つかっていないからです。科学の説明に一致
しない現象があれば原因を探るのが科学者の仕事です。聖書の世界観を持っている
創造科学者も同様です。我々は聖書が示した天地創造を事実として、それに基づい
た科学を行っています。当掲示板にはその趣旨に賛同できる方のための連絡情報交
換を目的としています。創造科学を単なる宗教信念としかみなさない人にはこちら
からも何も言うことがありません。お引取り願います。
 

化石化していない細胞

 投稿者:斉藤愛輝  投稿日:2009年 5月 1日(金)20時03分17秒
   朝日新聞にこんなニュースが出ていました。

「やはり、恐竜の化石からたんぱく質が採れた――。米ノースカロライナ州立大などの研究チームが再び成功したと、1日付の米科学誌サイエンスに発表した。05年に同じ研究チームが恐竜化石から細胞を採取したと発表して以来、可否が論争になっていた。

 ・・・・・

 チームは07年に米モンタナ州で掘り出された約8千万年前のハドロサウルス類の化石を周囲の砂岩層とともに研究室に持ち込んだ。異物混入を防ぐ措置をして、骨の中に残っていた化石化していない細胞を化学処理で取り出した。 」

8千万年前の化石になぜ「化石化してない細胞」があるのでしょうか。
創造論の立場から言えば簡単です。その化石は、8千万年前のものではなく、
もっと新しいものだからです。聖書から言えば、実際には4,5千年前のものではないのでしょうか。


 科学者達が、「恐竜だから、8千万年前のものだ」という進化論の枠から、抜け出して考えられないのが、悲しいですね。もっと常識を働かせ、実際にはこの化石はもっと時代が新しいのではないかと考え、創造論の主張を見直したらいいと思います。「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:32)を思い出しました。
思い出します。

http://http://www.asahi.com/science/update/0501/TKY200905010181.html

 

聖書はこう言っています

 投稿者:斉藤愛輝  投稿日:2009年 5月 1日(金)17時05分12秒
   聖書はこのように言っています。私はこれらの聖句に基づいて、聖書はあくまで創造論の立場であり、聖書は神の言葉であって正しいと信じるがゆえに創造論こそが正しいと信じます。


1 終わりの時が近づくと進化論が広がるが、やがて進化論は廃れ、創造論が広がる。

テモテ第二4:3-4「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。」

ヨハネの黙示録14:7「 大声で言った。「神を畏れ、その栄光をたたえなさい。神の裁きの時が来たからである。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい。」


2 イエスの言葉。イエス様は神による創造をはっきりと言っています。

マタイ19:4-6 「イエスはお答えになった。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」

3 弟子のペテロはノアの洪水が地球規模で起ったように、やがて世界の滅びが来ることを預言している。

ペテロ第二3:3〜11「終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ、あざけって、こう言います。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。」彼らがそのように言うのは、次のことを認めようとしないからです。すなわち、天は大昔から存在し、地は神の言葉によって水を元として、また水によってできたのですが、当時の世界は、その水によって洪水に押し流されて滅んでしまいました。しかし、現在の天と地とは、火で滅ぼされるために、同じ御言葉によって取っておかれ、不信心な者たちが裁かれて滅ぼされる日まで、そのままにしておかれるのです。 愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。」

4 聖書の正しい理解の仕方

ペテロ第二3: 3:16-17「彼は、どの手紙の中でもこのことについて述べています。その手紙には難しく理解しにくい個所があって、無学な人や心の定まらない人は、それを聖書のほかの部分と同様に曲解し、自分の滅びを招いています。それで、愛する人たち、あなたがたはこのことをあらかじめ知っているのですから、不道徳な者たちに唆されて、堅固な足場を失わないように注意しなさい。」

5 科学者に従うよりは神に従うべきである

使徒言行録4:19「しかし、ペトロとヨハネは答えた。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。」
 

おや

 投稿者:おや  投稿日:2009年 4月 1日(水)22時07分8秒
  聖書は、無数にある宗教の中の一つの経典に過ぎない。  
    (管理人) ここはその聖書を学ぶところです。宗教は無数にありますが、
天地創造の真の神をたたえる宗教は聖書の宗教のみです。
それに同意して神の創造を更に深く学びたい心のある方のみ
ここにご参加下さい。
 

イスラムの創造論について

 投稿者:長谷川寿紀(管理)  投稿日:2009年 3月26日(木)22時56分54秒
  ようこそ、ひつじさん。

イスラム教はモハメドを預言者としていますが、その出立を旧約聖書のアブラハム
の妾の子イシュマエルの物語に置いています。当然、旧約聖書トーラーの創世記に
記されている天地創造の物語を当然の事実としています。従って、その意味におい
て、イスラムの創造論は基本的にユダヤ、キリスト教の創造論と共通です。モハメ
ドに与えられたとするコーランの啓示は、モハメドがイザヤやエレミアのように神
から直接啓示を受けたものを書き記しているなら、後世の人がどういう解釈を施す
かは別として、有効な記述といえると考えます。

以後お書き込みになる際は、上のルールに従って実名と所属機関を表記した自己紹
介をお願い致します。
 

イスラムの創造論

 投稿者:名無しのひつじさん  投稿日:2009年 3月26日(木)10時57分11秒
  ムスリムの間で、クルアーンは科学的、という主張が根強く行なわれており、
教科書でも書かれているほどです(明石書店「イランのシーア派イスラーム学教科書 イラン高校国定宗教教科書」)。
youtubeでもこの主張に基づく動画が多数投稿されており、
quran scienceで検索すると大量にヒットします。
日本語グーグルでも「クルアーン 科学」と検索するとヒットします。
キリスト教創造論・創造科学の立場から見て、イスラム創造論、
またクルアーン、ハディースを科学的とする主張について、どうお考えですか?

じつはこの質問は、他のキリスト教創造論の方にもしています。
「かば」こと川崎貴洋氏
ttp://8705.teacup.com/cavazion/bbs
でちゅ☆ぺぬえる氏
ttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/729/1210054784/l50
でちゅ☆ぺぬえる氏からのお返事はまだ頂いていませんが、
川崎氏からは頂き、参考になるやりとりをさせて頂いています。
 

グーグル・ショック

 投稿者:長谷川寿紀(管理人)  投稿日:2009年 3月22日(日)22時28分50秒
  グーグルアースが地表各地の高解像度画像を広く提供するようになり、ノアの洪水
以来ほとんど何も開発されていないアメリカ西部の広大な地域も手軽に俯瞰できる
ようになりました。今まではアメリカを横断する飛行機の窓側に座って外を見なけ
れば見えなかったような光景が自分の家のパソコンで見ることができるようになっ
たのです。

その上で、改めてグランドキャニオンやそのほかのネバダ、ユタ、アリゾナ、ニュ
ーメキシコなどの広大な荒地地帯を各自で探索してみてください。これが果たして
何万年何億年かけた雨水の浸食で出来た地形であるのかどうかしっかり考え直すこ
とが出来るでしょう。我々はこの地は6千年前にみことばによって創造され、5千
年前のノアの洪水と言われる激しい激変現象で今のようになったと考えています。
そういうことを科学的に考えるのがこの会議室の趣旨です。
 

(無題)

 投稿者:吉野  務  投稿日:2009年 1月23日(金)02時50分38秒
  514人の博士号を持つ科学者がダーウィン進化論に異議を唱えた!



514人の博士号を持つ科学者がダーウィン進化論に異議を唱えた。



 インパクトがあるのは同インスティテュートが主宰して作成した「ダーウィニズムに異説を唱える科学者」リスト(注5)だ。

 皆博士号を持っている科学者五百十四人。タイトルの下には「生命の複雑さがランダムな変異と自然選択で説明できるとする主張にわれわれは懐疑的だ。ダーウィン理論を支持する証拠についての注意深い研究が行われるべきだ」と付記している。

 分野別では生物学百五十四人、化学七十六人、物理学六十三人。リストの初めには、ペンシルベニア州立大学のフィリップ・スケル名誉教授(化学、米国科学アカデミー会員)、ノーベル賞に何度もノミネートされているヘンリー・シェーファー計算量子化学センター所長、ニューヨーク市立大学のスタンリー・ソウルス名誉教授(進化生物学)らが並ぶ。
http://www.worldtimes.co.jp/special2/id/060605.html


「ダーウィニズムに異説を唱える科学者」リストは、下記にある。

http://www.discovery.org/scripts/viewDB/filesDB-download.php?command=download&id=660

進化論の寿命もあとわずかとなった。
 
    (管理人) これはよい資料です。私も使わせていただきます。私がいたウィスコンシン大学の教授達も何人か名前を連ねています。ライフサイエンスでは最も前衛、先進的なウッヅホール研究所の研究員(権威は一流大学の教授と同格かそれ以上)もいるのには心強いものがあります。  

(無題)

 投稿者:吉野  務  投稿日:2009年 1月22日(木)15時07分15秒
  よく始祖鳥などが中間動物として挙げられ、教科書にも載っているのだが、専門家はそれを否定しているという。
 始祖鳥が生きていたと思われるジュラ紀後期よりもさらに8000万年も古い2億2500万年前の三畳紀層から、2体のカラス大の鳥の化石が発見されたことが「ネイチャー」や「サイエンス」など専門各誌に報告されたのである。なにしろ恐竜の出現年代と同時期なのに、まったく現代の鳥と変わらない化石だったからである。
中間生物の化石が発見されないことは、進化論の決定的な弱みである。なぜならば、実証性が欠けているからである。

 このことは、当の進化論学者たちですらはっきり認めているのである。ハーバード大学の地質・生物・科学史教授で、現代の進化論科学界きっての反創造論の論客であるスティーヴン・J・グールド博士は、次のように述べてすっかり兜を脱いでいるのである。
 「新しい形態学的デザインの起源に関しては、化石の記録はまったく頭にくるほど情報を提供してくれない。通常、より高次の分類群が、明確な先行生物や発端段階もないまま、いきなり化石として出現するのだ」(『個体発生と系統発生』1977年)

 生物の系統分類学に従えば、動物も植物も門、綱、目、科、属、種と段階的に細かく分かれていき、総体的にはピラミッド型の系統樹を構成している。そのどの分類群にも、上下方向にせよ水平方向にせよ、間をつなぐ過渡期的な中間形態の生物が、いくら血眼になって探しても化石として見つからないというのは、どう見てもおかしいではないか。
 化石は明らかに進化がなかったことを示しているのである。
 段階的に進化が進んだと主張するのであれば、その段階段階の物証を提出しなければならないのである。足がヒレになりかかっているクジラ、翼がはえかかっているトカゲ、恐竜になりかかっている鳥などがどうして現われないのか。数千万個も出土したのであれば、一つくらいそのようなものがあってもよいではないか。それなのに、何故か、一つも中間種の化石がないのである。
証拠が一つも出ない場合、容疑者は釈放され、事件は迷宮入りし、時効にでもなれば、捜査本部は解散する。進化論もそろそろ、解散の時期に来ているのではないだろうか。
 

ある引用

 投稿者:吉野  務  投稿日:2009年 1月22日(木)03時21分14秒
   残念ながら、思想史の中では進化論を思想の一つとして扱うこと、そして、進化論による自然法・倫理に対する影響の議論は別に珍しいことでもなんでもない。

  別に権威を持ち出すのもおこがましいが、「珍しい」と言われたので、ひとつ引用しよう。

  アムステルダム自由大学教授ヘルマン・ドーイウェルトは次のように述べている。

  「事実、このような実証主義(19世紀中頃)は、人間主義的な『人格の理念』が持つロマン主義的・観念論的形而上学に対する自然主義的『科学理念』側からの現代的反応でしかなかった。この反応は、当時登場しつつあったダーウィン主義においてきわめて明瞭に現れたのである。ダーウィン主義は、機械論や個体主義の立場から、(それまで歴史理論に傾斜していた)ロマン主義の組織論的・観念論的発展概念を変革した。ダーウィン主義は、あらゆる科学分野に対して、巨大な影響を及ぼした。心理学・歴史学・民族学・経済学・法理論・倫理学・神学ですらその例外ではなかった。・・・」

  ヘーゲル主義の思弁性に対向して19世紀中頃に実証主義の批判が起こったこと、そして、そのような批判側にダーウィン主義が含まれているのはいわば「常識」だ。

  それから、もうひとつ常識として押さえておいて欲しいのは、「存在論」を扱うならば、どのような科学であれ、不可避的に「思想」になってしまうということだ。

  砕いて説明しよう。

  進化論は内在論、つまり、超越者による介入なしに、生物は発生したとする立場だ。

  この前提を崩すと、進化論者の世界から追い出されてしまう。

  「おれたちゃ、別に宗教とか思想なんてものとは無関係で研究やってるのよ。」といくら進化論者が力説しても、「神様が・・・」と言い出す人間をオミットせざるをえない。もしそんな超越論を許してしまえば、進化論全体のパラダイムが崩壊してしまうからだ。

  つまり、進化論は創造論の存在論に対して明確な対向的意見を持っているということなのだ。

  対向的意見を持っているということは、まさに「思想」そのものだということになる。

  これは進化論だけじゃなくてあらゆる学問について言えることなのだが、進化論においてはとくに顕著に現れる。だから、進化論は学問の中でも最も「思想的」なのだ。
 

沢垣実さまへ

 投稿者:長谷川寿紀(管理)  投稿日:2009年 1月14日(水)04時53分14秒
  お手数ですが、実名表記のついでに、ご職業と在職機関(教育機関名、または所
属研究室名、または会社名)を含む自己紹介を、発言のはじめにお願いします。
上の発言規則に従ってください。創造科学論は冗談ではなく、将来、進化論に取
って代わる科学として成長して行くものです。ここはその準備のための会議室で
す。実名と在職機関を明示できない人は発言に責任を持たない人であると見なさ
れ、発言をご遠慮願います。
 

まともな信仰者のやること

 投稿者:斉藤愛輝  投稿日:2009年 1月11日(日)14時37分18秒
  沢垣 実 様

わざわざコメントありがとうございます。


>パンダは小動物や昆虫も食べますよ。確かに主食は竹ですが。

存じております。
沢垣様が、お認めのように、肉食獣の歯を持つのに、主食の竹だけでパンダは生きていけるのですから、同じように、恐竜についても
歯が肉食獣のものだからと言って、必ずしも肉食をしていたとは限らないという例になるのではありませんか。私は、洪水前に肉食恐竜は一匹もいなかったというのではなく、多くの人のイメージとは異なり、ごく少数(科学者の言う5%よりもさらに少ないのでは?)と言うことです。

>これが意図的な「デザイン」などでないことを雄弁に物語っています。

なぜそうなるのでしょうか。
神がパンダに草食獣の歯を与えなかったのはおかしいと言うことでしょうか。
私は不思議だとは思いますが、おかしいとは思いません。もし沢垣様がおかしいと思われるなら、それは沢垣様の一方的で勝手な思いこみだと思います。

神が創造したのならば、パンダには草食にふさわしい歯を意図して造るはずだと、なぜ断言できるのですか。私は竹を主食とするパンダなので、固い竹でも食べられるように、神はあの歯の形にしたのではないかと考えています。また、歯の形から、肉食獣だと決めつけないように、進化論が間違いであることを示す例として、神はあえてパンダの歯をあの形にしたのではないかとも考えます。

 有限の人間が無限の知の神の意図を十分に理解することはできません。パンダについて言えば、歯の問題よりも、たぶん多くの人はむしろ神はなぜパンダをあんな白黒のデザインにしたかを知りたいのではないでしょうか。たとえば、普通に全身黒でも茶でも良かったのではありませんか。

パンダが白黒のあのデザインにならなければならない、誰もが納得のいく説明を進化論はできていないと思います。説明できないけれど、進化によってあのデザインになったと確信できるのであれば、同様に、説明がたとえ今十分できなかったとしても、創造論の正しさを確信することもできます。そして、そういう考え方こそ、まともな信仰者のやることではないかと思います。

 私の拙い人生経験において、その時は疑問に思う事でも、後になって、あれはあれで良かったのだと何度も思い知らされてきました。その度に、やっぱり神様の判断は正しい。自分の思いを正しいとすることの愚かさを学んできました。

ですから、科学者が今どう言おうが、科学者の言葉よりも神の永遠の言葉を信じるのが、信仰者としての立場なのではないでしょうか。私は、聖書にそう書いてあるから、そう理解し信じるという立場です。

 私に言わせれば、自分が今理解できないから、聖書を否定するというお考えこそ、「まともな信仰者のやることではない」と思います。


>聖書に書いてもいないこと(アダム以前に肉食獣がいなかった)を勝手にでっちあげて自分の論拠にしようとするのもやめましょうね。

聖書にはこうあります。創世記1:30「地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。」

これを読む限りでは、アダムが創造された以後も、少なくてもアダムが
罪を犯すまでは、全ての生き物が青草を食べているのですから、
肉食獣はいなかったと解釈できます。死はあくまでアダムの罪の
結果生まれたと私は考えています。

肉食獣が初めからいたという考えがあることも承知していますが、
その解釈をされる方からでも、私の考えは「聖書に書いてないことを
勝手にでっちあげて自分の論拠にしている」とは批判されません。
(聖書の解釈が間違っているとは言われるでしょうが。)

上述のように私の論拠は聖書にあるのですが、沢垣様の理解では、この聖句は論拠にはならないと言うことですね。なぜ論拠にならないのか。この聖句をどう解釈されているのかお教え下さい。私は聖書を正しく理解したいと思っておりますので、沢垣様のお返事をお待ちしております。


>創造論支持者の思考形態のおかしさを強調する結果になっています。
 すこし戦術をみなおされてはいかがでしょうか。

戦術と言われても、私はただ全ての人に聖書を信じるようになって欲しいだけですが。私が願うことは、たとえいくつか納得がいかないところが残り、疑問があったとしても、それでも十分聖書は信じられるという信仰を持つことです。

ですから、聖書を信じたいのだが、進化論が邪魔して、信じ切れない。創造論に対する疑問の幾つかが解決されたならば、信じたいと思っている人のために、私は書き込みをしております。

初めから聖書は間違っている、聖書なんか信じられるか、と思っている人のために書いているのではありません。創造論の間違いを指摘してやろうと考えている人を説得する気はありません。そう言う人々は、たとえどんな説明ができたところで、信じたくないので最後まで信じませんから。

沢垣様はどちらですか。もし、聖書を信じたいのに進化論があるので、信じられないという立場であるならば、創造論のことはいったん留保しておいて、
まずは聖書が信じられるものかどうか、詳しく学ばれたらどうでしょうか。聖書が信じられると分かったら、聖書に書いてある創造論も信じられます。

そのためには、創造論を受け入れている教会の牧師から学ぶのが一番だと思います。聖書通信講座がある教会もあります。進化論支持の教会に行って学ばれても、創造論を正しく教えられるはずがありませんので、どの教会を選ぶかも大事です。 もし必要ならば、お近くの教会をご紹介いたします。
 

パンダって肉たべますけど・・・

 投稿者:沢垣 実  投稿日:2009年 1月 8日(木)12時15分58秒
  斉藤様、

パンダは小動物や昆虫も食べますよ。確かに主食は竹ですが。
肉を主食としないのに食肉向けの歯を持ってしまっていること自体、これが意図的な「デザイン」などでないことを雄弁に物語っています。むしろ進化論の証拠になってしまっています。やぶ蛇でしたね。

それと、聖書に書いてもいないこと(アダム以前に肉食獣がいなかった)を勝手にでっちあげて自分の論拠にしようとするのもやめましょうね。まともな信仰者のやることではありません。

ありていに言いまして、あなたのご発言はむしろ創造論支持者の思考形態のおかしさを強調する結果になっています。すこし戦術をみなおされてはいかがでしょうか。
 

恐竜

 投稿者:斉藤愛輝  投稿日:2008年12月29日(月)11時51分43秒
  1年間ご無沙汰しておりましたが、今年は夏に恐竜についての講演を教会で行いました。沖縄で恐竜展「恐竜ミュージアム2008」が開催されたこともあり、子供達が恐竜に興味を抱いていることから、正しい知識を教えて欲しいということでした。

