伊藤博文による電文下書き。「統監ヲ命ゼラルベシ」(左から3行目)と一度書き、消している=福岡市の九州大、後藤写す
1905年に日本が韓国を保護国とした際、伊藤博文(1841〜1909)が初代の韓国統監に就くことを決意したのは、保護国化に向けて自ら特使として韓国と交渉した直後だったことを示す外交電文の下書きが、福岡市内で見つかった。当時の外務省の通訳官が保管し、日本による韓国併合100年を機に、子孫が九州大に寄贈した。
この通訳官は前間恭作(1868〜1942)。子孫から寄贈されたのは、1905年に伊藤らが韓国国内から日本政府に送った外交電文の下書きと、交渉中に伊藤が書いて示したというメモ。後日、前間が書いた解説文も添えられている。
外交電文の下書きには、日本が韓国の外交権を奪って保護国とした1905年の第2次日韓協約(乙巳条約)の成立を伝える内容が記されている。当初、「統監ヲ命ゼラルベシ(統監を任命するように)」と書いた後、その部分に線を引いて消してある。
解説文によると、政府は当初、韓国統監には外交官を充てる方針だった。韓国との交渉を終えた伊藤は首相にその任命を促す内容の電文を送ろうとしていたが、下書きを執筆する途中で自ら統監に就く意向に転じたことを示すという。
伊藤博文を研究する伊藤之雄・京都大大学院教授(日本政治外交史)は「条約締結時までは統監に外交官を充てる予定で、伊藤博文もそのつもりだったことが初めてわかった。交渉で韓国側の抵抗があまりに強く、一外交官では統監をうまくやっていけないのではと感じ、決意したのではないか」と話している。
初代統監となった伊藤博文は後に、韓国独立運動家の安重根に暗殺された。今も韓国では、安重根は民族の英雄とされている。
前間は長崎・対馬出身。併合翌年に朝鮮総督府を退職した。九州大・韓国研究センター長の松原孝俊教授によると、外交官を辞めた理由について、家族らに「韓国併合には反対だった」と話していたという。(後藤たづ子)