2010年8月30日
「何が正義か」を問う「ハーバード白熱教室」のマイケル・サンデル教授が来日した。25日に東大であった特別講義は、格差や戦後補償など現在の日本が直面する難題ばかり。ユーモアと知的興奮にあふれる巧みな対話で約千人の聴衆を魅了した講義を再現し、「白熱」の理由を考えた。
■イチローの高い年俸はフェア?
講義は冒頭から盛り上がった。「日本人はシャイで議論に参加しないと聞いたけど、間違っているよね? だれか証明できる人」。男子学生が「僕らは新しい世代だから」と答えて会場が沸いたところで「OK、では始めよう」。ルールは、ファーストネームを名乗り、簡潔に発言することだけ。教授は次々に問いを繰り出した。
「身近な話をしよう」
「日本人で最も年収の多い人は?」と会場に尋ねる。「イチロー」と声があがった。「そうかもしれない。彼の年俸はいくらかな? 1800万ドル。私は野球が大好きだ。アイラブイチロー」。続けて「平均打率は知ってる?」。会場からの「3割3分」という声に「3割3分1厘だ。昨日の試合で2本ヒットを打ったからね」。
軽妙なやりとりの後、間髪入れずに「どこまでの格差なら社会的に認められるか」と大きな問いに移る。「イチローの年俸は日本の教師の400倍、オバマ大統領の42倍だ。これはフェアだろうか」
多くの手が挙がる。「では少数派の意見から聞こう」
「イチローは高い年収に値しない」と答えたのはユズハさん。「野球は娯楽。でもオバマ大統領は国全体の責任があり、世界中に影響を与える」。別の女性が「多くの人に楽しみを与えているから高い収入をもらうことは間違いではないと思う」と発言すると「収入の半分を税金で取るのは?」と教授が聞いた。「課税は反対。自分の考えで貧しい人にお金を出すべきです」。課税による再分配の是非に議論が移った。
タカシさんが「イチローが努力と才能で得た収入。それを国が再配分するのはおかしい」と主張すると、教授が「イチローは個人の基本的権利を侵害されているということ? あなたはリバタリアン(自由至上主義者)ですね?」。
リョウタロウさんが「財産の一部を取られても、生命までなくなるわけではない」と課税を肯定すると、タカシさんは「生命も財産の一部。生命を他者が自由に扱う権利がないのと同様、財産も国家とて奪う権利はない」と反論した。そこで教授は「功利主義者はどう考えますか」とアキラさんに水を向けた。
「10億ドル稼ぐ人が5億ドルとられても痛くもかゆくもない。再分配は多くの人を幸福にする」と答えると、ひときわ大きな拍手。彼は、教授の最初の問い(漂流ボートでの殺人は許されるか)に「全員死ぬより、少年を殺して3人が生き残るほうが社会的に有益」と発言して反論を浴びていたのだ。
「面白くなってきましたね」。教授がにやり。「先ほどは『3人を助けるためなら無辜(むこ)の少年を殺してもいい』と答え、冷徹な人間と思われていたアキラに、今回はみんなが拍手をしましたよ」
最大多数の最大幸福を目指す「功利主義」と、個人の選択と権利を最優先する「自由至上主義」。イチローとオバマ大統領の年収を取り上げながら「正義についての二つの考え方に出会った」と教授は議論をまとめた。
■オバマ氏は原爆投下を謝罪すべき?