 といっても、私は詳しくないので、恩師に相談して、いろいろ資料を頂きました。その中で学んだことは、恐竜のイメージが間違って伝えられているという現実でした。

1 恐竜の95%は草食で、肉食恐竜と考えられているものは、わずか5%しかいない。
2 発見されている全ての恐竜の大きさの平均値を取ると、何と牛やラクダのサイズになる。

これにはびっくりしました。映画「ジュラシック・パーク」は私も見ましたが、
どうしても恐竜というのは大きくて、恐ろしいものだというイメージがあります。
それが実際は全然違うと言うことがよく分かったからです。

草食恐竜ですから、人を襲うことはほとんどなかったでしょうし、牛のサイズなのですから、ちょっと大きめの
ペットという感じです。決して恐ろしい動物ではなかったのです。

それなのに、なぜ恐竜は恐ろしいものというイメージがつくられたのでしょうか。それは、きっと
弱肉強食、適者生存という進化論の考え方が影響したからではないでしょうか。生きるか死ぬか、という
考え方の中で、恐竜は強く大きいのだという考えが出てきたのかも知れません。

 一方、創造論ではどうでしょうか。神が恐竜を造ったのだから、性格は優しく、人間の友だちになれたと
考えることができます。5%いることになっている肉食恐竜でさえ、アダムが罪を犯す前は、草を食べていたはずですし、そもそも、歯の形から、鋭い歯だからと言って、絶対に肉食だと断定することはできません。

例えば、パンダの歯は、形から言えば肉食獣のものですが、実際にはよく知られているように、その主食は竹です。ある種のコウモリは、吸血できるような鋭い歯を持っていますが、実際には果実の汁を吸っています。

このように、その生態を実際に見ることがなければ、食物を断定することはできないのです。

 恐竜の本当の姿を知ることによって、恐竜の生きていた時代は(人間も生きていたのですが)、平和で、生き物達が仲良く暮らしていた時代だと分かります。そして、そのことは、進化論の時代説明よりも創造論の説明に近いのではないでしょうか。

 事実を正しく見るときに、進化論が間違っていることと、創造論の正しさ、つまり、聖書の正しさが明らかになりました。

 ですから、真理を求める人は、皆自発的に進化論を捨て、創造論を受け入れるようになるのです。そして、それが神が望んでおられることです。神が残して下さった証拠を見ていくとき、人は誰でも、見ようと思えば神を見ることができます。問題は、証拠の有無ではなく、神を認めたいか認めたくないかという人間の心にあります。はっきり言って、私は、創造主なる神様を信じたいけれど、その証拠がないから信じられない、だから進化論を信じるという人を見たことがありません。信じたい人は皆信じるようになっています。信じない人は、信じたくない人だけです。

 来年は、「種の起源」150周年ということで、進化論が話題になることで、創造論がマスコミに取り上げられ、日本のマスコミの意に反してさらに創造論が広まると予想されます。神は万事を益としてくださる方です。来年が150周年であることを神様に感謝しています。
 

業務連絡

 投稿者:長谷川寿紀(管理)  投稿日:2008年12月23日(火)05時28分21秒
  進化太郎氏の脈絡も無い戯言は一週間ほど晒してから削除します。

この人は全くわかっていませんが、創造論は科学ではありませんが、創造科学は科
学です。進化論も科学的な議論をする人もありますが、進化論そのものは神の創造
はありえないだろうという前提を演繹しただけのもので、科学的とはいえません。
進化論が科学であるというのは冗談も程ほどにと言うものでしょう。

エベレストが8000メートル以上になった科学的証明など、人間が直立歩行をするよ
うになった科学的証明、ヘビに足が無くなったことの科学的証明と同じで、現象の
後付解釈を競うようなものであり証明にも何にもなっていません。こんなナンセン
スを書き込むためにわざわざ複数のIPを使って当創造科学掲示板に割り込みたい
というのが笑わせます。
 

ゴミはさておき

 投稿者:長谷川寿紀(管理)  投稿日:2008年12月17日(水)05時54分18秒
  当方は病院関係の仕事が忙しく、なかなか思うに任せてHPと掲示板の拡張が出来
ないでおりますが、少なくとも掲示板は適宜必要に答えられる時のために維持して
います。聖書の創造の記述だけが世界と生物の創始の唯一のドキュメントであり、
進化論は科学的知識を応用した過去の創造の由来の後付解釈というスタンスは微動
だに致しておりません。たまにこうして質問を衒って現れるゴミ発言者があっても
気にせず、聖書の創造論を信じる方々からのご質問があればお気軽にお書き込み下
さい。進化論者からの質問は、時間の無駄になるので、基本的にはお答えしません
が(彼らは私が答えなくても自分で勝手な答えを既に持っておりますので)、真摯
に聖書の世界観を現実のものと信じる方々からのお問い合わせには誠実にお答え申
し上げます。
 

面白い!!!

 投稿者:石川博司  投稿日:2008年 7月25日(金)10時03分34秒
   結構内容の濃いWEBですね。神の創造に対して、同じ流れを信じるものとして面白く拝見致しました。聖書、イエスキリスト、世界平和についてもっと書かれてあればとても面白いのではないでしょうか?!  

本年も有難うございました

 投稿者:長谷川寿紀(管)  投稿日:2007年12月30日(日)06時34分51秒
編集済
  今年は私の勤務先の変更やら引越しなどで忙しくてあまり掲示板とHPの良い管理
人ではありませんでしたが来年もまた心機一転で継続して、また出来れば創造科学
HPをアップデートしてゆきたいと思います。創造科学を科学の一分野として定着
させる事が我々の使命です。頑張ってまいりましょう。来年もよろしくお願いします。

http://www.bronsonhealth.com/FindADoctor/HealthcareProfessionals/page3749.html
 

斉藤先生

 投稿者:長谷川寿紀(管)  投稿日:2007年12月28日(金)12時45分51秒
  一応管理人である私は吉野様を発言禁止に致しましたので、吉野様に対して質問を
なさらないで下さい。一方吉野様はこの掲示板での疑問は斉藤先生のお答えから解
決を見出して完結して下さい。この掲示板は創造科学論の理解を深める掲示板です。
よろしくお願い申し上げます。
 

大事にする命とは

 投稿者:斉藤愛輝  投稿日:2007年12月28日(金)01時57分42秒
  >キリスト教には、「大事にする命」と「大事にしなくても良い命」があるように思えてならないのです。

 人間と比べるとき、動物は相対的に「大事にしなくてよい命」です。だからこそ、神は人間に動物の血を流し、動物の命を奪っても人間が生きることを許しました。「 動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える」(創世記9:3)。しかし、神はだからといって、動物の命を粗末にすることを禁じ、動物に対していたわりを持つこと要求しました。
 十戒の第4条で、神は動物にも週に一日休みを与えるように命じています。「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である」(出エジプト20:10 )
 また「同胞のろばまたは牛が道に倒れているのを見て、見ない振りをしてはならない。その人に力を貸して、必ず助け起こさねばならない」(申命記22:4)。「 道端の木の上または地面に鳥の巣を見つけ、その中に雛か卵があって、母鳥がその雛か卵を抱いているときは、母鳥をその母鳥の産んだものと共に取ってはならない。必ず母鳥を追い払い、母鳥が産んだものだけを取らねばならない」(申命記22:6ー7)とあり、動物の命を大切に守ることも要求しておられます。このように、聖書は動物の命も大切にするように言っています。

>キリスト教には虫供養や牛供養の発想はあるでしょうか。どちらが命を大切にしているのでしょうか。

 一般的に言えば、動物愛護の精神は日本よりもキリスト教文化の方が盛んなのではないでしょうか。例に挙げている、虫供養や牛供養は、動物愛護よりも、輪廻転生の概念から、虫や牛の背後に人間を意識するからではないのでしょうか。逆におたずねしますが、それでは、動物愛護のみならず環境保護、自然保護についても、日本仏教の方が、キリスト教よりも熱心だという客観的な証拠があるのでしょうか。

>神が創造した地球の生態系の中ではゴキブリの価値も認められているでしょう。

そのとおりです。神は無価値なものを造られるほど愚かではありませんから。

>そのゴキブリの価値を自分の価値基準で判断して排除する(殺す)のはエゴでしかありません。

 そう言いきれるのであるならば、牛を殺して食べるのもエゴになるのではありませんか。そうなれば、人間が生きること自体がエゴとなり、優しい人ほど生きる意味を失うのでありませんか。吉野様はなんでもエゴを理由にしたいようですが、キリスト教の本質は、十字架の死に表された自己犠牲で、エゴの反対です。「友のために命を捨てることよりも大きな愛はない」とも言っています。クリスチャンは動物達の犠牲の上に自分の命が与えられていることを覚え、供養するのではなく、動物を与えてくださった神に感謝するのです。プレゼントそのものではなく、プレゼントをくださった方に感謝するのが人としての礼儀であるならば、神に感謝することこそ人としての務めではないでしょうか。この点を考えると、進化論者の方こそ傲慢であり、感謝を捧げるべき方に感謝を捧げず、礼を欠いているのではないでしょうか。

>ゴキブリに人間と同じ価値があるとは言いませんが、無価値であるとも言ってはならないでしょう。

 神は無価値なものを造られません。しかし、生き物の価値は決して平等ではありません。なぜなら、人間だけが「神のかたち」に創造されたからです。そして、人間にすべての生き物を支配することを任されたからです。


>飛躍しないでいただきたいのは、「進化論」によって人間とゴキブリが等価だとは述べていないことです

5/28の発言では、>人間がゴキブリを殺し、牛を殺して食べることと人を殺すこととの違い
に関し、吉野様は「これは本質において同じ、と考えております。」とお答えになっておられます。矛盾のように思えますが。


>「キリストを知ることに比べたら〜」

吉野様はキリストの価値がわからないので、そのようにお考えになるだけのことです。吉野様にとっては、智の方がキリストよりも価値があると思われるのでしょうが、クリスチャンはそうは考えません。世の中のあらゆるものよりも、キリストは価値があるのです。

>ニュートン〜

このページの2006年3月12日以降の野田様とのやりとりをお読みください。
 

吉野様へ

 投稿者:斉藤愛輝  投稿日:2007年12月28日(金)00時52分31秒
  吉野真一様

コメントありがとうございました。
一言で言えば、「キリスト教信仰」というものを誤解しておられるのではないかと思います。信仰とは、疑うことではなく、丸ごと信じ、受け入れることです。それができなければ信仰を持つことはできません。「疑問点があるから信じられない」ではなく、「疑問点はあるが信じる」というのが信仰です。


エレン・ホワイトはこのことに関して「キリストへの道」という本でこう言っています。
「聖書には説明のできないこと、また了解に苦しむことが多くありますので、悪魔はそれらを用いて、聖書は神の啓示であるとの信仰を揺り動かそうとします。・・・神は私どもに、信仰の基礎を置くに足る証拠を十分与えたもう上でなければ、信ずるようには求めたまいません。神の存在も、品性も、またみ言葉の真実性もみな、私どもの理性に訴えるあかし、しかも多くのそうした証しによって確立されています。けれども、神は、疑う余地を全然取り除きたもうたのではありません。私どもの信仰は、外見的なものの上に築くのではなく、証拠の上に築くのでなければなりません。疑おうと思う者には疑うことはできますが、本当に真理を知りたいと求めている人は、信仰の基礎となる十分の信仰を発見することができます。」


聖書にヨブという人が出てきますが、ヨブに向かって神はこう言われます。
「あなたは神を究めることができるか。全能者の極みまでも見ることができるか。
  高い天に対して何ができる。深い陰府について何が分かる。
  神は地の果てよりも遠く/海原よりも広いのに。」ヨブ11:7ー9

「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。
  これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて/神の経綸を暗くするとは。
  男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。
わたしが大地を据えたとき/お前はどこにいたのか。知っていたというなら/理解していることを言ってみよ。
  誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか」
                           ヨブ38:1

神はヨブの疑問には答えず、かえってヨブの無知を示します。吉野様は神のなさることに関して、疑問をいろいろ述べておられますが、吉野様は神よりも賢く、あらゆるものを知っておられるのでしょうか。たとえば、もしも地球が自転をやめたら〜うんぬんを言っておられますが、そんな理屈は神の前では一笑に付されます。もしも天が落ちてきたらどうしようと考えている人と同じことです。吉野様は、この宇宙ができた様子を見ていましたか、地球がどのようにして自転を始めたのか見ていましたか。自然科学の法則のすべてをご存じなのですか。
 なすべきことは、ヨブのように自分の無知を知って、すべてを理解できなくてもそう言うものかなと考えて受け入れるべきではないのでしょうか。大切なことは、その答えがなくても、つまり、証拠が完全にそろわなくても、神を信じることは十分できると言うことです。そして神はそう言う信仰を望んでおられると言うことです。キリスト教のことを少しでもご理解されたのであるならば、さらに一歩進んで、疑問を残したまま、神を信じられたらいかがでしょうか。いったん受け入れてしまえば、何の問題もなくなりますよ。


 なお、進化論者のものの考えは、結局のところ、自分を神よりも正しいものする考えです。吉野様のご意見を伺っていて感じるのは、進化論を受け入れる方が「賢くなる」ことだという見方です。それは、まさに悪魔がエバを騙したやり方そのものです。神は食べるなと言った善悪を知る木の実を悪魔はエバに食べさせようとして、食べても「決して死ぬことはない」と断言しました。聖書はこう記しています。創世記3:6「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。」
 人は賢くなるつもりで、神の言葉を失い、永遠の命を失い、死を経験するようになりました。進化論も同じです。科学はすばらしいものですが、神に比べれば塵と同じです。その行く先は滅びです。進化論にこだわって、大切な命を失うことがないように、心の目で証拠を見直し、創造論を信じることをオススメいたします。
 

ルール違反

 投稿者:長谷川寿紀(管)  投稿日:2007年12月27日(木)21時49分44秒
  真意を見極めるために放置していましたが、一応吉野さんの11月18日のご発言に
コメントをつけておきます。
 

よく読むとわかりますが

 投稿者:長谷川寿紀(管)  投稿日:2007年11月26日(月)12時08分15秒
編集済
  吉野様

斉藤様の10月30日のご発言をよく読むと、そこでは宇宙人がいるともいないとも述
べていません。むしろいるかいないかを問題にしているのではなく、宇宙人がいる
と仮定する科学的論理が天地創造の神の存在を無視する論理と矛盾すると述べてい
るのです。つまり、宇宙人がいるのではないかと疑うことが出来るなら、天地創造
の神がおられることを信じるのは自分を欺かない限りもっとたやすいことであると
いうことです。

宇宙人がいるとした場合、それが聖書の神学と矛盾するかどうかはそれとは全く別
な問題です。また宇宙人といってもそれが天地創造の神と無関係な「宇宙人」は存
在しないと考えられます。サタンは最終時代には品性至らない「宇宙人」を装った
り、死者の霊とか再臨のキリストを装ったりしますので、くれぐれもだまされない
ようにお願いしたい所です。とはいうものの、そういう問題は当掲示板では扱って
おりませんのでよろしくご協力ください。
 

教えてください

 投稿者:斉藤愛輝  投稿日:2007年11月19日(月)21時17分57秒
  吉野様

吉野様がおっしゃりたいことがよく分からなかったので、
できますればもう少し説明していただけないでしょうか。
何が問題なのか理解できなかったものですから。

 創造論者の多くは宇宙人はいないと考えているようですが、私は個人的には宇宙人がいる(より正確には、天使を含め宇宙には地球の人間以外の知的存在が住んでいる)と考えています。根拠としては、「神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになった」(エペソ3:10)をあげることが出来ます。「天上の支配や権威」とは誰を指しているのでしょうか。全知の神は「知らされる」必要がないので、神でないことは確かです。この聖句は地球以外に知的存在があることを示唆していると私は考えています。
 ただ実際に宇宙人がいるにしろ、いないにしろ、それは第一に私の先の発言の趣旨とは無関係ではないでしょうか。第二に宇宙人がいるとすると、なぜ「サタンの試みやイエスの贖いなどが宇宙中無数に発展する」ことになるのか、全く分かりませんので、教えてくださらないでしょうか。私は、地球の人間以外の存在を想定する方が、サタンを滅ぼす正当性や義人を神が救うことをよりダイナミックに説明し、神の愛をより豊かに説明できると思います。


 なお、念のため先の私の発言の趣旨はこうです。進化を信じる科学者が、宇宙人がいると考える根拠が「自然現象や人類が関与した現象でないと証明」された「電波信号」であるならば、同様に決して偶然では出来ないと考えられる生物界における証拠を見るときに神の存在を考えることも、正しい科学のあり方ではないのだろうか。正しくないのなら、天文学と生物学では科学の定義が違っているのではないかという疑問を投げかけたつもりですが、吉野様のご意見は、私の考えは聖書と矛盾すると言うことをおっしゃりたいのでしょうか。
 

馬脚が

 投稿者:吉野  務  投稿日:2007年11月18日(日)14時31分40秒
  斉藤さんの宇宙人論こそ下手をすれば際物と思いますが?聖書的に宇宙人とはどのような位置付けになるのか?人の言う信号的な物というなら、人工物群を少し観察すれば判るのですが、その宇宙人にしても「不完全」という事になり、そうなるとサタンの試みやイエスの贖いなどが宇宙中無数に発展する事に繋がりかねず、聖書は破綻をきたす事にもなりかねませんね。
進化論を目の敵にする余り、自らが知らぬ間に自ら子供だましのこの理論に取り込まれているような気もしますね。
自分の父親を名前で呼んだりする人は余り居ないのに、エホバと呼ぶ事を強要している何処かの団体とそう大差無いように見えるのは私だけでしょうかね?
 
