2009-06-19
合意の得られない正解は存在しない
周りの人は知らないが、自分は正解を知っているという状況を経験したことあると思います。目の前で問題が発生した時、自らが先頭を切って喧々諤々の議論をし、状況を悪化させた覚えもあると思います。つまり黙っている方がよい時もあるということです。正解であっても口出ししないことで、問題解決に近づくこともあるのです。
議論が進まないのは、自らの視点に執着して考えている人達が多いからです。こういった人達は問題を把握できていません。俯瞰できていない人に、いきなり視点を引き上げて正解を見せたところで、その過程を理解することが困難です。テストの解答を『こうやるんだよ』といきなり教えたところで、なぜそのような答えに至ったのかが理解できないのと同じです。
自分にとって正解であっても、他人にとって正解ではないことは多い。
もちろん、正解を黙っていることで不合理な手順になったり多少のロスが発生することもあります。しかし、これはこれでいいと割り切ることが大切だと思います。客観的に正解と思っていても、多数の主観では正解ではないこともありますし、多数決で否定されてしまう正解というものも存在します。全体最適とは皆の合意を得られる形で提示する必要があるのです。
特に能力のある人に見られがちなスタンドプレーは、周りの人の嫉妬を生みやすいですし、全体最適からは遠のきます。そもそも、皆が協力して答えを模索している時に、あっさり答えを示されると『やる気』がなくなります。その軋轢から事は進まなくなります。自分ひとりのスタンドプレーで、すべての課題を行うなら問題はありません。チームプレーを要求されているときには、ほかの人の行動を巻き込むことが条件です。当然、その人たちへの責任も発生します。
ここで必要なものは、個人としての正解ではありません。全体として実現可能な選択肢を選ぶことです。実現できない『正解』、もしくは責任が取れない『正解』は存在していないとと同じです。
個人の「正解」≒全体の『正解』
部下や後輩の指導に当たったことのある人なら、目先の正解よりも個人の自主性や問題解決能力をじっくり育成する方が、逆に『正解』に至る近道だということに同意していただけると思います。全体最適を考えるためには、不用意に正解を発言するのではなく、プロジェクトを支える参加者個人の能力を上げていくことが『正解』へ近づく現実的な責任の取り方だと思うのです。
社会においては、現実に結果を生んで初めて『正解』として認められます。たとえ正解を知っていても、それが現実にならないことなど山のようにあります。いつか必ず自分の正解が責任と共に問われる時がきます。その時のために、黙々と全体最適を支えていきましょう。
参考文献
- 作者: デールカーネギー,Dale Carnegie,山口博
- 出版社/メーカー: 創元社
- 発売日: 1999/10/31
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