次の山場は、戦争責任の話題だった。
教授はまず「道徳的責任や義務は、その行為を選択した個人が負うべきか、集団で負うべきか」と問題を設定。指名手配された兄弟を当局から守るか、実際にあった事件を例に聴衆に問いかける。
「警察に通報する」「出頭するよう説得する」「10人殺した犯罪者でも家族を守る」。ばらばらな意見が飛び交うと、「家族への義務と社会への義務、どちらを優先するか正義の観点から考えよう」と議論を深めるよう導く。
次には「大災害が起きた自国と他国の国民、どちらを助けるか」と、コミュニティーを家族から国家へ拡大。ケンジさんが「僕は日本で生まれ、助けを借りて育って人格を形成した」と日本を優先。これに対し、コウイチさんは「苦しんでいる人に国は関係ない」。そこで教授は「じゃあ2人のうち1人しか救えない状況だったらどっちを選ぶ?」。考え込むコウイチさんに「コイントスしてもいいよ」と会場の笑いを誘った。
こうしてコミュニティーへの態度を自問させた後に「では、自分が生まれる前の祖父の世代の行いに、今の私は責任を負うべきか」。きゅっと聴衆の表情が引き締まると、さらに続ける。「例えば今の日本人は1930年代からの行為で東アジアに謝罪すべきか」
会場は真っ二つに。祖父が戦争に参加したというナオコさんは「命がつながっている以上、責任は当然ある」。マコトさんも「国や文化、コミュニティーが連続しているから自分がいる」と集団としての責任を引き継ぐことを肯定すると、教授は「君はコミュニタリアン(共同体主義者)だね」。
一方、エミコさんは「実行しなかった人間が責任を負うのはおかしい」。リョウタさんも「未来の世代に過去を選ぶ自由はない」。
話が歴史認識に脱線すると「道徳的責任の話をしよう」と軌道修正。「米国の広島・長崎の原爆投下をオバマ大統領は謝罪すべきか」と進める。「当事者の世代同士で解決すべきだ。親を選んで生まれることはできないのに、責任だけ負う理由はない」との男性の意見に、ケンジさんが「親が隣の家に放火したら子どもも謝罪の責任はある。面倒を見てくれた人だから。でも面倒見てくれなかったら……」。ここで教授が割り込み「責任はない?」。「はい」。緊張が解けたように会場は沸いた。
教授自らは個々人の結びつきを重視するコミュニタリアンの立場だが、自説を押しつけることは終始なかった。
■「哲学の問い 我々の日常にある」
「哲学が扱う問題は、実はわれわれの日常生活にある」
予定時間を1時間以上もオーバーし、聴衆の間で討議の熱が冷めやらぬ中、教授はこの日の講義の題材を振り返った。「1世紀前の英国の事件から格差、高等教育のあり方、そして過去の謝罪の問題へと、徐々に皆さんの身近な話題に移ってきた」
議論しやすい遠い出来事から始めたのも、原爆や戦争責任の問題を取り上げたのも、「哲学は机上の空論であってはならない」との信念からだ。日本での講義のために念入りに準備してきたという。
「決して意見が一致しないのになぜこんなことを続けるのかと思うかもしれない。しかし、正義について議論することは、私たちの生き方を考えること。それをこの講堂の外でもやらなければ。『哲学』はある意味で不可能。でも、それは不可避なのです」。そう締めくくると、総立ちの拍手に送られ、教壇を去った。
■「もっと話したい」「自分の考え変化」 参加者ら興奮
授業を終えて、学生たちは「すごかった」「もっと話したい」と興奮気味に話した。対話型の講義はなぜ、参加者たちの心を引きつけたのか。
1番目の質問で発言した「アキラ」こと星野晶さん(23)は岐阜県から早朝の鈍行列車で8時間かけて来た公務員試験の予備校生。「教授と一緒に答えを探し求めていくスタイルが良かった」
多様な意見を聞き、自分の考えが変わるところもあった。「自分の変化に驚きました。自信にもなった。こんな授業が増えれば、世界で発言する日本人が増えると思う」
身近な話題から、哲学を考えさせる手法にも関心が集まった。東大大学院で教育学を学ぶ山辺恵理子さんは「普段の授業では、考えを揺るがされることはあってもそれで終わる」と話す。「サンデル教授は現実的なレベルまで話を進め、自分も気づかなかった考えを掘り起こしてくれる」