    (管理人) 参加する相手を誹謗しないことがこの掲示板に参加できる
最低条件です。上のローカルルールに違反しています。またここは
エホバの証人とかその他の宗教団体を論じる場所ではありません。
こういう発言をすると発言禁止にされる例としてここに無期限で保
存させていただきます。
 

宇宙人探しと創造論

 投稿者:斉藤愛輝  投稿日:2007年10月30日(火)10時05分34秒
  「宇宙人からの信号キャッチ」というニュースが今朝出ていました。

「地球外の知的生命体の探査(SETI)は、各国の主要大学からアマチュアまでがしのぎを削っている。・・・慶応大の青木節子教授(宇宙法)は「日本ではSETIはキワモノのように扱われることがあるが、世界では驚くほどまじめな研究がされてきた」と言う。
 国際天文学連合(IAU)は91年、「地球外生命体から送られたと思われる電波信号についてとるべき行動」という指針を決議。「信号らしきものを発見したら、それが自然現象や人類が関与した現象でないと証明するよう努める」「発見者は関連する国家当局に通報。IAUを通じて国連事務総長に知らせる」とした。http://www.asahi.com/science/update/1029/TKY200710290321.html

 宇宙を研究している科学者は、真面目に宇宙人を捜しているようです。そして、宇宙人存在の証拠は「自然現象や人類が関与した現象でないと証明」された「電波信号」だと考えているようです。

 私は自然界を眺め、DNAの働きを考えると、私はそこに何らかの知性を感じます。こんなに上手くできているものが、自然現象で出来るはずがないと感じるのです。生命の起源を考えるとき最初の生命は「自然現象や人類が関与した現象でないと証明」されているように思えます。しかし、偶然の積み重ねで奇跡的に生命が誕生したと考えることが科学であり、神が創造したと考えることは科学ではないと進化論者たちは言います。もし、それが科学の正しいあり方であるならば、天文学者たちが宇宙人を捜すことも非科学的なことになるのではないでしょうか。自然現象とは考えられない電波信号があれば、それは宇宙人が作ったものと考えるのですから。もっとも進化論者の手にかかれば、どんなに知性を感じさせる電波信号があったとしても、それは長い時間をかけて自然に出来たものだと主張し、かたくなに宇宙人を否定するかもしれません。

 自然現象ではあり得ないものがあるとき、神の存在を考えることは生物学では一切認められないが、宇宙人がいると考えることは天文学では認められるのであるならば、「科学」という定義が分野で異なっていることになるのではないでしょうか。進化論者の主張は本当に正しいのか、考え直す必要があります。

 宇宙人捜しが日本では「キワモノ」扱いされているという発言がありましたが、進化論しか教えられていない日本人なら当然の結果かもしれません。日本を除く世界の天文学者の土台には創造論があることを、この新聞記事は示しているようです。
 

斉藤先生

 投稿者:長谷川寿紀(管)  投稿日:2007年 8月20日(月)00時19分26秒
編集済
  有難うございます。早速参考に致したいと思います。  

GRIの創造論会議

 投稿者:斉藤愛輝  投稿日:2007年 8月19日(日)13時38分58秒
  8月13日から16日まで、中国の昆明市で行われた「創造論、信仰、科学会議」に出席してきました。主催はGeoscience Research Institute(GRI)の北アジア太平洋支部です。
GRIについて詳しいことは、下記のリンクを見てください。創造論の資料が無料で手に入ります。写真はもちろん、パワーポイントの資料もあります。

 http://grisda.org/

 会議に出席したのは全体で80名近く、そのうち日本人はわずか7名で、ほとんどが韓国人でしたが、北アジア太平洋支部なのだから、当然の結果です。会議では、現地調査とGRIの講師による講義が行われました。創造論の科学的証拠をいろいろ学んできましたが、全体としては、これまで、このサイトで主張してきたものと同じでした。

 たとえば、類似性が共通祖先の存在を証明しないこと(共通の設計者の存在を物語る)、カンブリア紀の生物大爆発は進化の証拠にならず最初から多様な生物がいたという創造論の証拠になること、ヒトがサルと共通の祖先を持つというのは、あくまでひとつの考えに過ぎず、それを明確に証拠づける化石は実はひとつも無いこと(例:かつてヒトの祖先といわれたアファレンシスのルーシーはヒトの祖先からはずされた)、新種の形成に長い時間がかかる必要は必ずしも無く、わずか30年で新種が登場した例があること、化石の記録は地球規模で大量絶滅が起こったことを示し、すべての大陸で海洋生物の化石が見られることからも、地球規模の洪水が起こったと考えることが合理的であることなどを学びました。

 進化論の主張が一般に信じられているほど、根拠が無いものであることを深く学べたことが感謝です。進化論者が主張する「証拠」とやらで、絶対確実だというのはどれだけあるのでしょうか。創造論者は進化論者と違うデータを示しているのではなく、ただ解釈が違っているだけのことです。前提が違えば、同じデータでも違う解釈になります。進化の証拠とされるものが、逆に創造の証拠にもなりえるのです。創造論科学者の存在をはじめ、創造の証拠がたくさんあることをなぜ進化論者はかたくなに否定するのでしょうか。真の科学者であるならば、前提を変えることは恥ではないはずです。

 進化論者が「進化は事実だ」という前提を捨てようとしないのは、進化論が科学ではなく、まさに信仰そのものである証拠ではないのでしょうか。
 

メディア

 投稿者:斉藤愛輝  投稿日:2007年 7月24日(火)12時34分56秒
  こんな記事を見つけました。
http://www.worldtimes.co.jp/special2/id/060605.html

IDの活動を述べたもので、IDと創造科学の立場は全く同じというわけではありませんが、反進化論と言う点では同じ立場だと私は考えています。

これによると、ID運動の総本部、ディスカバリー・インスティテュートは
「ダーウィニズムに異説を唱える科学者」リストをつくりました。

以下引用

皆博士号を持っている科学者五百十四人。タイトルの下には「生命の複雑さがランダムな変異と自然選択で説明できるとする主張にわれわれは懐疑的だ。ダーウィン理論を支持する証拠についての注意深い研究が行われるべきだ」と付記している。

 分野別では生物学百五十四人、化学七十六人、物理学六十三人。リストの初めには、ペンシルベニア州立大学のフィリップ・スケル名誉教授(化学、米国科学アカデミー会員)、ノーベル賞に何度もノミネートされているヘンリー・シェーファー計算量子化学センター所長、ニューヨーク市立大学のスタンリー・ソウルス名誉教授(進化生物学)らが並ぶ。

 ポーランド、ロシア、ハンガリーの科学アカデミー会員のほか、大英博物館(自然史)客員学者も名を連ねている。

 署名の数は同インスティテュートが二〇〇一年に初めてリストを作成した際の百人余りから大幅に増加。リスト署名の条件に「ID支持」は含まれていないが、「IDに好意的な科学者はますます増えてきている」(同インスティテュートのジョナサン・ウェルズ博士)。

  引用終わり

進化論=ダーウィニズムではないと進化論者と言うかもしれませんが、大まかに言えば上のリストは反進化論の科学者のリストと言うことになると思います。かのリチャード・ドーキンスは「悪魔に仕える牧師」(早川書房、387ページ)の中で「しかるべき資格を持つ科学者で、進化が事実であることを、地球が太陽の周りを回っているのを事実であるとするような通常認められている意味で、疑う者はおりません」と断言していますが、このリストは彼の発言が誤っていることを示すのではないでしょうか。

 大切なことは、進化論に疑問を感じ始めている科学者が今増えているということです。進化論の根拠とされる証拠が、実はねつ造されていたものだったということを知れば、それは
当然のことです。真面目な科学者ならば、進化論に疑問を持ち、いずれは創造論側に立つでしょう。

 残念なことは、日本のマスコミがあまりにも進化論を盲信していることです。私は67年前の戦中のマスコミを連想します。負け戦にも限らず、勝った、勝ったと国民を騙し続けた新聞、ラジオのように、今のマスメディアは「進化論こそ正しい、正しい」と国民を騙し続けているのではないでしょうか。当時と違って、検閲がないのですから、もっと真実を伝えるメディアが現われても良いのではないでしょうか。いきなり創造論を支持することはできなくても、もう少し進化論に批判的な記事が多数出てきてもいいように思います。少なくても、進化論批判の動きは、もっと報道されてもいいと思います。なぜなら、それが世界の最新のホットニュースだからです。

 考えてみれば、インターネットの急速な普及も神様の摂理だと思います。これがなければ、日本で創造論を普及させるのはもっと困難だったでしょう。今はインターネットのサイトが真実を伝える代表的なメディアとして活躍しなければなりません。もっと多くの方が、真実を知り、真実を語る必要があると思います。特に、クリスチャンにとって創造論を語ることは、創造主なる神を語ることにもなり、伝道につながります。日本にもっとキリスト教を広めるために、創造論を語りましょう。
 

科学教育とキリスト

 投稿者:斉藤愛輝  投稿日:2007年 6月10日(日)21時21分31秒
  初めに私はこう書きました。

「良心と教師たちに与えられている偉大な働きは、保護している子供達や青年たちの品性を形作って、キリストの像を回復することです。科学の知識は、この偉大な目標に比べれば無意味なものの部類に入ります。しかし、真の教育は、正しい品性の発達を助けます。・・・自分たちの将来だけではなく、与えられている子供達が永遠の命を得るか、あるいは永遠に失われるかを自分たちが決定している事実に気づくならば、大きな挑戦が目の前に置かれていることを悟ります。」エレン・ホワイト著「次世代に続く信仰」p55

この文章から吉野様とのやりとりが始まったのですが、吉野様との考え方の違いの原点は結局のところ、イエス・キリストをどう見るかということに行きつきます。聖書はこうあります。これを言ったのはパウロという人です。
「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。」フィリピの信徒への手紙3:8-9

 ホワイトの言葉は、このパウロの言葉の延長上にあります。ホワイトの言葉を言い換えると、「キリストを知ることに比べたら、科学を学ぶことは塵あくたと同じだ」となるでしょう。これに賛成するか反対するかは、イエス・キリストを知る価値がどのくらいのものかという価値判断によります。素人の目には高価なものに見えても、専門家が見れば真っ赤な偽物で安物という場合があります。その逆もあり、専門家が高い評価を下しても、素人の目にはごみ同然と映ることもあります。聖書に基づく創造論を受け入れる人びとは、科学の専門家ばかりではありませんが、イエス・キリストの価値を知っている人びとです。ですから、イエス・キリストをどう評価するのかはとても大切なことになります。創造論は聖書と切り離して論じることはできません。イエス・キリスト抜きの創造論はありません。したがってたとえ創造論を論じても、イエス・キリストが語られなければ創造論も塵あくたと同じ事です。

 吉野様に限らず、創造論は疑似科学だと思いこんでいる方々に、創造論から目を離しイエス・キリストについて改めて考え直していただければと思います。イエス・キリストのすばらしさがわかれば、創造論についても理解でき、信じることができるようになると思います。
 

吉野様へ 3

 投稿者:斉藤愛輝  投稿日:2007年 6月 2日(土)18時46分49秒
  >>科学教育そのものが無意味だといっているのではなく、「この偉大な目標に比べれば無意味なものの部類に入ります」と言っているだけです
>二極論で言えば「無意味である」ということですね。

そうですね。たとえば、呼吸が止まった人に対して人工呼吸をしようとすることに比べれば、科学教育をしようとすることは全く無意味だと思います。吉野様は人工呼吸するよりも意味があるとお考えなのでしょうか。

>字義通りにとるならば、キリスト教以外の一切の宗教は捨象されるべきだということですか?

 まず、創造論はキリスト教だけではありません。イスラム教でも天地創造が教えられています。宗教云々と言うよりも、事実を追求するとそうなると言うだけです。「創造論教育」に限らず、あらゆる教育の、またあらゆる人生の目標はイエス・キリストによる罪からの救いを伝え、キリストの力による品性の向上を図り、よりよい社会の形成することではないでしょうか。

>「聖書」の記述に反する「自然科学」の観測結果は全て否定されるべきだ

「自然科学」の観測結果をすべて否定しようとしているのはむしろ進化論の方ではないでしょうか。私の理解は、現在の観測結果には進化論に有利なものも創造論に有利なものもあるということです。そして、総合的考えて、進化論よりも創造論の方が観測結果の解釈に有効だと私は判断しました。しかし、多くの進化論者は、観測結果は「すべて」進化論に有利であるかのように主張されていると思います。吉野様は創造科学研究者の研究をどのくらいご存じなのでしょうか。きちんと調べられたことがございますか。
 創造論に基づく主張でも、十分説明可能であるのに、それを頑として一切認めないところに、私は進化論が科学ではなく「宗教」となっている部分を感じます。

>品性の涵養が聖書の教えによってのみ為されるものであるとは思いませんし、

同意いたします。仏教であろうと、神道であろうと、品性の涵養は可能だと思います。ただ、私は、善は唯一であって、それはイエス・キリスト以外にはないと思います。つまり、仏教の教えであってもその奥には、イエス・キリストが示されているのであり、究極的には聖書の教えに従うことになると思います。


>「自然科学はこう教えているが、私は心情的には創造論が正しいと思う」、とすることは個人の自由の範疇です。

 創造論者ならば、このような理解はしないと思います。自然科学は進化ではなく、創造を支持するからです。したがって、「進化論ではこう教えているが、自然科学を学び自分で考えた結果、私は創造論の方が真実だと判断する」となるのではないでしょうか。「心情的には」ではなく、「事実だから」あるいは「より合理的だから」創造論を支持するのです。


>盲信は「思考停止」です(「自然科学」を盲信することも同様ですが、「科学」の本質が疑ってかかる事であるというのは以前に述べたとおりですから、「盲信」した時点でそれは正しい意味で科学ではありません)。

 おっしゃるとおりです。創造論者は進化論を盲信することから脱却した、科学を真に学ぶ人びとです。

>自然科学ではどうやっても実証出来ないことではありますが、

神は科学の対象にはならないので、実証できません。しかし、科学で実証できないから、それが真実ではないとは言えません。神は科学ではなく信仰でとらえるものです。だからこそ、科学者もニュートンのように聖書の学びを深くする必要があります。
真の科学と聖書は必ず一致します。神は自然界を通して人が神を発見できるように造られたからです。「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。」ローマ1:20
 そして、もし一致しないように見えるのならば、科学ではなく聖書を取るべきだと私は考えます。それは盲信ではなく、過去の歴史のおいて、誤りの連続だった科学よりも誤りのなかった聖書を受け入れることが理にかなっているからです。


>自然科学の成果を利用することで多くの命を支え、永らえさせることに貢献できる方が嬉しいと申し上げたなら

大変すばらしいと思います。ご活躍をお祈りいたします。

吉野様が命や人生の目的などについて真摯に考えてくださったことを感謝いたします。
人生の目的は進化論の世界観ではいくら探しても出てきません。創造論の世界観、つまり、聖書の世界観をご自分の目できちんと調べられると、創造論の主張がご理解されるのではないかと思います。

 短くまとめようと思いましたが、できませんでした。ここまでお読みくださりありがとうございました。

 最後に、クリエーションリサーチのニュースによると、数日前にアメリカで創造論に基づく大規模な博物館が完成したようです。これを機に、創造論はさらに拡大することでしょう。
 http://www.sozoron.org/home/
 

吉野様へ 2

 投稿者:斉藤愛輝  投稿日:2007年 6月 2日(土)17時45分54秒
  >生きようとする意志が「強いか弱いか」が問題なのではありません。
「有るか無いか」が問題だと申し上げたつもりです。

 それでは、表現を変えてお聞きします。進化論に基づくと、生きようとする意志のある者だけが生き残るので、自殺者のでない社会を作るには、一度自殺したい人はみな死んだらいいということにはならないでしょうか。

>自殺者は「社会に適応する努力を自ら怠った怠け者」ではなく
「社会に適応する努力を自ら放棄した逃避者」だと思う、と申し上げております。

 両者の違いが良く理解できませんでしたので、もう少し詳しく説明していただけると助かります。「怠ける」のではなく「逃げる」というのはどういう事なのでしょうか。


>動物に知性が無いと断言する根拠はなんでしょう?

私は「神を認める知性」と書きました。動物が神を礼拝するとは私は思いません。


>「本能よりも理性が優先します」というのは、
本能だけでは「生きる意志」を持ち続けることができない
=理性が「生きる意志」を損なう、あるいは「生きる意志」を失った「理性」が「自殺」という行動を促すという意味に聞こえます。
それとも、「特別な生きる目的なしに生きることは動物と同じだから意味の無い生だ」
と仰せなのでしょうか。

両方とも言えると思います。生存本能がまさっていれば自殺など起きるはずがありません。
また、生きる目的を知らないことは、人間には特別に生きる目的を知る力が与えられていると考える上からは、動物と同じで人間として生まれた意味がない事になるのではないでしょうか。ここでも「人間とは何か」という定義が大事になります。



>「生きる意志」とは「生存本能」に等しく、
そしてそれこそが文字通り神に与えられたものといえるかも知れない、と思います。

本能は進化によって獲得してきたものであると証明されない限り、何物かによって初めから与えられたものと考えるべきだと思います。

>それが神に与えられようと、あるいは与えられたものだと気づこうと、自分で見出そうとどちらでも構わないと思っています。
いま生きている瞬間にそれが存在しているのだということに気づくことが重要なのであって、その筋道やテキストは問題ではないと思います。

 命が神によって与えられたものか否かは、大きな問題になるのではないでしょうか。なぜなら、それは一つには命に対する感謝の大きさに影響を与えます。「自分は生かされている」と感じる人は、「自分は生きている」と感じる人よりも、命を感謝し、命をいつくしむ度合いが大きいのではないでしょうか。また、なぜ死ぬべき自分がこうして生かされているのかを考えることによって、生きる目的についても、より深く考えるのではないでしょうか。そして何よりも、論点が違うとおっしゃっいましたが、死刑判決を受けた極悪人のような生きる意味を見失った人にとっては、神の存在は大きな慰めになるのではないでしょうか。周囲の人から死ねと言われても、神は生きろと言っているから、自分は生きて良いのだと、生きる意志を持つことができるようになると思うのです。創造論では、生きる意志のないところに生きる意志を与えることができます。しかし、吉野様のご意見に従うならば、生きる意志がない、あるいは失ったところでは、どんなに注意深く探したところで、生きる意志を見つけることができないのではないでしょうか。気がつけと言われても、所詮ないものはないので、もし気がつくとすれば、自分には生きる意志がないと言うことに気づくだけではないのでしょうか。


>柳沢大臣のことでしょうか?しかし「子供を産まない女性には生きる価値がない」などという発言は無かったと記憶しますが・・

 ご指摘の通りで、大臣はそこまで暴言を言ったわけではありません。ただ、「子供二人持つことは健全」という発言はしており、その奥に潜む思想(子供産まないのは不健全→産めない女性は〜)を私が拡大したものです。

>私の命が誰か他の命を育むため、あるいは新しい命を産み出すために直接間接を問わず役立つなら生きる意味は十分にあるというような意味です。

 そういう意味なら意味は少しはあるでしょう。しかし、本質的な点において、命を持つだけで、他との関係なくてもその命の意味がなければならないと私は考えます。吉野様の主張に従えば、絶滅動物の最後の一匹の命は価値がないことになりませんか。

>逆に命を次の世代につなぐことが出来ないのなら、現在の生にどのような意味があるでしょう。

 生きることそのものに意味があります。命を与えられた神を愛し、神に感謝することを神は喜ばれます。それゆえにどんな命にも意味があります。

>>人間がゴキブリを殺し、牛を殺して食べることと人を殺すこととの違い

>これは本質において同じ、と考えております。
>価値の無い人間〜は存在しないと思っています。

ゴキブリを殺すことと人を殺すことが本質的に同じと考えておられるのであるならば、価値のない人間は存在しないと言う以上、価値のないゴキブリもいないという事になるのではありませんか。そして、価値のあるゴキブリを殺すのは、人間のエゴだという解釈でよいでしょうか。吉野様が何を理由に価値のない人間はいないとお考えなのか、もう少し教えていただけないでしょうか。

>その行為の是非はまた別の次元の話です。
両者の行為が本質的に同じならば、あえて別次元の話にする必要がないのではありませんか。同じ土俵の上で論じることができるのではないでしょうか。また、別次元の話として、そこにもし倫理を持ち出すのであるならば、善悪の基準はなんなのか、それを誰が決めるのか、論じる必要があると思います。絶対者の存在を認めない進化論にもとづけば、別次元の話にしても、相対的な善悪論にしかならず、本質的に同じ事になるのではないでしょうか。


>これまでの歴史において「価値の無い人間の命を奪っていい」と言ってきたのは「宗教」であったかと思います。

 「宗教」の名をかたった人間のエゴだとおもいます。

>「進化論(あるいは自然科学)が人の命を奪うことを是としているわけではない」ということはご承知いただけますか?

