●自己の方から動いて自己の働きで万法を修証するのを迷とする。万法がすすんで自己を修証するのが悟である。迷を大きく悟るのが諸仏であり、悟に大きく迷うのが衆生である。さらに、悟の上にも悟を得る漢(ひと)があり、迷のなかでまた迷う漢(ひと)がある。諸仏がまさしく諸仏であるときは、自己は仏なりと意識するを要しない。しかしながら、証する仏であり、仏であることを証してゆくのである。・・(略)・・
仏道をならうというのは、自己をならうことである。自己をならうというのは、自己をわすれることである。自己をわすれるというのは、万法に証せられることである。万法に証せられるというのは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしめることである。
(『正法眼蔵・現成公案』・上田閑照・訳)

●尽十方世界は、すなわち一箇の明珠である。二箇でも三箇でもない。全身、ただこれ一つの正法の眼である。全身これ真実体である。全身これ一句である。全身これ光明である。全身これ全身である。全身まる出しのとき、全身に一点のさわりもない。・・(略)・・
なんと、われわれはこの明珠を愛せずにはいられないではないか。明珠は、このように色とりどり、光のひとすじひとすじが、尽十方界の性能である。だれがこれを奪い去ることができようか。・・(略)・・徹頭徹尾、くらまされない本来の真実、それが明珠の面目であり、明珠の目の玉である。
(『正法眼蔵・一顆明珠』・玉城庚四郎・訳)

●古徳がいうに、「浄く明らかに、すぐれている心とは、いったいなにか。それは山河大地であり、日月星辰である」と。心とは山河大地であり、日月星辰であることは、これによって明らかである。だが、この発言は、進めばなお不足が出るし、退けばかえって余りが残る。
山河大地の心は、ただ山河大地のみである。さらに波浪もなく、風煙もない。日月星辰の心は、日月星辰のみである。さらに霧もなければ霞もない。生死去来の心は、生死去来のみである。・・(略)・・
このような次第であるから、即心是仏はただ即心是仏、一点のしみもない。諸仏はただ諸仏、一点の汚れもない。それゆえに、即心是仏とは、菩提心を発し、修行し、悟りを開き、涅槃に入るところの諸仏である。
(『正法眼蔵・即心是仏』・玉城庚四郎・訳)

●いわゆる有時とは、時がそのまま存在であり、存在がことごとく時である、ということである。一丈六尺の黄金の仏身は、すなわち時である。時であるからこそ、おのずから輝きわたる光明がある。そのことを、その時その時、つねに学ぶべきである。・・(略)・・
世界全体というのは、実はわれがすきまなく配列されたものである。このような世界全体の、その時その時の事々物々を時そのものであると見なすべきである。・・(略)・・そして修行や仏道を成就することについても同様である。われを配列しておきながら、自分がそれを見ているのである。自己がすなわち時であるという道理は、まさにこのようなものである。
(『正法眼蔵・有時』・玉城庚四郎・訳)

●あるとき、漸源仲大師に一人の僧がたずねた。僧「古仏心とはどういうものでしょうか」、師「世界は崩壊する」、僧「どういうわけで世界は崩壊するのでしょうか」、師「どうして我が身がなかろうか、我が身はある」。
ここにいう世界とは、十方がみな仏の世界ということである。仏の世界でないものはいまだかつてないのである。崩壊のありさまは、この十方すべての世界について究明すべきである。けっして自己について学んではならない。自己について参学しないがゆえに、崩壊するまさにそのときは、一すじ、二すじ、三すじ、四すじ、五すじと崩れて、限りなく崩れていく。その一すじ一すじの崩壊が「どうして我が身がなかろうか、我が身はある」というのである。わが身は、「寧んぞ無からんや」である。今日ただいまを愛惜するために、わが身を古仏心でないものにしてはならない。
(『正法眼蔵・古仏心』・玉城庚四郎・訳)

 

 

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