何度も発言した「ケンジ」こと早稲田大の3年生、早田憲司さん(21)は、講義で手を挙げ続けた。「どんな意見でもありがとう、と受け止めてもらえた」。そんな「場の空気」が、「発言したい」気持ちにさせていたという。
「(内気な)日本人だから対話型講義ができない、ということはない」。政治哲学専門の小林正弥・千葉大教授は、講義後のサンデル教授らとの座談会で、そう語った。
小林教授は今年、千葉大で対話型授業を導入した。はじめは数人しか意見を言えなかったが、最後には一斉に手が挙がるようになったという。「日本の学生たちは○×式の教育を受けてきて、間違えた答えを言ってはいけない、と感じている。しかし、公共哲学に正解はないとわかれば、参加度が高まる」
サンデル教授も「ほかの人の意見を聞き、議論をする。それが民主的な市民社会を作ることになる。全世界で一緒に議論していきたい」。(石川智也、中村真理子、三島あずさ)
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<マイケル・サンデル教授>
米ハーバード大学で政治哲学の講義「Justice(正義)」を30年近く開講。あまりの人気の高さから、同大は建学以来初めて授業を一般公開し、収録された24回分の講義は昨秋全米で放送された。
日本でも今年4月からNHKが「ハーバード白熱教室」として放送し、反響を呼んだ。著書の邦訳本「これからの『正義』の話をしよう」は、30万部を超えるベストセラーになっている。
■「正義」はどちらか? サンデル教授が日本の聴衆に投げた問い
◆漂流ボートでの殺人は許されるか
19世紀の英国での話をしよう。難破船の船長と乗組員3人が漂流した。雑用係の少年が衰弱している。食料がなくなり、船長は「誰かを食べよう」と提案した。船長は少年を殺し、3人は彼の血と肉で命をつないだ。3人は救助されたが、帰国後に逮捕された。
みなさんが裁判官なら、この場面で少年を殺すことは道徳的に許されると判断するだろうか。
◆イチローは高額な年収に値するか
日本人で最も年収の高い人は誰か。イチロー? そうかもしれない。イチローの年収は、学校の先生の400倍、オバマ大統領の42倍だ。これはフェアと言えるだろうか。
◆多額寄付者の入学を認めるか
もし東大の入試で、合格ラインにギリギリ届かないけれど、親が裕福で「入学したら大学に5千万ドル寄付する」という学生がいたとする。入学を認めれば、新しい図書館やプールが整い、みんなのためになる。東大はこの学生の入学を認めるべきか。
◆指名手配された兄を警察につきだすか
米国のバルジャー兄弟の話。弟は元州上院議長で現在は大学の学長だ。兄はギャングの一員で殺人を犯し、国外に逃亡中。あるとき兄から弟に電話があった。しかし「兄が見つかるような協力はしない」と弟は捜査への協力を拒んだ。あなたが東大の著名な教授で、兄弟が殺人者でヤクザだとしよう。隠れ場所を何となく知っている。あなたは兄弟を引き渡す必要がないだろうか。
◆自国民と他国民、どちらを救う?
南アジアの最貧国で大洪水が起き、多くの人が亡くなった。日本でも同じ時期に大災害で大きな被害を受けたとする。日本は自国への援助を優先すべきか。あるいは災害援助資金を二分し、この国にも援助すべきだろうか。
さらに極端な例を考えよう。目の前に瀕死(ひんし)のバングラデシュ人と日本人がいる。一人しか救えないとして、日本人のあなたはどちらに手を差し伸べますか。
◆オバマ大統領は謝罪すべきか
現代の日本人は、祖父母の世代が東アジアで犯したことに賠償する責任はあるか。今の米国人は原爆の責任を持つべきか。オバマ大統領は生まれる前のことを謝罪すべきだろうか。
著者:マイケル・サンデル・Michael J. Sandel
出版社:早川書房 価格:¥ 2,415
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