 進化論が、ゴキブリの命を奪うことと人の命を奪うことが本質的に同じだと主張するのであるならば、害虫駆除を正しいことと考える人にとっては、人の命を奪うことも正当化する理由付けになるのではないでしょうか。
 自然科学は人の死を是とはしませんが、進化論は是とするのではないでしょうか。
 

吉野様へ 1

 投稿者:斉藤愛輝  投稿日:2007年 6月 2日(土)08時40分57秒
  お返事が遅くなってしまい申し訳ありません。


>「大人たちが、子供たちの品性の健全な成長を阻害しかねない現状」を変えるには
まず自分自身が少しでも、との思いはあります。

私の誤解のようでした。安心いたしました。


>いずれにしても生命の起源についてはまだ定説と言える「科学的理論」は存在しておらず、自然科学としては殆ど謎のままと言っていいものと認識しています。

私の知る限りでは、生命の起源についての説明はどれも一言で言うならば、「奇跡」によるものです。確率的には、決してあり得ないことが起きたからです。もし、奇跡を受けいるれるならば、奇跡を起こす存在を認める方がはるかに合理的な考えなのではないでしょうか。生命の起源は謎だとお認めになりながら、吉野様が創造論を完全に否定されるのは、多くの人が言うように、創造論が反証不能の神を前提に話を進めるからですか。
 もし、そうであるならば、「科学」とは何かという定義の問題を考えなければなりません。近代科学の父と呼ばれるニュートンは敬虔なクリスチャンであり、神がこの世界を造ったという意識の下に、自然を研究し、万有引力を発見したことは既知の事実です。ニュートンに限らず、進化論が登場する以前は、ほとんどの科学者が創造論を受け入れていたといって良いでしょう。つまり、神という反証不能なことを前提とした科学者たちによって、近代科学は発展してきました。神を前提とすることになんの問題もなかったのです。さらにいえば、この神を前提とする考えによらなければ、近代科学は進化できなかったとも言えます。この世界が合理的に説明できるのは、合理的に神が創造したためであると、彼らは考えたからです。
 しかし、ダーウィン以後「科学」の定義が急速に変わりました。進化論を認めるためには、神は邪魔者となったからです。科学が神を追い出したのではなく、進化論が神を除いたのです。

>「神によって創造されたという創造論を積極的に否定している」のではなく、
「創造論が自然科学的に正しいとすることを否定している」のだと認識します。
「創造主を前提とするわけにいかない(というよりしていない)」というのはその通りだと思いますが、それが直接的に「神の存在の否定」ではないと認識しております。

 これも「科学」とは何かという定義によるのではないでしょうか。また。「神」の定義にもよります。私のような聖書を文字通り信じるものの「神」理解と、吉野様を初めとする進化論者の認める「神」とは大きく異なります。ですから、進化論者が創造論者と話すときには、もっと宗教を学ぶ必要があると思います。創造論者は進化論を誤解しているので、進化論を正しくきちんと学んでほしいというようなことがしばしば言われますが、創造論者に言わせれば、進化論者にももっと聖書を正しく理解して欲しいと願っています。

>自然科学は対象範囲を明確にするものです。神(創造主)は自然科学の対象範囲の外におわしますので。

 神は科学の対象外にいるというご指摘はその通りです。しかし、それゆえに、神を前提にすると科学ではなくなると言うのであるならば、近代科学の成立を説明することは不可能です。進化論者のご意見は、科学の歴史を無視した説明ではないでしょうか。


>ですから進化に「神の意思」や「神の目的」がある、という「お話」を否定する気はありません。「科学的な理論」としては不完全(というより不成立)だというだけです。

 私にとっては、神の意志も目的も明確な事実なので、「お話」ではありません。事実に基づくことなので、科学の対象になると考えているのです。

>「お話」がそれとして成立するために科学は必要ないでしょう。
そして自然科学からすれば、事実として範囲外です。

個々が本質的な理解の違いですね。創造論者は、「事実」としてとらえているので、科学なのです。ニュートンたちも、「お話」ではなく「事実」として創造を受け入れていました。吉野様の考えによるならば、ニュートンらは科学を研究したのではないことになります。

>申し訳ありませんが、宗教論争をすることは私の意図するところではありません。
私が言いたいのは「自然科学」と「神への信仰」が必ずしも互いを排斥するものではないということです。

宗教論争をしようとは私も思いませんが、「科学」と「神への信仰」を論じようとするならば、宗教を学ばなければできないと思います。聖書をきちんと学ばずに、創造論を批判する進化論者は、進化論を自分の勝手な思いこみで否定する創造論者と同じことではないでしょうか。聖書を学ぶ気はないとおっしゃるのであるならば、それまでですが、せっかくの機会ですので、お近くの教会で聖書を学ばれることを私はお勧めいたします。
 

斎藤様へ res3

 投稿者:吉野真一  投稿日:2007年 5月28日(月)21時07分34秒
  >>「自然科学教育は人格形成に無意味である」との意見には賛成できないと考えます。

>科学教育そのものが無意味だといっているのではなく、「この偉大な目標に比べれば無意味なものの部類に入ります」と言っているだけです

二極論で言えば「無意味である」ということですね。

>科学教育を受けることで、聖書を否定し、神を信じなくなるくらいだったら、やる意味が無いということです。
>それが魂をイエス・キリストから引き離すのであれば、何の意味も無く、やらないほうがずっとましだということです。

これは字義通りにとるならば、キリスト教以外の一切の宗教は捨象されるべきだということですか?
それが「創造論教育の目標」である、ということならば私はそれには賛成できかねます。
また、「聖書」の記述に反する「自然科学」の観測結果は全て否定されるべきだ
(宗教による科学の排斥は是である)というお考えであれば、私はそれを容れることはできません。

先にも述べたとおり、「子供達や青年たちの品性を形作」るために、「自然科学」とは別に多くのものが必要だということはそのとおりです。
そのひとつとして聖書の創造の物語があるという考えには何ら反対いたしません。
聖書を学んでキリスト教に入信し、神による創造を語るのは自由です。
そのなかで自分の人生の目的を見出し、目標を定めて、「正しくあろう」と生きることは立派で素晴らしいことであろうと理解します。
ただし、それと同様の、品性の涵養が聖書の教えによってのみ為されるものであるとは思いませんし、
何れを人生の拠所とするかは自分の意思で、自らの思考思索の帰結としてあるべきだと思います。
また同時に、宗教や哲学・思想は人の内側、自然科学は人の外側の世界にあるものであり、
内と外それぞれ別の次元に両立してこそ意味があるものだと思います。
であるからこそ、外の世界に対する正しい態度としての「自然科学」教育は必要だと思います。
「自分で考え」た結果として、
「自然科学はこう教えているが、私は心情的には創造論が正しいと思う」、とすることは個人の自由の範疇です。
が、盲信は「思考停止」です(「自然科学」を盲信することも同様ですが、「科学」の本質が疑ってかかる事であるというのは以前に述べたとおりですから、「盲信」した時点でそれは正しい意味で科学ではありません)。

>こうした理解は、人はみな死後神の裁きを受けて、永遠の命を得るか、永遠の滅びを受けるかのどちらかだという考えからきています。この世の命ははかないものですが、神が約束している命は永遠です。

それはキリスト教の教義であり「キリスト教における真理」ですね。
そのことは自然科学ではどうやっても実証出来ないことではありますが、
だからといってそれが無意味・無価値だなどとは言いませんし、
そんなことを主張する科学者は多くない筈だと確信します。

>この栄誉を得ることに比べれば、ノーベル医学賞などはごみ同然です。

それもひとつの価値観であって、斉藤様がそうお考えになっていることはわかりました。
私が、そのような栄誉はべつに欲しくは無くて、
それに比べれば自然科学の成果を利用することで多くの命を支え、永らえさせることに貢献できる方が嬉しい、
と申し上げたなら誹られるかもしれませんが、そのような考えがあることもご理解いただけましょうか。

 私は私なりに、教育の目的や人間の命について、また人生の目的について考えて来ました。
申し訳ありませんが、斉藤様のお考えとは聊か異なる考えであるようです。
こちらに来て自分の考えをかたちにするいい機会をいただけたと思います。
私にはまだ明確な答えと言えるものはありません。
これからもこの問題について考えていくことになるでしょう。
今回、斉藤様のお考えに触れられたことは私にとっては有意義であったと思います。
こちらから一方的に押しかけて長々と書きこんでしまい、
またこの掲示板のローカルルールに大きく抵触してしまったのではないかと恐縮しております。

>創造論者が進化論になぜ反対するのか、創造論教育の目標がどこにあるのかなどを理解していただければ幸いです。

これからも考え続けて参ります。
 

斎藤様へ res2

 投稿者:吉野真一  投稿日:2007年 5月28日(月)21時04分16秒
  申し訳ありませんが、宗教論争をすることは私の意図するところではありません。
私が言いたいのは「自然科学」と「神への信仰」が必ずしも互いを排斥するものではないということです。

>ダーウィンは〜聖書の記述は誤っていると考え、聖書の述べる6日間の創造を否定するようになりました。

ダーウィンの聖書に対する考えは存じません。
ですから6日間の創造を否定した背景にそのような考えがあったかは、現時点で私にはなんとも判断のしようがありません。


>進化論に基づくと自殺者が増えたほうが、より生きようとする意志の強いものだけが生き残り、競争社会に適応した勝者が増えてよい、となるのではないでしょうか。

それは誤解です。
生きようとする意志が「強いか弱いか」が問題なのではありません。
「有るか無いか」が問題だと申し上げたつもりです。

>自殺者は、社会に適応する努力を自ら怠った怠け者であって〜淘汰されて当然だということになるのではないでしょうか。

自殺者は「社会に適応する努力を自ら怠った怠け者」ではなく
「社会に適応する努力を自ら放棄した逃避者」だと思う、と申し上げております。
淘汰されたわけではなく、自分から逃げたのだと
(自殺者に対して過酷な言い方であることは認識しています。
誤解の無いように願いたいのですが、死んで当然などとは思っておりません)
まして進化論はそのようなことをいってはおりません。

>「生きる意志」無く「生きる」ことは有り得ません。

>人間だけが、生きる意志をなくすのはなぜなのでしょうか。
>神は人間にのみ、神を認める知性を与えられました。動物は意思というよりも本能によって、生存しようとすると思います。しかし、人間は本能よりも理性が優先します。

余談ですが、動物に知性が無いと断言する根拠はなんでしょう?
我々が理解する知性とは違うかたちの知性が存在する可能性を否定しなければならない理由がわかりません。
「本能よりも理性が優先します」というのは、
本能だけでは「生きる意志」を持ち続けることができない
=理性が「生きる意志」を損なう、あるいは「生きる意志」を失った「理性」が「自殺」という行動を促す
という意味に聞こえます。
それとも、
「特別な生きる目的なしに生きることは動物と同じだから意味の無い生だ」
と仰せなのでしょうか。


誤解を懼れずにいわせていただけるならば、
「生きる目的を失った」という甘えた理由(そしてそれは、往々にして思い込みに過ぎない)で死を選ぶ(あるいは死を望む)というのは、
確かに人間だけといっていいかと思います。
私などは、斉藤様がおっしゃるとおり、「生きる意志」とは「生存本能」に等しく、
そしてそれこそが文字通り神に与えられたものといえるかも知れない、と思います。


>どのように「死ぬな。生きる意思を持て」「生きる価値がある」と言えばいいとお考えですか。

「生きる意志を持て」は「生きる意志に気づけ」と言い改めさせていただきましょう。

>創造論においては、本人がいかに生きようとする意思を持つかは問題でありません。その意思が無くても弱くてもかまいません。生きる意思は彼を目的を持って作られた創造主によって、与えられるものだからです。

私はいかに「生きようとする意思を持つ(意志に気づく)かこそが重要だ」と思っているということです。
それが神に与えられようと、あるいは与えられたものだと気づこうと、自分で見出そうとどちらでも構わないと思っています。
いま生きている瞬間にそれが存在しているのだということに気づくことが重要なのであって、その筋道やテキストは問題ではないと思います。
生きている限り、人は変わることが出来るのですから。
(「死刑判決を〜」云々は問題がまったく別、論点が違いますよ。)

>>最初の生命から今の自分まで、〜無数の命たちの「生きる」意志に思いを馳せる事は無意味でしょうか?

>命をつなぐことに生きる意味があるというのであるならば、〜子供を産まない女性には生きる価値がないということになるのではありませんか。

柳沢大臣のことでしょうか?しかし「子供を産まない女性には生きる価値がない」などという発言は無かったと記憶しますが・・よろしければ何方の発言かお教えください。
「命をつなぐ」というのは子を産むという意味合いもありますが、私の中ではもう少し大きい意味で捉えています。私の命が誰か他の命を育むため、あるいは新しい命を産み出すために直接間接を問わず役立つなら生きる意味は十分にあるというような意味です。
逆に命を次の世代につなぐことが出来ないのなら、現在の生にどのような意味があるでしょう。

>人間がゴキブリを殺し、牛を殺して食べることと人を殺すこととの違い

これは本質において同じ、と考えております。
どちらも究極的には人のエゴによるものだと思いますので。
もちろんその行為の是非はまた別の次元の話です。

>価値のない人間の命だって奪っていいはずだ

価値の無い人間が存在するのなら、そう言うことも出来るかもしれません。
しかし私はそんな人間は存在しないと思っています。
誤解を懼れずに申し上げるなら、
これまでの歴史において「価値の無い人間の命を奪っていい」と言ってきたのは「宗教」であったかと思います。

>人の命を奪うことがいけないのか、進化論に基づく納得いく説明を私は知りません

そんな説明は存在しません。
進化論にそのような説明が必要であるとも思いません。
「進化論(あるいは自然科学)が人の命を奪うことを是としているわけではない」ということはご承知いただけますか?
 

斎藤様へ res1

 投稿者:吉野真一  投稿日:2007年 5月28日(月)20時59分50秒
  >>「学校」がどこまでそれを行うべきかについては、自ずと限界もあろうかと思います。むしろ「教師」がそれをするのではなく、「大人」たちが行うべきかと思います。

>肝心の「大人」たち自身が問題だということです。「大人」も頼りにはなりません。

>教育にかかわる「大人」としては少し無責任であるように感じました。



「大人」は須らく「先生」でなければならないと思っています。
ですから「大人」たちが行うべき、というのは
自分も含めて「大人」が責任を果たさなければならいのだ、
という自戒を込めて申したつもりです。
「教師」に押し付けて済む問題ではないと考えております。
「大人」が頼りにならないのは悲しむべき現実ではありますが
悲しんでばかりもおれません。
「大人たちが、子供たちの品性の健全な成長を阻害しかねない現状」を変えるには
まず自分自身が少しでも、との思いはあります。
私も「大人」で「先生」なのですから。
これも奇麗事ですか?

同世代の友人たちともよく語り合いますが、
「大人」たらんとする悩みと非力ながらもの苦闘を吐露しつつ、
僅かずつでも前進を心がけているつもりでおります。

「善悪を判断するときは、必ず自分で考えろ」、とは言うでしょうね。
ただ「行動する前に相談しろよ」とも付け加えて言うかな。
少なくとも「勝手にしろ」とは言いません。



>進化論は沈黙しているというのであるならば、生命の発生について述べている理論は、創造論しかないということなのですか。
>創造論のみが、生命発生についての唯一の説明であると理解してよろしいのでしょうか。
>私の理解では、一般には広義の意味での「進化論」において、生命の発生についても述べているとおもっていましたが

確かに「化学進化」では、「理論」として生命の発生について述べていますね。
これを「進化論」のうちに含めるかどうかは諸説あるところですが、
いずれにしても生命の起源についてはまだ定説と言える「科学的理論」は存在しておらず、
自然科学としては殆ど謎のままと言っていいものと認識しています。
「創造論」は生命の起源について述べていますが、科学的な「理論」でも「仮説」でもありません。


>>「進化論」が神による生命の創造を積極的に否定したことはありません。

>ドーキンスをはじめ現代の多くの進化論者は、神によって創造されたという創造論を積極的に否定しているのではありませんか。
>進化論自身、「科学」であるために創造主を前提とするわけにはいかないので、積極的に神を否定していると思います。

「神によって創造されたという創造論を積極的に否定している」のではなく、
「創造論が自然科学的に正しいとすることを否定している」のだと認識します。
「創造主を前提とするわけにいかない(というよりしていない)」というのはその通りだと思いますが、
それが直接的に「神の存在の否定」ではないと認識しております。
斉藤様をはじめとする此方の皆様にとっては同義かもしれませんが、
私からすれば本質的な違いであると思えます。
自然科学は対象範囲を明確にするものです。神(創造主)は自然科学の対象範囲の外におわしますので。


>>「生きる意志」が進化の原動力となって〜ヒトという種を生み出したのだと思います。
>>私は「進化」は「生きる」ことを目的とした生命の作為であり〜

>「意思」とか「目的」とか、普通の進化論者なら決して口にされない言葉をおっしゃられたので、驚きました。
>職場で批判され、お仕事に支障がでないかと心配いたします。

お気遣いいたみいりますが、「意思」とか「目的」とかというのは私の「思い」であって、
「科学的理論」などではありませんし、私はこのことを以って「理論」構築するつもりもありません。
私は科学的な議論の場でそのようなことを述べるつもりはありませんが、雑談としては
そのような「考え方」もあっていいのではないかと思っているということで、「お話」として話すのです。
ですから進化に「神の意思」や「神の目的」がある、という「お話」を否定する気はありません。
「科学的な理論」としては不完全(というより不成立)だというだけです。

>「意思」が進化の原動力というのであるならば、「神の意思」や「神の目的」も考えてもいいのではないのでしょうか。
>それらはすべて、人間の幸福のためであったと考えることはできないでしょうか。

先に述べたように、そのような「お話」で「生きる意味」を見出せるなら、それとして有意義だと思います。
「お話」がそれとして成立するために科学は必要ないでしょう。
そして自然科学からすれば、事実として範囲外です。
同時に、そのような「お話」が出来ないから「進化論」が無意味とは思わないのです。
 

吉野様へ 2

 投稿者:斉藤愛輝  投稿日:2007年 5月24日(木)00時13分53秒
  >生命の発生については進化論の対象外です。したがって「神による生命の創造」と「進化」を全く抵抗無く受け入れる人は少なくないはずです

 最初の生命こそ神が創造したが、その後は46億年の進化によって生命は多様になったと主張する有神論的進化論者の存在は存じています。数の上から言えば、少なくないどころか、私のような文字通りの6日間での創造を信じるものよりも多いと思います。しかし、私は彼らの主張は、聖書から見て明らかな誤りだと考えています。その理由は、このHPで何度も書いていることですが、有神論的進化論は、イエス・キリストが人間が犯した罪をあがなうために十字架で死んでくださったという聖書の言葉を完全に否定するからです。進化論によれば、人類登場以前に他の生物の死があります。聖書によれば、死は罪の結果です。したがって、人類以前の死は、最初に罪を犯した生き物は人間ではないということを意味します。それは、キリストは、人間の侵した罪のためではなく、他の生き物、たとえば魚の犯した罪のために死なれたことになってしまいます。しかし、これは聖書の内容とは異なります。有神論的進化論者は、進化論を受けいるために、聖書の解釈を変えてしまいました。彼らの述べる神は、「創造主」ではあっても、「愛の神」ではありません。争いと死と滅亡とを良しとする「冷酷で残酷な神」です。

 ダーウィンは、もし聖書のとおりならば神は愛であるから自然に残酷なところはないはずだ。しかし、実際には多くの残酷なものがあり、それゆえに愛の神はいない、聖書の記述は誤っていると考え、聖書の述べる6日間の創造を否定するようになりました。進化論は、死を前提とする以上、神の愛をも否定するのです。

 吉野様に知っていただきたいことは、有神論的進化論者が認める神は、聖書を文字通り信じる創造論者が考える神とは、別物であるということです。聖書を深く学ばなければご理解できない部分かもしれませんが、人間のために命を捨てる愛の神と進化論とは決して両立できないということを知っていただければ幸いです。

>自殺に走るということは社会に適応できなかった結果ということはできるかもしれませんが、社会の不適者=敗者では無い様に思います。

 敗者でなければいいのですが、現実にはどうでしょうか。私にはきれいごとを言っているように思います。吉野様ご自身がおっしゃるように「自殺しようとした」と言うことさえはばかられる社会です。誤解を恐れずに過激なことを言えば、進化論に基づくと自殺者が増えたほうが、より生きようとする意志の強いものだけが生き残り、競争社会に適応した勝者が増えてよい、となるのではないでしょうか。自殺者は、社会に適応する努力を自ら怠った怠け者であって、成果主義の社会においては、そんな怠け者は価値がなく、淘汰されて当然だということになるのではないでしょうか。


>「生きる意志」無く「生きる」ことは有り得ません。

確かのそのとおりです。ただ、生きる意志は生き物すべてが持っていますが、自殺は人間だけといっていいでしょう。人間だけが、生きる意志をなくすのはなぜなのでしょうか。「生きる意志」自体、神から与えられたものです。神は人間にのみ、神を認める知性を与えられました。動物は意思というよりも本能によって、生存しようとすると思います。しかし、人間は本能よりも理性が優先します。ある人は、人間と動物の違いは宗教だといいました。それゆえに、人は神を見失うときに、自分の存在意義を忘れ、自分の生きる意味を見失うのだと思います。なぜ自分には生きようとする意思があるのか、そのことを問う時に、創造主を見出すことができるのではないかと思います。

>幸いなことにそう言ってくれる友を得ることができました。

 それはよかったですね。吉野様は幸いでしたがほかの人もそうとは限りません。誰も言ってくれないときにどうしたらいいのでしょうか。親からも友人からも裏切られ、見捨てられて人が信じられなくなった人がいます。重罪を犯し、死刑判決を受けた人もいます。世間からは「早く死んでお詫びしろ」といわれることでしょう。そういう人々に対して、どのように「死ぬな。生きる意思を持て」「生きる価値がある」と言えばいいとお考えですか。
 創造論者は、たとえどんなに人の目には価値が無いように見えても、神の目には価値があることを述べることができます。人は信じられなくても神は信じられます。創造主は、生きる意思を失ったものに意思を与え、価値のないところに価値を作り出し、生きる希望と喜びを与えられます。創造論においては、本人がいかに生きようとする意思を持つかは問題でありません。その意思が無くても弱くてもかまいません。生きる意思は彼を目的を持って作られた創造主によって、与えられるものだからです。「意思を持て」といって持つことができるのは、幸せなケースに限られるのではないでしょうか。

>最初の生命から今の自分まで、「生きる意志」が生命をつないできた数億年の時間のことを考えてみてほしい、と私は告げるでしょう。自分が生まれ生きていくためにあった無数の命たちの「生きる」意志に思いを馳せる事は無意味でしょうか?

