いま、テレビで、映画「男たちの大和」をやっています。
前の記事で映画のことを書いたので、つけたしになりますが、この映画のことを、すこし書いてみたいと思います。
いろいろな見方はあろうかと思いますが、ねずきちとしては、この映画「男たちの大和」は、歴史的事実と、原作者の辺見じゅん氏に対する冒涜以外のなにものでもない!というのが、ボクの所管です。
この映画は、巨額の費用を投じた大規模なロケセット、CGの駆使、きわめつけの役者を揃え、テーマも、「大和」。
日本を代表する名作になる筈の映画だったと思います。
辺見じゅん氏の原作も、戦艦大和だけでなく、下士官の生活風景を細やかに描いているし、その下士官たちは、大和の喫水線の下にいたり、あるいは機銃に張り付いていて、果敢な最期を遂げています。
映画のラストで語られる臼淵大尉の、
「日本は、進歩ということを軽んじ過ぎた。
進歩よりも精神主義を重んじた・・・
しかし、進歩のないものは決して勝たない。
歴史がこれを証明している。
幕末、薩英戦争で、負けた薩摩、馬関戦争で敗れた長州は、
その後、攘夷鎖国を捨て、ヨーロッパから新式の武器を輸入して
幕府を倒した」
敗れて目覚める・・・・それ以外に日本が救われる道があるか?
今。目覚めずしていつ救われるか?・・・
俺たちは日本が新しく生まれ変わるために先駆けのして散る。
将に本望ではないか」
という名セリフも、歴史に残る事実として語られました。
しかし、映画化された大和は、その巨額のセットや出演料に対し、
物語の焦点が、血の通った人間としての下士官たちや、その家族、恋人たちに当てられすぎ、あまりにベーシックな人間ドラマに偏っている。
なぜ大和が、出撃しなければならなかったのか。
なぜ、そういう作戦を実行せざるをえなかったのかという、背景描写があまりにお粗末。
なんだか、途中で撃沈されるのが確実なのに、天皇陛下がやれと言われたからやった、という実にお粗末な解釈になっている。
当時の参謀も、将官も、バカではない。それなりの考え、解釈をして死に望んでいる。その「なぜ出撃したか」を描写しなければ、下士官たちの死さえも、軽いもの、ただばかげたものになってしまう。
それって、亡くなった方々への冒涜以外のなにものでもない。
日本人は死んでも抵抗するのだ、という姿を見せておかなければ、民族単位で叩き潰されてしまう。
黄色人種は、ヒトではないという考えが、まだまだ世界の標準だった時代に、アジアの黄色人種として、最後まで戦い抜かなければならないという背景があったから、やむなくあんな悲壮な作戦が実行されたという、「歴史」をきちんと訴えてほしかった。
セットは素晴らしい出来映えだが、そこで予算がつきちゃったの?とすらいいたくなる。だから映画に奥行きがない。
しかも、この世には大和一隻しか存在しないような、そんな映画になっている。僚艦の存在もまるで感じられない。言ってみれば6億のセットを舞台にした演劇みたいなものになっている。
戦闘シーンも、大和の全景をほとんど描写せず、カメラは常に甲板のどこかにある。甲板上ばかりを写している。
大和を離れ、空中からの構図や海上からの構図がない。
だからスケール感がなく、貧弱な舞台演芸になっている。
おもわず、投じた30億円の費用は、大和のセット6億円、役者のギャラ10億円、事前のCM代15億円に消え、CG費用までまわらなかったのかい?、と聞きたくなる。
映画評論家さんたちの、ご意見は、素晴らしいの連発だったらしいけど、
この映画に、それだけの素晴らしさをほんとに感じたというなら、その評論家さんたち、明日から映画評論家を廃業したほうがいい、などと思ってしまいました^^b
以上。オシマイ^^;
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