 私にとっては無意味です。もし、命をつなぐことに生きる意味があるというのであるならば、某大臣の発言ではありませんが、子供を産まない女性には生きる価値がないということになるのではありませんか。たとえあったとしても、それは命をつないだ女性と同等のものでしょうか。また、無数の命の「生きる意思」に思いを寄せるなら、人間がゴキブリを殺し、牛を殺して食べることと人を殺すこととの違いをうまく説明できるのでしょうか。命の生きる意思に逆らって命を奪うことが許されるならば、価値のない人間の命だって奪っていいはずだと言われるのではありませんか。なぜ人の命を奪うことがいけないのか、進化論に基づく納得いく説明を私は知りませんので、ぜひ教えてください。

>「自然科学教育は人格形成に無意味である」との意見には賛成できないと考えます。

原点に戻って考えますと、エレン・ホワイトは科学教育そのものが無意味だといっているのではなく、「この偉大な目標に比べれば無意味なものの部類に入ります」と言っているだけですので、誤解なきようお願いいたします。そして、科学教育よりももっと大事な目標とは「子供達や青年たちの品性を形作って、キリストの像を回復すること」です。
 聖書には「人はたとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(マタイ16:26)という有名な言葉があります。ホワイトが言いたいのはまさにここです。科学教育を受けることで、聖書を否定し、神を信じなくなるくらいだったら、やる意味が無いということです。これは科学に限りません。文学であろうと、音楽であろうと、語学であろうと、それが魂をイエス・キリストから引き離すのであれば、何の意味も無く、やらないほうがずっとましだということです。こうした理解は、人はみな死後神の裁きを受けて、永遠の命を得るか、永遠の滅びを受けるかのどちらかだという考えからきています。この世の命ははかないものですが、神が約束している命は永遠です。この栄誉を得ることに比べれば、ノーベル医学賞などはごみ同然です。
 私はホワイトの言葉に賛成するので、吉野様にも、教育の目的や人間の命について、また人生の目的について考えていただきたく、長々と書かせていただきました。創造論者が進化論になぜ反対するのか、創造論教育の目標がどこにあるのかなどを理解していただければ幸いです。
 

吉野様へ 1

 投稿者:斉藤愛輝  投稿日:2007年 5月24日(木)00時06分22秒
  長文失礼します

>「学校」がどこまでそれを行うべきかについては、自ずと限界もあろうかと思います。むしろ「教師」がそれをするのではなく、「大人」たちが行うべきかと思います。

おっしゃるとおりですが、2点質問があります。
第一はその肝心の「大人」たち自身が問題だということです。「大人」も頼りにはなりません。吉野様は、現代社会の大人たちが、子供たちの品性の健全な成長を阻害しかねない現状をどう考えておられますか。これまでの発言から推測すると、子供たちに対して「自分で善悪を考えて行動しろ」とおっしゃるのでしょうか。
 もし、そうならば私は反対です。私なら、自分で判断するのではなく、唯一の善である神に従うように生徒に教えます。自分で善悪を判断できるのであるなら、とっくにこの世界から犯罪はなくなっているはずです。しかし、実際にはなくなるどころか時代が進むにつれ、犯罪が多くなってきているように見えます。家庭教育の不十分な生徒が多いということは、つまり善悪の判断が不十分な生徒のみならず大人たちも多いということなのですから。


 第2点として、「大人」たちが行うべきだという発言は、失礼ながら教育にかかわる「大人」としては少し無責任であるように感じました。評論家の発言なら許されるでしょうが、実際に教育現場にいらっしゃるのであるのならば、実際に何ができるかをもっと問うべきなのではないのでしょうか。「大人」という中に、吉野様ご自身も含まれています。吉野様がかかわる生徒一人一人に対して、家庭教育の不足をどう補うか、どう「生きる意志」を伝えるのか、何を基準に善悪を決めればいいのか、そうしたことを教えることが、「大人」としてより必要なのではないのでしょうか。

>「進化論」は生命の発生についてはなんら述べていない、と反論させていただきます。

よく言われる反論で、狭義の意味では確かにそのとおりだと思います。しかし、それならお聞きしたいのですが、進化論は沈黙しているというのであるならば、生命の発生について述べている理論は、創造論しかないということなのですか。創造論のみが、生命発生についての唯一の説明であると理解してよろしいのでしょうか。私の理解では、一般には広義の意味での「進化論」において、生命の発生についても述べているとおもっていましたが、間違いだったのでしょうか。


>「進化論」が神による生命の創造を積極的に否定したことはありません。

そうでしょうか。ドーキンスをはじめ現代の多くの進化論者は、神によって創造されたという創造論を積極的に否定しているのではありませんか。少なくても、私がこれまでネットでかかわった進化論者たちは、創造論を「消極的に」は否定はしませんでした。みなさん、確信を持って、創造論を積極的に否定され、私は悪く言えば罵倒されました。進化論自身、「科学」であるために創造主を前提とするわけにはいかないので、積極的に神を否定していると思います。

>「進化論」は限界のある理論ですが、自然科学としては当然のことであるといえます

進化論者としては当然のご意見だと思いますが、創造論者の私に言わせれば、進化論は自然科学としては破綻していると思います。こんな根拠の乏しい、空論がなぜ通用しているのかきわめて不思議です。創造論のほうが、進化論よりも合理的な理論だと思います。

>「生きる意志」が進化の原動力となって〜ヒトという種を生み出したのだと思います。
>私は「進化」は「生きる」ことを目的とした生命の作為であり、全ての生命は生きる」ことを目的に生まれるのだ、ということもできると思うのです

 勇気ある発言に感銘いたしました。「意思」とか「目的」とか、普通の進化論者なら決して口にされない言葉をおっしゃられたので、驚きました。「吉野様はおかしい」と職場で批判され、お仕事に支障がでないかと心配いたします。言いにくいことを無理に言わせたようで申し訳なく思っています。もし、これ以上ご自分の立場を悪くするようであるならば、事情はわかりますから、遠慮されずにもう発言なされないでください。

 一応、私の反論を書かせていただきます。「意思」が進化の原動力というのであるならば、「神の意思」や「神の目的」も考えてもいいのではないのでしょうか。神の意思によって、地球は生命が住みやすい環境に前もって創造され、それから生命が創造された。神は生命が繁殖することを目的とし、また環境に合わせて変化を遂げるように設計して創造された。それらはすべて、人間の幸福のためであったと考えることはできないでしょうか。
 

斎藤様へ

 投稿者:吉野真一  投稿日:2007年 5月20日(日)20時21分25秒
  >今は家庭教育の不十分な生徒が多くなっているのではないかと思います。それは、それだけ学校での教育が重要になっていることを意味します。

>だからこそ、教師には、教える教科だけを考えればいいと言うのではないと私は思うのです。

 基本的には同意ですが、「学校」がどこまでそれを行うべきかについては、自ずと限界もあろうかと思います。むしろ「教師」がそれをするのではなく、「大人」たちが行うべきかと思います。

>私たち創造論者が創造論を受け入れるのはその「考える」能力がないからだとお考えですか。

 今回の書き込みにおいて創造論を云々することは私の意図するところではありません。もし私の書き込みがそのように読めたとしたら、私の文章力によるものですから、お詫びします。
今回の論点は「自然科学教育」であろうと意識しております。此方の掲示板の趣旨は承知しておりますが、配慮が足りなかったということでしょう。


>たとえば、生命の起源について、神が創造したと考える方が、生命が自然発生したと考えるよりもはるかに合理的だと思います。

 この点については少なくとも「進化論」は生命の発生についてはなんら述べていない、と反論させていただきます。「進化論」が神による生命の創造を積極的に否定したことはありません。それは「進化論」では否定も肯定もできないことだからです(進化があったという主張そのものが「創造論」と相容れないものであるという論調は理解しておりますので、その部分についての議論は回避させていただきます)。「進化論」は限界のある理論ですが、自然科学としては当然のことであるといえます。


>確かに進化論は人生の目的を述べる論ではありません。しかし、人間の起源については、進化か創造か、目的ありかなしかのどちらかです。そして、明らかに進化論の立場は、人間は無目的に誕生したというものです。進化論では人生の目的を述べることができないと私が言ったのはそういう意味です。

 これに対しいかに述べることは私個人の考え方であり、進化論者の考えでないことをはじめにお断りしておきます。
 私はヒトという種が誕生したときに何の目的も無かったとは思いません。そしてそれはヒト以外の全ての生物種についても同様です。全ての生命は、生きるために変化しつづけ、それが進化に繋がってきたのだと思うからです。「生きる意志」が進化の原動力となって全ての生きる(そしてかつて生きてきた)生物種を生み出し、ヒトという種を生み出したのだと思います。そしてヒトは生き続けるためにさらなる進化を遂げることができるかもしれないのです。これは個々の「人生」とは別ですが、私がいつか来る次の世代の種に向けてバトンを受け渡すランナーかもしれないという思いは、私がここに在って生きている意味の一つとして、不足なものではありません。
(あくまで個人的なものです、念のため)
ですから私は「進化」は「生きる」ことを目的とした生命の作為であり、全ての生命は「生きる」ことを目的に生まれるのだ、ということもできると思うのです。(進化論を研究する方々からはラマルク的だと批判されるかもしれないなぁ)



>現代の進化論はその理論の前提として、創造主なる神を抹殺しなければ成立しないと思います。

 上で述べたように、生命の発生については進化論の対象外です。したがって「神による生命の創造」と「進化」を全く抵抗無く受け入れる人は少なくないはずです。ただ、6日間の天地創造とは真っ向から対立せざるを得ませんが、それはこと進化に限っての話ではありません。


>>私には、他人様に人生の意味を教えることなど出来ません。

>それは人生の意味を考え悩む生徒にとって、大きな損失となるのではないのでしょうか。

 私が「他人に人生の意味を教えることが出来ない」のは私の未熟によるものですが、少なくとも共に考えることは出来ますし、教えることが出来ないから放棄するというわけではありません。励まし、手を差し伸べ、自分の経験を語ることもするでしょう。私には「教える」という言葉が「私の倣岸」に思えたと解釈いただければ幸いです。

>>生きる力とはどのようなものでどうすれば与えることができるのでしょう。
私は生きる力とはすなわち生きようとする意志の力であろうと思います。

>私は「生きる力」とは、「愛されている実感」であり、「自己の受容性」だと思います。

 そうですね。それもまた「生きようとする意志」を喚起する材料に成り得ると思います。

>もし自分の意志の力で生きていけるのであれば、簡単なことではないのでしょうか。

 乗り切ってしまえば簡単なことと言える部分はあると思います。コロンブスの卵には一面の真理が含まれているでしょう。恥を忍んで申し上げるなら、私もかつて死を思ったことがありました。死を思いつつ、結局生きている・・・自分の生命が死を望んでいないのだということが理解できてしまえば、後は簡単でした。(逆説的ではありますが)死ぬことはいつでも出来る、嫌でもいつかは必ず死ぬ。そんな風に切り替えることができました。それまでは生きてやる、と。

>そうであれば自殺したものは「意志が弱いもの」というレッテルを貼られ、敗者であり、社会の不適者となるのではないのでしょうか。

 自分の意思が強い、強かったなどとは思いません。自殺という行為を完遂するには、(それが多分に自棄的なものであるにせよ)それなりの意思の力を必要とするわけで、「意思が弱い」とは一括りにはできないと思います。
 しかし、自殺という行為そのものはどうとらえても「逃避」でしかありませんし、その意味で「敗者」であるという客観的評価は免れないと思います。社会の不適者というのは、適応できなかったから悪い、という意味ですか?確かに自殺に走るということは社会に適応できなかった結果ということはできるかもしれませんが、社会の不適者=敗者では無い様に思います。

>こういう考えは、まさに適者生存を認める進化論の考えそのものではないでしょうか。だからこそ、私は、進化論には人を生かす力はないと言いたいのです。

 これもよくある誤解と言えると思いますが、「進化論」には「適者生存」という言葉はありません。正しくは「適応放散」と言うべきであり、以下はその意味で述べます。
 生存競争の勝敗、という考え方は確かに存在しますが、それは固体と世代を超えた話です。生きようとしたものが生き残るのです。自分で生きる術を模索し「生きる意志」を示して「生命」の力を行使したものが生き残ってきたのです。「生命」の力とは、外部環境を受け入れ、あるときこれに働きかけることです。
「適応」を、生き続けて世代を重ねられれば勝者、世代を越えて生き残れなくなれば敗者と考えるなら、最初から敗者であるものは存在しません。かつて勝者であったから敗者になるのです。
 まして「適者生存」と「弱肉強食」は(よく混同されますが)別の概念ですね。「弱者」であっても生き残る術はあり、生き残れば「勝者」なのですから。

自殺者は本来は「勝者」であったのに、それを自分で放棄したのです。「適応」できなかったのではなく「適応」する努力を放棄したのです。本来的に「敗者」であったわけではありません。


> 「あなたは〜」と言うことができるは、そんな人間を創造した方だけです。

 私は幸いなことにそう言ってくれる友を得ることができました。が、別に彼が私を創造してくれたわけではありません。もちろん、創造主が彼の口を借りて語ってくれただけなのかもしれません。尤も、彼は神主ですが。

>「あなたは神に愛されている。あなたは神の目には価値ある存在だ。」こうしたメッセージを与える方が、単に「意志を強く持て」というよりもはるかに自殺防止には役立つと私は思います。

 これも私の言葉が足りなかったのかもしれません。「意思を強く持て」ではなく、「何がなんでも生きてやる」という意志を示せ、と私なら言うだろう、と申し上げたのです。「自己」を肯定的に受け止めてくれる存在が「生きる力」を導き出してくれることは間違いのないところですし、賛成します。が、その本質は「生きる意志」を自覚することだと思うのです。だからそれを自分の意識の前面に押し立ててやる。「生きる意志」無く「生きる」ことは有り得ません。それこそ物質と同じでそこに「在る」だけです。強かろうと弱かろうと、関係ないと思うのです。意思が「有る」かどうか、そして生きているからには必ず「生きる(生きようとする)意思」があるのだ、ということを自身で確認することが重要なのだと思うのです。

 生きる意味が見つからないのなら、それが見つかるまで生き抜いてみればいいのです。世の誰も認めてくれなくても(造物主は別ですよ)、自分の「生命」は生きようとしていることを知ってほしい。あるいは自分がこの場所に立つまでに積み重ねられてきた歴史、それこそ最初の生命から今の自分まで、「生きる意志」が生命をつないできた数億年の時間のことを考えてみてほしい、と私は告げるでしょう。自分が生まれ生きていくためにあった無数の命たちの「生きる」意志に思いを馳せる事は無意味でしょうか?



>科学は人生の意味を問う「ための」ものではありませんが、結果として人生の意味を問うことになります。科学は「どのように生きるか」という問いに無関係ではいられません。

>なぜなら、科学を学ぶものは、サルではなく、人生の意味を考える人間だからです。

 意地悪な言い方をすれば、サルたちが人(猿)生の意味について考えていない、などとは誰にも断言できない、と考えることが「自然科学」の発想であるのです。もちろん、サルたちがどのような思索を行っていようと我々には直接の関係は無いわけですが、そのように考えてみることで「彼らでさえ悩みながら生きるために頑張っているかもしれないのに、我々がそれを疎かにして良い筈がない」と考えることもまた可能だと思うのです。

>なぜ勉強するのか、自分は生きていて意味があるのか、人生の目的はなにか、を考え悩む中学高校生に、科学を教えるときには、こうした彼らの持つ本質的な問いに答える絶好の機会だととらえて、科学を通して人生についても語るべきだと私は思います。

「科学」を、「人生を考えるための材料」として使うことはできても、「科学」で人生を語ることは適当でないように思います。何故なら「科学」には必然的に(未発見の)錯誤や誤解が含まれるからです。教育に携わるからこそ、その立場を堅持しなければならないと思っております。それを踏まえて用いるなら、「自然科学」はそれを学ぶものの人格形成に有意に働くものと思います。何より「自然科学」はヒトをさえその内において(数多ある構成要素のひとつとして)、巨視的視野で相対的にとらえてこそ価値のあるものだと思うのです。外面から存在の意味を考えるときに、その実験の手法や論理展開の技能技法は役に立つと考えます。
無論それのみで人格が完成することは、残念ながら(確信をもって)あり得ませんから、哲学や道徳など、内面から「考える」ことと合わせて、両輪として進むことが理想だろうと考えます。ですから、「自然科学教育は人格形成に無意味である」との意見には賛成できないと考えます。

 拙速とならぬよう、自分の考えを言葉にするのに時間がかかってしまいました(結果としては拙遅とでも言うべき有り様ではありますが)。ともあれ、長文ならびに連投、失礼致しました。
 

管理人様へ

 投稿者:吉野真一  投稿日:2007年 5月20日(日)19時57分57秒
  私のような若輩に、満足な議論など出来よう筈もありませんが、思うところを述べさせていただきます。

「私は進化論が絶対に正しいとは申しません」と述べたのは、それが自然科学の範疇にあるからです。私が師事した恩師は常に「自然科学を学ぶならば既存の知識はまず疑ってかかれ。既存の知を覆されることを恐れるな」と語っておられました。科学の世界は日進月歩しており、「過去においてどれほど確信を持って語られようと、新たな(より正確な)成果を伴う理論の前には道を譲らざるを得ないのだ」と。「進化論」を例にとるならば、ダーウィンが提唱したそれと現代の主流である論は完全に同じではありません。


>しかし、進化論の発祥の原点には「生き物が神の6日間の創造
>によってできたということは絶対にありえない」という主張から出発しています。

これは認識が違うように思います。
少なくとも「種の起源」を著して「進化論」を世に出したダーウィン(そしてウォーレス)はそのようなことを考えてはいなかったでしょう。
進化論の発祥の原点は「生物が多種多様に変化発展している状況は『進化』という概念を用いることによって理解することが可能である」という主張であると考えます。結果として聖書の記述とは相違が生じてしまっていますが、これを否定することが目的ではないでしょう。

>進化論者が自らの知識を絶対に正しいとふりかぶることはなくても、神の創造を否
>定する所に始まったという所に問題があるのです。

管理人様は本質は同じとお考えかもしれませんが、私は大きな違いだと思います。


>一方、創造論は一般に神がこの世界と生き物を一日のうちに作られたということが
>正しいと主張します。

>それは聖書の記述に基づくのであるから、科学的考証による
>のではありません。

「創造論の主張は聖書の記述に基づくものであり、科学的考証を経ていない」ということですね。

>「神の創造は絶対に正しい」という主張から
>出発していないということです。創造科学の特徴は、聖書の記述は一旦横において、
>自然科学現象や生物の観察により聖書の記述が説明できるかどうかをシリアスに検
>証する科学です。

これに対し「創造科学は事象の観察を通じて聖書の記述についての説明を試みこれを検証する」ということで宜しいでしょうか。

私はここで、できるかどうかの「検証」の対象となるものが何か、というところが気になるのです。「検証」の結果がネガティブであったときに、「説明」のみが捨象され、「聖書の記述」については否定されることが無いのであれば、それは「科学」でしょうか。なんとなれば「進化論」もまた事象の観察を通じてなされた理論(説明)です。それは「聖書の記述」を説明するものではありませんが(そして否定的ではありますが)、科学の世界でシリアスな検証を受けてこれをクリアしてきています。もちろん完璧にではありませんが、それが科学である以上当然のことと理解します。
「神の創造は絶対に正しいという主張から出発していない」のであっても、必ずそこに行き着くことが前提であって覆ることが無いのなら、果たしてそれは「科学」なのだろうかと思えてしまうのです。

>神のなされた業から事実を演繹する人は創造科学を支援しているのです。

これは前段の“「神の創造は絶対に正しい」という主張から出発していないということです”という記述と矛盾しませんでしょうか。

この掲示板のローカルルールに抵触してしまったかもしれません。批判的意見となってしまったことについて謝罪します。
信仰の上で「創造論」を語られることを否定するものではありません。生命は神が創り賜うたものであると信じ、それを拠りどころとして「正しく」生きようとすることは一面で正しい生き方でしょう。人生に意味を見出せることに優る喜びは無いと思います。また、自然に目を向けるとき、その見事な調和に感動を覚え、そこに神を感じるひともあるでしょう。事実として、地球最初の生命の誕生はまだほとんど謎のままです(誤解のないように申し添えますが、「進化」は「最初の生命の発生」について述べることは目的としておりません)から、そこには様々な意見があっていいでしょう。

>おそらく真摯な人が進化論を極めようとすると、いずれは創造科学の道にゆくので
>はないかと思えます。

それについてはわかりませんが、進化論を研究する人が、「創造論が否定された」として神を捨てるとは私には思えません。
 

吉野様へ

 投稿者:斉藤愛輝  投稿日:2007年 5月10日(木)20時57分37秒
  >学校教育の前の段階としての家庭教育について

確かに、家庭教育は学校教育の前段階ですが、今は家庭教育の不十分な生徒が多くなっているのではないかと思います。それは、それだけ学校での教育が重要になっていることを意味します。だからこそ、教師には、教える教科だけを考えればいいと言うのではないと私は思うのです。



>そのためにも正しいコミュニケーション等々の学校以前の基礎の重要性を強く感じます。
ごもっともです。

>科学的知識」そのものは品性を育むためには直接的には役に立たない、というような認識で宜しいでしょうか?

それで結構です。

>品性向上には道徳が重要であることは否定しませんが、「考える」能力もまた重要な要素であると思います。先頃のテレビ番組における「科学」の名を借りた捏造情報を鵜呑みにしてしまうというのは、「考える」能力の欠如とでも言うべきもので、これは品性(性質、性格)が良い、とも人格が完成しているとも言い難いと思うのです。

おっしゃる意味はわかりますが、一つおたずねしたいのは、私たち創造論者が創造論を受け入れるのはその「考える」能力がないからだとお考えですか。私は、進化論者たちの方が「考える」能力がないために進化論を受け入れていると思います。真摯に「考えれば」創造論の方が正しいとわかると思っています。たとえば、生命の起源について、神が創造したと考える方が、生命が自然発生したと考えるよりもはるかに合理的だと思います。


>>人は、神によらず、無目的に登場したのですから。
>だとは思いません。「進化論」は人生の目的を述べるための論ではないからです。

確かに進化論は人生の目的を述べる論ではありません。しかし、人間の起源については、進化か創造か、目的ありかなしかのどちらかです。そして、明らかに進化論の立場は、人間は無目的に誕生したというものです。進化論では人生の目的を述べることができないと私が言ったのはそういう意味です。


>そのことを以って価値が無いとは思いません。

では、どんな価値があるのか、具体的に教えていただけないでしょうか。

>>進化論はナチスによって利用され〜
>これが明らかに誤った(あるいは恣意的に捻じ曲げられた)解釈であったことは既に多くの人の知るところです。

存じております。私は進化論がこうしたことを主張しているとは申し上げていません。悪意のある人びとによって、進化論が「利用された」と申し上げました。創造論は利用されてませんが、進化論は利用されたという点が重要ではないでしょうか。
したがって、

>進化論は「善を行う要因にはならない」かもしれませんが「悪を行う要因に」もならないと思います。

 と言う意見に私は賛成しかねます。現代の進化論はその理論の前提として、創造主なる神を抹殺しなければ成立しないと思います。創造論は疑似科学だと言われる最大の理由は、神を前提とするための反証不能性にあるからです。

>私には、他人様に人生の意味を教えることなど出来ません。

それは人生の意味を考え悩む生徒にとって、大きな損失となるのではないのでしょうか。

>生きる力とはどのようなものでどうすれば与えることができるのでしょう。
私は生きる力とはすなわち生きようとする意志の力であろうと思います。


私は「生きる力」とは、「愛されている実感」であり、「自己の受容性」だと思います。もし自分の意志の力で生きていけるのであれば、簡単なことではないのでしょうか。また、そうであれば自殺したものは「意志が弱いもの」というレッテルを貼られ、敗者であり、社会の不適者となるのではないのでしょうか。こういう考えは、まさに適者生存を認める進化論の考えそのものではないでしょうか。だからこそ、私は、進化論には人を生かす力はないと言いたいのです。
 「あなたは高価で貴い」と神は言います。「どんなに失敗ばかりしていてもかまわない。意志がどんなに弱くてもいんだよ、君はそのままの姿で生きて良いんだよ。わたしはそんなあなたを愛している。」と言うことができるは、そんな人間を創造した方だけです。「あなたは神に愛されている。あなたは神の目には価値ある存在だ。」こうしたメッセージを与える方が、単に「意志を強く持て」というよりもはるかに自殺防止には役立つと私は思います。

>このような仮定の話は意味が無いと思えます。「人生の意味を正しく知っていれば自殺などしない」というのは循環論ではないでしょうか?

 私にとっては、仮定ではなく現実の話です。かつての教え子が自殺しましたから。聖書を教え、創造論を教えたはずなのに、それでも彼は自ら死を選びました。「創造論を信じていれば一人も自殺などしない」ということはありません。しかし、たとえ、現実がそうであっても、私はやはり創造論を教えたいと思います。進化論ではもっと多くの自殺者を出すのは確実ですから。

>「自分で考えろ」「理解できるまで考えろ」「考えるための材料は与えるが、更に詳しいもの、或いは他にも違う材料が無いか、自分で探して来い」〜「思考停止するな」・・・

大変すばらしい教育方針だと思います。創造論についても、最初から否定するのではなく、自分で考えるようにと教えてください。創造論について、否定する資料だけではなく、肯定する側の資料にも十分目を通すようにと、生徒達におっしゃってくだされば幸いです。

>「自然科学」にしろ「進化論」にしろ、人生の意味や目的を問うためのものではないということ、しかし、どのように生きるかという意味で「品性」を育むための(あるいは実りある「生活」のための)一助にはなり得るということが、今の私の考えです。

おっしゃるとおり、科学は人生の意味を問う「ための」ものではありませんが、結果として人生の意味を問うことになります。科学は「どのように生きるか」という問いに無関係ではいられません。なぜなら、科学を学ぶものは、サルではなく、人生の意味を考える人間だからです。なぜ勉強するのか、自分は生きていて意味があるのか、人生の目的はなにか、を考え悩む中学高校生に、科学を教えるときには、こうした彼らの持つ本質的な問いに答える絶好の機会だととらえて、科学を通して人生についても語るべきだと私は思います。それが、教育者としての本質的な務めだと私は思います。教育者は、研究者でも塾の講師でもないのですから。
 

対比

 投稿者:長谷川寿紀(管)  投稿日:2007年 5月 8日(火)13時43分46秒
  吉野さんは面白いことをおっしゃる。
「私は進化論が絶対に正しいと主張しません」ということですね。それはそれでよ
ろしいと思います。しかし、進化論の発祥の原点には「生き物が神の6日間の創造
によってできたということは絶対にありえない」という主張から出発しています。
進化論者が自らの知識を絶対に正しいとふりかぶることはなくても、神の創造を否
定する所に始まったという所に問題があるのです。これは神を信じない文化の人々
にとっては些細なことであるのかもしれませんが、われわれにとってはそうではあ
りません。

一方、創造論は一般に神がこの世界と生き物を一日のうちに作られたということが
正しいと主張します。それは聖書の記述に基づくのであるから、科学的考証による
のではありません。ところか、ここに「創造科学論」というものがあります。これ
は聖書の記述は神の言葉であるから真理であるという理解をもっている人たちが作
った科学ですが、この科学の特徴は、「神の創造は絶対に正しい」という主張から
出発していないということです。創造科学の特徴は、聖書の記述は一旦横において、
自然科学現象や生物の観察により聖書の記述が説明できるかどうかをシリアスに検
証する科学です。一般に聖書を読んで信じる人は創造論を信じます。しかし、聖書
の神のなされた業から事実を演繹する人は創造科学を支援しているのです。

おそらく真摯な人が進化論を極めようとすると、いずれは創造科学の道にゆくので
はないかと思えます。
 

自然科学教育の意義のようなものについての粗雑な考察

 投稿者:吉野真一  投稿日:2007年 5月 7日(月)21時24分8秒
    斉藤様


批判的意見に耳を傾けていただいたばかりでなく返信をいただけたということに安堵を覚えております。


>品性とは「(道徳的な面から見た)その人の性質、性格」とあります。礼儀作法をはるかに超えたものだと私は理解しています。

私も礼儀作法が全てとは考えません。あくまでその第一歩、入り口の部分であると思っています。その上で
>>家庭教育あるいは躾によって習得されるものです。
と述べたつもりでおります。
学校教育の前の段階としての家庭教育について聊かの思いがあっての発言です。
学校教育の目的として「人格の形成」があることは承知しておりますし
その重要性に身が引き締まる思いでおります。
(学生諸君にはどのように受け取られているか、心許ない部分はありますが)

>学校教育の目的は、知識の習得よりもあくまで児童・生徒の品性向上をはかり、社会に有用な人物を育てることではないのでしょうか。

 そのためにも正しいコミュニケーション等々の学校以前の基礎の重要性を強く感じます。


>>「科学的知識」が品性を損なうなどというのは飛躍ではないでしょうか?
という発言は、私の読解力不足であったようです。「科学的知識」そのものは品性を育むためには直接的には役に立たない、というような認識で宜しいでしょうか?
 知識の量よりも、知識を受け入れて咀嚼し消化するための訓練が重要だと思います。品性向上には道徳が重要であることは否定しませんが、「考える」能力もまた重要な要素であると思います。先頃のテレビ番組における「科学」の名を借りた捏造情報を鵜呑みにしてしまうというのは、「考える」能力の欠如とでも言うべきもので、これは品性(性質、性格)が良い、とも人格が完成しているとも言い難いと思うのです。

>人は「神によって目的を持って特別に造られた価値ある存在」というのが、創造論者である私の定義です。

おそらくこの部分が最も私との相違する部分であろうかと思います。

>進化論には、人生の目的はありません。

これは正しいと思います。が、それは

>人は、神によらず、無目的に登場したのですから。

だとは思いません。「進化論」は人生の目的を述べるための論ではないからです。「相対性理論」や「量子論」、あるいは「ピタゴラスの定理」等と同様の「理論」であるからだと考えます。「相対性理論」に人生の目的はありますでしょうか?

 その意味で

>進化論そのものには、人を善に導く要素も人生の意味もないと言うことです。

という意見に反論はありませんが、そのことを以って価値が無いとは思いません。

>進化論はナチスによって利用され、ユダヤ人迫害を正当化しました。人種差別にも利用されました。

 これが明らかに誤った(あるいは恣意的に捻じ曲げられた)解釈であったことは既に多くの人の知るところです。少なくとも進化論者が主張したものではなかったものと理解しております。この事例についてはむしろ「宗教的」であったと私には思えてなりません。
 私は、進化論は「善を行う要因にはならない」かもしれませんが「悪を行う要因に」もならないと思います。
 さらに言えば、進化論は神を殺すための道具ではないのに、そのように使おうとした者がいたということだと思います。


>>私は自然科学教育の目的は自ら考える能力を身につけることだと考えております。

>確かにそれは大事なことです。しかし、教育に関わっておられるのであるならば、子供達のためにすべきもっと大事なことがあるのではないのでしょうか。

>それは、人生の意味を教えることです。

 それはとても大切なことだと思いますが、「自然科学」についての教育が直接的に担うものではないと思います。
 私には、他人様に人生の意味を教えることなど出来ません。私自身がまだ人生の意味について日々考え続けているからです。人生の意味も価値も自分で見つけるものであろうと思っています。そのために先達の言葉に耳を傾け、後の世代のために語ることを通じて「人生の意味を考えることを教える」ことしかできないと思っているからです。これは私がクリスチャンでなく仏教徒であることに由来するのかも知れません。人生の意味も目的も他者が決めるものではないだろう、自分の価値は自分で高めるべきものだろう、と思えてしまうのです。
(念のため申し添えますが、これは神の存在を云々するものではありません。)
だから、「人生の意味を考えるための一助としての自然科学教育」、ということをおっしゃっておられるのであれば賛成です。

>子供達に生きる力を与えることが今求められています。

 私は「教師」ではありませんが、私に可能なことならば生きる力を与える努力をするに吝かではありません。そしてそれは知識でできることではないというご指摘はその通りかもしれません。
 生きる力とはどのようなものでどうすれば与えることができるのでしょう。
私は生きる力とはすなわち生きようとする意志の力であろうと思います。「絶望」が「死に至る病」であるのなら、本人が「絶望」と対決し、捻じ伏せるか手懐けるかして生きようとする意志の力を揺り起こすよりほかに無い。それを支援するための努力は惜しみません。その手段は宗教でも哲学でもよいのです。ただ宗教には可能でも自然科学には荷が克ちそうです。


>もし、教えている生徒が自殺したとしても

 学生であろうと知人であろうと、自殺という形で逃避されてしまって後に残された者には、どうしようもない憔悴感と喪失感、悔恨と謂れない自責の念しか残りません。命を救えなかったという事実の前にはどんな知識も無意味です。以下もそうですが、このような仮定の話は意味が無いと思えます。「人生の意味を正しく知っていれば自殺などしない」というのは循環論ではないでしょうか?

>私なら、何を教えるにしても、「心を持った人」を育てることを第一にしたいと思います。

 これには反駁するところはありません。

>教師は単に知識や技術を伝達する職業ではありません。教師は「心を持った人物」を育てる職業です。

 そう思います。だからこそ「自分で考えろ」と私は言います。「考える」という行為は「理解」し「自立」するための作法であると思うのです。
「理解できるまで考えろ」
「考えるための材料は与えるが、更に詳しいもの、或いは他にも違う材料が無いか、自分で探して来い」
「こちらの内容が間違っていると思うなら、自分の考えを自分の言葉で述べてみよ」
「他人の見解にも耳を貸せ。そしてきちんと聞いて、それから更に考えろ」
そして「思考停止するな」・・・

 だから私が育てたい、理想とする生徒の姿とは、
「しっかりと自分の考えを持って、等身大で世界に向き合う学生」
ということになるでしょうか。

 私の専門分野は農業であり、品種改良や防疫学等々に関連して「遺伝」や「進化」についてとりあげる機会がありますが、進化論が真理で絶対的に正しい、生物はこのように進化した、といったような断定的な講義は、私はしませんし、そんなことを言い切れるものではないということは「正しく」認識し、学生にもそのように話しています。

 思いつくままの書き込みで、まとまりの無い文章でありますが、「自然科学」にしろ「進化論」にしろ、人生の意味や目的を問うためのものではないということ、しかし、どのように生きるかという意味で「品性」を育むための(あるいは実りある「生活」のための)一助にはなり得るということが、今の私の考えです。

長文失礼致しました。
 

教育の目的

 投稿者:斉藤愛輝  投稿日:2007年 5月 6日(日)22時04分30秒
  吉野様

ご意見ありがとうございました。批判的であることをお詫びする必要はないと思います。私の考えは創造論を代表する公式見解ではなく、あくまで一個人の意見ですから、創造論者の中にも、私に批判的な人はいることでしょう。ですから、全く気になさらないでください。

吉野様はどんな生徒を育てたいのでしょうか。理想とする生徒の姿が私のものとはだいぶ違うのかもしれません。


>「品性」〜時と場所と状況にふさわしい礼儀作法ないしマナーを心得た立ち居振舞いというのがその第一歩ではないでしょうか。

そうでしょうか。手元の辞書によると、品性とは「(道徳的な面から見た)その人の性質、性格」とあります。礼儀作法をはるかに超えたものだと私は理解しています。

>家庭教育あるいは躾によって習得されるものです。

そうであるなら、学校で教える必要はないと言うことになります。しかし、それならば
「人格の形成」を学校教育の目的として教育基本法があげるのはおかしなことになります。
学校教育の目的は、知識の習得よりもあくまで児童・生徒の品性向上をはかり、社会に有用な人物を育てることではないのでしょうか。


>「科学的知識」が品性を損なうなどというのは飛躍ではないでしょうか?

私はそこまでは主張していません。創造論にとっても「科学的知識」は重要です。創造を信じる科学者たちは、「科学的知識」を否定しません。しかし、イエス・キリストを信じることと比べるならば、たとえどれだけ多くの科学的知識を学ぶとしても、それは価値がないものだと言うことです。

>「進化論」が人を人として見ないというのも言いがかりに聞こえます。

これは、「人とは何か」という定義によるのではないでしょうか。人は「神によって目的を持って特別に造られた価値ある存在」というのが、創造論者である私の定義です。進化論には、人生の目的はありません。人は、神によらず、無目的に登場したのですから。進化論の主張からすれば、無目的に登場したと言う意味では、人の価値は、ゴキブリと同じであり、岩石と同じになるのではありませんか。だから、人を「モノ」と見ていると、言ったのです。
 聖書は「主を畏れることは知恵の初め」(箴言1:7)と言っています。すべての知識、技術を学ぶことに先立ち、神を知ることが大事だと言うのです。イタリアのことわざらしいのですが、「神なき教育は、知恵ある悪魔を造る」と言う言葉があります。創造主である神を否定する教育は、畏れる者がないので、自分の力が一番だと誇る傲慢な人間を造りあげます。ドストエフスキーは「神がいなければどんなことでもできる」と言いました。つまり、神を否定する進化論は、進化論は悪を行う要因にはなっても、善を行う要因にはならないと言うことです。進化論はナチスによって利用され、ユダヤ人迫害を正当化しました。人種差別にも利用されました。(念のために申し上げますが、だからといって私は進化論者が皆悪人だと言っているのではありません。進化論者にも善良な人は多く、創造論者にも犯罪者は多くいます。私が言いたいのは、進化論そのものには、人を善に導く要素も人生の意味もないと言うことです。しかし、神を信じる創造論にはそれがあります。)



>私は自然科学教育の目的は自ら考える能力を身につけることだと考えております。

確かにそれは大事なことです。しかし、教育に関わっておられるのであるならば、子供達のためにすべきもっと大事なことがあるのではないのでしょうか。それは、人生の意味を教えることです。中高生は人生の意味を考え始め、自分は生きて良いのかと悩むときがあります。日本では毎日100人近くが自殺し、新聞によれば、今日も一人高校生が教室で自殺したもようです。子供達に生きる力を与えることが今求められています。
 もし、吉野様が教えている生徒が自殺したとしても、自分は理科教師だから無関係だとお考えなのでしょうか。たとえ理科の知識や実験の手法をどれだけ学んだとしても、それがその子の命を救えなかったのなら、その子にとっては無に等しい知識となるのではないのでしょうか。
 或いは、もし吉野様の教え子が、吉野様から習った知識や技術を活用して、サリンのような毒ガスを作り、大勢の人を殺したとしたら、どうお考えになりますか。責任を感じますか。高潔な品性を育てることができなかったことを悔やみますか。それとも、何の恥じることもなく、知識を悪用した本人の問題として、片付けますか。

 私なら、胸を痛め、自分の教育が間違ったとして大いに恥じるでしょう。だからこそ、私なら、何を教えるにしても、「心を持った人」を育てることを第一にしたいと思います。そして、それ故に、教育者には子供達の手本となるように、自らの品性の向上に努めることが要求されると思います。教師は単に知識や技術を伝達する職業ではありません。教師は「心を持った人物」を育てる職業です。



>教えられたことを盲目的に信じるだけでは人は成長しないと確信しております。

そのとおりです。進化論を盲目的に信じるだけでは人は成長しません。だからこそ、創造論についての知識を正しく学び、比較させることは意味があると思います。私の経験では、両者を比較した生徒のほとんどは創造論者になりました。進化論支持のままで変わらなかった生徒は1名だけでした。
 

科学と品性

 投稿者:吉野真一  投稿日:2007年 5月 4日(金)23時54分57秒
  初めて書き込ませていただきます。
農業系の学校で教育者の真似事をさせていただいているものです。
斎藤先生の書き込みを読ませていただき思うところがありましたので
書き込ませていただきます。
批判的な意見であることをまずお詫びしておきます。
この掲示板にはそぐわないとお考えであれば削除されてください。

「品性」とは通常、人格や人柄に対して用いられる言葉であろうと思います。
その判断評価には多分に道徳的基準が盛り込まれており、その視点から見た、その人の性質を評するものでしょう。それ故に、信仰やそれを含む哲学との関連性は無視できませんが、もっと直截的なものとして、時と場所と状況にふさわしい礼儀作法ないしマナーを心得た立ち居振舞いというのがその第一歩ではないでしょうか。すなわちそれは一般的には、成長過程の家庭教育あるいは躾によって習得されるものです。
「科学的知識」が品性を損なうなどというのは飛躍ではないでしょうか?
「進化論」が人を人として見ないというのも言いがかりに聞こえます。ある意味このようなすり替えを臆面も無く公言する方の品性を疑う、といってしまっては私の品性こそ疑われるべきだということと表裏一体ではないでしょうか?

私は自然科学教育の目的は自ら考える能力を身につけることだと考えております。知識はそのための材料であり、観察や実験の手法は思考を助けるものだと思います。それは直接に「品性」を育むものではないかもしれませんが、人として生きるためには必要なものだと信じています。そしてそこには相対的で柔軟な思考と考察が必要だと考えます。教えられたことを盲目的に信じるだけでは人は成長しないと確信しております。
不躾な書き込みではありますがご容赦いただければ幸いです
 

科学の知識は無意味か

 投稿者:斉藤愛輝  投稿日:2007年 5月 1日(火)09時01分17秒
  私の好きなエレン・ホワイトの文章にこういうのがあります。

「良心と教師たちに与えられている偉大な働きは、保護している子供達や青年たちの品性を形作って、キリストの像を回復することです。科学の知識は、この偉大な目標に比べれば無意味なものの部類に入ります。しかし、真の教育は、正しい品性の発達を助けます。・・・自分たちの将来だけではなく、与えられている子供達が永遠の命を得るか、あるいは永遠に失われるかを自分たちが決定している事実に気づくならば、大きな挑戦が目の前に置かれていることを悟ります。」「次世代に続く信仰」p55

私が高校の生物教師だったとき、進化論者たちと理科教育の目的について、議論したことがありました。理科教育の目的は科学の正しい知識を与えることだと彼らは言いました。確かにそれは重要なことです。しかし、彼らは、生徒の品性については何も述べませんでした。何も考えていないのです。私は、理科の知識を知ることは、生きる意味や人生の目的を考えることよりも大切なことだとは思いません。

 教育基本法も教育の第一の目的は「人格の形成」と言っています。進化論者の理想とする理科教育には、人格の形成、品性の向上といった視点が欠けています。進化論だけを学ぶと、どんな品性ができるのでしょうか。創造論を学ぶ以上により高潔な人格を形成できるというのでしょうか。あるいは、創造論を学ばせると、堕落した人間になると言う証拠があるのでしょうか。創造論を教えることに反対するのであれば、こういう問題にもきちんとした答えを出して欲しいものです。

 創造論を学ぶ最大の意味は、ここにあります。たとえ、多くの科学者から支持が得られなかったとしても、それは小さな事です。なぜなら、創造主である神を信じる私たちの目指すところはあくまで天であり、永遠の命だからです。この世の名声など、キリストを知ることに比べれば、ごみと同じで価値のないものです。進化論者は腹を立てるでしょうが、私にとっては、進化論の知識などはまさに、「無意味なもの」そのものです。

 進化論者と創造論者は、価値観が全く違います。今日、創造論支持者が増えているのは、社会の問題に悩む人びとが、その原因に進化論が示す価値観(人を人として見ないでモノとしてみる)にあることを知るようになったからではないでしょうか。
 

FYI

 投稿者:長谷川寿紀(管)  投稿日:2007年 3月 8日(木)01時10分41秒
  Better read this at least once!
http://www1.ryucom.ne.jp/papa/shinkaron.htm
 

盲腸と虫垂

 投稿者:斉藤愛輝  投稿日:2007年 3月 3日(土)18時33分21秒
  2007年2月25日朝日新聞日曜版に「盲腸と虫垂」という記事が出ました。

「盲腸そのものを退化させた動物さえ多い中で、なぜ、痕跡程度でしかないのに「危険な」虫垂を持ち続けたのか?

 「免疫の役割があるから」と東京大医学系研究科の犬塚則久助手は説明する。「腸の内壁は極めて薄い。養分を吸収しやすいぶん、異物や細菌にも侵入されやすい。そのため腸の各所に免疫を担うリンパ組織があり、特に虫垂には集中している」

  だが、虫垂を取ると体が弱くなるとは聞かない。その免疫機能は、虫垂炎の危険と引き合うのだろうか。「現代人の尺度だけでは計れない」と遠藤さん。もし、かつての不衛生な環境では虫垂が持つ免疫の役割がより大きかったなら、「勘定」は合っていたかもしれない。 」

http://www.be.asahi.com/be_s/20070225/20070122TKAG0011A.html

 これを読む限りでは、虫垂を痕跡器官と呼ぶのは適切ではないように思えます。この記事は、一般には進化の証拠とされてきた痕跡器官の代表であった虫垂が、痕跡器官のリストから外されたことを意味します。もっとも創造論者はかねてから、痕跡器官はないと主張していたので、今更何を言ってるの?、というところです。

 科学が進むにつれて、進化の証拠は増えるどころか、ますます減っているのが現実です。私たちはいつまで進化論者の妄想に付き合わなくてはいけないのでしょうか。
 

生命の起源

 投稿者:斉藤愛輝  投稿日:2007年 2月 2日(金)13時06分39秒
  久しぶりに「ニュートン」(2007年3月号)を読んだら、生命の起源が特集されていました。

32pにこう書いてありました。
「気が遠くなるほど複雑で巧妙な細胞 本当に自然にできたのか?
細胞の成り立ちを知れば知るほど『これはだれかが地球に落としたか、
さもなければどこかから流れ着いたものだろう』と思いたくもなる。」

そして、パンスペルミア説(胚種広布説)が紹介しているのですが、
続けてこうありました。

「だが、これには『生命起源の問題を棚上げしたに過ぎない』という批判がつきまとう。そうではなく、『生命はこの地球のどこかで化学反応の積み重ねによって誕生した』と多くの科学者は考えている。」

 生命に起源については、科学者は生命の自然発生を認めているというのです。しかし、なぜ多くの科学者が生命は地球で自然発生したと考えているのか、ニュートンは何も説明していません。彼らがそう考える理由は一つしかありません。それは、神が造ったという説明を受け入れたくないからです。受け入れれば、この問題を棚上げすることになるし、反証不能だから科学ではないというのです。

 しかし、生命の誕生がただ一度のものならば、再現はできず、反証できないのは当然のことになります。進化論者がもし本当に真実を追究する科学者であるならば、実際に観察される証拠から自然発生は起こりえないことを認めるべきでしょう。生命の起源の問題が棚上げになろうとも、もし実際に神が創造したのであれば、人間に説明できなくても仕方がないことなのですから。

「気が遠くなるほど複雑で巧妙な細胞 本当に自然にできたのか」という見出しは
何を意味しているのでしょうか。

 常識的に考えれば、生命が創造されたと考えることはきわめて合理的な考えです。
パスツールが証明したように、生物は生物からしか生れません。生命の起源についていろいろな説が出ていますが、実際のところは、わからないところがあまりにも多く、生命の起源は謎であり、奇跡であるというのが妥当なところでしょう。

 ニュートンの55pに、アメリカ スクリプス研究所教授のジェラルド・ジョイス氏のこんな言葉が書いてあります。
「(生命の起源について)私にはわかりません。科学界の誰にもわかないのです。」


 正直な告白だと思います。生命の起源については、まだ誰にもきちんと説明できておらず、世間一般が思っているほど、確かなものではないのです。お手上げに近い状態です。現在ばかりか、原始地球においても、生命の自然発生は不可能に近いことが明らかになっています。
 ジョイス教授は言います。「リボースの利き手の問題(筆者注:生物はなぜか左手型は使わず、右手型のリボースだけを使ってRNAを作る)を考えると、RNAに基づく生命がどのように生じたかを考えることは、きわめてむずかしい問題です。不可能というわけではありませんが。」

 進化論者は、何の根拠もなしに不可能なことが起きたと信じているのです。おかしなことです。こうした記事を読むと、進化論は間違いであるということに気がつかせてくれます。
そして、進化論がいかに、創造論者以上に「信仰」を必要としているかにも気がつかされます。
 

ようこそ

 投稿者:長谷川寿紀(管)  投稿日:2006年11月27日(月)05時22分46秒
  堀場謙治さま

ようこそ。ここは創造論、創造科学論の情報を交換するために設定された掲示板で
す。こことメインのページで創造科学の初歩を学ぶ参考にしていただきたいと思い
ます。久保先生や山本哲也先生の本を読むと、創造科学の理解のよいスタートを切
ることが出来ると思います。ここは現在発展途上にありながら小休止状態で拡張を
一時停止しておりますが来年からでもまた少しずつ広げてゆきたいと思っています。
斉藤先生も良い示唆を与えて下さっていて感謝です。内容は不定期に更新しますの
で、思い出した時にでも訪問して下さって創造論と創造科学論の理解を深めて下さい。
 

はじめまして。

 投稿者:堀場謙治  投稿日:2006年11月24日(金)18時11分33秒
  はじめまして。僕は堀場謙治と言います。現在、地域生活支援センターなないろで火曜日と金曜日に職業訓練中です。研究室はなく、SDA名古屋教会に通っています。僕は『聖書』の学習をしていて『聖書』関係の本も読んでいます。僕は2003年から創造論を信じるようになりました。久保有政さんの本を読んでから創造論支持に変わりました。それまでは進化論が正しいと思っていて創造論を信じていませんでした。しかし、創造論を信じるようになりました。『聖書』を読むようになったのは2004年からで2006年に洗礼を受けてクリスチャンになりました。会議の流れを全部読んでから参加しようと思ったけれども全部読めなくて参加しました。流れに沿っていなかったらお赦しください。まだ未熟者ですから論理的になっていなかったら指摘して教えてください。会議の流れを読んでいて神様に対する考え方がきちんとしているのを感じました。教えられるところが多かったです。創造論が『聖書』に基づいていることが述べられていました。それに創造論が神様の証明になることも述べられていました。そして神様が最初の一者であることも。勉強になりました。『聖書』の再確認と創造論の学習になりました。僕はウニのことは食べ物に出されるくらいの認識しかなくてよくわかっていません。しかし、ウニのことが真剣に論じられているのを知ってもっとこのHPに参加していきたいと思いました。また、『聖書』研究にも参加していきたいと思っています。自分のことは以上です。会議が進行していくことを祈っています。  

Re ほらね

 投稿者:脇村 勲  投稿日:2006年11月20日(月)20時00分41秒
  進化論の勉強よりも作文の勉強のほうが大事みたいです...(T_T)  

ほらね

 投稿者:長谷川寿紀(管)  投稿日:2006年11月19日(日)09時46分36秒
  脇村さま

簡単だと思っても意外と難しいでしょう。(笑)
 

すみません、簡単に解説するはずが...。

 投稿者:脇村 勲  投稿日:2006年11月15日(水)20時54分44秒
  創造論では、全ての生き物は神によって、「土から、今あるままの状態で(種の不変性)」作られた、としています。
もちろん品種改良等の小さな変化はあり得ますが、例えばウニが人と共通の祖先を持つ、なんてことはあり得ない、とする立場だと思います(間違ってたらごめんなさい。)。

一方で、進化論はその逆に、全ての生き物は「ごく少数の原始的生命が、長い年月の内に、(突然変異と自然選択により)、多様な種に」分かれてきた、としています(種は発生し、変化する。)。

もちろん神さまのなされたことを人が推し量ることは傲慢以外の何ものでもないとは思いますが、ちょっと子供の心になって遊んでみてください。

テレビの裏ぶたを外して中をのぞき込みます。で、その横に車を置いて、下から中をのぞき込みます。
テレビの中には液晶パネルと電子基板、その他電子部品がぎっしりと詰まっています。
(嘘はつきたくないですから告白します。ウチのテレビは未だにブラウン管です。)
一方で、車の中には、エンジンや動力伝達機構、遊星歯車、燃料タンク、バッテリー、等の機械部品がぎっしりと詰まっています。

これは実に合理的なことです。自動車の部品でテレビを組み立てるのは、不可能とは言い切れないにしても、実に無駄が多い。その逆はもっとそうです。

つまり、鳥は鳥に、魚は魚に、と、各々別々に土からお造りになったのなら、各々の生き様に最も適した材料と機構を使うと考えるのが「常識的(この言葉は実にあやしいけれど)」ではないでしょうか。
「視覚や嗅覚をつかさどるたんぱく質をつかってウニの体を作る」というのは、いわば歯車を使ってテレビを組み立てる、ようなものではないでしょうか。

一方で、進化論の視点からは、これは実に理解しやすいことなのです。
ウニとヒトが共通の先祖から分かれてきたものなら、ウニとヒトの中身に共通のものがあるのが普通だからです。

「ダーウィンのブラックボックス」の著者、リーハイ大学のビーヒー先生は、その著書の中で、「視覚をつかさどるたんぱく質はいくつものたんぱく質と協働しないと働かない。従って、視覚が生じるためには全ての部品が一度にそろって、完成したシステムとして現れなければならない。」と主張しています。
その主張に反する、という意味で、今回の発見は、進化論者を元気づかせて、ビーヒー先生をしょげさせることになると思います。

...というだけの話なんです...実は。

議論は趣味ではありません。
こんな考え方「も」、あるんだなあ、と、笑って放置しておいてください...(^_^;)
 

感謝しています♪

 投稿者:脇村 勲  投稿日:2006年11月14日(火)21時31分10秒
  まずは何よりも、基本的に創造論への反論の発表の場ではないと明確に規定されているこの掲示板に、考えの無いこと甚だしいあのような投稿を行った事に対して、
例外的に暖かく迎えていただいていることを感謝します。

ですので、出来るだけこの掲示板の本来の流れを乱さないような投稿にしたいと思っています。

取り急ぎ。
 

ようこそ脇村様

 投稿者:長谷川寿紀(管)  投稿日:2006年11月14日(火)13時23分1秒
  一つ質問ですが、ウニの話をどういう風に使ったら進化論者を元気つけられる
のでしょうか。一応簡単にご解説下さいまし。
 

つづき

 投稿者:斉藤愛輝  投稿日:2006年11月14日(火)09時38分13秒
  したがって

脇村様の発言は無意識のうちに創造論の立場を認めておられるのではないかと思います。
ありがとうございました。
 

脇村様へ

 投稿者:斉藤愛輝  投稿日:2006年11月14日(火)09時34分30秒
  脇村様のお考えに対して、2つの疑問があります。

一つは国語表現の問題なのですが、引用された新聞記事には

「視覚や嗅覚(きゅうかく)をつかさどるたんぱく質の遺伝子も含まれていた。
ただ、実際にどのような役割を果たしているのかは不明だという。」

とあります。この文章から受ける印象は進化論者が困惑している様子です。なぜこのタンパク質があるのか不思議だ、謎だと言っているのではないのでしょうか。そうだとすれば、

>この発見は進化論者をしょげさせるどころか、勢いづかせるものとなる

という脇村さんが発言は正反対に思えます。むしろ、進化論者を「立ち止まらせた」
発見なのではないのでしょうか。このタンパク質の役割が解明されたというのであれば、
「進化論者を勢いづかせる」というのはわかりますが。

>鼻は、たぶんあるはずです。
>また、それらのタンパク質が視覚や嗅覚以外の用途に使われていたかもしれません。

これが、進化論者を勢いづかせる発見であるならば、「たぶんあるはず」とか「かもしれません」という説明をするのはおかしくありませんか。これらの日本語は自信がないときに使う言葉ではないでしょうか。おっしゃっていることが矛盾しているように思います。


2点目の疑問は知られていない機能を取り上げる危険性です。

>それらのタンパク質が視覚や嗅覚以外の用途に使われていたかもしれません。

おっしゃるとおりそれはあり得ることでしょう。しかし、それを言うのであれば、
いわゆる進化論の証拠とされる痕跡器官というものが存在しないことを進化論者が自ら認めることにはならないでしょうか。ヒトの耳を動かす筋肉のように現在機能していない器官があるのは、機能していた祖先を持つ証拠だとされます。一時期ではあっても何らかの機能を持っていれば痕跡器官にはなりません。かつて痕跡器官と言われた胸腺は現在はその機能がわかり痕跡器官のリストからはずれました。

ウニの視覚を司るタンパク質は現在視覚としては機能していないが、ほかの用途に使われているかもしれないと考えるが正しいのであれば、痕跡器官の考えそのものが根底から崩れるのではないでしょうか。たとえば、人の耳を動かす筋肉にも、耳を動かす以外の用途に使われているかもしれないと考えることが良くなるのですから。

もう一つ言えば、「何らかの用途に使われていたかもしれない」と言うお考えには、前提として「無駄がないはずだ」という考えがあると思います。なぜ「無駄がない」とお考えになるのでしょうか。私たちのような創造主(神)を前提とする者にとっては、知性がある神が無駄なことをなさるはずがないと考えることは当然なのですが、進化論者である脇村様が「無駄がないはず」とお考えになる根拠は何でしょうか。知性や意志によらず、偶然に頼るだけで、「無駄がない」自然界が登場すると考えるのは合理的な説明だとは私には思えませんが。



したがって、
 

失礼しました

 投稿者:脇村 勲  投稿日:2006年11月13日(月)17時32分44秒
  先ほどの「おずおず」という投稿者は、私です。
和歌山県田辺市神島台15−8、和歌山県の職員です。
 

バフンウニよりムラサキウニのほうが好き♪

 投稿者:おずおず  投稿日:2006年11月13日(月)17時26分45秒
  >ウニに脊椎動物の臭覚や視覚を司るたんぱく質があるからといって

えーと、たとえばガンガゼには眼点があります。また、ウニには確かに、鼻毛が生えた、毛穴の黒い点々のある脂ぎった団子鼻はありませんけど、鼻(空気中あるいは水中を漂う化学物質を感じ、分析する器官)は、たぶんあるはずです。
また、それらのタンパク質が視覚や嗅覚以外の用途に使われていたかもしれません。

したがって、この発見は進化論者をしょげさせるどころか、勢いづかせるものとなると思います。

一方で、「ダーウィンのブラックボックス」等の著者、ビーヒー先生は青ざめるかも。
 

ウニもういっちょう

 投稿者:長谷川寿紀(管)  投稿日:2006年11月11日(土)11時45分0秒
  ウニに視・嗅覚遺伝子、
米研究チームがゲノム解読成功

【ワシントン=増満浩志】ベーラー医科大(米テキサス州)を中心とする国際研
究チームが、ムラサキウニの全遺伝情報(ゲノム)の解読を終了し、10日付の
米科学誌サイエンスなどに発表した。
ウニは目も鼻もない動物だが、2万3300個の遺伝子の中には、人間などの脊
椎(せきつい)動物で視覚や嗅覚(きゅうかく)をつかさどるたんぱく質の遺伝
子も含まれていた。ただ、実際にどのような役割を果たしているのかは不明だという。

ムラサキウニは、ハエや線虫と並ぶ、代表的な実験動物の一つ。昆虫よりはるかに人
間に近いだけに、今回のゲノム解読の成果は、進化の過程で遺伝子の役割がどのよう
に変化したかを探る手がかりになるのではないかと期待されている。

(2006年11月10日12時20分  読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20061110i504.htm

斉藤先生の紹介記事のついでにこれも見てください。
ウニに脊椎動物の臭覚や視覚を司るたんぱく質があるからといって
誰もウニが見えているとか臭いをかいでいるという憶測を主張する人はいません。
いれば進化論者くらいです。
冗談は横においても、これの意味する所は重大です。
ヒトとウニに共通するたんぱく質が見つかったのだから、ヒトの先祖とウニの先祖は
共通だと言う憶測が打撃を受けました。ウニにとって、将来進化して脊椎動物になっ
た時に使うための無機能のたんぱく質を作らされたともし考えるなら、ウニは発生の
初期から進化という理性的「目的」のために重荷を負わせられていたという滑稽な議
論になります。またウニは進化したのではなく退化して視覚を失った動物であり、昔
のウニには目があったのではないかという可能性を進化論者は真剣に考えるべきです
わっはっは(爆笑)。

創造科学論者はもちろんそう考えず、神が最初に生き物を創られた時のDNAの基本
的フレームは一貫していたと単純に考えます。神が創られたことと何の矛盾もありま
せん。
 

ウニの遺伝子はヒトと同じ

 投稿者:斉藤愛輝  投稿日:2006年11月10日(金)10時41分44秒
   ウニの遺伝子数はヒトとほぼ同じ2万3000個で、遺伝子の70%がヒトと共通していたと報道されました。

 http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20061110k0000e040001000c.html


 「解読によると、ゲノムの大きさを示す塩基数は8億1400万対でヒトの4分の1だった。チンパンジーとヒトは99%の遺伝子が共通しているが、ハエとヒトは40%とされる。研究チームは「遺伝子レベルでは、ハエや線虫に比べヒトに近い。このデータは進化の解明につながる」と驚く。」

 遺伝子が共通していると、なぜ「進化」の解明に繋がるのでしょうか。これはあくまで進化を前提としている時の証拠であって、創造論側からすれば、創造主が一人であることの解明につながるということができます。また、遺伝子が99%似ているとされるチンパンジーとヒトとに、重要な違いがあることを進化論者が強調しないのは、公正ではありません。
 チンパンジーの染色体は24対で、ヒトは23対です。染色体数の違いというのは、大きな問題だと私は思います。また、チンパンジーとの違いは1%といっても、数にすると1億2000万塩基対の差になり、文字数にすると約30万字分になると言います。情報量の違いはかなり大きいと言うことです。

 先日は腹びれを持つイルカが発見され、足の痕跡かと騒がれましたが、単なる突然変異で、そんなに驚くことではないと思います。しっぽがある人間をテレビで見たことがありますが、あれと同じでしょう。進化論に基づけば、先祖返りで進化の証拠と言うことですが、それなら突然変異で指が6本とか、手が1本とかの人はどうなるのでしょうか。それらも先祖返りで進化の証拠ですか。都合のいいところだけを「先祖返り」とし、進化の証拠とするのは、おかしいと思います。

 まあ、いずれにしろ、こうした「進化の証拠」と言われるものについては、偏見(進化論)にとらわれずに冷静に見る必要があります。創造論の立場に立って考えても説明が付くのですから。創造論に興味のある方は、進化論者の言葉を鵜呑みにしないでください。
 

思いつきの業績

 投稿者:長谷川寿紀(管)  投稿日:2006年10月17日(火)14時32分13秒
  進化論の「ダーウィン展」08年に日本で開催
 【ニューヨーク=西岡努】生物が世代を経て姿を変えるという進化論を唱えた
19世紀の英国の科学者チャールズ・ダーウィンの業績を紹介する展覧会が
2008年に日本で開催される。
米自然史博物館で12日、ゲリー・ザール副館長と石黒堯・読売新聞東京本社専
務取締役事業担当が開催のための協定書に調印した。
「ダーウィン展」はダーウィンの生誕200年と主著「種の起源」発刊150年
にあたる09年に向け、世界各地を巡回する。昨年11月に同博物館で始まり、
日本展は08年3〜6月に東京の国立科学博物館で、7〜9月ごろ、大阪市立自
然史博物館で開催される。
自筆原稿や進化論の着想を得たガラパゴス諸島のゾウガメのはく製、航海に使っ
た「ビーグル号」の模型などが展示される。

(2006年10月13日19時5分  読売新聞)

思いつきは業績とは言えません。思いつきの前提で聖書に反する物語を作っただけで
すから科学的と言うほどのものでもないのです。これは一つの哲学体系として見るべ
きものであるというきっちりとした認識を持つ必要があります。
 

洪水前のラクダ

 投稿者:長谷川寿紀(管)  投稿日:2006年10月15日(日)10時16分11秒
  どうやって乗る?高さ4mのラクダ…
(読売新聞記事)
 背の高さが約4メートルもある巨大なラクダの化石がシリア中部の約
10万年前の地層で発見された。現在のラクダの2倍近い大きさで、ゾ
ウやキリン並みの体格。発掘したスイスとシリアの合同チームは「これ
ほど大きなラクダの化石は例がない」と驚いている。

見つかったのは関節の形が保存された足の骨など40個余りの化石。未
発見のヒトコブラクダの仲間と推定され、幅広の足の骨は、今のラクダ
に比べ、かなりがっしりした体格だったことを示している。

近くからは現代人(現代型ホモ・サピエンス)か、ネアンデルタール人
とみられる歯などの化石と石器類も見つかっており、人間の狩りの獲物
になっていたらしい。


洪水前の動物が大型であったことの証拠です。
 

すいませんでした

 投稿者:クリス  投稿日:2006年10月 9日(月)13時35分27秒
  以前にも注意を受けたのにごめんなさい。
ただ、それまでのやりとりを見ていて、富樫さんが、聖書と、神の愛から離れてしまう気がして
しまったので、何か言わずにはおれませんでした。ごめんなさい。
もう、ハンドル名での書き込みはいたしません。

神とは創造主であり、その創造主との愛の交わりの内にこそ、真の幸福があるということを、全て
の人が気が付きますように。そのために、このサイトが豊かに用いられますように。
イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。
 

恐れ入ります

 投稿者:長谷川寿紀(管)  投稿日:2006年10月 8日(日)12時30分11秒
  創造論とは直接関係のない話題はこちらの聖書研究室などでお願い致します。
http://8028.teacup.com/realsda/bbs

聖書研究室では実名表記は不要です。ご随意にご参加下さい。
 

むかし気付いた部分

 投稿者:黙示録の愛読者  投稿日:2006年 9月18日(月)16時13分41秒
   ヨハネ黙示録第6章に4つの生き物が登場する。1990年代に、私はこれを4人の為政者と読んだ。「白い馬(シラク)〜彼は冠を与えられ〜」「赤い馬(明石)〜地上から平和を奪い取って殺し合いをさせる力が与えられた〜」「黒い馬(クリントン)〜手に秤をもっていた〜」「青白い馬(青島)〜これに陰府(よみ)が従っていた〜」
 さて、黙示録は第22章まである。現代は何だろうか?
 

富樫様へ

 投稿者:クリス  投稿日:2006年 9月15日(金)00時46分12秒
  聖書が神の霊感によって書かれたという証拠のひとつは、そこに記された予言の成就です。

聖書には、ユダヤ民族の歴史に関する予言、古代バビロン、ペルシャ帝国、ギリシャ帝国、ローマ
帝国の興亡に関する予言、何より、イエス・キリストの生涯に関する予言など、すでに成就した
数々の予言があります。その予言が書かれたのは、聖書が神の霊感によって書かれたことを私たち
が悟るためなのです。

レムナント出版発行の、「聖書の予言と予型」に分かりやすく書かれてありますので、ぜひお読み
下さい。下のサイトです。

http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/katarogu.htm

 

「人工世界論」ですか

 投稿者:斉藤愛輝  投稿日:2006年 9月12日(火)19時24分51秒
   私や長谷川先生はキリスト教ないし聖書の唯一の神が正しいと信じていますし、このHPはその立場に賛成される方のために作られています。そのことをご承知ください。富樫様は「創造論」ということで、このHPが自分と共通しているとお考えで、こちらにおこしになったと思われます。でも、ここは明記してあるように、聖書による創造論を信じる人のためのHPです。創造論なら何でもいいというのではないのです。

 私たちの立場は、「若い地球派」で、地球の歴史はおよそ1万年以下と考えています。しかし、クリスチャンのなかには、進化論者もいれば、同じ創造論でも地球の歴史は46億年と考える人もいます。この人々の創造論を私たちは受け入れることができません。その理由は、彼らの聖書の解釈が間違っているからです。富樫様が再三例に出されるエホバの証人は、キリストを神とは認めませんので、彼らをキリスト教と呼ぶのは正しくありません。彼らは正統的ではなく、異端です。エホバの証人がどんなに創造論を唱えたところで、私たちはその創造論は受け入れられません。なぜなら、彼らも聖書の理解が間違っているからです。

 同じように、富樫様がどんなにここでご自分の創造論を主張されても、私たちは決して受け入れることができません。前提である、聖書の正しさを否定しておられるからです。

 富樫様に限らず、誰がどんな宗教を信じるか(信じないか)は自由です。また、どの宗教も自分こそ正しく、他のものは間違っていると考えるのは、当然だと思います。ここでどの宗教が正しいかと延々やっても意味がないと思います。時間の無駄だと思います。

 また、もう一つ付け加えれば、聖書に基づかない創造論というのは、進化論者側からもほとんど誰にも相手にされないと思います。創造論というのは、この世界は偶然にできたのではなく、誰かが造ったと言うことです。その誰かとは、誰か。それを論じるに当たって、私たちは聖書に基づき、「神」と答えるわけですが、聖書を使わないとなると、説明に苦しむのではないでしょうか。それこそ、「日本書紀」でも持ち出しますか。どの書物、伝説を持ち出すにせよ、聖書ほどの信頼性はないことだけは確かです。繰り返しますが、歴史的記述に関する聖書の正しさは多くの人々が認めるところです。

 また、ニュートンをはじめ、創造論を受け入れた科学者のほとんどは、聖書の神によって造られたと考えていたと思います。近代科学は、聖書を信じる創造論者によって発展してきました。進化論さえ、聖書による創造論という強力な反対者とのやりとりにおいて、その理論を深めていきました。もし、富樫様が今後も創造論の立場を取るのなら、聖書にもとづく創造論を受け入れる方が、多くの人々に受け入れられると私は思います。
 

人工世界論はもうお収め下さい

 投稿者:長谷川寿紀(管)  投稿日:2006年 9月12日(火)14時48分16秒
  富樫様

 >ということは、有名な哲学者全員の意見より、聖書の方が正しいというわけですか?

ご明察。その通りです。神の愚かさは人の賢さにまさります。有名な哲学者の意見
と言ってもユニークな思いつきを集めただけではただの世界の空想思弁と形而上学
と四方山話の集成に過ぎません。

しかしあなたは軽すぎます。コーランが正しいか、ツァラツストラが正しいか、毛
語録が正しいか、日本書紀が正しいか、カバラが正しいか、徒然草が正しいか、ビ
ートルズ自伝が正しいか、云々と際限も無く無数の宗教の可能性の存在を論じてし
まう所があなたの哲学の軽さです。そういう世俗のさまざまな書物をあっけらかん
と比較してしまう前にもっと基本的なことを立ち止まって考えてください。一体眞
の神とは誰なのかということです。それさえわかれば、当然聖書のみが人間とこの
世界の成り立ちについて正しい洞察を与えている本であると言うことが殆ど自動的
にわかります。斉藤先生も述べておられますように、これはそんなに難しいことで
はありません。
 

人工世界論

 投稿者:富樫  投稿日:2006年 9月12日(火)12時14分28秒
   信じることと実際そうなのかどうなのかは全く別。自分が神だと信じている狂人は多数いますが、それはあなた方と同じ信仰なのです。聖書と他の本が同じだという究極の根拠は、神でなくても誰でも書けるということです。いきなり古代人が相対性理論の式を本に書いたならば、私は信じますよ。しかし聖書に書いてあることは、空想で誰でも書けることです。奇跡が起こり、病が治った、と誰でも書けます。ドラクエやFFの回復魔法の記述となんら差異はありません。これを否定するなら、だれだれが奇跡を起こし、病を治した、とは人間には絶対に書けない、ということを証明してください。常識として、このような記述は想像力さえあれば古代人でも簡単に書けます。はっきりいって、書いてあるから何なのですか?古事記や日本書記に日本神道について書いてあるから、直ちに正しいとなるのですか?書いてあるから正しいなら、ツァラトゥストラに書いてあるから、正しい、とか、コーランに書いてあるから正しい、となんとでもいえます。そして実際にそうなっており、宗教は無数に存在します。なぜ無数に存在するかというと、簡単に聖典を書けてしまうからです。それだけのことです。

http://homepage2.nifty.com/sinseigingateikoku/

 

当たり前のことなのですが

 投稿者:斉藤愛輝  投稿日:2006年 9月12日(火)00時05分14秒
  >有名な哲学者全員の意見より、聖書の方が正しいというわけですか?その究極の根拠はどこにあるのですか?

もちろん聖書の方が正しいです。クリスチャンなら誰でもそう思うのではないでしょうか。聖書よりプラトンらの哲学者の方が正しいと考えるクリスチャンがいるとは私には思えません。聖書を他の本と同じに扱うことはできません。bookは「本」ですが、the bookまたはBookは、「聖書」を指します。これは、英語の辞典を見ればすぐにわかります。つまり、英語の文化では、明らかに聖書を特別視しています。

 こういう質問をされるところをみると、富樫様はやはりキリスト教について正しく理解されていないように思います。少なくても知識に乏しいと思われます。そこで、先にも書いたように、まずは聖書をきちんと学んでみませんか。なぜ聖書が正しいと言えるのか、詳しく学ばれることをお薦めします。聖書を否定するのはそれからでも遅くありません。
 逆におたずねします。富樫様はなぜ、聖書を他の本と同じ次元で見るのですか。その究極の根拠はどこにあるのですか。

 私が、聖書が正しいとする理由は、聖書が神の言葉だからです。どんなに有名な哲学者でも所詮人間です。しかし、イエス・キリストは神です。神の方が人間よりも正しいとは思いませんか。なぜ、イエス・キリストが神だと言えるのか。それは、イエス・キリストだけが
死からよみがえったからです。富樫様が聖書の歴史性を認めてくださるのであれば、イエスの復活も当然認めることができるのではないでしょうか。復活が事実であれば、イエス・キリストは神であるとしか言いようがありません。イエス・キリストは神か、人か。もし復活が嘘であるなら、イエス・キリストは神でないばかりか、3日目に復活すると嘘を言った以上
詐欺師であり、今なお20億人をだまし続けている極悪人になります。クリスチャンほど人をだます人はいないことになります。富樫様はイエス・キリストについてどうお考えですか。

なお、創造論が主張したいことは、進化論の否定と言うよりも、創造主(神)の存在であり、聖書の正しさです。聖書の正しさを証明するために創造論があるのではありません。科学的な証明ができようとできまいと、私は聖書の正しさを信じることに変わりはありません。私が考えている創造論の最終目的は、イエス・キリストを自分の救い主として信じさせることにあります。
 

人工世界論

 投稿者:富樫  投稿日:2006年 9月11日(月)16時36分20秒
   ということは、有名な哲学者全員の意見より、聖書の方が正しいというわけですか?その究極の根拠はどこにあるのですか?ギリシア神話には権威がないが、聖書は正しいという根拠はどこにあるのですか?イスラム教徒はコーランを絶対視し、聖書は何の意味もないとします。コーランが絶対的に正しいという説に対して、どうやって聖書によって反論出来るのですか?聖書に書いてあるから、というなら、相手はコーランに書いてあるから、と反論するでしょう。創造論は非創造論を否定するのに躍起ですが、他の創造論や創造神話はどうやって否定するのですか?無条件に正しいから、といえば、必ず相手も、無条件に正しいから、といってきます。どうやって否定するのですか?聖書以外の本は一顧だにする必要がない、といえば、コーラン以外一顧だにする必要はない、と相手はいいます。当然古代のプラトン主義者は、プラトン以外一顧だにする必要はないといい、アリストテレスの信奉者はアリストテレス以外一顧だにする必要はない、といいます。みな同じ次元ではないですか?ある本以外一顧だにしないことなど、誰でも出来ることです。

http://homepage2.nifty.com/sinseigingateikoku/

 

はて

 投稿者:長谷川寿紀(管)  投稿日:2006年 9月11日(月)13時35分33秒
  プラトンというのはギリシャの馬の骨の哲学者のことですか。論外です。我々はプ
ラトンの権威など一顧だにしません。する必要もありません。忘れてよいのです。
プラトンというおっさんがこの世界を創ったのではない、というただそれだけの簡
単な理由です。
 

人工世界論

 投稿者:富樫  投稿日:2006年 9月11日(月)13時06分59秒
   聖書の歴史的描写が正しいことは認めます。しかしそれと世界創造とに何の関係があるのですか?プラトンの著作が歴史的事件に沿って書かれたから、彼の主張するアトランティス大陸の存在は証明されるとでも言うのですか?もしあなたの論が正しいなら、プラトンの神秘主義的な描写はすべて正しいことになります。なぜ聖書の神が正しくて、プラトンの神は正しくないのですか?権威という観点ならば、プラトンほどの人物はそうはいないでしょう。神道では天皇が神の子孫ということになっていますが、どうやってそれを否定するのですか?彼らも歴史上の書に書いてある、自分らは無条件に正しいと主張します。例えば他にエホバの証人などがありますが、彼らは自分ら以外のキリスト教はすべて正しくないと主張し、自分らだけが正しいと主張しています。これに対してどうやって反論するのですか?つまり、それぞれの宗教すべてが自分たちは無条件に正しいと主張しているのです。
 私の創造論では、このような不毛な議論はしません。単に客観的な証拠を示すだけです。

http://homepage2.nifty.com/sinseigingateikoku/

 

富樫様へ

 投稿者:斉藤愛輝  投稿日:2006年 9月11日(月)10時00分5秒
  >なぜ世界を創造したのが一人だと断言出来るのですか?
>創造神話は世界中にあるのに、なぜ聖書だけが正しいと断言するのですか?
>なぜ自分だけの主観的な判断で、ある神話が正しいか間違っているか決められると思っているのですか?

創造は神話の世界だとお考えですか。私は事実だと考えています。その理由は、富樫様が述べられたとおり、聖書にそう書いてあるからです。なぜ、聖書を信じるかと言えば、一つには聖書の記述が歴史的も正しいと認められているからです。古代オリエントの研究家によって、聖書の記述の正しさは証明されてきました。聖書は客観的にその正しさがみとめられています。歴史としての記録が客観的に正しいのなら、創造の記録も事実であり、正しいと考えるのは合理的な考えではないでしょうか。聖書ほどその正しさを証明されている本はないと思います。富樫様は、古代の記録を記した書物としての聖書をどのように見ておられますか。



>私がもっとも分からないのは、創造論をキリスト教に限定することです。いろんな創造論があってもいいのに、なぜかキリスト教に限定しようとする。ID理論も結局は同じです。あなた達に質問したいのは、なぜ創造論を狭い枠組みだけから展開しようとするのか、です。

 創造論はキリスト教に限らず、ユダヤ教でも主張され、イスラム教でもそうです。ですから、長谷川先生のおっしゃるとおり、「創造論=聖書の神の教え」ととららえた方がよろしいかと思います。そのうえで、なぜ聖書以外の創造論を認めないかと言えば、認められるほど正しいものが他にはないからです。聖書の間違いが証明されない限り、私は自分の考えを変えるつもりはありません。富樫様は、聖書を受け入れられないようですが、聖書は正しくないとお考えになる理由は何でしょうか。よろしければお答えください。富樫様は聖書をどのように学ばれたのでしょうか。もしかして、聖書に批判的な書物だけで学ばれたりはしておられませんか。聖書は正しいと主張する書物や教会に行って学ばなければ、聖書を正しく学んだことにはなりません。私は、まずは聖書はどんな書物なのか、キリスト教側の主張をもっと学んでいただきたいと思います。
 聖書に基づくのは、「古ぼけた規範」かもしれませんが、これ以外に正しいものがない以上、これを私は受け入れます。
 

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